アイリーン譚歌 ◇R-18◇

サバ無欲

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Ⅰ.冬の章

07.痛みと光

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※痛い表現あり※




激しい頭痛に襲われていたアイリーンの頭は、突如、静寂した。


……あつい。
いや、痛いんだ。
まぶしい、何が起こった。
自分は今、どうなっている。


「クソガキが……犬みてぇに喚きやがって」


鋭い破裂音がして、もう一度、今度は反対側の頬に熱が走った。目の前がひどくまぶしく、両頬がビリビリ痛んでアイリーンは床を見る。


……


黒い革靴が目に入り、ゆっくりと視線を起こすと正面には黒い影が立っていた。背はさほど高くなく、想像したよりずっと細くておよそ軍人らしくない。しかし、正装用の黒い軍服を身にまとっていて、その胸には数々の紀章が並べられている。

すらっと曲線を描く顎に、薄く固そうな真一文字の唇。まっすぐな鼻梁と形のいい額。艶やかな黒髪の隙間から、切れ長で冷涼とした銀の瞳が彼女を見下ろす。整った眉はなんの動きもない。


思ったよりも、恐ろしさはない。
端正な、でも神経質そうな面立ちをしている。

……30歳だと言っていたか。


「公爵夫人が聞いてあきれる……おいアイリーン、お前の亭主はどこのどいつだ」

「……あなた、です。ロイ公爵」


男は冬の月のような銀色の瞳だけが鋭く輝き、その視線だけで射殺されてしまいそうだ。瞳の下には濃い隈があり、それだけが男を人間らしく見せていた。

その薄い唇が綺麗に動いて、氷のような声がふたたび響く。


「なら公的な場での汚ねぇ物言いは慎め。俺は駄犬を飼うつもりはない。分かったな」

「はい……」

「いい子だ」


今度は男の手が伸びて、その親指がぐり、とアイリーンの左口角を撫でる。離れた指には真っ赤な血が付いていて、公爵はその血をぺろりと舐めとると元の席に戻った。どうやら、口の端が切れたらしい。


「ロイ、お前の行動も公爵としては相応しくないな。場を悪くしてしまったことは私が謝ろう。みな、宴を続けてくれ」


悠長な国王の言葉が響き、音楽隊が再び楽器を鳴らし始めた。大司教はほかの聖職者に連れられて高砂を降り、アイリーンは呆然と、座ってその様子を見守った。


……あ、いけない。目隠しはどこだ。


視線を左右に見渡すと、高砂の端に黒く細長い布が落ちていた。あんなところまで飛ばされたのか。せわしなく離席を繰り返すのはよろしくないと分かっていたが、アイリーンは腰を上げる。しかしその手を公爵が取っていたため振り向いた。


「おい、どこへ行く」

「あの……目が……」

「隠すんじゃねえ薄気味悪い。それに汚ねえだろうが。いいから捨てておけ」

「っでも……」

「俺の言うことが聞けねぇのかアイリーン」


この人の声はどうしてこう、いちいち場に響くのか。音楽が鳴っていても周囲は耳をそばだててふたりのやりとりを聞いているのに。銀の目はアイリーンをやたらまっすぐ見ていて、その場から動くことを許してくれそうにはない。

先程手酷くやられたアイリーンは、彼に従うほかなかった。


「……はい、閣下」


大人しく席に着けば公爵の手と視線が離れ、アイリーンは前を見据えた。この国へ来て初めて見る美しい王宮と貴族たちの姿は、まるで絵本の挿絵のようにきらきらしい。

しかし彼らはアイリーンを蔑みの目で盗み見て、かといって視線を合わせればすぐさま避けられた。これが彼女を見た者の普通の反応なので、アイリーンは面倒になり視線を落とした。

目線の先、薬指には、結婚指輪が光っていた。
土台は光を通さない黒色で、中央にひとつ、鮮血のように赤い宝石が嵌められている。夫の髪色を土台に、妻の目の色の宝石をつけた結婚指輪は、昔ながらの伝統だった。


……綺麗だと思う、宝石ならば。


「……っ」


左の口角に痛みがにじんで、舐めると鉄臭い血の味がした。不味いのによく舐められたものだと思う。両の頬はまだ痛いし、きっとこんなぼろぼろの花嫁は、世界中どこを探したっていないだろうとアイリーンは苦笑する。


それでも、頭痛はおさまっていた。



***



「見てたよアイリーン。随分派手にやられたね」

「あはは、エメ。お前の上司は怖えな」

「笑いごとじゃないよ、ったく……はいこれ。頬に当てときな」


披露宴を終えたアイリーンは私室に戻り、エメに渡された冷たい布巾を両頬に当てた。痛みと熱が和らいで心地よく、当てているうちにエメがアイリーンの服を脱がせてゆく。コルセットもないから、アイリーンはすぐ裸になった。


「風呂も沸かしてるからそのまま入んな。夜まで時間がない、大急ぎで準備するよ」

「う、うん分かった」


そう言えばエメの顔も初めて見る。
濃茶の髪はひっつめてまとめ、そばかすのある白い肌。金に近い黄色の三白眼はつんと釣り上がって想像通りだが、いかんせんかなり若い。両腕で胸を隠しながら、アイリーンは疑問をそのまま口に出した。


「エメって、いくつ……?」

「は?  ……18だけど」

「はぁっ?!  なんだよ、ミルタとおんなじかよ!  オレてっきり……」

「失礼だね。あたしもその頬ぶってやろうか」


軽口を言われ、笑いながら風呂へ入ると身体が緩んだ。ついでに布巾も温まってくると、すぐさま冷たい物に変えられる。短い髪を解かれ、指先や足先に香油を塗られ、アイリーンはそのせわしなさに目が回る。

今まで見えていなかったものが見えるのは面白い。
エメはその経歴や口調から、もっと強そうな30代くらいの女性だと勝手に思っていたが、実際の姿は小さくてとても綺麗な人だ。これで食人獣退治にも参加したと言うのだから驚いてしまう。

風呂での準備は終わったのか、エメは風呂場のドアを開けたまま、脱がせた衣装の片付けに取り掛かった。自分の脱いだドロワーズが人の手で片付けられるのは、いつ見ても申し訳なくなる。


「あ、エメ、待って……」

「ん?  なんだい?」

「それ、ちょっと見てみたかったんだ。悪いけどこっちに持ってきてくれないか?」

「……少しだけだよ、湿気ちゃ困るからね」


まるで保護者のような言い方をして、エメはそれを持ってきてくれた。香油が馴染んで甘い香りのする指でそれを撫でると、覚えのある感触がすり抜ける。本当にこれを、今の今まで着ていたのか。


「……きれい、だな……」

「だから、最初っから言ってんだろ」


夜を統べるような、婚礼衣装。


見るまでは想像もできなかったが、見てしまえばこれはこれで悪くないと思えた。自分が着た姿は鏡を見なかったために分からないが、この衣装自体はとても良いものだ。それに締め付けもほぼなくて、長丁場だった式典の最中も体調も崩さなかった。一度ひどい頭痛がしたが、それはまた別の問題だ。


あの人は、何を思ってこれを作らせたのだろう。


銀色の目を思い出して、両の頬にじんわりと痛みではない熱が灯る。その熱の正体が何なのか分からないまま、アイリーンは風呂を出た。身体はほぼ自分で拭いて、今度は全体に薄く香油が塗られてゆく。


「あははっ、エメ、やめてぇっ!」

「あんたはやたら敏感だね。いいから堪えな。もうちょっとだよ」

「うんっ……だっあ、駄目だ無理無理!  きゃあ、こしょばい!」

「逃げんじゃないよ!  もう!」


苦労してなんとか全身に香油が塗られ、アイリーン自身から甘い香りが匂い立った。エメに聞けば百合の香りだと答えられ、ああ確かにと思い出す。これはあの人が好きな匂いだろうか。
 

アイリーンは次第に緊張してきた。
この後のことは、知識としては学んでいる。しかし心の準備などいつまで経っても整わない。あとはもう、なるがままに任せるしか無いのだろう。

短い髪はすぐ乾き、唇に軽く紅が差される。先ほど血を流した場所はすでにもう固まって、触らなければ痛みもなかった。頬も落ち着き、アイリーンは部屋を出る直前、大きな鏡で自分を確認した。


「うん……いい出来だ」

「ありがとうエメ」

「あんたのその目、綺麗だよ。大切にしな」

「……うん……」


全身を淡く上気させた寝衣ネグリジェ姿の子供が、赤い瞳でまっすぐにこちらを見つめていた。自信もなく、拒絶もなく、不安の色しか映さない揺れる瞳を、エメは家族のように褒めてくれた。


「行こう、エメ」

「はいよ」


心を決めて、アイリーンは自分の部屋の扉を抜ける。エメに従い付いていくが、その部屋までは存外遠く、夜の廊下はアイリーンの身体を冷やした。


部屋が遠い理由はエメが教えてくれた。

曰く、アイリーンの今までの私室は客間であり、今後は夫の隣に部屋を移されるらしい。あの神経質そうな公爵の隣では、今までのように騒がしく笑ったりは出来ないだろう。アイリーンはたった1ヶ月過ごしただけの、ほとんど見もしなかった部屋に哀愁を感じた。

すれ違う使用人達はアイリーンの目隠しをしない姿を見て、固まったり小さく悲鳴を上げたりしていた。公爵はああ言っていたが、やはり目隠しは必要だろう。新しいものを用意してもらえるか、できれば今夜聞いてみよう。


王宮の奥まった静かな場所に、公爵の部屋は位置していた。エメが扉を叩く前に、アイリーンに耳打ちする。


「ここからは、あんたひとりだからね」

「うん」

「緊張すんな……って言っても、相手があの軍長じゃ無理な話だね。でもあの人は厳しいけど、悪いやつじゃないからね」


それは、何となくわかる。


エメは3回扉を叩き、アイリーン様をお連れしました、とはっきりした口調で告げた。大きな扉が開かれて、中から冷たい声が響く。


「入れ」

「はい」


アイリーンはひとりで歩み、ほの暗い部屋へと入り込んだ。扉は閉められ、黒い影が間近に迫り来る。


ふたりきりの夜が、始まろうとしていた。

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