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Ⅳ.秋の章
57.遠足
しおりを挟むアイリーンを視察先へ連れていく。
早朝、上司に叩き起こされたエメは、彼女のために自分の乗馬服を見繕っていた。
「あ、これ、一番いいな。ちゃんと止まってる感じがする」
「……ほんっと腹立つね、あんた」
なんで! とアイリーンは驚いたが、腹立つ理由ーーアイリーンの胸が大きくて普段使いのブラウスがほぼ入らない。そのくせ腰が細くてキュロットはことごとくゆるい事に対する嫉妬ーーは心のうちに秘めておいた。
結局、買ったはいいがエメには合わなかった、フリルつきの白いブラウス、首には細い黒のリボン、黒いキュロットにロングブーツで、一応乗馬の体は成し得た、が……
エメはううん、と唸ってしまう。
「あんた、またデカくなってない?」
「なにが?」
「胸」
そうかぁ? と首をかしげる彼女は、自分の持つものをあまり理解していない。
キュロットはコルセットがわりに、胸元までをボタンで締めるハイウエストになっている。下から見ればぴったりと細い足に丸い尻。腰はしっかりくびれていて、急に肉感的な乳房がふたつ。
首から上はともすれば長髪の少年のように見えなくもないのに、身体の曲線は普段よりも強調されて、かえってなまめかしさが際立つ。そして黒の目隠しで瞳が覆われ、無防備な頼りなさにどうしようもなく引きつけられる。
女の肉体を持つ少年の、倒錯的な美しさ。
目隠しをして無邪気に笑う、背徳的な悩ましさ。
ーーつまり、非常にいやらしい。
エメは困り果てていた。
「……やっぱりさっきのキュロットがいいんじゃない?」
「これが一番動きやすいよ。腰までちゃんと止まってて、ずり落ちなさそうだし」
「あんたねえ……」
「いいじゃんこれで。ロイも待ってるし、早く行こうよ? なっ?」
「ぴょんぴょんすんじゃないよ! ったく……!」
地団駄を踏む子どものように彼女が跳ねると、余計に乳が揺れ動く。かろうじて胸当てもさせたのにどうしてこれほど揺れるのか。今でこうなら、乗馬などさせれば余計に目立ってしまうのではないか。男ばかりのむさ苦しい要塞で、こんな無防備な姿を晒せば余計に彼らが飢え切ってしまう。
視察にはエメの同僚も多くいるはずで、彼女はかつての仕事仲間が飢えてギラつくところなど、哀れすぎて極力見たくはなかった。しかしーー
扉の向こうから、急き立てられる。
「おい、早くしろ」
「は、はい! すいません! ほら、エメ行こう?」
「~~っ、ああ、もう!」
もう、知らん!
アイリーンがどれだけ軍の男に性的な目で見られようとも、それで軍長が激怒したとて知ったことか。決めたのは彼女だし、なんの用意もせずに急に言いだした軍長が悪いーーエメは一切を諦めて、彼女とともに部屋を出る。
瞬間、銀の瞳が大きく見開かれた。
「おまたせ、ロイ!」
「……てめえ、なんだその格好は」
「ほかの服はアイリーンには合いませんでした。ブラウスは小さく、キュロットはゆるいので……仕方ありません」
エメは見た目はアイリーンとほぼ変わらない体格だが、れっきとした軍人だ。筋肉の分だけ、彼女より一回り大きな服をあつらえるのは仕方ない。ドレスならともかく、身体に沿った乗馬服では、その違いは明確だった。
「……っせめて、ゆるい方がいいだろうが。変えてこい」
「やだよ! 馬に乗っててずり落ちたらどうすんだよ! なぁ時間ないんだろ、早く行こ?」
ぐっと言葉を詰まらせる軍長など普通であればめずらしくて仕方がない。しかしエメには見慣れた光景だった。
最近の軍長はアイリーンにとことん甘い。さらにもとより時間厳守の男であるため、彼女の言葉に反論できないようだった。大きくひとつ舌打ちをして、ふたりの前を先導するように歩いてゆく。
彼女の姿を見ようともしない。
もとい、彼女の姿を見れない彼に、同情と哀れみを禁じ得ない。
ーーともかく、次からは専用の乗馬服を作らせることだね。
エメは受難に耐える男へ、心のなかで苦言を呈した。
***
はじめて、城の外へ出る。
それも馬に乗って!
アイリーンは高揚していた。はじめての道、久しぶりの馬、懐かしい木々の匂い! 堅苦しい王宮を離れてみると、彼女は水を得た魚のようにきらきらと、隠れた瞳を輝かせていた。
隣には夫と侍女がいる。
先頭を走り、後ろにはロイ直属の部下である20名弱の兵士が並ぶ。アイリーンは出発前にロイから兵士たちを紹介されたが、なにせ早口でよどみなくって覚えきることは出来なかった。
「ロイ! あとどれくらい?」
「2時間ぐらいだ。へばってんのか」
「まさか! 楽しくって仕方ないよ!」
言葉どおりのアイリーンに、ロイは銀の目を向けなかった。先程からなかなか目が合わないが、アイリーンは特に気にしていない。
というか彼女は景色に夢中で、自分に向けられている様々な視線を一切知らずに駆けていた。
うわっ、呼び捨て……! ってか軍長も普通に返してるし何者なんだよあの奥さん!! 逆に怖えぇ……! けど、身体はイイ……。
気色悪い……軍長のお側にあんな、情婦のような女がまとわりついているなんて。軍長も国のためとはいえ、早く離婚なさればいいのに。
尻がいいよなぁ、あとおっぱいも。揺れてんだろうな正面から見たい。若妻いいなぁ俺の嫁ときたら見る影もなくなっちまって……
ああ神さま、お許しください。忌み子と行動を共にする罪深き我らをお許しください。どうか厄災など起きませんよう、どうか、神さま……!
忌み子って普通に喋れるんだ。可愛かったな、自己紹介で噛んじゃって……結構、普通の子なんだな。でもあの胸……だめだ、考えるな。勃つ。
表向きは真面目な顔をしながら悲喜こもごもの感情を抱え、一行は北東の要塞へと向かっていた。なんでも今日は日帰りで、そのあとはまた3日かけて遠征へと向かうのだそうだ。
もうすぐ満月が近いため、食人獣の対策に追われている。加えてこのあいだの襲撃の後処理も彼らが行なっているのだから、多忙なのは当たり前だった。
「他の人には任せられないの?」
「基本は駐屯兵に任せてある。ただ食人獣の出現前にはかならず視察は必要だ。軍備やら人員配置やら……あいつらが出やすい場所ともなれば数日かけて準備する」
「ふうん……今度のところは出やすい?」
「いいや、今回の場所は安全地帯だ。視察も1日とかからねえ。食人獣が出たこともねえし、ヒルダたちも安全だと……まぁ、実際どうか知らねえがな」
ヒルダを筆頭としたイェーナ王国の研究者たちは、日夜努力を重ねている。その甲斐あって現国王の即位後、この国は食人獣の侵入を完璧に阻止していたが、あの予想外の襲撃に、完全阻止は打ち砕かれた。
一体なんだったのだろう……舞踏会の次の夕刻、獣たちは突然王都にやってきた。聞く話によれば、5体の食人獣は他の村には目もくれず、王都まで一目散に来たらしい。
近くの村から報告を受けたロイたちが即座に動いたが、それでも被害は甚大だった。普通はこうして、何日も前から準備するのだ。突然のことでは仕方ないと思う。
ともかく、消えてくれればいいのに。
生けるものを大切にしたいアイリーンでもめずらしく、食人獣はもっぱら嫌悪の対象だった。人の生活を荒らし、人肉を食い、忌み子の自分とも結びつけられがちになる……そんな理由もさる事ながら、一番はやはり、夫の手間を増やしているというところで、彼女はやつらを以前よりも忌々しく感じていた。
出発から3時間、朝の風が清々しくあたりに抜ける頃、一行は目的地へと到着した。その要塞はロイが言っていた通り、青々と夏の名残りを残した森と清らかな川で囲まれて、町は遠くてなにもないーーアイリーンにとっては最高の場所だった。
要塞で働く駐屯兵たちはロイの到着を待っていたらしくみな均等に並んでいた。ロイが手短に挨拶を済ませて、各自が仕事に戻りかけたとき、アイリーンは見知った顔に声をかけられた。
「あっれー?! 奥様!」
「わっ、先生! なんでいんの?」
「そりゃこっちのセリフっすよ! 俺は生誕祭が終わってからこっちで……ってか、なんすか、その格好……」
「え、変かな? 乗馬服持ってなかったからエメから色々借りたんだ」
「変っていうか…………姐さん、これはヤバいっすよ駄目ですって。ただでさえ男しかいないのに、どうするつもりなんっすか……!」
「仕方ないだろあれしか入んなかったんだから……!」
「おいアイリーン」
エメと先生ーー生誕祭までの期間、ダンスを教えてくれたヨーデリッヒがごにょごにょと声をひそめている中、駐屯兵と話していたはずの夫が声をかけてきた。
「ん? なに、ロイ」
「俺はこれから仕事だ。てめえは邪魔にならねえなら好きにしてればいいが、どうする」
「うぅん……」
となりで先生が固まっているとも知らず、アイリーンは唸って考えた。勢いでついてきてしまったが、これから仕事をする彼のそばでうろちょろすれば、必ず邪魔になってしまう。どうしようかな……と考えていると、ふと妙案が浮かんだ。
「なあロイ、弓ってある?」
「あるにはあるが……何考えてやがる」
「いや、狩りでもしてこようかなって。あ、でも昼食は用意されてんのかな? 駄目だったらいいよ」
久しぶりに森が近いと、どうしてもそんな思考になる。ただ迷惑はかけたくないため、あくまでも提案するだけに留めると、ロイは目を伏せ、首を少しだけかたむけて、どうやら考えているようだった。
ふと……格好いいなぁとしみじみする。
惚れた弱みなのか、アイリーンは最近、ロイの所作ひとつひとつが気になって仕方なかった。彼は表情がさほど変わらない分、動きに思いがよく表れる。
長い指を唇において、なおも熟考しているのだろう。視線は自分から逸れているから、長い睫毛に隠れた綺麗な瞳を余すことなく見つめていられる。
きちっと結んだ薄い唇はかさついてるけど、キスすると少しずつしめってきて……なんて思い出だすと、アイリーンの顔がぼっと発熱した。
一体なに考えて! 自分を叱りつけているうちにロイと目線がかち合った。どうやら決断したらしい。長い指が頬に触れてきたのは、きっと赤く染まっているからだろう。
「エメと、それからヨーデリッヒも連れていけ。怪我すんじゃねえぞ」
「んぅ……わかった。取れたら、ロイも食べてくれる?」
「さぁな。てめえの腕次第だ」
今度はその場の全員が固まっていたが、アイリーンだけはそれに気づかず、ただ目の前に夢中だった。
さすさす、と頬を撫でられると気持ちがよくって、思わずもっとして欲しくなる。見上げると銀の瞳がやわらかに細められていて、他には読み取りにくいだろうが、微笑んでいるとすぐにわかってアイリーンは嬉しくなった。
仕事で忙しい彼のために、うまそうな獲物を捕まえよう。アイリーンは決心して、ロイと離れて3人で武器庫へと向かう。気持ちがはやって、彼女は2人の前を歩いた。
「……軍長と奥様って何があったんっすか。名前呼びだし、敬語もないし、軍長も怪我の心配とかしちゃってるし何よりあんな人前で……!」
「……生誕祭からずっとあんな感じだよ。部屋ん中じゃもっとすごい」
「もっと……!! やべえ、軍長ってあんな人だったんだ……」
「ん? なんか言った?」
「なんでもないよこっちの話。そこ右曲がって」
エメと先生のごにょごにょ話はそれから長く続いていたが、アイリーンはやはり気づかずに、わくわくと期待を膨らませていた。
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