アイリーン譚歌 ◇R-18◇

サバ無欲

文字の大きさ
上 下
43 / 124
Ⅲ.夏の章

41.木乃伊取り

しおりを挟む



普段の自分からはかけ離れた、弱々しい声だった。


「陛下、レオ、まって」


ソフィア自身にとって、こんな騒動は誤算でしかない。ベーメン伯爵に何を言われた所でどうでも良いし、ただ少し、この場で痛い目を見てもらおうと目論んでいただけなのだ。それを陛下は怒り狂って、あろうことか爵位剥奪まで言い出している。

他の罪状でも奪われなかった爵位を、彼の戯れ言ひとつで取り上げるのはあまりに不公平だ。周りには国外の賓客の目もあるのに。これでは彼の築き上げてきた、公平で寛大な国王像が崩れてしまう。

それは陛下の、ひいては王族全体の損失だ。


ソフィアは意を決し、その身を彼へと翻した。


「レオ、爵位剥奪など取り下げてください。ベーメン家は長く王家に仕える伝統ある一族ですよ」

「ソフィア、なぜ庇うんだ。私は君を愚弄する者は許せない。あの男は最低だ……!」

「レオ、陛下……どうか、わたしに免じて許してやってくださいませ。わたしは、わたしのために誰かが罰せられることなど望みません。どうか、どうか御慈悲を……!」


レオは緑の瞳を見開いて強い怒りを露わにしていたが、ソフィアの大仰な弁でそれを鎮めていった。演技がかった彼女の態度に、言わんとするところーーイェーナ国王としてのあり方を見極めたのだろう。

震える息を吐き、ぎゅっと目を閉じるその姿に、彼が必死に自分の感情を抑えつけようとしている事が見てとれる。


どうしてそこまで……と思わざるを得なかった。

同時に、こうして取り乱したのは2度目だとも思い至る。ソフィアが指を切ったその時も、彼は我を忘れていた。前回はソフィア自身に、今回は伯爵に向いているそれは、賢王と呼ばれる彼らしからぬ激情だった。


「……分かったよソフィア……君に免じて、ベーメン家の爵位剥奪は取り消そう。……ベーメン伯、貴殿には24になる娘がいたな。確か、今は王都を離れて経済学を学んでいる」

「は……さ、左様でございます……」

「その娘が戻り次第、爵位を譲渡し、貴殿は即刻隠居せよ。そしてすぐさま王都を離れ、私の目の届かない所でひっそりと暮らせ。

これから先、爵位を譲渡するまでの間も、貴殿がこの王宮に足を踏み入れることは許さない。2度と私たちにその姿を見せるな。やりとりは書状で行い、必要があればこちらから遣いを出す」


陛下は爵位の剥奪自体は取り下げたものの、ベーメン伯爵本人を許すことは一切なかった。その事実に伯爵はおろか他の貴族も息を呑む。表舞台から引きずり降ろされたベーメン伯爵に待つのは、王宮の華やかさからは想像もつかない、みすぼらしく孤独な余生だ。

国王陛下は強い眼光で周囲を見渡しながらも話を続けた。


「皆、よく聞け。これは私の温情だ。
ベーメン伯は我が王妃を愚弄した。王妃への不敬はすなわち私の、王族の不敬に他ならない。ソフィアの出自が庶子だから、小国だからと侮ってくれるな。彼女は私の大事な妻だ。

このような事がまた起これば、次はもう情けなどかけない。不敬罪として取り押さえ、爵位や領地を没収する。皆、努努ゆめゆめ忘れるな……ソフィアを、私の妻を愚弄するならば、それなりの覚悟を持って来い」


誰かひとりがそうしたのを皮切りに、次々とその場の人間がこうべを垂れた。国王はそれを突き放した目で一瞥した後、ソフィアを連れてその場を退出した。後ろから騎士団長のドルトンや他数名の高官が引き止めに来たが、陛下はそれにも耳を貸さずに歩き続けた。



そして結局、寝台ベッドの上でソフィアのコルセットの紐を緩めて今に至る。閨事に慣れているらしい彼は、手際よくソフィアの服と髪をほどくと、自身は上着だけを脱いでまた寝台へ突っ伏してしまった。

今日はもう本当に、夜会には戻らないつもりだろう。国外の賓客も多いというのに、彼にしては珍しいほどの醜態だった。ソフィアは諦めてため息をつき、ドロワーズ1枚でクローゼットへ向かう。


「……レオ、もう。そろそろご機嫌をなおしてください」

「君は腹立たしくないのか?  あんな風に馬鹿にされて。君が王妃として、どれだけ尽力してくれているか分かっていながらあの男は……ッ、思い出しても、胸がむかつく……!」

「さほど。八つ当たりだと分かっていましたし……周りの人が怒っていると、かえって冷静になるものですから」


 クローゼットから寝衣を取り出し、頭からかぶって寝台へ移る。普段なんでも侍女に着せてもらうソフィアは、手を出す場所さえ分からない。苦戦していると、レオが身体を伏せたまま、腕だけ伸ばして位置を整えてくれた。


「ありがとうございます」

「……君は大人だな……私は駄目だ。ああなるとまるで抑えが効かない。今になってアイリーンの気持ちがよく分かるよ」

「……姉の?」

「身内を否定されるというのは……結構こたえる」

「……あの時は、嗤っていらしたくせに」


あの場にもいなかった人の名前が突然出て首を傾げたが、どうやら半年前の披露宴の話をしているらしかった。母親について揶揄され、アイリーンが激昂したあの時、レオは他に分からないほどわずかに昏い笑みを見せていた。

あの時ほど、他人が恐ろしいと思った時なはい。
しかし当の本人はすっかり忘れているようで、枕に顔をつけたまま、ん?  と眉をひそめてみせた。


「……そうだったか?」

「わたしが止めようとしたのを……あなたに、阻まれました」

「ああ、あれは…………すまない、確かに面白がっていたな。ロイがどう出るか、楽しみだったんだ」

「……公爵が?  どうして」


またも思っていなかった人の名を告げられ、今度はソフィアが眉をひそめる。披露宴でのあの一幕、ソフィアは狂犬公爵がどのような面持ちでいたか覚えていない。あの時は、ひたすらアイリーンの心配と国王への恐ろしさだけに囚われていた。


「言っただろう。あれは昔から、物事に執着しないんだ。だというのに、君の姉君にだけはそうもいかない。彼女が窮地に立たされれば、あれがどう動くのか見ものだったし……実際、いいものを見せてもらった」


ぽかん、と開いた口が塞がらない。
レオはソフィアの呆けた顔に、ばつが悪そうに視線を逸らしてしまった。


「こ……公爵の反応を見るためだけに、あのとき、わたしを止めたのですか……?」

「悪かったよ。国王としてあの場を諌めるべきだったが……興味心が、勝ってしまった」


身体じゅうの力がどっと抜け切る感覚がした。

予想外すぎる答え合わせに、ソフィアは思考がついていかない。寝台の上に座ったまま、つい、思ったことがそのまま口をついて出る。


「……わた、しは、てっきり……貴方が同盟を打ち切って、再び戦争に持ち込むつもりなのかと……」

「……そんな事を考えていたのか。私も随分、信用されてないんだな」

「だって!  ……今は、ちがいます……」


元敵国で、ひと月前に出会ったばかりの国王を、むやみに信用しろと言う方が難しいだろう。ソフィアの消え入るような声に、レオはふ、と吐息で笑ってみせた。緑の瞳は、すでにいつもと変わらない穏やかさをたたえている。


「すまない、意地の悪いことを言ってしまったな……ソフィア、今日はもう休もう」

「はい」

「ああ、それから……私は君たちの母国について、何かしようとは思っていないよ。そりゃ、向こうが何か仕掛けてきたら別だろうが……平和に同盟が結べているなら、それに越したことはない」


……信用しても、いいのだろうか。

布団へ入り、ソフィアはこの頃、癖のように彼の胸へともぐり込む。それは自分を演じるためーー便宜上 彼を誘うためであったが、深く息を吸い込むと、森の木々のような落ち着く匂いがそこにはあった。


……信じたい。
でも、まだ怖い。
私の秘密は握られたままだ。
世継ぎだって一度も求められたことはない。
でもレオは……私のことを、身内だと言った。

そうだった。彼は初めから、ソフィアのことを王妃だと、妻だとずっと言い続けてきた。今になってその言葉たちが、ソフィアの胸で反芻される。


「レオ、キスしても?」


いつものように、王妃としてそれを聞く。
普段ならとりつく島なく遮断される問いかけだったが、今日に限って彼はううん、と視線を逸らした。


「……今日は悩むんですね」

「誕生日だからね。贈り物プレゼントがあってもいいだろうし、あんな事のあとで慰めてほしい気持ちもある」


指摘すれば、いたずらっぽい視線を返される。
男女のことに慣れているのだろう。その言葉はいやらしさを感じさせず、まるで少年のような雰囲気さえある。取り繕ったソフィアとは真逆の、自然な口調だった。


「うん。してもらおうかな……君が嫌でないのなら」


レオは両腕をゆるく大きく広げた。待ち構えて、片眉を上げ、意地の悪い笑みを見せる。

ソフィアは上体を腕で起こして、彼の顔を覗き込んだ。緑の垂れ目が楽しげな色でソフィアを見上げて、彼女はゆっくりと近づいた。


鼻先がちょん、と触れ合う。

それだけで、なぜだか心臓がとくとくと音を立てていた。初めての夜も、自分だけが蕩かされていた期間も、緊迫した食人獣との対面や先の伯爵とのやりとりでも、こんな風にはならなかったのに。


「真っ赤だな」

「言わないでください」


身体じゅうに、心臓から送られた熱が溜まる。
太陽のようにあたたかく、どこか明るさをはらんだ熱だ。不快には思わず、ソフィアはそのまま目を閉じて唇を重ねた。


ふれて、はなれて。
もう一度、ふれて、はなれる。


レオは一切動かなかった。目を開けると、うっすらと笑みを浮かべてソフィアを見ている。底意地が悪いような、それでいて優しいような微笑みに、ソフィアはまたキスをした。

触れるだけのキスを続けて、それから少し、舌先で唇を舐めてみた。それでも彼は動かない。


「……レオ?」

「結構な、破壊力だな。こんな風に焦らされると……」

「ご冗談を」


ーー慣れているくせに。

反論しかけた厚い唇をまた塞ぐ。
今度は開いていたから、そっと舌でうかがうように入り込んでみる。男はやはり手慣れていて、ソフィアの調子ペースに合わせながら、ゆっくりと舌を絡めとった。


きもちいい。
きもちい、い。
前はこんな風だったかな。
どうだったろう、おぼえてない。


しばしくちづけに熱中する。すうすうと吸いつくような柔らかな唇に、強引さのないとろけた舌。お互いの唾液がまざって静かに音をたて、遊ぶようにちゅる、と吸ってみる。すると彼も真似をして、ソフィアの舌を優しく吸った。下唇を甘噛みすれば、また真似をして甘噛みされる。


「ふふ……っ」


……たのしい。言葉のいらない応酬は、こんなにも面白いものだったろうか。もう少し、もうすこしだけ、そう思いながら、ソフィアは唇を離さずにいたがーー


こんな風に、側妃とも舌をあわせるのだろう。


不意に重い鐘の音が、遠いところから数回響く。
日が変わったらしい。ソフィアは唇を静かに離した。暗がりで、緑の瞳がソフィアをやさしく捕らえている。その視線から逃れるように、ソフィアは布団へと身体を潜らせ、背を向けた。


「おしまい?」

「はい」

「そう。おやすみソフィア、良い贈り物をありがとう」


平然と言ってのけ、レオはそれ以上を求めなかった。分かっていたことなので、ソフィアもさしたる感情はない。

女としては、求められていない。
それを求められるのは、きっと側妃たちなのだろう。

ソフィアが王妃らしくあろうとするように、彼もまた、夫らしくあろうとしているのかも知れない。そう思えばいつもは安堵するのに、今夜は妙に胸がきしんだ。


「……おやすみなさい」


私には、これでいい。
この距離感で充分だ。


さみしさや、物足りなさは感じなかった。
これでお飾りの王妃が続けられるなら、なんだっていい。ソフィアの一番大切な部分は、依然としてアイリーンやミルタが占めている。ただーー


細い指先で唇をなぞる。

唇に、舌に、身体のなかに、まだ彼の感覚が残っていた。陽の光のような熱や、舌先のぬめった心地よさ。触れた部分などわずかなのに、それらが身体を蝕んでゆく。


不快でないのが、不愉快だった。


大切なものを見誤りたくない。
私には故郷を、そしてアイリーンを守り続ける使命がある。そのための王妃という立場だ。脅かされてはならないからこそ、彼に媚び売って仕えてやるのだ。


ソフィアは何度も言い聞かせる。
そのあいだ、身体に残った感触はどうにも消えてはくれなかった。


しおりを挟む
感想 15

あなたにおすすめの小説

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

赤ずきんちゃんと狼獣人の甘々な初夜

真木
ファンタジー
純真な赤ずきんちゃんが狼獣人にみつかって、ぱくっと食べられちゃう、そんな甘々な初夜の物語。

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

処理中です...