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菜月の中学・高校編
冬のアルバイト
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「うっわー、すっかり寒くなったなあ。もう冬だぞ冬」
早朝、飛び込むように裏口からムーンリーフの厨房に入ってきた実希子が、菜月の姿を見て「おっ」と顔をニヤケさせた。
「今日も茉優と一緒にバイトか? 精が出るな」
「来年、東京へ行く旅費を貯めようかと思ってね。部活がない短い時間で雇ってくれるのは、身内の店くらいものだし」
すでに事情を知っている実希子は、手袋を脱ぎながら「そうか」と頷いた。
「一緒に東京の大学を受験するなんて凄いよね。
私たちじゃ考えもしなかったもん」
朝の仕込みを丹念にしながら葉月が言うと、それを手伝っている好美が唇を少しだけ歪めた。
「とにかくもう少しだけソフトボールがやりたい。それだけだったものね」
「その考えは私にもあるのだけれど……」
全員が合格できる可能性のある大学で、白球を追いかけるのも青春には違いない。
「でも、私は勉強も好きだから……」
「うわっ! 葉月、お前の妹は変態だぞ!」
「受験と名のつくものを、ほぼ推薦で通過した実希子ちゃんに言われたくないわ」
「おいおい。アタシだって高校の時は皆と一緒に受験したんだぞ!」
懸命に抗議する実希子を横目で見て、好美が少しだけ唇を歪めた。
「ギリギリのラインで、ソフトボール部の入部を条件に合格したようなものだったけどね」
「ぐう……好美もよく覚えてやがるな」
そして大学は類稀なソフトボール能力のおかげで、県大学から誘いがかかったのである。
「実希子ちゃんの実力なら、東京の大学からも声はかかったわよね。悩んだりしなかったのかしら」
菜月が尋ねると、配送時にも制服で出かける実希子は豪快に笑った。
「微塵も悩まなかったな。アタシはソフトボールは好きだけど、葉月たちと遊ぶのがもっと大好きなんだ。だから部活もやってたようなもんだったしな」
「実希子ちゃんらしいけれど、少し呆れるわね。はづ姉がサッカーをやりたいと言っていたら、サッカー部に入っていたのよね」
「おう!」
「……まあ、その場合でもやっぱり実希子ちゃんはゴリラみたいに活躍して、大学から推薦を貰っていそうだけれど」
運動神経が抜群とは言い難い菜月にとって、才能の塊のような実希子は羨ましい限りだった。
「ごく稀にいるのよね。何をやらせても人並み以上にこなせる人が」
学生時代は菜月と同様の立ち位置であっただろう好美が、大きなため息をついた。その気持ちが菜月にはよくわかる。
きっと彼女もそうだったからこそ、惜しみなく当時の経験を伝えてくれたのだろう。おかげで菜月のキャッチャーとしての技量は向上し、文字通り愛花や茉優をリードできるようになった。
「でもぉ、茉優には実希子ちゃんの気持ちがわかるかもぉ」
援軍というわけではないだろうが、意外にも茉優が実希子の考え方に理解を示した。
「茉優もねぇ、なっちーと一緒に遊びたかったんだぁ。それからソフトボールも好きになったの。だからねぇ、なっちーがサッカーをやってたら、きっとサッカーも好きになってたよぉ」
「あ、ありがとう」
どう返すべきか迷った挙句、菜月は親友にお礼しか言えなかった。
微妙な空気に困惑するも、年上軍団は揃って微笑ましそうにしていた。
「とにかく、残り少ない高校生活をもっと楽しめ!」
強引に結論付けた実希子が、女子にしては大きな手で菜月と茉優の背中を叩いた。
「バイトも結構だが、練習はいいのか? 春なんてあっという間に来るぞ。今日は振替休日なんだろ? 朝から晩まで練習するチャンスじゃないか」
「午後からはきちんと練習に行くわよ。だからバイトは午前中だけ。ついでにお昼ご飯とおやつをはづ姉――いいえ、実希子ちゃんから奢ってもらおうと思って」
「了解。
じゃあ、なっちーが買って行く分は実希子ちゃんの給料から天引きしとくね」
葉月が言うと、ここぞとばかりに好美も乗っかる。
「なら社員割増で倍額にしておきましょう」
「ああ、そりゃ助か――って待て! 普通、社員割引じゃないのか!? 何だ、倍額って! っていうか、どうしてアタシがなっちーに奢らなきゃならないんだ!」
うがーっと暴れ出しそうな実希子の服の裾を、菜月は小動物みたいにくいくいと引っ張る。
「奢って……実希子お姉ちゃん……」
振り向いた実希子に、上目遣いで甘える。
「ぐはっ! うう……ちくしょう! 好きなだけ持ってけ!」
「ということよ。茉優も今のうちに何を奢ってもらうか考えておきなさい」
「わーい。ついでに愛花ちゃんたちの分もお願いしようねぇ」
「おお……知らないうちにアタシの出費が増えていく……」
*
練習の途中で、菜月と茉優が持ってきた甘い菓子パンを皆で少しずつ摘み、糖分と体力を補給する。
「やっぱり、葉月先輩のパンは美味いよな。帰りに寄ってこうかな」
「結構買い食いしてるから、厳しい練習をこなしてるのに、あまり痩せないのよね」
そう言いながらも、涼子の提案に同意した明美は嬉しそうにクッキーパンを頬張っている。
昼休みにも売りに来るムーンリーフのパンは人気で、昇降口に並ぶ店の中でナンバーワンの売上らしかった。
「ですが、いつも差し入れしてもらって申し訳ないです」
「気にしなくていいわよ、愛花。今回は実希子ちゃんの奢りだから」
「それなら問題ありませんね」
「もっとありがたがって食ってくれよ!」
泣きそうな実希子の声が響く。
南高校ソフトボール部が全国大会の出場を決めてから、練習を手伝いに来てくれる頻度も増えていた。
「くそー、今度は美由紀先輩が奢ってくださいよ」
「実希子ちゃん、貴女……教員の給料を舐めてるの? 下っ端教師にそんな余裕があるわけないでしょう」
思わぬ答えだったのか、実希子が心から意外そうな顔をする。
「つったって、ほとんど家と学校の往復っスよね? 休みも部活の練習があるし、給料を使ってる暇なんかないと思うんスけど」
「甘いわね……」
美由紀がため息交じりに言う。
「二十代後半ともなれば、徐々に肌の張りが失われていくのよ。それを食い止めるための出費は膨大よ」
「すっぴんで十分っスよ。美由紀先輩綺麗だし……ってより、男いらないなら、綺麗にしとく必要もない――むぐっ!」
菜月たちが見守る前で、美由紀のアイアンクローが実希子に炸裂した。
「とことん綺麗になって、今度は私が男を弄んでやるのよ」
「ふぎゅ……ようしゅるに……おとこ、ほしんしゅ――
おぶぶ! いだっ! ぶぶぶ!」
「……さあ、皆。練習を続けるわよ!」
手を叩いた菜月の号令に、部員たちが「はい、キャプテン」と応じてくれる。
「ひょ、ひょんな……なっひー、たしゅけ……あぶっ」
今にも力尽きそうな実希子に背を向け、菜月は部員たちに練習を指示するのだった。
*
とっぷりと日も落ちて、闇に沈んだムーンリーフの店内では実希子が昼の出来事を皆に愚痴っている最中だった。
「本当に酷い目にあったぜ」
「皆が思っていても言わないことを、面と向かってはっきり言うからよ」
男なんてというのが美由紀の口癖だが、その裏で身近にイケメンがいたりすればこっそり張り切りだすのは、ソフトボール部員の誰もがわかっていた。
それで上手くいかないと様々な言い訳を並べた挙句、いつもの男なんてが始まるのである。
「高校の時はあんなんじゃなかったのになあ」
「何でも束縛が激しすぎて、当時の彼氏には逃げられたそうよ。どこから情報を仕入れたのか、この前、店に来た柚ちゃんが教えてくれたわ」
店に立つ機会がもっとも多い好美だけに、柚だけではなく様々なお客さんと世間話をしたりする。そのおかげでちょっとした雑学王みたいになっていた。
「ほー……やっぱり男は束縛を嫌うのかね?」
実希子が横目で見たのは、葉月の彼氏の和也だった。
「人によるだろ。俺は葉月になら束縛されても構わないしな」
「かーっ、相変わらずラブラブだな、こんちくしょう。さっさと結婚しちまえよ」
「……呑んでもいないのに、酔っ払いの中年男性みたいになれるなんて……実希子ちゃん、その年で女を捨てるのは早すぎるわよ」
「待て、なっちー! アタシは一度たりとも女を捨ててないからな!」
皆で笑い、一段落するといういつもの流れになる。
部活終わりに寄って商品を買ってくれた部員や茉優も帰宅しており、この場には社員と菜月だけが残っていた。
「それにしても……葉月の店がこんなに上手くいくとはな。
2号店の話も来てんだろ?」
店の財務を預かっている好美が、店長の葉月に代わって答える。
「ええ。ついでに銀行からの融資の話もね。どれも葉月ちゃんが乗り気ではないから、進めてないけど」
「乗り気じゃない? 何で?」
実希子がグリンと首を動かして葉月を見た。
「まだこのお店が出来て二年も経ってないのに、次のお店なんて気が早すぎだし、手が回らないよー。それにパンを置かせてもらえるお店は増えてるから、無理をする必要はないかなって」
「この通り、うちの店長は実希子ちゃんと違って堅実派なのよ。経営戦略担当としてはありがたい限りね」
「あはは。でも好美ちゃんなら、きっと実希子ちゃんがお店をやっても、ムーンリーフと同じように軌道に乗せてくれたと思うな」
「さすがに買い被りすぎよ」
周りからの肯定の視線に、謙遜する好美は戸惑い気味だ。
「それにどうにも妙な感じがするのよね……」
「妙って何がだよ?」実希子が問うた。
「裏で大きな力が働いてると言うべきかしら。スーパーにパンを置かせてもらう交渉にしても、あっさりと行きすぎなのよね。菜月ちゃんの好きな小説風に言うと、ご都合主義もいいところなの」
「……いつもみたいに春道パパや和葉ママが動いてるんじゃないのか?」
実希子の意見は、葉月と菜月が揃って否定する。
「さすがにパパにそんな力はないよー。昔、柚ちゃんとかの件はあったけど、あの時だって偶然に偶然が重なっただけだし」
「まあ、悪い影響はないから放っておいてるんだけどね」
「そうなのか。不思議なこともあるんだな」
*
ただの雑談程度で終わってしまったムーンリーフでの話を、夜にリビングでホットミルクを飲んでいた菜月はふと思い出し、横にいた春道にもしてみた。
一緒に聞いていた和葉は怪訝そうにしていたが、春道はすぐにピンときたような顔をした。
「え? もしかして、パパがこっそり葉月を手伝ってくれてたの?」
お風呂から上がったばかりの葉月が、バスタオルで髪を拭きながら驚きの声を上げた。
「まさか。ただ……そうだな。あくまでも俺の推測でしかないが、パパの力といえばそうなんだろうな」
「……まさか謎解きみたいな答えがくるとは思わなかったわ。勿体ぶらずに教えてくれてもいいのではないかしら」
菜月の抗議に、春道は苦笑しながら後頭部を掻く。
「はっきり言おうにも確証がないんだよ。ただ葉月を裏から見守ってて、こっそり力を貸しそうな人物となれば、心当たりは少ないからな。泰宏さんは何もしてないんだろ?」
春道に確認された和葉は「ええ」と頷く。
「頼めば力を貸してくれるだろうけど……」
「そうなればやっぱり該当するのはあの人かな。まさかとは思ったが……義理難いというかなんというか……きっと、ずっと葉月をこっそり見守ってたんだろうな」
「ずっと……? もしかして春道さん……」
「……何回も言ってるが、証拠も自信もない。ただ、俺がそう思っただけさ。返せなくなった恩を、ここで返してるのかなってな」
「恩? パパとママが何を言っているのか、私にはさっぱりだわ」
飲み終えたホットミルクのカップをキッチンへ置きつつ、菜月は肩を竦めた。
「で、当のはづ姉には心当たりがあるの?」
「うーん……それが……実はよくわかんないんだよねえ」
「ちょっと……」
こめかみをヒクつかせる菜月に、春道が大笑いする。
「まあ、いいじゃないか。俺の推測が当たってたとしても、どうせ足跡なんか残してないさ。そうならとっくの昔に……いや、やめておくか」
発言を途中でやめてから、春道は真剣さを表情に宿した。
「もしかしたら葉月は自分の力だけでと思うかもしれないが……」
「大丈夫だよ、パパ」
春道の言葉を遮るように、葉月は満面の笑みを浮かべた。
「開店できたのだって好美ちゃんのおかげだし、軌道に乗ったのも実希子ちゃんたちが手伝ってくれたからだもん。店をやってみて思ったんだ。自分の力だけで出来ることなんて限られてるんだなって」
「フフ……いつの間にか葉月も立派になったわね。私たちが教えられることも、もうないわ」
ほろりときた和葉が目元を押さえる。
「それでも葉月は俺たちの娘だ。困ったことがあったら、何でも相談するんだぞ」
「うん……それじゃ、パパが言うその人にお礼を言いたいかな」
「……わかった。後で連絡を取ってみるとしよう」
春道は葉月の要望に頷いてから、
「ただ店が上手くいってるのは、その人の力だけじゃない。好美ちゃんの経営手腕も、実希子ちゃんの人懐っこさも、和也君の人徳もそうだが、葉月の頑張りだってあるんだ。そのことを忘れるなよ」
と、優しく愛娘の頭を撫でた。
「……うんっ!」
嬉しそうに葉月は返事をし、そのまま高木家のリビングでは普段より少しだけ遅くまで、家族揃っての談笑が続けられた。
早朝、飛び込むように裏口からムーンリーフの厨房に入ってきた実希子が、菜月の姿を見て「おっ」と顔をニヤケさせた。
「今日も茉優と一緒にバイトか? 精が出るな」
「来年、東京へ行く旅費を貯めようかと思ってね。部活がない短い時間で雇ってくれるのは、身内の店くらいものだし」
すでに事情を知っている実希子は、手袋を脱ぎながら「そうか」と頷いた。
「一緒に東京の大学を受験するなんて凄いよね。
私たちじゃ考えもしなかったもん」
朝の仕込みを丹念にしながら葉月が言うと、それを手伝っている好美が唇を少しだけ歪めた。
「とにかくもう少しだけソフトボールがやりたい。それだけだったものね」
「その考えは私にもあるのだけれど……」
全員が合格できる可能性のある大学で、白球を追いかけるのも青春には違いない。
「でも、私は勉強も好きだから……」
「うわっ! 葉月、お前の妹は変態だぞ!」
「受験と名のつくものを、ほぼ推薦で通過した実希子ちゃんに言われたくないわ」
「おいおい。アタシだって高校の時は皆と一緒に受験したんだぞ!」
懸命に抗議する実希子を横目で見て、好美が少しだけ唇を歪めた。
「ギリギリのラインで、ソフトボール部の入部を条件に合格したようなものだったけどね」
「ぐう……好美もよく覚えてやがるな」
そして大学は類稀なソフトボール能力のおかげで、県大学から誘いがかかったのである。
「実希子ちゃんの実力なら、東京の大学からも声はかかったわよね。悩んだりしなかったのかしら」
菜月が尋ねると、配送時にも制服で出かける実希子は豪快に笑った。
「微塵も悩まなかったな。アタシはソフトボールは好きだけど、葉月たちと遊ぶのがもっと大好きなんだ。だから部活もやってたようなもんだったしな」
「実希子ちゃんらしいけれど、少し呆れるわね。はづ姉がサッカーをやりたいと言っていたら、サッカー部に入っていたのよね」
「おう!」
「……まあ、その場合でもやっぱり実希子ちゃんはゴリラみたいに活躍して、大学から推薦を貰っていそうだけれど」
運動神経が抜群とは言い難い菜月にとって、才能の塊のような実希子は羨ましい限りだった。
「ごく稀にいるのよね。何をやらせても人並み以上にこなせる人が」
学生時代は菜月と同様の立ち位置であっただろう好美が、大きなため息をついた。その気持ちが菜月にはよくわかる。
きっと彼女もそうだったからこそ、惜しみなく当時の経験を伝えてくれたのだろう。おかげで菜月のキャッチャーとしての技量は向上し、文字通り愛花や茉優をリードできるようになった。
「でもぉ、茉優には実希子ちゃんの気持ちがわかるかもぉ」
援軍というわけではないだろうが、意外にも茉優が実希子の考え方に理解を示した。
「茉優もねぇ、なっちーと一緒に遊びたかったんだぁ。それからソフトボールも好きになったの。だからねぇ、なっちーがサッカーをやってたら、きっとサッカーも好きになってたよぉ」
「あ、ありがとう」
どう返すべきか迷った挙句、菜月は親友にお礼しか言えなかった。
微妙な空気に困惑するも、年上軍団は揃って微笑ましそうにしていた。
「とにかく、残り少ない高校生活をもっと楽しめ!」
強引に結論付けた実希子が、女子にしては大きな手で菜月と茉優の背中を叩いた。
「バイトも結構だが、練習はいいのか? 春なんてあっという間に来るぞ。今日は振替休日なんだろ? 朝から晩まで練習するチャンスじゃないか」
「午後からはきちんと練習に行くわよ。だからバイトは午前中だけ。ついでにお昼ご飯とおやつをはづ姉――いいえ、実希子ちゃんから奢ってもらおうと思って」
「了解。
じゃあ、なっちーが買って行く分は実希子ちゃんの給料から天引きしとくね」
葉月が言うと、ここぞとばかりに好美も乗っかる。
「なら社員割増で倍額にしておきましょう」
「ああ、そりゃ助か――って待て! 普通、社員割引じゃないのか!? 何だ、倍額って! っていうか、どうしてアタシがなっちーに奢らなきゃならないんだ!」
うがーっと暴れ出しそうな実希子の服の裾を、菜月は小動物みたいにくいくいと引っ張る。
「奢って……実希子お姉ちゃん……」
振り向いた実希子に、上目遣いで甘える。
「ぐはっ! うう……ちくしょう! 好きなだけ持ってけ!」
「ということよ。茉優も今のうちに何を奢ってもらうか考えておきなさい」
「わーい。ついでに愛花ちゃんたちの分もお願いしようねぇ」
「おお……知らないうちにアタシの出費が増えていく……」
*
練習の途中で、菜月と茉優が持ってきた甘い菓子パンを皆で少しずつ摘み、糖分と体力を補給する。
「やっぱり、葉月先輩のパンは美味いよな。帰りに寄ってこうかな」
「結構買い食いしてるから、厳しい練習をこなしてるのに、あまり痩せないのよね」
そう言いながらも、涼子の提案に同意した明美は嬉しそうにクッキーパンを頬張っている。
昼休みにも売りに来るムーンリーフのパンは人気で、昇降口に並ぶ店の中でナンバーワンの売上らしかった。
「ですが、いつも差し入れしてもらって申し訳ないです」
「気にしなくていいわよ、愛花。今回は実希子ちゃんの奢りだから」
「それなら問題ありませんね」
「もっとありがたがって食ってくれよ!」
泣きそうな実希子の声が響く。
南高校ソフトボール部が全国大会の出場を決めてから、練習を手伝いに来てくれる頻度も増えていた。
「くそー、今度は美由紀先輩が奢ってくださいよ」
「実希子ちゃん、貴女……教員の給料を舐めてるの? 下っ端教師にそんな余裕があるわけないでしょう」
思わぬ答えだったのか、実希子が心から意外そうな顔をする。
「つったって、ほとんど家と学校の往復っスよね? 休みも部活の練習があるし、給料を使ってる暇なんかないと思うんスけど」
「甘いわね……」
美由紀がため息交じりに言う。
「二十代後半ともなれば、徐々に肌の張りが失われていくのよ。それを食い止めるための出費は膨大よ」
「すっぴんで十分っスよ。美由紀先輩綺麗だし……ってより、男いらないなら、綺麗にしとく必要もない――むぐっ!」
菜月たちが見守る前で、美由紀のアイアンクローが実希子に炸裂した。
「とことん綺麗になって、今度は私が男を弄んでやるのよ」
「ふぎゅ……ようしゅるに……おとこ、ほしんしゅ――
おぶぶ! いだっ! ぶぶぶ!」
「……さあ、皆。練習を続けるわよ!」
手を叩いた菜月の号令に、部員たちが「はい、キャプテン」と応じてくれる。
「ひょ、ひょんな……なっひー、たしゅけ……あぶっ」
今にも力尽きそうな実希子に背を向け、菜月は部員たちに練習を指示するのだった。
*
とっぷりと日も落ちて、闇に沈んだムーンリーフの店内では実希子が昼の出来事を皆に愚痴っている最中だった。
「本当に酷い目にあったぜ」
「皆が思っていても言わないことを、面と向かってはっきり言うからよ」
男なんてというのが美由紀の口癖だが、その裏で身近にイケメンがいたりすればこっそり張り切りだすのは、ソフトボール部員の誰もがわかっていた。
それで上手くいかないと様々な言い訳を並べた挙句、いつもの男なんてが始まるのである。
「高校の時はあんなんじゃなかったのになあ」
「何でも束縛が激しすぎて、当時の彼氏には逃げられたそうよ。どこから情報を仕入れたのか、この前、店に来た柚ちゃんが教えてくれたわ」
店に立つ機会がもっとも多い好美だけに、柚だけではなく様々なお客さんと世間話をしたりする。そのおかげでちょっとした雑学王みたいになっていた。
「ほー……やっぱり男は束縛を嫌うのかね?」
実希子が横目で見たのは、葉月の彼氏の和也だった。
「人によるだろ。俺は葉月になら束縛されても構わないしな」
「かーっ、相変わらずラブラブだな、こんちくしょう。さっさと結婚しちまえよ」
「……呑んでもいないのに、酔っ払いの中年男性みたいになれるなんて……実希子ちゃん、その年で女を捨てるのは早すぎるわよ」
「待て、なっちー! アタシは一度たりとも女を捨ててないからな!」
皆で笑い、一段落するといういつもの流れになる。
部活終わりに寄って商品を買ってくれた部員や茉優も帰宅しており、この場には社員と菜月だけが残っていた。
「それにしても……葉月の店がこんなに上手くいくとはな。
2号店の話も来てんだろ?」
店の財務を預かっている好美が、店長の葉月に代わって答える。
「ええ。ついでに銀行からの融資の話もね。どれも葉月ちゃんが乗り気ではないから、進めてないけど」
「乗り気じゃない? 何で?」
実希子がグリンと首を動かして葉月を見た。
「まだこのお店が出来て二年も経ってないのに、次のお店なんて気が早すぎだし、手が回らないよー。それにパンを置かせてもらえるお店は増えてるから、無理をする必要はないかなって」
「この通り、うちの店長は実希子ちゃんと違って堅実派なのよ。経営戦略担当としてはありがたい限りね」
「あはは。でも好美ちゃんなら、きっと実希子ちゃんがお店をやっても、ムーンリーフと同じように軌道に乗せてくれたと思うな」
「さすがに買い被りすぎよ」
周りからの肯定の視線に、謙遜する好美は戸惑い気味だ。
「それにどうにも妙な感じがするのよね……」
「妙って何がだよ?」実希子が問うた。
「裏で大きな力が働いてると言うべきかしら。スーパーにパンを置かせてもらう交渉にしても、あっさりと行きすぎなのよね。菜月ちゃんの好きな小説風に言うと、ご都合主義もいいところなの」
「……いつもみたいに春道パパや和葉ママが動いてるんじゃないのか?」
実希子の意見は、葉月と菜月が揃って否定する。
「さすがにパパにそんな力はないよー。昔、柚ちゃんとかの件はあったけど、あの時だって偶然に偶然が重なっただけだし」
「まあ、悪い影響はないから放っておいてるんだけどね」
「そうなのか。不思議なこともあるんだな」
*
ただの雑談程度で終わってしまったムーンリーフでの話を、夜にリビングでホットミルクを飲んでいた菜月はふと思い出し、横にいた春道にもしてみた。
一緒に聞いていた和葉は怪訝そうにしていたが、春道はすぐにピンときたような顔をした。
「え? もしかして、パパがこっそり葉月を手伝ってくれてたの?」
お風呂から上がったばかりの葉月が、バスタオルで髪を拭きながら驚きの声を上げた。
「まさか。ただ……そうだな。あくまでも俺の推測でしかないが、パパの力といえばそうなんだろうな」
「……まさか謎解きみたいな答えがくるとは思わなかったわ。勿体ぶらずに教えてくれてもいいのではないかしら」
菜月の抗議に、春道は苦笑しながら後頭部を掻く。
「はっきり言おうにも確証がないんだよ。ただ葉月を裏から見守ってて、こっそり力を貸しそうな人物となれば、心当たりは少ないからな。泰宏さんは何もしてないんだろ?」
春道に確認された和葉は「ええ」と頷く。
「頼めば力を貸してくれるだろうけど……」
「そうなればやっぱり該当するのはあの人かな。まさかとは思ったが……義理難いというかなんというか……きっと、ずっと葉月をこっそり見守ってたんだろうな」
「ずっと……? もしかして春道さん……」
「……何回も言ってるが、証拠も自信もない。ただ、俺がそう思っただけさ。返せなくなった恩を、ここで返してるのかなってな」
「恩? パパとママが何を言っているのか、私にはさっぱりだわ」
飲み終えたホットミルクのカップをキッチンへ置きつつ、菜月は肩を竦めた。
「で、当のはづ姉には心当たりがあるの?」
「うーん……それが……実はよくわかんないんだよねえ」
「ちょっと……」
こめかみをヒクつかせる菜月に、春道が大笑いする。
「まあ、いいじゃないか。俺の推測が当たってたとしても、どうせ足跡なんか残してないさ。そうならとっくの昔に……いや、やめておくか」
発言を途中でやめてから、春道は真剣さを表情に宿した。
「もしかしたら葉月は自分の力だけでと思うかもしれないが……」
「大丈夫だよ、パパ」
春道の言葉を遮るように、葉月は満面の笑みを浮かべた。
「開店できたのだって好美ちゃんのおかげだし、軌道に乗ったのも実希子ちゃんたちが手伝ってくれたからだもん。店をやってみて思ったんだ。自分の力だけで出来ることなんて限られてるんだなって」
「フフ……いつの間にか葉月も立派になったわね。私たちが教えられることも、もうないわ」
ほろりときた和葉が目元を押さえる。
「それでも葉月は俺たちの娘だ。困ったことがあったら、何でも相談するんだぞ」
「うん……それじゃ、パパが言うその人にお礼を言いたいかな」
「……わかった。後で連絡を取ってみるとしよう」
春道は葉月の要望に頷いてから、
「ただ店が上手くいってるのは、その人の力だけじゃない。好美ちゃんの経営手腕も、実希子ちゃんの人懐っこさも、和也君の人徳もそうだが、葉月の頑張りだってあるんだ。そのことを忘れるなよ」
と、優しく愛娘の頭を撫でた。
「……うんっ!」
嬉しそうに葉月は返事をし、そのまま高木家のリビングでは普段より少しだけ遅くまで、家族揃っての談笑が続けられた。
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