82 / 124
Ⅴ.夜の章
80.復習 ※
しおりを挟む※流血描写あり
チュイリー監獄へ来て1度だけ、夫を求めたことがある。
そして、きっぱり言われたことがある。
『てめえがもし監獄で孕んだら。……俺は今度こそ本当に、てめえを連れて逃げてやる。この国を抜けて、どこでもいい、違う場所で、俺の手元でガキを産ませる。
その時はてめえも、何もかも全部捨てることになる。その時になったら容赦はしねえ。てめえの意見は多分……聞いてやれねえ。
だからアイリーン、てめえが決めろ。俺はどっちでも構わねえ。この国を出るか、待つか。ふたつにひとつだ。てめえが決めろ』
愛する夫は自分よりもずっと深く、物事を考えてくれる人だった。浅はかな、欲だけで彼を求めてしまったアイリーンはその先など考えてもみなかったのだ。こんな場所で子どもを作ればどうなるか……言われるまで分からなかった。
それでも1度は反論した。1回くらいなら大丈夫だと。なかには子が出来なくて悩む夫婦すらいるのだから、1回で出来る保証などないと。
そう言うと……ロイは、ひどく寂しげに目を細めた。
『1度で済ませられんのか、てめえは』
『っ、それは……だって、我慢できるよ……っ!』
『ならキスは今からしない。身体に触ることもだ、アリン。それが1回で終われるんなら……キスだって我慢出来んだろ?』
『……ぁ…………』
しない、と断言されたとき。
アイリーンはイヤだと思った。無理だと思った。
ロイがそばにいるのに、すぐ手の届くところにいるのに、触れてもキスしてもいけないなんて。
ーーでも、自分の言うことはそれと、同じだ。
『……っ、ロイ……』
『俺には、無理だ……アリン。てめえの味を知ったらそれこそ……抑えられなくなる。絶対に。1度食えば2度、3度……そうならない保証が、どこにある』
『っ……』
『それでいいなら、そうしてやる。ただ……その時は覚悟決めろ。待つことならいくらでもしてやれるが……1回そうなりゃ、もう……』
己の情けなさが、覚悟のなさが腹立たしくて涙しながら、アイリーンはごめんなさいと謝った。結局自分にはなにも捨てられない。ロイは覚悟を決めてくれているのに、自分はなんて情けない……それでもやはり、ふたりで逃げようと思えば思うほど、ソフィアの顔が脳裏に浮かんで離れなかった。
『いい、謝んな。てめえが悪いわけじゃない……泣くなアリン……』
そう言って唇で涙をぬぐいながら抱きしめてくれる。自分をひたすら深く愛するこの夫は最高の男なのだと、アイリーンはもう知っていた。
したがって、アイリーンはまだ処女のままだ。
身体を深く翻弄されても、どれだけ素肌に触れられようとも、淫らなことを繰り返しても、最後のそれだけは叶わない。彼の妻であれない事を納得しているつもりでも、ときどき不安が脳裏をかすめることがある。だからーー
「奥さん、また見えちゃってるわよ~ん。噛・み・ア・ト」
「ーーはっ?! あだっ! う、うそ、うわ、ごめん!」
「あーあ、また刺した。……だからスカーフ巻いとけって言ったんだ」
「別にアタシはいいけどね! にしても、もうひと月も経つのに治んないもんだねぇ~」
「どうせかさぶた剥いてんだろ。やり過ぎると痕に残るよ」
「うう……はぁい……」
カラカラと笑われ、呆れられ、顔が真っ赤に染まりあげる。
針を刺してしまった人さし指を吸いながら、アイリーンはおそらく見えてしまっている首筋の痕を髪で覆うようにした。これで大丈夫と思っていたのに、案外見えてしまっているらしい。
指の傷は深くなく、血はすぐ止まり、アイリーンは手元に視線を戻した。まだうすら寒い早春の午後、すこし眠くなってくる頃、エメとふたりでマム・グラーデに刺繍を教えてもらうのが最近の日課だった。
ちくちく、ちくちく、刺してゆく。
アイリーンはひと月前からロイの名前を練習していた。あと数日、ちょうど結婚記念日と同じ月に、彼は31回目の誕生日を迎える。
そのときまでに上手になって、彼にハンカチのひとつでも贈れたら……と思って安易にはじめたのがいけなかった。この細かな作業はダンスよりずっと難しい。
「うう……へったくそ……!!」
「あ~りゃりゃ、最初の文字は初心者にゃ難しいさね。でもほかはずいぶん良くなってるし、これでいいんじゃないかい?」
「んんんー……今からやり直すかなぁ……」
「もう時間もないし、やめといた方が無難だよ奥さん。旦那さん、明日来るんだろ?」
「うん……」
「そうだね、あんまり完璧主義になるんじゃないよ。こんなの読めりゃいいんだから……っと、もうこんな時間だね、あたしは帰らないと」
「あ、じゃあ表まで送るよ。マム、行ってくる」
「ハイハイ。夜ごはん準備して待ってますよ~」
そうして刺繍道具を片付け、エメを送り、おしゃべりなマムと話をしながら料理を平らげる。寡婦のマムは5人の子どもを女手ひとつで育てている最中で、アイリーンはエメと同様、マムの家族の話を聞くのも好きだった。金はないが工夫なら出来る! がマムの口癖だ。
「マム、ソフィアからまたお菓子もらったんだけど、もらってくれない?」
「え、いいのかい?! いっつももらってばっかりじゃないか!」
「うん。オレの分はもう食べたから。腐らしちまっても勿体無いしさ。子どもたちにあげてくれよ」
「うーん、なら頂いちゃうよ?! 貰えるもんはなんでももらう! ウチの家訓にしようかね」
そうして笑いながら特別室へ向かい、マムに菓子箱を渡してひとりになる。今日あったことを手紙にしたため、顔を洗い、歯を磨き、そうこうしているうちに夜がくる。
ここへ来てからというもの、暗闇のなかでは眠れなくなってしまった。幸いにも今はまだ寒く、暖炉にすこし火をくべて、それを眺めながら寝台に入って睡魔を待つ。でもその夜はまだ眠れなくて、アイリーンは枕の下にしのばせた短刀を取り出し、その鞘にちゅ、とくちづけた。
『護身用に持っとけ。……なくすんじゃねえぞ』
『な、なくさないけど……』
一見なんの変哲もない短刀だ。
柄も鞘も装飾はなく、ただ刀身を剥き出してみると、美しい、奇妙な鷹の彫りが刻まれている。頭がふたつに足がみっつ。この世のものではない生き物だ。
『へんなの、頭がふたつある』
『まぁな。家紋……って言やぁ大袈裟だが、まあ、そんなとこだ』
『……大事なもんなの?』
ーー……甘くて半端な情事のあと、ロイはすこし目を伏せて、ゆっくりと沈み込むような声を発した。アイリーンは夫がこんな風に視線を落としたまま話すところを初めて見た。
『…………親の形見だ』
『っ……ご両親の……?』
『いいや母親だ。父親は俺が生まれる前に死んだらしい。貧民街の女のくせに、これは代々受け継がれるとかぬかして絶対売らなかったから手元に残った……まぁ売ったところで、普通は二束三文にしかならねえだろうが……』
『そんな、大事なもの……』
『だからてめえに渡すんだ。そもそもこれは嫁か娘か……女が持つべきもんらしい。俺に嫁ができたら渡せと親からも言われてた。
本当は……てめえをちゃんと抱いてから渡したかった。だから今は預けるだけだ。まだてめえのもんじゃねえ、大事に預かってろ。分かったなアリン?』
『……うん……』
『いい子だ……』
ロイはあのとき、短刀ごとアイリーンの手をすくい上げると、その鞘に1度くちづけた。そしてまたアイリーンにくちづけて、どちらともなく寝台へと落ちて、それから……
短刀を枕の下に戻して、そっと首筋に指をそわせた。
かさぶたを剥がして生傷に触れる。
ぴりり、と小さな痛みが走る。
「……ん……っ」
ーー……ねだったのは、彼女の方だった。
『ロイ、噛んで……』
『…………は?』
「ふふっ……」
あのときの顔。いま思い出しても笑ってしまう。
そう言えば生誕祭の武闘大会、賭けでヒルダに負けて罰を遂行したときもあんな顔をしていた。切れ長の目を大きく見開き、きょとんと、何も考えつかない顔は普段のロイとあまりに違った。
ーー……あの夜、何度も何度も、しつこいくらいに果てさせられて、彼女の肌にはいくつも淡い痕が付けられていた。
でもいくら付けられても、いや付けられればそれ程にさみしくなる。次の逢瀬までひと月もあるのに、この痕たちは総じて数日で消えてしまうと、アイリーンは学んでいた。
『いっぱい噛んで……痕が、のこるように……』
『……残る痕にするなら、痛ぇぞ』
『いいの、おねがい痛くして……』
「あ……ん、ロイ……」
傷をいじくりながら、もう片方の手を、自らの内ももに沿わせてゆく。彼の熱い手を思い出し、その名前を呼びながら、じわり、じわり、その場所へと近づけてゆく。
ーー……猫なで声で懇願すると、ロイは迷うようにその銀色をまた伏せて、次には彼女を強く見た。首にかかった髪を払われ、ほの暗い夕闇の中、ゆっくりと身体を沈めてゆく。
『……泣くんじゃねえぞ』
「ぅん……」
……もう濡れてる。
夜の暗闇で彼のことを思い出したら、そうなってしまうのは当たり前だった。からめとって指を濡らして、自分のいっとう敏感な、ロイがたくさん愛してくれる粒に触れる。
ーー……痛みにそなえ、彼の背をにぎって構えた。左の首の根元に、硬い歯の当たる感触がして、じわりと甘くやさしく噛まれる。
ちがう、もっと……
言いかけたが、だんだん圧力が強くなって口を閉ざす。もうすぐ痛いかもしれない、声を上げないよう、ロイに心配をかけないようにアイリーンは歯を食いしばる。だが。
『っあ、や……うう……ロイ……っ!』
「ふぅ……ん、ロイ……ぁあ、あ! ロイ……ッ」
傷に触れる指、粒をこする指。
どちらも強くなってゆく。
布団の中で身をよじらせ、上等な枕に顔をうずめるとあの短刀の存在があわく感じられて、途端に身体が敏感になる。
ーー……噛む力をじわじわ強められながら、ロイは片手をアイリーンの濡れそぼる秘所に、這わせた。首すじにふぅ、と熱い吐息がかかってくすぐったさに身をよじる。ぐぐ、と力が強くなる。
何度も果てた身体はロイの指を簡単に受け入れた。つぷつぷと軽い水音が、こすれる敷布の乾いた音が、アイリーンを脳からおかしくさせる。
『あ、あ、いた、い……っやだ、ああ、おかし、く、なるっ! いたいの、に……っ、あああ、ロイ……!』
「ロイ、ロイ……ああ、すき…………ッ」
自分の指を早めていく。彼はもっと繊細に触るのだろうが、アイリーンにその余裕はない。名前を呼べば浮かんでくる彼の瞳、唇、手、足、指、声。そのすべてが欲しくて、アイリーンはひとり、みだれる。
ーー……分からなくなっていた。
痛いのか。気持ちがイイのか。
痛いのに気持ちイイ。
痛いのが、気持ちイイ。
もっともっと強くして! ……狂った脳内で叫んだ望みを汲み取ったかのように、ロイの歯牙がアイリーンの肉を噛み切ってゆく。
ロイは飢えた獣のようにふーふーと息を荒くして、肩口にまで彼の唾液が滴ってもやめはしない。約束どおり、消えない痕を残してくれてる。そして普段めったに冷静さを失わない夫の、あからさまに興奮した息遣いで、アイリーンはどうしようもなく昂ぶってゆく。
痛みは快楽に、塗り替えられる。
『あ、だめ、いっちゃう、いた、ア、ぅう、ン、いたい、ああ……ッくる、もぉ、いっちゃう……ッ!!』
「あ、ロイ、ロイ、すきだよ、んん……ッあ……!」
ひくん、ひくんと身体が戦慄き、軽い絶頂にひたされる。あの時ほどの、ロイに愛されているほどの深さには全然到達できないが、身体は重く、気だるくなって、消えかかった炎を見ながらまぶたを閉じた。首筋がぴりぴりと心地いい。
ーー……がくがく震えるアイリーンからようやくロイが離れると、首筋から薄桃色の液体がとろりと流れた。唾液と血のまざったそれを、彼の舌は器用に舐めとり、傷口に触れる。
動物が手負いの仲間にするようにぺろぺろとそこを慰められるとまた種類のちがう痛みが走った。う、う、と呻きながらもどうしてだか身体が跳ねて、甘い余韻に彼女は一筋涙をこぼす。
唇が、彼女のまなじりに触れる。
『ん……ロイ…………ありがと……』
『……よく頑張ったなアリン。いい子だ……』
『……うん……』
「……ロイ……」
結局ひと月、この噛み痕は消えずに残った。というよりアイリーンがこうして時折かさぶたを剥いてしまうため、消えようがなかったのが実際だ。
それでもこの傷があるだけでさみしさが薄れていく。
思い出に浸り、何もかもを忘れさせてくれる。
……怒られるかな。
ぴりぴり痛む首を撫でながら夢想する。
この傷をつけてもらったとき、ロイはすこし辛そうな、悲しそうな、複雑な表情でアイリーンを褒めてくれた。彼は何も悪くないのに、ただ妻の願いを叶えただけなのに、言いようのない罪悪感を植えつけたのは明らかだった。
そんな傷をわざと残しているなんて、彼にとっては不愉快だろう。それでもいい、怒られたい。ロイはきっと叱りながらも自分をやさしく溶かしてくれる。
「…………おやすみなさい、ロイ」
誰の返答もない。
今はまだ、ぱちぱち跳ねる暖炉の小さな音と短刀だけが、彼女のそばに寄り添っていた。
1
お気に入りに追加
355
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
ねえ、私の本性を暴いてよ♡ オナニークラブで働く女子大生
花野りら
恋愛
オナニークラブとは、個室で男性客のオナニーを見てあげたり手コキする風俗店のひとつ。
女子大生がエッチなアルバイトをしているという背徳感!
イケナイことをしている羞恥プレイからの過激なセックスシーンは必読♡
【R-18】クリしつけ
蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
連続寸止めで、イキたくて泣かされちゃう女の子のお話
まゆら
恋愛
投稿を閲覧いただき、ありがとうございます(*ˊᵕˋ*)
「一日中、イかされちゃうのと、イケないままと、どっちが良い?」
久しぶりの恋人とのお休みに、食事中も映画を見ている時も、ずっと気持ち良くされちゃう女の子のお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる