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Ⅲ.夏の章
41.木乃伊取り
しおりを挟む普段の自分からはかけ離れた、弱々しい声だった。
「陛下、レオ、まって」
ソフィア自身にとって、こんな騒動は誤算でしかない。ベーメン伯爵に何を言われた所でどうでも良いし、ただ少し、この場で痛い目を見てもらおうと目論んでいただけなのだ。それを陛下は怒り狂って、あろうことか爵位剥奪まで言い出している。
他の罪状でも奪われなかった爵位を、彼の戯れ言ひとつで取り上げるのはあまりに不公平だ。周りには国外の賓客の目もあるのに。これでは彼の築き上げてきた、公平で寛大な国王像が崩れてしまう。
それは陛下の、ひいては王族全体の損失だ。
ソフィアは意を決し、その身を彼へと翻した。
「レオ、爵位剥奪など取り下げてください。ベーメン家は長く王家に仕える伝統ある一族ですよ」
「ソフィア、なぜ庇うんだ。私は君を愚弄する者は許せない。あの男は最低だ……!」
「レオ、陛下……どうか、わたしに免じて許してやってくださいませ。わたしは、わたしのために誰かが罰せられることなど望みません。どうか、どうか御慈悲を……!」
レオは緑の瞳を見開いて強い怒りを露わにしていたが、ソフィアの大仰な弁でそれを鎮めていった。演技がかった彼女の態度に、言わんとするところーーイェーナ国王としてのあり方を見極めたのだろう。
震える息を吐き、ぎゅっと目を閉じるその姿に、彼が必死に自分の感情を抑えつけようとしている事が見てとれる。
どうしてそこまで……と思わざるを得なかった。
同時に、こうして取り乱したのは2度目だとも思い至る。ソフィアが指を切ったその時も、彼は我を忘れていた。前回はソフィア自身に、今回は伯爵に向いているそれは、賢王と呼ばれる彼らしからぬ激情だった。
「……分かったよソフィア……君に免じて、ベーメン家の爵位剥奪は取り消そう。……ベーメン伯、貴殿には24になる娘がいたな。確か、今は王都を離れて経済学を学んでいる」
「は……さ、左様でございます……」
「その娘が戻り次第、爵位を譲渡し、貴殿は即刻隠居せよ。そしてすぐさま王都を離れ、私の目の届かない所でひっそりと暮らせ。
これから先、爵位を譲渡するまでの間も、貴殿がこの王宮に足を踏み入れることは許さない。2度と私たちにその姿を見せるな。やりとりは書状で行い、必要があればこちらから遣いを出す」
陛下は爵位の剥奪自体は取り下げたものの、ベーメン伯爵本人を許すことは一切なかった。その事実に伯爵はおろか他の貴族も息を呑む。表舞台から引きずり降ろされたベーメン伯爵に待つのは、王宮の華やかさからは想像もつかない、みすぼらしく孤独な余生だ。
国王陛下は強い眼光で周囲を見渡しながらも話を続けた。
「皆、よく聞け。これは私の温情だ。
ベーメン伯は我が王妃を愚弄した。王妃への不敬はすなわち私の、王族の不敬に他ならない。ソフィアの出自が庶子だから、小国だからと侮ってくれるな。彼女は私の大事な妻だ。
このような事がまた起これば、次はもう情けなどかけない。不敬罪として取り押さえ、爵位や領地を没収する。皆、努努忘れるな……ソフィアを、私の妻を愚弄するならば、それなりの覚悟を持って来い」
誰かひとりがそうしたのを皮切りに、次々とその場の人間がこうべを垂れた。国王はそれを突き放した目で一瞥した後、ソフィアを連れてその場を退出した。後ろから騎士団長のドルトンや他数名の高官が引き止めに来たが、陛下はそれにも耳を貸さずに歩き続けた。
そして結局、寝台の上でソフィアのコルセットの紐を緩めて今に至る。閨事に慣れているらしい彼は、手際よくソフィアの服と髪をほどくと、自身は上着だけを脱いでまた寝台へ突っ伏してしまった。
今日はもう本当に、夜会には戻らないつもりだろう。国外の賓客も多いというのに、彼にしては珍しいほどの醜態だった。ソフィアは諦めてため息をつき、ドロワーズ1枚でクローゼットへ向かう。
「……レオ、もう。そろそろご機嫌をなおしてください」
「君は腹立たしくないのか? あんな風に馬鹿にされて。君が王妃として、どれだけ尽力してくれているか分かっていながらあの男は……ッ、思い出しても、胸がむかつく……!」
「さほど。八つ当たりだと分かっていましたし……周りの人が怒っていると、かえって冷静になるものですから」
クローゼットから寝衣を取り出し、頭からかぶって寝台へ移る。普段なんでも侍女に着せてもらうソフィアは、手を出す場所さえ分からない。苦戦していると、レオが身体を伏せたまま、腕だけ伸ばして位置を整えてくれた。
「ありがとうございます」
「……君は大人だな……私は駄目だ。ああなるとまるで抑えが効かない。今になってアイリーンの気持ちがよく分かるよ」
「……姉の?」
「身内を否定されるというのは……結構堪える」
「……あの時は、嗤っていらしたくせに」
あの場にもいなかった人の名前が突然出て首を傾げたが、どうやら半年前の披露宴の話をしているらしかった。母親について揶揄され、アイリーンが激昂したあの時、レオは他に分からないほどわずかに昏い笑みを見せていた。
あの時ほど、他人が恐ろしいと思った時なはい。
しかし当の本人はすっかり忘れているようで、枕に顔をつけたまま、ん? と眉をひそめてみせた。
「……そうだったか?」
「わたしが止めようとしたのを……あなたに、阻まれました」
「ああ、あれは…………すまない、確かに面白がっていたな。ロイがどう出るか、楽しみだったんだ」
「……公爵が? どうして」
またも思っていなかった人の名を告げられ、今度はソフィアが眉をひそめる。披露宴でのあの一幕、ソフィアは狂犬公爵がどのような面持ちでいたか覚えていない。あの時は、ひたすらアイリーンの心配と国王への恐ろしさだけに囚われていた。
「言っただろう。あれは昔から、物事に執着しないんだ。だというのに、君の姉君にだけはそうもいかない。彼女が窮地に立たされれば、あれがどう動くのか見ものだったし……実際、いいものを見せてもらった」
ぽかん、と開いた口が塞がらない。
レオはソフィアの呆けた顔に、ばつが悪そうに視線を逸らしてしまった。
「こ……公爵の反応を見るためだけに、あのとき、わたしを止めたのですか……?」
「悪かったよ。国王としてあの場を諌めるべきだったが……興味心が、勝ってしまった」
身体じゅうの力がどっと抜け切る感覚がした。
予想外すぎる答え合わせに、ソフィアは思考がついていかない。寝台の上に座ったまま、つい、思ったことがそのまま口をついて出る。
「……わた、しは、てっきり……貴方が同盟を打ち切って、再び戦争に持ち込むつもりなのかと……」
「……そんな事を考えていたのか。私も随分、信用されてないんだな」
「だって! ……今は、ちがいます……」
元敵国で、ひと月前に出会ったばかりの国王を、むやみに信用しろと言う方が難しいだろう。ソフィアの消え入るような声に、レオはふ、と吐息で笑ってみせた。緑の瞳は、すでにいつもと変わらない穏やかさをたたえている。
「すまない、意地の悪いことを言ってしまったな……ソフィア、今日はもう休もう」
「はい」
「ああ、それから……私は君たちの母国について、何かしようとは思っていないよ。そりゃ、向こうが何か仕掛けてきたら別だろうが……平和に同盟が結べているなら、それに越したことはない」
……信用しても、いいのだろうか。
布団へ入り、ソフィアはこの頃、癖のように彼の胸へともぐり込む。それは自分を演じるためーー便宜上 彼を誘うためであったが、深く息を吸い込むと、森の木々のような落ち着く匂いがそこにはあった。
……信じたい。
でも、まだ怖い。
私の秘密は握られたままだ。
世継ぎだって一度も求められたことはない。
でもレオは……私のことを、身内だと言った。
そうだった。彼は初めから、ソフィアのことを王妃だと、妻だとずっと言い続けてきた。今になってその言葉たちが、ソフィアの胸で反芻される。
「レオ、キスしても?」
いつものように、王妃としてそれを聞く。
普段ならとりつく島なく遮断される問いかけだったが、今日に限って彼はううん、と視線を逸らした。
「……今日は悩むんですね」
「誕生日だからね。贈り物があってもいいだろうし、あんな事のあとで慰めてほしい気持ちもある」
指摘すれば、いたずらっぽい視線を返される。
男女のことに慣れているのだろう。その言葉はいやらしさを感じさせず、まるで少年のような雰囲気さえある。取り繕ったソフィアとは真逆の、自然な口調だった。
「うん。してもらおうかな……君が嫌でないのなら」
レオは両腕をゆるく大きく広げた。待ち構えて、片眉を上げ、意地の悪い笑みを見せる。
ソフィアは上体を腕で起こして、彼の顔を覗き込んだ。緑の垂れ目が楽しげな色でソフィアを見上げて、彼女はゆっくりと近づいた。
鼻先がちょん、と触れ合う。
それだけで、なぜだか心臓がとくとくと音を立てていた。初めての夜も、自分だけが蕩かされていた期間も、緊迫した食人獣との対面や先の伯爵とのやりとりでも、こんな風にはならなかったのに。
「真っ赤だな」
「言わないでください」
身体じゅうに、心臓から送られた熱が溜まる。
太陽のようにあたたかく、どこか明るさをはらんだ熱だ。不快には思わず、ソフィアはそのまま目を閉じて唇を重ねた。
ふれて、はなれて。
もう一度、ふれて、はなれる。
レオは一切動かなかった。目を開けると、うっすらと笑みを浮かべてソフィアを見ている。底意地が悪いような、それでいて優しいような微笑みに、ソフィアはまたキスをした。
触れるだけのキスを続けて、それから少し、舌先で唇を舐めてみた。それでも彼は動かない。
「……レオ?」
「結構な、破壊力だな。こんな風に焦らされると……」
「ご冗談を」
ーー慣れているくせに。
反論しかけた厚い唇をまた塞ぐ。
今度は開いていたから、そっと舌でうかがうように入り込んでみる。男はやはり手慣れていて、ソフィアの調子に合わせながら、ゆっくりと舌を絡めとった。
きもちいい。
きもちい、い。
前はこんな風だったかな。
どうだったろう、おぼえてない。
しばしくちづけに熱中する。すうすうと吸いつくような柔らかな唇に、強引さのないとろけた舌。お互いの唾液がまざって静かに音をたて、遊ぶようにちゅる、と吸ってみる。すると彼も真似をして、ソフィアの舌を優しく吸った。下唇を甘噛みすれば、また真似をして甘噛みされる。
「ふふ……っ」
……たのしい。言葉のいらない応酬は、こんなにも面白いものだったろうか。もう少し、もうすこしだけ、そう思いながら、ソフィアは唇を離さずにいたがーー
こんな風に、側妃とも舌をあわせるのだろう。
不意に重い鐘の音が、遠いところから数回響く。
日が変わったらしい。ソフィアは唇を静かに離した。暗がりで、緑の瞳がソフィアをやさしく捕らえている。その視線から逃れるように、ソフィアは布団へと身体を潜らせ、背を向けた。
「おしまい?」
「はい」
「そう。おやすみソフィア、良い贈り物をありがとう」
平然と言ってのけ、レオはそれ以上を求めなかった。分かっていたことなので、ソフィアもさしたる感情はない。
女としては、求められていない。
それを求められるのは、きっと側妃たちなのだろう。
ソフィアが王妃らしくあろうとするように、彼もまた、夫らしくあろうとしているのかも知れない。そう思えばいつもは安堵するのに、今夜は妙に胸がきしんだ。
「……おやすみなさい」
私には、これでいい。
この距離感で充分だ。
さみしさや、物足りなさは感じなかった。
これでお飾りの王妃が続けられるなら、なんだっていい。ソフィアの一番大切な部分は、依然としてアイリーンやミルタが占めている。ただーー
細い指先で唇をなぞる。
唇に、舌に、身体のなかに、まだ彼の感覚が残っていた。陽の光のような熱や、舌先のぬめった心地よさ。触れた部分などわずかなのに、それらが身体を蝕んでゆく。
不快でないのが、不愉快だった。
大切なものを見誤りたくない。
私には故郷を、そしてアイリーンを守り続ける使命がある。そのための王妃という立場だ。脅かされてはならないからこそ、彼に媚び売って仕えてやるのだ。
ソフィアは何度も言い聞かせる。
そのあいだ、身体に残った感触はどうにも消えてはくれなかった。
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