アイリーン譚歌 ◇R-18◇

サバ無欲

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Ⅴ.夜の章

76.回雪の袖

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「オヤオヤお散歩かい?  お気をつけてね公爵様、奥様」

「うん、行ってくるなマム看守長

「そう長くは出ねえ。数時間したら戻る」

「ハイハイ、承知しましたよ~ん」


たわわに太った褐色肌の中年女、マム・グラーデにごきげんな許可を得て、ふたりはひとつの馬に乗る。こうして月に1度、ロイの訪れた時に限ってアイリーンは外出を許された。

馬を走らせ、森をひたすら進んでゆく。
天候はくもりで風は氷のように冷たい。向かう場所は決まっていた。暗くて陽もささないような道を抜けると急に、視界が開けるのだ。


「ふわー、寒かった!」

「鼻が赤えぞ」

「ふふ、ロイだって!  連れてきてくれてありがとう」

「ああ。火でも起こすか」

「なら、焚き木をひろっ、ん、ん……」


また。

小さな泉のそば、ゆったりとふたりの過ごせる空間があった。鬱蒼とした森のなかで人は誰も入ってこない。ここだけは木々がすくなく、空が見えて、ふたりは散歩の目的地をいつもここに決めていた。

深いキスに身をゆだねる。とろとろと口内をかき乱され、舌先で歯列をなぞられてゾクゾクする。腰に腕を回してしがみつくと、くちづけは余計に深く、激しくなってゆく。


「は、ん……ッ、ふぁ……ロイ、すき、ぁ……」

「……アリン……は、アリン……」


低く求める声色に腰がうずいてたまらなくなる。
はしたないとは思いながらも身体を寄せると、ロイの剛直が服越しに、アイリーンの腹部に主張していた。そうなればもう彼女は何も考えつかなくなる。白い手が自然に、服の上から確かめるように硬い部分を撫で上げる。

ああ、欲しい。
これを舐めたい。
口いっぱいに頬張って、べとべとにして、喉の奥まで頑張りたい。


ロイにいい子って、褒められたい。
上手になったって言わせたい。


「やめろアリン。躾のなってねえ駄犬かてめえは」

「ぅうん……ろい……」

「こんな寒いとこで何が出来るわけでもねえだろ、弁えろ。……また後で、だ」


怒られていたはずなのに、周りには誰もいないのに、ロイはアイリーンの耳に唇を押し当てて最後の一言をひめやかに囁いた。淫らな約束を持ちかけられて、彼女は恥ずかしさに目を伏せながら応じる。


「あと、で…………うん、あとで。ロイ……」

「ほら、焚き木を集めろ。火を起こして昼飯にするぞ」

「はぁい」


大きめの石を円形に組んだだけのかまどはまだ残っていた。なるべく乾いた枝をひろい、枯葉もあつめてロイが火を起こす。冬の乾燥した空気のなかで暖かな炎はよく燃えた。

馬から積み荷をおろして食材を取り出す。堅パンにチーズ、ベーコンに卵、サラダ菜。泉の澄んだ水を鍋に汲んで湯を沸かす。

石かまどに金網を敷いて、フライパンにベーコンと卵を入れると香ばしい燻製の匂いがしてくる。チーズは金棒に刺してゆっくり溶かしてパンに乗せた。


「美味そうだ」

「簡単だしいいよな。サラダ菜取って」


渡されたサラダ菜をチーズの上に、こんがりと焼いたベーコンと卵をそのまた上に、最後にパンで蓋をしてできあがり。マム・グラーデに教わったこの地方の伝統料理なのだそうだが、パンのなかに挟むものはなんでもいいそうだ。

沸き立った湯に茶葉をいれて、煮立ったところで上澄みをすくえばあたたかい紅茶ができる。横たわった大木を椅子に、外套をひざ掛けにして、
ふたりはのんびりと昼食をとった。


「王都はどう?  ソフィアは、元気にしてる?」


紅茶を飲んだあとは吐く息が白い。
いつだってはじめに聞く質問だった。ロイも頬と鼻先を赤くしながら穏やかに応える。


「……王妃は変わらねえな、相変わらず忙しい。王都は少しずつ落ち着いてきた気もするが……まだ裏新聞やら、きな臭い影が残ってる。騎士軍が対処してるが堂々めぐりだ」

「そっか……でも落ち着いてきたなら良かった。早く……忘れてくれるといいんだけどな」


自分に対する悪感情がなくなるまでは無いにせよ、少しでも忘れてくれたならーー皮肉にもあれ以降、王都に食人獣が出現することはなく、人々は平穏に過ごせているようだった。

このまま何もなく過ぎ去れば、いずれまた王都に戻れるとロイは言う。そうであって欲しいと思う一方で、アイリーンには拭いきれない不安もあった。王都に戻ってまた食人獣が出現すれば、そうでなくても、他の天災やなにかと結びつけられてしまえば……忌み子という称号レッテルがある以上、それは一生避けられない。

今回のことは戦争好きな隣国ヒエロンドが手を回していて、話がおおきく誇張されてしまったとソフィアが手紙で説明をくれた。詳しい事情を知れたのはありがたかったが、理由がわかったところで、はいそうですかと納得できるわけでもない。


『貴女も自分に都合のいいように、考えを、民衆を、世界を変えてやればよろしい。……案外それは簡単なことですヨ?』


ヒエロンドの貴族商人の言葉を思い出す。あの妖しげな蛇の瞳、赤く笑う唇、無責任な言葉に腹が立つ。結局は都合のいいように使われてしまったということだ。使わせる気はないと言ったのに……


「なに考えてやがる」

「えっ、あ……」


唇のはしを彼の唇でぬぐわれて我に帰る。
もったいない事をした。せっかくロイが来てくれているのに、ぐずぐずとうっとおしい事ばかり考えてしまっていた。そもそもあの商人が悪いわけではない。これは国同士の喧嘩であって、個人がどうにかするわけではないのだから。

アイリーンは夫の肩に顔を寄せる。彼の清涼な体臭がアイリーンは好きだった。香水などではないその匂いにいつまでも溺れていたくなる。


「アリン……」

「んっ……ロイ……すきだよ……」


また。
ロイはきっと、キスが好きなのだろう。アイリーンだってそうだった。

優しくほどくようについばむくちづけ。段々深くなって、頬を固定され、逃げられないままぬるりと舌が割り込む。お互いの吐息が白く色づいて湯気のようで、手足の先は冷えているのに、身体の芯はどうしようもなく熱い。

彼の手が黒髪に触れる。肩から鎖骨までを覆う長さになって、今が恐らく一番くすぐったい時だろう。首筋に毛先が当たってアイリーンは身悶える。


「ひぅ、ん……っ、こ、しょばい……ロイ……!」

「なにもしてねえだろ」

「ちが、髪が……」

「……伸ばすのは嫌か」


痛いところを突かれる。そもそも人生の大半を短髪で過ごしてきたアイリーンは、髪が首や肩にちりちりと当たる感触を好まなかった。そのせいで故郷の王城に入っても髪を切ってしまい、ミルタやソフィアに怒られたものだ。

淑女らしくない、と今は理解している。
慣れるのは難しいが、伸びきればいずれ、気にならなくなるかもしれない。

なによりーー


「……ロイは、どっちが好き?  伸ばしてるのと、短いのと……」

「どっちでも基本的には構わねえが……てめえの髪が伸びて、結い上げたところを、いっぺん見てみたいとは思う」


そうなのだろう。

伸びた髪をロイは何度も触るのだ。気に入っていないわけがない。今度は指で首筋をくすぐられてあわく仰け反りながら、アイリーンは息も絶え絶えに答える。

ーー夫の要望に応えるのが、妻というものだろう。


「なら、のばしてみる……んっ……」

「……ああ、楽しみにしてる」

「あ、ぁんっ……ロイ、まって……」

「仕返しだ」


服ごしに胸をやわやわと揉まれ、耳朶を甘噛みされて力が抜ける。中途半端な刺激だ。続きを期待してしまう自分がいる。アイリーンは夫と違って自制が効かず、もっとして、とねだりかける自分の口を閉ざす事で精一杯だった。

耳から首へ、胸元へ、ロイの唇が這うように動いて空を見上げる。あ、と喘いだ唇に、ちいさな粒が舞い落ちた。


「……ロイ、見て、雪だ!」

「ん?  ああ……降ってきやがったな」

「こっちじゃ初雪だよ、うわぁ……っ!」


思わず丸太から立ち上がり、手を伸ばして雪に触れる。豪雪となると面倒だが、ちらちらと舞う分には、アイリーンは雪が楽しみだった。この土地は降らないと聞いていたから、きっと珍しい事なのだろう。

空を見上げてくるんと一回転する。

夜明け色のスカートが丸く広がり、白い雪がまるで星のようにくっついてくる。楽しくなって、もう一度、もう一度回ってみる。雪はついては離れ、離れてはついてアイリーンを飾り立てた。


「っとと」

「危ねえな……もうステップを忘れたか」

「おぼえてるよ!  ほらロイ、リードして!」


目まで回してふらついたアイリーンを支えた夫は、彼女に促されて手を取った。冷然とした表情を崩さないのに希望を通してくれるのだ。思えばロイはいつもそうだった。

互いに冷たい手を結ぶ。
黒色の結婚指輪がほのかにあたたかい。
雪より綺麗な、銀の視線が見下ろしている。

夏の夜の舞踏会よりもずっとずっと愛おしく、身近に感じる彼と踊る。音楽も、きらびやかな舞台も、お酒もお菓子も必要なかった。


ーーただ、あなたがいればいい。


新雪の舞う泉のそばで、ふたりは長く、長く踊り続けた。

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