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Ⅵ. 暁の章
00′くちづけ ※
しおりを挟む鏡の自分にため息をつく。
いくら見ても変わらないのだからと、アイリーンはひとり寝用の寝台に腰かけて、だぶだぶの白いボタンシャツーーこれはロイの予備だというーーから伸びる生足をぷらぷらと泳がせた。
宵の口、夫はまだ戻らない。
風呂でのやりとりと、運良くエメが持っていた香油で髪や肌はなんとかなったが、首輪のような青黒い絞扼痕、包帯の下にひそむ手のひらの切り傷、それにあばらの浮いた胴体やしなびた枝のような手足はどうすることも出来なかった。かろうじて乳房だけが女らしさを残すものの、それだって肢体の痩せ方と差がありすぎて、取ってつけたような奇妙さである。
こんなので、その気になってくれるだろうか。
ロイの愛情を疑うのではない。むしろ信じているからこそアイリーンには不安があった。ロイははじめから、それこそはじめましてのあの夜からずっと、アイリーンの傷に敏感だ。彼女が傷つけばわずかに眉を寄せ、その瞳に複雑な感情にじませる。そんな風に思ってほしくない、自分は平気だといくら言葉を重ねても無駄だろう。彼はそういう人だった。
思いあぐねていると、きい、と扉がひかえめな音を立てて開かれた。同じボタンシャツと、ゆったりとした黒い麻布のパンツに身を包んだロイは、左手の布巾で濡れた頭を拭きながら足を後ろに蹴って扉を閉めた。慣れた動作だ。アイリーンはぎこちなく微笑む。
「……っ、ロイ、も、風呂入ったんだ。傷は……大丈夫?」
「心配すんな、もう完全にふさがってる。てめえこそ、風呂で染みたんじゃねえのか」
「ううん、オレは……ここの風呂、気持ちいいのな。オレ、温泉ってはじめてで。なんか普通の風呂より湯冷めしにくいし、肌がすべすべになったみたい」
「そうか。気に入ったんならまた連れてきてやる」
髪を拭き終わったロイは布巾を椅子にかけ、静かな歩調でアイリーンの隣に座った。さっきから心臓が、身体じゅうに地鳴りを轟かせている。浅く、荒くなる呼吸を押し殺して、アイリーンはなんとか平静を装いたかった。目も合わせられず、べらべらと、無意味な言葉ばかりが速度を上げて口からこぼれる。
「さっきさ、温泉卵も食べさせてもらったんだ。茹でたのと全然違うんだな、あれ。白身までトロトロしてて、ちょっと塩入れるとうまいんだ。ロイも食べた?」
「いいや」
「じゃ、明日の朝にでも一緒にたべよ。作ってもら、えるかな。今からだともう無理かな。あ、でも、エメに言って厨房に頼んだらいいか。ふたつくらいなん、とか、なるよな」
「アイリーン」
「オレ、ちょっと行って、頼んでくるよ。ロイ、……」
「……アリン」
手首を、いつのまにか掴まれていた。
その銀色が、たったひとつ、するどい矢のごとくアイリーンを射抜く。
「どこにも行くな」
「…………ぁ……」
震えが止まらない。
頬に触れられ、唇が重なって、アイリーンは寒いのか熱いのかも分からなくなる。静かに、何度も、いたわるようなくちづけが繰り返されるのに応じられない。歯を食いしばっていないと叫んでしまいそうな、なにかが、身のうちに巣食っている。
なんで。どうして。
混乱が頭のなかをぐちゃぐちゃにする。ゆっくりと寝台へ押し倒され、降り止むことのないくちづけは、やはり優しくおだやかだ。なのに。
脳裏には昨日の出来事が蘇った。ロイを裏切り、あの人について行こうとしたあの時。身体はそれを拒んだが、頭では心では、アイリーンはあの人を受け入れようと努力した。くちづけて、応じようと舌を出したのだ。そうだ。
「ロイ……ろい、オレ、ごめんなさい。おれ、あいつと……あいつ、と、きっ、キスした……」
苦しかった。言うのは苦しいが、きっと、言わない方がよほど苦しい。ロイは怒るだろうか。でも怒られてもいい、この厄介な苦しみから逃れられるならなんだっていいと、アイリーンは覚悟したが。
アイリーンの頬を、ロイはやわくさすった。
唇が触れて、何度も触れて、ようやく聞こえた声も、静かだ。
「他には?」
「……っ……」
「他にはなんか、されたか、アリン?」
「し、した……舌を、いれられ、て……」
「……口を。アリン、ひらけるか?」
言われて唇をなんとか開くが、歯の奥はまだ音がなるほど震えていて、止められない。だというのにロイはゆっくりと、アイリーンに覆いかぶさり、くちづけた。
「あっ!」
ぬる、と這う舌に勢いあまって歯を立ててしまう。アイリーンは思わず顔をずらし、くちづけを中断する。しかしそむけた顎を掴まれ、強く、向きを戻される。
「ご、ごめんなさいロイ! あっ、だめ、や、だめ……ッ!」
「噛めアリン。いくらでも、噛めばいい」
「あ、んぐ……っ、ん、んんぅ……!」
今度は深く舌を挿し込まれ、口内を確かめるように動き始める。歯が当たって、ガツ、と噛んでもお構いなしだ。アイリーンはこれ以上ロイを傷つけないよう自らも必死に舌を出し、どろどろと混ざるふたりの唾液は、飲み干しきれずにアイリーンの頬を伝った。
「んぁ」
くちづけながら、ロイの左手が、アイリーンの内腿をすべり始める。身体は少し外側にずれて、どうやら右腕のかわりに肩で全体を支えている。
アイリーンがわずかに冷静さを取り戻したと分かると、ロイは唇を離れ、今度は耳にぬるついた唇をうずめた。吐息混ざりのかすれた声が耳元で響くと腰がくだけそうになる。
「アリン、他には」
「ふ、やぁ……っ」
「他には、何された。あの時みたいに、全部塗り替えてやる。だからアリン、俺に、教えろ……」
霞みがかった脳裏で考える。あの時ってなんだっけ。他にはなにか、されたっけ。その間にもロイはアイリーンの耳を食み、太腿をなでるから、思考はますます散ってゆく。
でもこれ以上はされてない。
「ううん、なにも、これ以上はなにも」
「そうか」
ロイは身体を起こし、アイリーンをじっと見つめた。暗がりに顔の傷が浮かびあがって痛ましいが、その表情は落ち着いていてどこか安心したようだった。左手が、アイリーンのシャツのボタンを外してゆく。利き手と違うからかその指はすこしだけ戸惑って、ひとつ開く。
「……やり、にくい?」
「自分の分よりマシだ。……手伝ってくれるか?」
「うん……」
お互いにボタンをはずし合う。
組み敷かれていてもアイリーンの方が早くはずし終えて、両手を伸ばして服の中に手を入れてそっと脱がせてゆく。彼女になされるがまま、ロイの肩からぱさ、と白いシャツが落ちた。
まず目につくのが、ロイの右腕。
完全に無いのかと思われたが、二の腕の半分くらいは残っている。腕の先は巾着のようにすぼまっていて、傷口はたしかにきちんとふさがっているらしかった。アイリーンは彼の右腕に自然に手を伸ばしながら、視線は胴体へと移る。
痩せても見事な腹筋に、無駄な肉など見当たらない胸板。そしてそこかしこにある、おびただしい数の傷痕。一体どれだけのことをして、この人は生きてきたのだろう。その苦労はアイリーンには計り知れない。
ロイはアイリーンの片手を取ると、ひときわ大きい右下腹部の古傷を触らせた。わずかに頬をゆるめ、落ち着いた声音で。
「ここが、てめえに会った時の傷」
「……おぼえてない……」
「いい、俺が覚えてる。……アリン……」
「あ……」
いつしかボタンは全部はずされ、ロイの左手がかき分けるようにシャツを開いた。なんてみすぼらしい。ロイの身体を見ればなおさら不釣り合いだ。今すぐシャツをかき集めて身体を隠したくなるが、それはなんとか押しとどめると、ロイが浮き彫りになったあばら骨を指先でなぞる。
ロイがまた、悲しそうな顔をするから。
大あわてで口を開いた。
「あっ、あの、ちょっと痩せちゃったよな。でも、また、ほら食えば! そのうち戻ると思うんだ、だから」
「アイリーン」
「だから、気にしないで。オレ大丈夫だから。だから」
「綺麗だ、アリン」
声が、出なかった。
うそつき。みすぼらしいだろ。そんな風に見えてるなんてどうかしてるーー頭ではなんとでも言えるのに、唇からは はくはくと、ままならない呼吸だけが繰り返された。目が泳いでまた彼を見られない。でも見る必要はなかった。唇がまた、ふたりをつなぐから。
「……綺麗だ」
「……ぅ……ロイ……ッ」
「てめえの手も、足も、身体もつま先も髪の1本まで全部…………髪、めんどくせえのに伸ばしたんだろ? ……のばしてくれたんだろう」
「……っう、ん……うん……!」
「いい子だなアリン、本当に……ッ」
深いキスをしつくして、アイリーンはいつしか自分が震えていないことに気づく。くちづけても頭痛が起きないことに気づく。
やっぱり、この人だったんだ。
この人じゃなきゃ駄目だったんだ。
アイリーンはようやく生き返った心地でロイの身体に手を回す。片腕で支えきれなくなったらしい身体が一気にアイリーンにのしかかり、その重みと肌の熱を離さないよう、アイリーンはロイの身体を包み込んでまたくちづける。
ロイの肌が、ひどく、あつかった。
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