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Ⅵ. 暁の章
98.うるさい男
しおりを挟むアイリーン風の、コルセットを必要とせず膨らみのないドレスの裾を蹴りながら、急ぎ足のソフィアが扉を開けさせた先、男は寝台の上で数人に押さえられながら叫び、暴れていた。まさしく狂犬公爵というふたつ名にふさわしい狂乱ぶりだ。
彼は言う。
アイリーンの元へ行かせろ、と。
ソフィアはひとつ息をつく。男は盛大に傷つき失った自分の身体など毛ほども気にせず、ただひたすら姉の心配ばかり。いっそ清々しいほどだが……それにしても。
「……うるさいなぁ」
「っ……てめえ……!」
「みな下がって。この男と話をするから」
ソフィアの身を案じる侍従や軍人たちは2人きりにすることを渋ったが結局王命には逆らえず、その場を後にした。しんと静まり返った姉夫婦の寝室で、ソフィアは自ら椅子を持ち出して座る。この身体は今、とにかく気怠く重い。
「……久しぶりだね。どう? 目が覚めた気分は」
「最悪だ。もう半年近くだと? ……アイリーンはどうしてる」
「腕も目も気にせず、まずそれか。さすが、何度も死線をかいくぐってきた人間は違うね」
「食われた時の記憶はある。覚悟もしてた。だがこんなに日数が空いたのは想定外だ。何がどうなってる」
「あなた、傷口からの感染症で死にかけてたんだよ。熱は続くし、植物状態で食事も食べないし、何度かお尻に床ずれも出来て……治療がすごく大変だったんだから」
「っ、それでアイリーンは」
「まだチュイリーにいる……なにその目は。あなたが目を覚まさない以上、アイリーンを誰か別の人間に託すなんて出来るわけないじゃない。殺されたり、拉致されたりしたらどうするのさ。馬鹿じゃないの。
……今すぐ行きたいんだろうけど、1週間待って。軍と手筈を整える」
「駄目だ、遅すぎる。せめて3日、それ以上は待てない」
面倒な男だと眉をひそめて金髪を掻く。多少は伸びたが、もとが坊主頭だったために今でもまだ肩にすれる程度の長さだ。こうなると確かにくすぐったく、切りたがっていたアイリーンの気持ちがよくわかる。
それにしても、昨日まで意識もほぼなく、食事や排泄すら他人任せだったくせに、この横暴な頼もしさといったらなんだろう。分かったと頷いて、ソフィアはひとつ条件を追加した。
「確か今、チュイリー近くにレオがいる。ちょうどいいからレオも連れ戻して来てよ」
「は? どういうことだ。なんであいつ、こんな時に王宮から出てやがる。それに……
なんでてめえは、孕んでんだ」
あけすけな物言いに苦笑する。
夫婦であり王族なのだから、通常、自分の懐妊は歓迎されるべきであって、こんな風に怪訝に見られるべきではない。しかしこの男に関してはその限りでないことも理解できた。
「知ってたんだ……アイリーンから聞きでもした?」
「いいや……レオナルドが時々言ってやがった。ガキはいらねえだの、この血は自分の代で終わらせるだの、わけのわからねぇ……」
「そしてあなたに王位を譲ると?」
「……てめえこそ、どこまで知ってんだ」
たったひとつの銀の瞳が強い炎を燃やして光る。この男に感じる、ある種の畏れは間違っていなかったのだと、今更になってソフィアは納得していた。
すべてを聞いた。
公爵がヒエロンドとの交戦後、食人獣に食われ、瀕死の状態で王宮へ運ばれたことにもっとも狼狽した人物がレオだった。彼は即座に王宮医師を呼びあつめ、この男の命火が消えればお前たちの命もない、などと脅迫めいた王命を下して治療にあたらせた。
その対応を疑問に思う間もなく、真相はレオ本人から明かされた。曰く、レオは折を見て公爵を王に仕立てあげるつもりだったと。もとは貧民街出身の男になぜそこまで入れ込むのかと聞くと、レオは疲れた顔で笑ってひとこと問うた。
『王を殺せるのは、誰だと思う』
『謎かけに付き合う気はありませんよ、レオ。あなたを……王を殺せる者などいません』
王族殺しは大罪である。
国王ともなればなおさら。
それは大陸を統べるベリアル教の教えを伴うものだった。王族とは神に選ばれし御子たち、国王はさらに加護を受けたる者として、いかに戦争であっても王殺しはご法度とされている。故に国王は国が滅亡するまで身分が保たれ、たとえ負けて捕虜となっても国がある場合には処刑を免れる。
国王を殺すなどあってはならない。
それこそ狂犬公爵は何度もレオに牙を剥いたが、あれも本来、大罪となるに等しい行為だ。しかしレオは、ソフィアの答えにゆっくり首を振った。
『いいやいるとも。正確には昔いたと言うべきなのかな。王族を、国王を殺せる唯一の存在。国王が悪政を強いたときにのみ天から訪れる……』
『あれは神話です。レオ、なにが言いたいのか分からない』
『神話ではないよソフィア。"双頭の鷹"は神話のなかの生き物ではない。あれは王族を断罪するためにあった、史実の、人間の一族のことを指すんだ。そしてあれは、その末裔だ』
レオは言う。
かつて数百年前に存在していたその一族は神の化身。神が人間の女を愛して生まれた子らの一族として、その権威は王より強く、王を裁き、処刑することのできる唯一の存在だったと……
壮大な話のように思うが、要は権威を集中させないための抑止力だったらしい。しかしそれを邪魔に思った数代前のイェーナ国王が、他国の王と共謀して"双頭の鷹"一族を殺した、という。
……まったく聞き覚えのない話だ。
『君は庶子で女で……王位からは遠かったから聞かされなかったんだろうね。国王に近しい者たちと、それから聖教会の重役は、この逸話を国王から聞かされるものなんだよ』
『でもだからって……突拍子もない話で信用など出来ません。それに、公爵がその末裔だなんてどうして』
『あれはその証を持っているんだ。見る者が見ればすぐに分かる。逸話を聞かされる時にはねソフィア、この絵を一緒に見せられるんだ。この証を持つ者には注意しろと……ふふ、ひどい話だろう? 一族を勝手に殺しておいて、逆恨みには気をつけろ、などと』
美しい、そしてこの世にはない双頭と三つ足の鷹の絵を見せながら話を続ける。レオは自分よりも身分が高いこと、正当な権限があることを理由に、公爵に王位譲渡の打診を続けていたらしい。しかし結局断られ続けたと笑うレオに、ソフィアが感じるのはやはり怒りでしかなかった。
『あなたはそれで、どうするおつもりだったんです。王はふたりもいりませんよ』
『であれば処刑されるつもりだった。そもそも私は不義の子だ。それだけでも大罪に値するだろうし、処刑されればこの血は永遠に途絶える』
『わたしの、ことは……』
『君はあれの妻の妹だ、無下には出来まい。それにあれは案外律儀なところがあるから、死に際に君のことを託せば尽力はしてくれるだろうと思っ……』
たん、と乾いた音が響いた。
人の頬を叩くなど初めてで加減が分からなかった。
侮辱にも嘲笑にも劣る、最低の告白だった。
「全部聞いた、全部だよ。でも未だに訳がわからない」
「だろうな、俺だって分からねえ……そもそもレオナルドは今どこだ。なんであいつがガキを作るつもりになった」
「レオは今、戦地であなたの代わりをしてる。子どもは……こんなもの、レオを脅して無理やり作っただけだよ。だってあの人、あなたが死にそうにないって、わかった、途端……っ」
言葉が続けられない。
泣きたくないのに涙が勝手にこぼれ落ちる。
公爵が命を取り留めたとわかると、レオはどこまでも自分勝手に……ソフィアを国王代理のひとりとして王宮に留め、自らは公爵の代わりとして戦地へと赴いてしまった。この男が倒れたことはそれほど、国を揺るがす事態となっている。
それでも戦時中に国王が王宮を離れるなどあってはならないことだった。事実、周囲が手助けを求めたのはレオではなく……ソフィアだ。
数々の戦歴を上げたことから"シガルタの天使"とまで称されたソフィアを戦争の表舞台へ引きずり出さんとする声は多かった。状況が改善すれば良し。改善せずに死んだとてまずまず良し。務めを果たさぬまま国王の寵愛を独占し、最近では国政にまで口を出す小国の庶子を厄介払いし、しかるべきーー国政に意見などしない人形のようなーー高貴の姫君を後添えに据える思惑もあるのだろう。
そしてソフィアもまた、彼らの提案を受けるつもりだった。みすみす犬死にするつもりはない。彼女には自惚れではなく、これまでの経験に裏打ちされた自信があった。自分が行けば活路が見出せるかもしれないと。
しかしレオはそれを許さないどころか逆上し、幾人かの国王代理を設けて戦地へ向かってしまった。最前線ではないから死なないよ、と鷹揚に笑ったレオの言葉など信用するに値しない。
国王代理としてもっとも強い権力を持つソフィアは王宮を出ることが出来なくなった。徐々におかしくなるアイリーンの手紙からは何かを隠していることがうかがえたが、単刀直入に聞いたところで「大丈夫」としか返答されず、密偵を出す余裕もなければ適当な人物も分からなかった。この国で信頼できる人間を作らなかった自分をひどく後悔した。
誰も頼れない。でも動けない。
愛する人が窮していても、なにもできない!
この数ヶ月、ソフィアはまったく生きた心地がしないでいる。
「ビービー泣くなクソガキが……腹の子どもに障ったらどうする」
「うるッさい、今までのんきに寝てたくせに……! 早くアイリーンとレオを連れ戻してよ! こんな茶番、もう続けられない……っ」
「3日後だ。待てと言ったのはてめえだろ。こっちもそれまでに体調を整えるから、てめえもさっさと準備しろ。
てめえに言われるまでもなく、あいつらふたり、首根っこ引っ掴んでも連れ戻す。それでいいな」
こくこくと頷く。
この男、やはり嫌いだ。
横柄で、どんな身分でももろともせず、自由で強くてそのうえ神の化身などと腹立たしい。国すらも手に入れられるのに、その実、求めるものだけを手中におさめて満足している、小心者で、欲のない、厄介な男。
レオの言葉を思い出す。
『私はね、あれが本当に妬ましいんだ。私はあれを一生超えられないから。身分も強さも、心のありようすら……何ひとつあれに敵わない。羨ましくて、憧れて…………でも絶対に、あれにはなれない。腹立たしいことだ』
「……公爵。あなた、国王になろうとは思わなかったの……?」
月のような銀色が一瞬伏せ、そしてまたすぐに前を見る。冷徹な声は確固たる意志を持っていた。
「……じゃあ聞くが、あいつ以上に国王をやれる人間をてめえは知ってんのか。悪政を正して、国益を増やして法を整備して。食人獣が出て被害もあるのに、貧民街も浮浪者も孤児も減る一方で、あいつが王位に就いてから、国は豊かになり続けた。
あれだけ国に滅私奉公するバカを少なくとも俺は見たことがない。あいつが心底望んだもんなんて てめえくらいなもんで、あとのあいつはひたすら国に尽くしてやがる。あいつの後釜なんぞ、荷が重くて出来るわけねえだろうが」
「ははっ……なにそれ」
「国王はあいつだ。他の誰にも、あいつは超えられない」
「知ってるよ……!」
ソフィアはどうしてだか分からないまま、大輪の花が咲き誇るように笑ってみせた。この男が大嫌いなのに、どうしてだか、彼の言葉はソフィアの胸の氷を溶かして流した。
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