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Ⅲ.夏の章
35.前夜
しおりを挟むその晩、閣下は早くに帰ってきた。
この1週間では無かったことだ。
明日から始まる生誕祭に向けて、今日は早めに解散したのだと夕食どきに教えてくれた。国内外の賓客や観光客が集まるこの祭典は、騎士や軍人にとっては一年で一番忙しい行事なのだという。
食事を終えて風呂に浸かって、痛む足をかばいながら寝室へ向かうと、すでに閣下は寝台に入り、上体だけ起こして洋燈の明かりで書類を読もうとして……かくん、と船を漕いでいた。
ーーうわぁ……寝てる。初めて見た。
正確には寝かかっているのだが、どちらにせよ珍しい。前髪を下ろし、長い睫毛が影を作り、うっすら唇が開いていて、その姿は若々しかった。……と言うと語弊があるが、とにかくいつもの閣下は威圧感が強すぎて、若いと思う暇すらないのだ。
こうして見れば、悪くないな。
整ってるし綺麗な顔だ。男っぽいけどすらっとしてて、なんだか上品な彫刻みたい。いつもこうして穏やかなら良いのに、そう出来ないのは立場上かな……。
公爵であり、軍長でもある閣下の苦労は計り知れない。年齢よりも重い立場と責任を持って、その顔つきはいつも厳しく、笑ったとこなど見たこともない。そんな閣下の寝姿に見惚れたアイリーンは、それをすっかり忘れていた。
「ッ……!! ぁ、ぐぅ……ッ!!」
痛い、めちゃくちゃ痛い!
肉刺を忘れてしっかり左足に体重をかけてしまった。結果、強烈な痛みが走ってアイリーンは悶絶する。左足を浮かせて取って、片足立ちでうずくまりながら震えていると、ぐぐ、と何かの音がした。……なんの音だ?
「……おい、なに素っ頓狂なことしてやがる」
ーーああ、起こした。俺の馬鹿……!
痛みに顔もあげられないまま、彼女はなんとか声を出したが、踏みつけられた蛙のような声しか出なかった。
「んぐっ……すみ、ません……ちょっと、肉刺を潰しまして……お気になさらず……っ」
「肉刺? ……練習でか」
寝起きのくせに頭が回る。
気にするなと言っているのに、閣下は寝台から抜け出すと、足早にアイリーンの側にきて細い身体を持ち上げた。そのまま肩に抱えられ、丸太か荷袋のように運ばれる。
「え、え、閣下?!」
「うるせえ喚くな。見せてみろ」
「や、ちょっと待って……!」
ばすん、と遠慮なく寝台へ降ろされ、かと思うとかかとをぐいと持ち上げられた。寝衣の裾が大きく開いて下着が見えてしまいそうで、アイリーンは咄嗟に上体を起こしてスカートを押さえる。
閣下は右、左と順番に足の裏を見た。その動きは武器の点検でもしているような正確さで無駄がない。
「……てめえは馬鹿か。こんな足で練習しやがって」
「こうなってからは練習してませんっ……」
「当たり前だ。普通は潰れる前にやめるんだ。痛みを庇うと違う場所に出来るだろうが馬鹿かてめえは。考えて動け」
反論の余地はわずかもない。
落ち込むアイリーンをよそに、閣下は左足を長く見ていた。そうじっくり見られるような場所でもないので気恥ずかしくなる。
しげしげと観察された後、閣下はようやく口を開いた。
「……左は重心が内に偏りすぎだ。それから回転はもう少しつま先を意識しろ。つま先が使えてねえから指のつけ根にでけぇのが出来るんだ」
「分かるんですか?」
「……重心移動は基礎中の基礎だ。何においてもな」
だからと言って肉刺を見ただけで分かるのだろうか。でも閣下に言われたことは、アイリーンが先生に言われた注意と重なっていた。つまり、的確だ。
アイリーンは呆然とした。
まさか閣下が自分に助言をくれるなどとは思っていなかったし、またそれが的確であることにも驚いてしまう。最近はあまり意識していなかったが、こういう所を見るにつけ、やはり閣下は凄いのだなぁと思い直す。
「薬は?」
「……あ、はい、ここに」
「貸せ」
ぼんやりしていたアイリーンだが、問われてまだ塗っていなかったことを思い出した。と同時に、手に持っていた軟膏入れは奪い取られ、片手で蓋を開けられる。
「ッ閣下! 自分で塗りま……いぃッ……!」
「避けるな、我慢しろ。隣でゴソゴソされたらこっちが寝れなくなる」
「っ、そん、な……つうっ……!」
また訳の分からない理屈をこねて、閣下の指がアイリーンの傷口に触れる。鋭い痛みがはしって彼女は足を引こうとするのに、閣下の掴むかかとはびくともしない。
細長い指は丁寧だった。力を加えず傷に触れて、痛みを最小限にとどめてくれる。だから、その指がほかに当たるとアイリーンは途端にくすぐったさに身をよじらせた。
「ぐっ……ひぁ、あんっ……」
「なんて声出してやがる」
「だって、こしょば、あぅう……ッ!」
「堪えろ、てめえは敏感すぎる。この前といい……」
それ以上を言わない閣下に、アイリーンの目に涙が浮かぶ。
そんな風に言われては、脳裏にはあの事しか思い浮かばず、閣下もおそらく同じことを考えている。
あの春の日、裸に剥かれて身体中を優しく撫で回されたあの朝のこと……ひと欠片でも思い出せば、アイリーンの思考が鈍り、裏腹に感覚は鋭くなってゆく。
「あ、ぁぐっ、いたい、閣下……ッ、うぅん……!」
痛みとくすぐったさが交互に襲い、その都度あられもない声があがる。どちらも彼女をひどくいたぶり、次第に垣根があいまいになる。身体は熱く、瞳はうるんで、アイリーンはただ堪えるしかない。
「ひぅ……っ、うン……!」
「終わりだ、さっさと寝ろクソガキが」
アイリーンがくたくたに疲れ果てたころ、閣下は薬を塗り終えた。
きっと短い時間だったが、アイリーンにとっては今日1日よりも長く感じた。
「はい……手間をとらせて、すみませんでした……」
……なんでオレが謝ってんだよ……!
ぼやけた頭でそれ以上は考えられず、アイリーンは布団に潜った。閣下もまた布団に入り、洋燈を消して暗闇になる。
暗がりの中で隣を見ると、次第に目が慣れてきて、閣下が影となって見えた。形の良い額、すらりと弓を描いた鼻、薄い唇や固くとがった喉仏が、暗闇に濃く浮かび上がってーー
「…………閣下……」
アイリーンは初めて、閣下の方へと寝返った。
普段ならできないことだった。閣下と身体が近くなり、心臓が跳ねて、耳元でどくどく唸っている。ふたりの間にはまだ一人分の空間があるが、身体を傾けるだけでこうも違うとは思わなかった。
思い出すのは、昼間の会話だ。
先生に言われたあの一言は、あとからあとから彼女のどこかを苦しめ続けた。身体の奥がむず痒くって、どうにかしたくて閣下を呼んだ。
アイリーンが緊張で張り詰めるなか、閣下は身じろぎすらしなかった。影になった唇だけが、正確に、冷淡に動く。
「なんだ」
「……おや、すみ……なさい……」
「……ああ」
……ほら、やっぱり。
アイリーンは、自分でも気づかないうちに落胆する。
閣下はいつも通りだった。
アイリーンが隣で声をかけても、彼の横顔を見ていても、彼はきっと、すこしも何も変わらない。
すぐ触れられる近さにいるのに、閣下はいつも理由がなければ、アイリーンには手ひとつ、指一本すら触れなかった。今宵またその事実を確認して、アイリーンはうつ伏せになる。
…………やっぱりオレのことなんて、生意気なクソガキとしか見ていない。当然だ。誰がこんな、男みたいな女を好きになるんだ。口調は荒いし、すぐカッとなるし、髪だって短いこんなヤツ、俺が男だって願い下げだ。
閣下はただ国のために、オレを妻にしたに過ぎない。オレだってそうだ。国のため、家族のために閣下と結婚したに過ぎない。
だからやっぱり、おかしいんだ。
オレが閣下を好きになることも、閣下がオレを好きになることもあり得ない。勘違いしちゃダメなんだ……
アイリーンに説明のつかない頭痛が襲う。
勘のいい閣下に気づかれないよう、彼女は布団に潜り込んだ。眠ろうとすればするほど、痛くて息苦しくて眠れそうになかった。
閣下のことは尊敬してる。
優しいことも知っている。
でもこの想いは恋じゃない。
オレは閣下を好きなんかじゃない。
閣下にとっても、そんな想いは迷惑なだけだ。
オレは閣下に、迷惑だなんて思われたくない……!
オレは閣下を好きにならない。
閣下もオレを、好きにはならない。
「……っ……」
アイリーンの隣から、静かな呼吸が聞こえはじめていた。本当に疲れているのだろうし、明日からはもっと目まぐるしくなる。絶対起こしたくないと、アイリーンは息を殺して飲み込む。
赤目を閉じて、痛みを見過ごして眠るふりをする。そうすればいずれ朝は来る、とアイリーンは知っていた。
生誕祭は、明日から。
蒸し暑く、ひどく寝苦しい夜だった。
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