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Ⅲ.夏の章
34.前日
しおりを挟む舞踏会の練習は今日が最終日だった。
先生ーーヨーデリッヒも軍人であるため、生誕祭の期間中は警護に当たるそうだ。ようやくステップも身体に馴染んで、先生のリードに慣れ親しんだアイリーンはその事を残念に思っていた。
「そうそう、いい感じっす。じゃあこれは?」
「お、お、おぉ……!」
「そう! うまい!」
変則的なリードにも、勝手に身体が動いてゆく。ダンスは相手との交流だった。先生の目や手や足が、言葉を交わさずともアイリーンを導いてくれる。
踊れば踊るほど、相手のことが分かるような、自分のことが暴かれていくような感覚に落ちる。それは決して不快ではなく、むしろ清々しい快感だった。
相手と自分がぴたりと一致した時、アイリーンの身体はどこかへ昇っていくような浮遊感に包まれる。
「一旦休憩しましょう! 次はアダージオで」
「はーい……あぁ、あっついなー……!」
「お疲れさん。飲みもん冷やしてるよ」
エメが自鳴琴をとめて、冷やした炭酸水を渡してくれた。夏の暑さは暴力だ。喉から食道へつたってゆく炭酸水が生命の水のように思えて、アイリーンはほぅ、と息をついた。
「うっめぇー……!」
「だいぶ動けるようになったねアイリーン。腹立つけど、もうあたしより上手くなってるよ」
「ウソだよ! んなわけ……」
「いやいや、ほんと上手になりましたよ奥様。いやぁ、俺の指導の賜物っすねー」
「ホントにね。軍なんて辞めてダンス講師になったらいいんじゃない?」
「姐さん、それは笑えないっす……」
がくりと肩を落とす先生を横目に、アイリーンは左足を見た。見た目には何も変わらないが、どうやら足裏の肉刺が潰れたらしく、さっきから焼けるように痛んでいる。動いていれば忘れられるが、休憩するとその痛みは却って増した。
「……アイリーン、足、痛むんじゃないのかい?」
「う……はは、エメ…………なんっで分かるんだよ……!」
「あんたの世話係もそろそろ半年だからね。そうでなくても、あんたは分かりやすいんだから」
「ええ、奥様、大丈夫っすか? 今日はもうやめときましょうか?」
あああ、こうなるから、内緒にしときたかったのに……!
どれだけふたりに褒められても、アイリーンは不安だった。
そもそもふたりは案外アイリーンに甘いため、その褒め言葉は当てにならない。加えてこの状況では他者が介入しないため、彼女は他の女性のダンスを一目も見たことがない。どれだけ上手いと褒められた所で、こんな事では井の中の蛙だ。
それにどれだけ上手くなろうとも、それは先生相手の話だ。本番の相手は閣下であるが、忙殺されている閣下とは一度も音を合わせたことがない。慣れない相手であるならなおさら、自分の付け焼き刃な技術が通用するとは思えなかった。
したがって今、アイリーンには不安ばかりが募っていた。
「うわぁ……こりゃひどいね。あんた、こんなになってまで踊ってんじゃないよ」
「っすね……奥様、今日はこれでやめときましょ。こんな足で、俺がわからないくらい踊れてんだから、もう充分っすよ」
「……いや、もう少し……頼むよ先生。もうちょっと練習しときたいんだ」
たしかに靴を脱いだアイリーンはひどかった。
左足は前に潰れた肉刺と合わせて、4つ潰れて血にまみれている。さらに左足をかばいながら踊ったためか、右足の肉刺も1つ潰れていた。
思った以上の凄惨さで、アイリーン自身も腰が引ける。
それでも、彼女の意欲は変わらなかった。とにかくわずかでも上手に、少しでも閣下に負担を掛けないように踊りたい。そのためには練習が不可欠だ。
ふたりの説得に応じない彼女に、エメは呆れ顔だった。
「あんた、なんでそんなに」
「だって……アダージオは苦手だし、それに……オレが下手だと、閣下に迷惑がかかるだろ? な? もうちょっとだけ!」
「……やめときなって。これ以上すれば、かえって足を悪くするよ」
「エメ~、先生、頼むよぉ~!」
「聞かん坊だねあんたも!」
「……奥様って案外ちゃんと……軍長のこと好きっすよねー」
それまで静観していた先生が、急にそんな事を言うものだからアイリーンは咳き込んでしまった。喉の奥に唾液がつかえて、呼吸がうまくできないから顔が赤くなってゆく。
「……ッ先生なに言って……!」
「いやね、ずっと思ってたんすよ。政略結婚で軍長はめちゃくちゃ怖え人だし、奥様になる人は可哀想になあって。
でも奥様って、軍長が倒れたら甲斐甲斐しく世話するし。いまも熱心に練習してるし。……それって軍長のためなんでしょ?
なーんか普通の政略結婚と全然違うから。いや正直、うらやましいっす。俺もそんな嫁さんがほし
だっ!
……ってー、エメ姐さん、なんすか?!」
「ちょっと黙んな。喋りすぎ」
ごん、とエメが鉄拳を食らわせて先生を黙らせたが、アイリーンはそれどころではなかった。とにかく顔も身体も熱くて、いますぐ走って逃げ出したい。
ちがう……ちがう、違う、違う違うちがうっ!!
好きとかそういう事じゃない! たしかに仕事熱心で、思ったほど横暴じゃなくて、そりゃ尊敬もしているが! それに俺の赤目を気にせずいてくれて、案外優しいところもあって、口は悪いのに結局俺の意見を通してくれたりすることもあって……
でも相手はあの閣下だぞ!
天下無双、大陸随一……無比無類残虐無情冷酷非道の狂犬公爵! 強くて怖くて、痛いことだって何度かされた! それに閣下もこんな小娘、なんとも思ってないんだから!!
……とにかく閣下に好きとか愛とか、そんな邪な気持ちなんてありえない、考えられない無理無理無理!!!
先生は頭おかしくなったのか!
いやなったんだ!!
先生は頭おかしいんだ!!!
「……リーン、アイリーン!」
「っは、はい!!」
「んもう、帰るよ。今日からとにかく足を休めな。どうせ今更ジタバタしたって仕方ないんだ。それより、1週間後の舞踏会に合わせて傷を治す方が大事なんだから。いいよねヨーデル」
「いっすよー。5ヶ月間お疲れ様っした。案外楽しかったっす」
「う、う、うん……先生、ありがとうございました……」
「当日はとにかく気負わないで、楽しんできてくださいね」
先生は最後に教師らしい言葉を告げて、アイリーンとエメに手を振った。今日で最終日だというのに、アイリーンは混乱して、先生にきちんと感謝の言葉を伝えられなかった。
しかし何とも軽い別れで、先生ーーヨーデリッヒらしい終わり方だ。これで良かったのかも知れないと、アイリーンは自分に言い聞かせた。
休憩したはずの足は、それでも歩くとズキズキ痛む。
部屋に戻ると、エメが医師から塗り薬を貰ってきてくれた。なんでも朝昼晩と1日3回塗るらしく、アイリーンはさっそく足に塗ってゆく。
「ぐふ……いっ……!」
「なんで笑いながら痛がってんのさ」
「だってエメ! 足の裏ってこしょばいんだぞ!」
「分かるけどさぁ……あんたホントに痒がりだねえ。苦労するよそんなんじゃ」
もう苦労なら沢山してる!
そんな風に思いながらも薬を塗って、アイリーンは少し休んだ。先生の言葉を思い出すと、むずむずと、足だか心臓だか分からない場所がうずいていた。
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