アイリーン譚歌 ◇R-18◇

サバ無欲

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Ⅴ.夜の章

81.何も知らない

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今日は来る、はずだったのに!


「あ、えーっと……あの、ロイの!」

「はい、軍長の命で参りました。覚えていただけて光栄です、奥様」

「あっ!  目、目かくし……っ!」

「いえ、どうぞお気遣いなく。奥様の過ごしやすいようになさってください。普段は外されていると軍長からも聞いています」

「そっか……で、あの……ロイは?」

「それが、軍長は多忙につき、こちらへは来られないと……」


ロイの部下である彼を見た瞬間にしぼんだ心が、今度は一気に落ち込んでしまう。仕方のないことだ。石塔の入り口から吹き込む早春の風はまだ冷たく、アイリーンは自分を奮い立たせる。


「あの、こんなとこだけど、もし良かったら入って待ってて。エメもいるし、手紙の返事を今日中に書きたいんだ……嫌でなければ、だけど」

「嫌だなんてとんでもない。奥様の方こそよろしいのですか?」

「うん、こんな所で待ってもらうのも気が引けるしさ……時間ある?」

「はい。軍長からはもともと、返事をもらってくるよう言付かっておりますから」

「そう、じゃあ、どうぞ」


彼はたしか、あの遠足の日、アイリーンの手料理を綺麗に食べてくれておいしかったと言ってくれたうちの1人だ。アイリーンよりも歳上だろうがまだ若く、ロイよりはきっと歳下だ。大きな身体で身を丸くして、真面目そうで、固い表情だが笑ってくれる。

ロイがこうした時に部下を送るなら、自分に少しでも害のない人物を選ぶのは分かりきっていて、アイリーンはさほど抵抗なく、ロイの部下である彼を特別室へと招いた。


「あれ、あんた……」

「エメ姐さん、お疲れ様です」

「……ってことは、軍長は今日来られないんだね。アイリーン、残念だったね」

「しゃあねえよ、仕事だもん……あーあ、めかしこんだのになぁ!  ロイも馬鹿だよな!」

「……奥様がお綺麗だったこと、軍長にお伝えしておきます。本当に、こう言っては失礼かもしれませんが、あの時とは雰囲気がまたずいぶん変わられましたね」

「お世辞はいいよ!  エメ、紅茶とお菓子でも出してあげて。手紙もらえる?」

「お気遣いなく。こちらです」


外套コートの内側から出された手紙は妙に分厚くて、アイリーンは壁際に配置した机に向かうと封を開けて中身を見た。数枚の手紙と、それから押し花。意外すぎる組み合わせに思わずブッ、と吹き出してしまう。


「なんかあった、アイリーン?」

「う、ううん!  なんでもない!」


ロイが作ったの?  まさか!

でも手作りとしか思えない、あまりできの良くない花々に頬の緩みは収まらない。いったいどんな顔で、どんな風にこしらえたのか……想像してしまいたくなる。

一方で手紙はロイそのものと言って良かった。
"アリン"から始まる乱雑な字に飾り気のない率直な言葉。忙しくなった、これから落ち着くまで会えないが手紙は書ける、と記されている。そしてーー


「……っ」


机が壁際にあって良かった。今の自分は、きっと真っ赤に染まって情けない顔をしてるに違いない。こんな顔はロイ以外の誰にも見られたくはない。

3枚目からは直接的な愛の言葉があふれていた。
会いたい、肌に触れたい、夢のなかにまで出て困ってるーーまるで耳元で囁かれるようないやらしい事まで克明に、赤裸々に書かれたその言葉たちが、アイリーンを満たしてゆく。


……会えなくても、きっと大丈夫。
だってこんなに、おんなじ事を想ってる。


アイリーンも筆を取る。
書き出しはなににしよう。愛しい夫へ?  愛するあなたへ?  結局どれも気恥ずかしくて、彼と同じく"ロイ"と簡単にまとめてしまった。

書き出せば自然と言葉があふれて止まらなくなる。来てくれなかったのは残念なこと、押し花を送ってくれて嬉しいこと、南のこちらは暖かくなるのが早いこと、それでもまだ寒くて夜には暖炉が必要なこと、体調を崩していないか心配なこと……

そして1枚、2枚と書いて、気づけば3枚目には同じような愛の言葉を書き連ねていた。あなたに会いたい、触れてほしい、こっちだってキスする夢をよく見てしまうからお互い様だーー我に返ってここまで書くのはやめようかとも思ったが、読んだときにはとんでもなく嬉しくなることを思い出して、結局ありのまま書くことにした。


「アイリーン、お茶は?」

「……」


いつしか周りの音が聞こえなくなるほど集中しながら書いていた。最後に紙の端に百合の香りの香油をつけて封をする。すこしでも、気配が感じられるようにと。

手紙を書き終えると、アイリーンは来てくれた部下の彼と話をした。ロイは相変わらずなこと、多分眠れていないが風邪は引いていないこと、内容は言えないが、とにかく今は忙しいこと……

ようやく緊張もほぐれてきて、まだまだ色んなことを聞きたかったが、あまり拘束しても悪いと夕刻には話を終えた。


「アイリーン、これも持って行ってもらいなよ」

「あ……えぇ~、これ、下手くそだからなぁ……」

「今月渡さなきゃ意味ないんだろ。それに、うまい下手は関係ないもんだよ、こういうのは」

「うぅん……わかっ、た……」


エメに押されて渋々、リボンで包んだ小さな箱を部下の彼に渡す。今月が誕生日のロイのためにと刺繍をほどこした白いハンカチだが……あまりいい出来ではなく、正直言って渡したくない。

でもエメも言うように、こんなのはきっと上手い下手ではないのだろう。最後に背中を押したのは、ロイがくれた少しいびつな押し花たちだった。


「刺繍なんて初めてだから上手くできなくって……無理に使わなくていいって、ロイに言っといて」


しゅん、と眉をひそめながらそう伝えると、部下の彼はきょとんと目を丸くして、それからふわりと相好を崩した。


「奥様は……可愛らしい方ですね」

「かっ、かわ……っ?  お世辞はいいって!」

「世辞ではないのですが……承知しました。奥様の言葉と合わせて、必ずお渡しいたします」


本音を言えば、人に何かを預けるのはまだ怖い。
でも彼のまっすぐな言葉は信用できた。きっと悪い人ではない。あの女は手紙をソフィアに渡さなかったが、彼ならそんな風にはしない。

手紙と小箱を手渡すと、エメが外まで送るという。彼とエメは同僚だったらしく、お互いに話したいことがあるような雰囲気だった。


「エメ、お前ももう帰れ。そろそろ暗くなるし」

「……じゃあお言葉に甘えてそうするよ。アイリーン、ちゃんとあったかくして寝るんだよ」

「お前はオレの母ちゃんかよ。言われなくてもそうするよ。気ぃつけてな」


そう言ってふたりを下まで送り、螺旋階段を登って特別室へと戻る。がらんどうになった部屋を見るのはいつもどこか寂しいが、アイリーンはそそくさと机に戻った。

もういちど、はじめから。

ロイの手紙を読み直してみる。ひとつずつ、丁寧に、その筆跡を追ってゆく。荒れているのに読みやすい字体、彼らしい淡々とした語尾、ところどころに呼びかけられる"アリン"。

話しているのとまるで変わらないような、愛しいやりとりがそこにはあった。あとからあとから、あれも書けばよかった、これも書けばよかったと、返事に対する甘ったるい後悔がふくらむ。


夜が暮れ、暖炉に火を灯しても、アイリーンは読むのをやめられなかった。ついには寝台ベッドに持ち出して、寝転びながらも字を追ってしまう。

顔の近くに手紙を近づけると、どこか彼の匂いがするようで、アイリーンの胸がきゅう、と締まった。監獄に入ると決めたのは自分なのだ。だから、こんなところで弱気になってはいけないというのに。


「ロイ……好きだよ……」


流れ落ちる涙をそのままに、アイリーンはひとり、返事などこない呼びかけをした。



***



「今日は悪かったね、あんたも忙しいのに」

「いえ。久しぶりに、気の抜けた時間を過ごすことができました。役得です……奥様は本当に可愛らしい方ですね。話していて楽しかったですよ」

「そう言ってもらえて良かったよ。それで…………戦況は?」

「今のところこちらが有利です。が、聞いていた通り数が多い。消耗戦でしょう。加えてこちらには食人獣という不安分子もありますから」

「……待って。その口ぶりだと、まるでヒエロンドには食人獣がいないみたいじゃないか」

「はい、軍長からはそのつもりで挑むようにと言われています。実際、向こうの攻め方は妙な余裕がある……もしかしたら本当に、ヒエロンドには食人獣が出現していないのかも、ともっぱらの噂ですよ」

「そんな事があり得るもんなの?  ……だとしたら、状況としては厳しいね」

「ええ。でもこちらには軍長がいますから。あの方はやっぱり凄い。ご自身が強いのはもとより、采配に間違いというものがない。今回の戦争でも、敵方の動きを読んで先回りする的確さは健在ですよ。あの方のもとならみんな安心して身を任せられる」

「そう……アイリーンも気にしてたけど、ずいぶん忙しいみたいだね」

「はい、それは……あの方の奥様への溺愛ぶりには驚かされます。今回の手紙だって、本当は書く間もないほどですのに……いつのまにかあんなに書かれていたなんて」

「まぁ軍長は、アイリーンに対してはああいう人だからね」

「奥様が仕事場に来られた日もそうでしたが、みんな今では軍長本人より、奥様のことを恐れていますよ。あ、忌み子だからとかではなくって……あの3人も結局飛ばされましたしね」

「あれはバカ踏んだね。あんなの、さっさと食べときゃ良かったのに」

「それについては同感です。でも今回の件については……すこし過保護が過ぎる気もしませんか?  あ、軍長には内緒でお願いします」

「わかってるよ……まぁね、時には知っといたほうが良いこともあるとは、あたしも思うよ」

「奥様だって馬鹿じゃあない。それは少し話した僕にだって分かります。でもそれなら戦争と知っていた方が、会えない理由も納得がいくというのに……何も知らされないというのは、生殺しのようなものじゃないかと思うんですがね……」

「…………でも今回の箝口令は、軍長の一存ってわけでもないみたいだからね。あ、ここでいいよ」

「そうですか……エメ姐さん、これ、軍長から」

「あたしにもあるのかい?  なんだか怖いね」

「ははっ、たしかに!  ……エメ姐さん、どうかお元気で。とはいえ奥様の護衛なら危険も少ないでしょうけど」

「護衛で済んだらいいけどね。あたしもそのうち、召集されるかもしれないよ」

「まさか!  それは軍長がさせないでしょう!」

「だといいけど…………あんたも元気で。死ぬんじゃないよ」

「当然です。……と言いたいところですが、こればっかりは。今日は本当に楽しかった。ひととき、戦場を忘れさせていただきましたよ。ありがとうございました」



夜が更けたころ、エメはひとり、月明かりを頼りに軍長からの手紙を読んで事の真相を知ることになる。

国王命令の箝口令ーーアイリーンに戦争の一切を知らせない真の理由は、彼女が食人獣を引き寄せる鍵であるからだと言う。彼女の精神的頭痛による発作的な失神は、食人獣と結びついている可能性が非常に高く、戦時中のいま、突発的な襲来が生じれば戦況が変わる可能性がある。そうなっては国の存続すら危ういかも、と……


エメは泣いた。
信じられない思いだった。
悔しくて悔しくて、声をこらえてボロボロ泣いた。


……結局のところ、アイリーンは幸せにはなれない。たとえ戦争が終わったとしても関係なく、彼女は忌み子として、食人獣か彼女自身が滅びるまで、その枷を背負って生きていかなくてはならない。あの忌々しい、アイリーンを蔑むばかりの聖職者たちがある意味では正しかったのだ。

かわいそうに。
かわいそうに。
あの子が一体なにをした。
あれだけ素直で、純粋で、人のことばかり気遣っているあの子がなにをした。今だって充分なほど不遇であるのに、それでも小さな幸せをかき集めて眺めて満足しているような子なのに、人類の敵であらねばならないほど、あの子が一体、なにをした!


……それでも、とエメは拳を握る。

唯一の救いは、希望はまだ残されていた。彼女の夫は人智を超えた強さを持ち、深すぎるほど深く彼女を愛しているのだ。あの人が彼女のそばにいるのであれば、最悪の事態は避けられるかもしれない。

だからこそ。
エメは暖炉に手紙を投げ捨て、覚悟を決める。

あの人が帰ってくるまでは自分がアイリーンを護っていこう。出来うる限りそばにいて、彼女の盾になってみよう。アイリーンにとってのエメがそうであるように、エメにとってもまた、アイリーンは妹のような存在だった。


そして事態は悪化の一途をたどる。
この数ヶ月後、エメの元には無情にも召集令状が届いていた。


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