アイリーン譚歌 ◇R-18◇

サバ無欲

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Ⅲ.夏の章

49.負け戦

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こみあげるのは、苛立ちや嫉妬ではなかった。

強いて言えば、自分ソフィアの空想を叶えて生きるアイリーンへの祝福だ。


ただ良かったと、そう思う。赤目の不遇を背負った彼女が、公爵によってに生まれ変わった。そのことを……自分ではなかったにせよ、自分のことのように嬉しく思う。


「そう……よかったねアイリーン……」

「もうほんとやめてくれ……なんでこんな、恥ずかしいっ……!」


公爵はずっと、待ったのだろう。
アイリーンが望むまで、彼女の気持ちが整うまで。

人に恋する喜びを、楽しさを、切なさを、彼女がきちんと知るまでは。公爵はずっと待ち続けたのだ。そこには彼女の意思があり、彼女の意思を尊重する公爵がいる。


……薄気味悪い恋慕ではない。
アイリーンに対するそれは、深くて強い愛情だ。


政略結婚でありながら、赤目の忌み子でありながら、アイリーンは今まさに羽化する蝶のように輝いている。誰が想像できただろう……手折られるばかりだと思った彼女は大切に愛を注がれつづけて、あの夜ようやく羽を広げた。

素晴らしく、見事な羽だった。
みんなが見惚れてしまうほど。


ーー完敗だ。


「ほんとに、ほんとに良かった……」

「あぁ、もう……なんでお前が泣いてんだよ……」

「ん……わかんない……」

「……うそ。ありがとな、心配してくれてたんだよな……お前は本当に、オレにはもったいない妹だよ……」


今度はアイリーンから抱きしめてくれて、ソフィアの涙が彼女の寝衣の襟ににじんだ。そうして少し落ち着いて、外はもう薄藍に染まっていた。


「なぁ、ソフィア……お前のことも聞いていいか?」

「アイリーン……」

「何があったんだよ、ソフィア。こないだは……少なくとも武闘大会のときはあんな辛そうな顔してなかったぞ?」

「ぶっ、ふふっ……アイリーン、あの踊りはもうしちゃダメだよ……」

「なんだよ茶化すなよ。真剣に聞いてるんだからなこっちは。……陛下と、なんかあったのか?」


少しも照れないところを見ると、どうやら武闘大会で披露したの異様性を本人は分かっていないらしい。楽しかった記憶に、ソフィアの頬が緩む。


あの時はたしかに……笑えていた。

先に気づいたのは陛下だった。扇を取られて、笑いをこらえて、顔を見合わせるとまた面白くて……ふたりで話し込んでいるうちに試合が終わってしまった。

その後の夜会でも、彼はソフィアの事で激昂して、自らの事などまるで顧みずにベーメン伯爵を叱ってくれた。困惑し、呆れる一方で……あの時はたしかに、幸せだった。


でも、違う。


自分のことを王妃として慈しんでくれているのは本当だろう。今だって彼はソフィアを案じ、アイリーンの元へ向かわせ、ひとりで政務をこなしている。でも。


アイリーンとは違う。
彼女のように、女として妻として……必要とはされていない。


「……言いたくないなら、それでも」

「わたしは、形だけの王妃なんだ」


いずれは知られる事だった。

側妃が子を身籠ればアイリーンの耳にも入るだろう。そのとき無用な心配をかけるよりかは、今言って、きちんと知って、覚悟してもらう方がいい。


「わたしは……世継ぎを、求められてない。陛下がわたしに求めるのは、王妃としての振る舞いだけで、子種をいただいた事は一度もないんだ。身体を繋げたことはあっても……」


当然だ。
血筋の不確かな者の子どもに、王家を継がせるわけにはいかない。

でも、ああ、嫌だな。
声が震える……!


「…………えっ?」

「陛下は……側妃との間に世継ぎを求めてる。だからわたしが子を成すことは永遠にない。今朝はほら……アイリーンは昨日手袋をつけてくれてなかったし、陛下は新婚の半年が過ぎて、側妃の所へ行っちゃうしで……ちょっと、自棄ヤケになってたんだ。うん、それだけ」


待ってくれよ、ちがうだろ、などと狼狽えるアイリーンを無視して話す。言葉にすれば明確に、すべてのことが浅ましい嫉妬によるものだった理解ができて嫌になる。自分はそんな立場でないのに、何を自惚れていたのだろう。


それでも一晩、待っていた。
早く帰ると、その言葉を信じていたわけでもないのに。

待って待って待ち続けて……ようやく朝になった頃、陛下は疲れた顔で帰ってきた。ずいぶんお楽しみだったのだろう。この半年、欲を溜めさせてばかりだったのだ。自分に言えることなど何もなく、ソフィアはゆったりと微笑んで、謝る陛下に首を振った。


いつかは慣れてくれるだろうか。
この身にひそむ愚者の血が、いやしくも誰かを求め、呪い、憎しみ、焦がれ……満足などしてくれないのだ。


「なぁソフィア、え?  何言って……そんなわけ……」

「諦めてアイリーン。陛下の気持ちはわたしにはない」

「いや、おかしいだろ?  だって陛下は……それに昨日は、やっぱ違う……」

「……しつこいなぁッ……もう分かってよ!!」

「違うって!  聞けよソフィア!!」


きちんと説明したのに、妹可愛さで事実を認めようとしないアイリーンに腹が立つ。思わず怒気をはらんで叫ぶと、それ以上の強さでがくがくと肩を押さえられーー


続いた言葉に絶句する。



「側妃制度の廃止は陛下が決めたんだろっ?!」



……側妃制度の、廃止?

何を言っている?
アイリーンは何を、言っている?


「……ぇ……?」

「ほら、輿入れの1……2週間前だっけ?  陛下が自分で決めたんだろ?  周りの反対押し切って、もう側妃は取りませんって」

「なに、それ……」

「それに昨日は乱痴気騒ぎの片付けで陛下も出てたって言ってたし。やっぱ違うって」

「待ってアイリーン。さっきの、廃止ってなに、どういうこと……?!」

「……お前、いつも完璧なのに変なとこ抜けてる時あるよな。ちょっと待ってろ」


そういうや否や、アイリーンは寝室から出て、すぐさま分厚い本を持って帰ってきた。寝台ベッドの上で乱雑にそれを広げると、中に挟まった何枚かの書類がばらける。

ソフィアはそれを、ぼんやり見ていた。
どうやら法律関係の本だが、いつの間に勉強をするようになったのだろう……それも公爵のおかげなのかな……など、本筋とは全く関係のないことが浮んで消える。


「ええと……どれだっけな。これじゃない……これも……あぁ、これだ」


一枚の紙をぱっと渡されるが、暗くて細かくてよく見えない。アイリーンが洋燈ランプを灯して近くへ寄せると、ようやく文字が浮んできた。


「あぁこれ知ってる。王城で読ん……」

「本当に読んだのか?  古いやつじゃねぇの?」


それは現国王レオが改変した規則や法律のまとめであったが、母国シガルタで読んだ覚えがある。しかしアイリーンの指の先には、見覚えのない字が連なっていた。


「ほらここ、王族婚姻制度の改正。この矢印んところに、側妃制度と後宮の廃止ってちゃんと書いてあるだろ?」

「なにこれ……誤植……?」

「んなわけあるかよ、ちゃんと読め。陛下はソフィアとの結婚が決まる前から提案してたけど、決まってからやっと可決したんだって。だからこっちが最新版」


訳の分からない情報が、ソフィアの頭を混乱させる。
胸が張り裂けんばかりに鼓動をたてて、受け入れられないと叫んでいる。こんな事、あり得ない。だって陛下は、レオは……


「なん、で、こんな……」

「あれだよ、ベリアル教の一夫一妻の教え。陛下は自分だけ教えに背くんじゃ、国王として示しがつかないって……それで。
反対意見も結構あったらしいけど、強引に押し通したってエメが……教えてくれた侍女が言ってた」

「まさか……だって、わたしはレオに……」


ーー胎を、求められていない。


子を作る気配など、初夜から皆無だ。
寝台に入り、身体をまさぐられ、無意味に高められた期間はあった。しかしあれだって周囲への演出パフォーマンスでしかなく、それすら今はまったく、無い。

なのに、なぜ。
ソフィアは純粋に戸惑っていた。


「……なぁ、なんか理由があるって。陛下にも、きっと考えがある。ちゃんとふたりで話し合えよ」

「アイリーン、でも……っ」

「それで何かあったら、オレがついてる。ここに来るでも、オレが行くでもどっちでもいい。いつだってお前のそばにいるから……何もできないけど、お前の味方は、ここにいるんだから」


その細腕にぎゅう、といだかれ、それでも思考はまとまらない。なぜ、なぜ、なぜ……!  一体なんの考えがあって、陛下は改変などしたのか。


なにかが、おかしい。
何かが崩れる音がする。
ソフィアの考え、常識、秩序、論理……そのすべてが。
善し悪しはなく、ただ無作為に、疫病や天災のように崩れ去ってゆく。そんな音がーー


「王妃殿下!  失礼いたします。大至急、執務室へお戻りください」


聞き覚えのない、恐らくアイリーン付きの侍女の声が扉の外から聞こえたが、まだ帰れるような状態ではない。ソフィアは王妃らしい固い声音で侍女に答えた。


「何故です。レオの許可は得ています」

「緊急事態です。王都に食人獣が5体、現れました」


どうして。
そう呟いたのは、果たしてどちらか。


「王妃殿下には、陛下とともに執務室で即座に身の安全を確保していただきます。外で騎士隊長がお待ちです。

……お急ぎください、一刻の猶予も許されません」


何かの崩れる音がしていた。



夏の章    了
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