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菜月の中学・高校編
菜月と宏和
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春から夏はあっという間だ。
初めての一勝にソフトボール部の面々が浸っている間に、男子野球部は早くも夏の大会を迎えていた。
「ふわぁ、凄い人だねぇ」
茉優が驚くのも当然で、所属する中学の応援スタンドにはソフトボール部の大会とは比べ物にならないほどの観客が詰めかけていた。
「今年は優勝候補らしいね」
真の言葉に、最近になって仲良くなった恭介が頷く。
「宏和先輩の実力は本物だからね」
「実力だけではありません!」
強い口調で愛花が言った。勝利の女神になるのだと、気合を入れてコーディネートしたらしい膝丈の白いワンピースが眩しい。
「常に堂々とし、自信満々な態度。
まさに戸高先輩こそ勝者に相応しい方なんです!」
「宏和への高評価は一体どこからくるのかしら……」
友人の間違いを正そうと何度も頑張ったのだが、菜月の手に負える案件ではなかった。
「まさか愛花の好みがああいう男だったとは……」
「あれなら涼子ちゃんが男だったら可能性あったよね」
「くっ……生まれてくる性別を間違えた……!」
本気で悔しがる涼子。
明美を加えたトリマキーズの会話を聞かなかったことにして、菜月は改めてグラウンドで試合前練習をしている宏和のチームを見た。
するとすぐにその宏和と目が合い、大きく右手を振ってきた。
「口ではあれこれ言いながらも、大事な時にはしっかり応援に来るよな。やっぱり愛だな」
「……宏和が電話で応援に来てくれないと死ぬとか喚きたてるからでしょ。そんなこと言うなら、今すぐ帰るわよ」
「ショックを受けた俺のメンタルがボロボロになって、野球部敗戦の元凶になっていいのか?」
「菜月さんっ!?」
愛花が今にも世界が崩壊しそうな悲鳴を上げる。
「宏和のくせに頭を使うようになってきたわね。
でも女子を脅すのはいただけないわ」
「説得だよ、説得」
軽くウインクするが、イケメンの恭介と違って、宏和の場合はどことなくぎこちない。
「慣れない真似してないで、しっかり調整しなさい。
……後で後悔しないようにね」
「わかってる。だから菜月にも応援に来てもらったんだ。勝つ確率を少しでも上げないとな」
話を終えようとしたところで、エースナンバーを観客席に向けた宏和に愛花が声をかける。
「戸高先輩! わたしも応援します! 精一杯応援します! だから、頑張ってください!」
「おう! 力が漲ってくるぜ!」
後輩女子の声援を個人的に受けたのをチームメイトに冷やかされながら、宏和がマウンドに立つ。
「相手の中学も強豪校なんだってね」不安げに真が言った。
「ええ。しかもソフトボールの大会と違って、今年はトーナメント制らしいわ」
要するに一回負ければさようならである。口ではふざけ合っていても、両校の野球部員は並々ならぬ緊張感を漲らせている。
「わたしたちのような弱小ならどこと当たっても格上なので気持ちの作り方は変わりませんが、戸高先輩たちみたいに強くなってくると、初戦はせめて楽な学校と当たりたかったですよね」
「そうやって油断すると足元をすくわれるわよ、愛花ちゃん。どんな相手でも油断大敵。宏和も十分にわかっていると思うけれどね」
「そうですね。わたしが甘かったです……」
「でも、勝ってほしいという気持ちは一緒よ。愛とか云々は一切ないけれど」
「ないのですか?」
不思議そうに愛花が聞いてきた。
「あれだけ素敵な方ですのに」
「……素敵でも何でも従兄弟だからね。世の中にはそれでもカップルになる人たちもいるみたいだけど、私は割り切れそうにないわ」
宏和の気持ちを考えたのか、少しだけ辛そうに、だけど少しだけ安堵したように愛花は俯いた。
「そんなことより試合が始まるわ。
せっかく来たのだから、しっかり応援しましょう」
*
「戸高先輩! 打ってください!」
愛花が声を張り上げる。
場面は四回裏。ツーアウトながらランナーを一塁と三塁において、エースで主砲の宏和が打席に入った。
「宏和先輩もだけど、相手ピッチャーも調子よくここまできてるからね。先制点を取れるかどうかは大事だよ」
恭介も固唾を呑んで見守る。
直球が外角低めに決まり、二球目でカーブを空振りしてあっという間に追い込まれる。
「テンポも切れも良さそうね。伊達に強豪と呼ばれてないわね」
「でも、ひっきーなら打ってくれるよ!」
「……その呼称、定着させるつもりなの?」
なんだか引き篭もりの新しい呼称みたいに思えたが、茉優が楽しそうなので指摘はしないでおいた。
声が聞こえて脱力したわけではないだろうが、続く三球目。勝負を焦った相手投手のストレートを、宏和が力みのないスイングで弾き返した。
地上を走る流星のごとく、白球が菜月の前を駆け抜けていく。
「これは長打になるぞ!」
はしゃぐ涼子の言葉通り、外野手の間を打球が点々と転がる間に、一人また一人とホームインする。
打った宏和も三塁に達し、歓声が大空に響くグラウンド上で高々と右手を上げた。
「……素敵です」
普段は勝負だ何だと変に張り切る愛花も、宏和の前では一人の恋する乙女になる。菜月にはそういう気持ちをそれほど理解できないが、愛花の言葉を借りれば、ほんの少しだけ素敵だなと感じたりもする。絶対に内緒だが。
「やったね、愛花ちゃん」
どさくさ紛れに明美が愛花に抱き着き、ずるいぞと唇を尖らせた涼子も覆い被さるように体を密着させる。
下心ある男性がいればこっそり加わりそうなものだが、一緒に応援中の真も恭介もそういうタイプではなく、二人でハイタッチして宏和の活躍を喜んでいた。
「宏和! ここで気を抜いたら晩御飯を抜くからね!」
強烈な声援が、菜月の頭上からグラウンドに降り注いだ。
宏和の母親の戸高祐子だ。隣には仕事を休んだのか父親の姿もある。
一緒に応援に来たらしい春道と和葉が、菜月に小さくを手を振った。
「あ、なっちーのお父さんとお母さんがいるねぇ」
「挨拶した方がいいのかな」
いつでもほんわか気味の茉優と違い、何故か真が狼狽し始める。
「ここでうろうろしたら、他の観客にも迷惑がかかるから、別にいらないと思うわよ」
と菜月は言ったのだが、それでもと真や他の面々は揃ってその場でお辞儀をした。
「うんうん。なっちーの友達は、皆、いい子ばかりだね」
「はづ姉、いつの間にこっちへ来たの?」
Tシャツにホットパンツという健康的かつ微妙にセクシーな服装の姉に尋ねると、可愛らしく舌を出す仕草でついさっきと返された。
「やっぱり従兄弟の活躍は最前列で見たいしね。ほら、和也君もOBなんだから堂々としてなよ」
腕を掴まれて引っ張り出されたのは、葉月の彼氏の仲町和也だった。ペアルックではないが、似たような恰好をしていた。
「OBといっても、もう随分前だしな」
「まだ十年も経ってないよ! 私たち若いから! ピチピチだから!」
「はづ姉、その発言がすでにおばさん臭いわ」
「ガーン!」
大袈裟に葉月が頭を抱える間に四回裏の攻撃は終わり、0-2で試合は五回へ突入していた。
*
マウンド上で宏和が肩で息をする。回を経るにつれて、疲労が蓄積されているのが傍目でもわかった。
「わたしの場合とは比べものならないでしょうけど、僅差の場面は普段よりずっと体力を消耗します。すでに八回ですし、戸高先輩も相当にキツいはずです」
祈るように愛花が組んだ両手に力を込めた。
コントロールも定まらなくなりつつある宏和の背後には、味方に混じって三名もの敵がいた。
「けど、ツーアウトまではこぎつけたんだ! もうひと踏ん張りっすよ、先輩!」
涼子が声を張り上げ、明美も頑張ってくださいと続けた。
煩いくらいの敵の吹奏楽部のマーチに乗って、威勢の良い応援がグラウンド全体に響き渡る。
それに負けないように菜月も大きな声を出す。
「気合を入れなさいよ! 全国制覇するんでしょ!? ここで負けたらできないわよ!」
――わかってるから、安心して見てろ。
そんな声が聞こえたような気がした。
口元を小さく綻ばせた宏和が渾身の一球を投じる。
唸るような声を漏らし、打者が振ったバットは空を切り、同じ中学の関係者は誰もが歓喜の表情を浮かべ――。
――そして愕然とした。
「振り逃げだ!」
相手チームの誰かが叫んだ。
打者を寄せ付けなかった高めの真っ直ぐは、皮肉にもボールを受ける捕手のミットさえ弾いてしまった。
反射的に宏和はベースカバーに走るが、運悪く、バックネット付近でバウンドを変えたボールが自チームのベンチ前まで転がってしまう。
一人目に続き二人目もホームインして、試合が振り出しに戻る。
「まだだ! まだ終わっちゃいない! 負けてたまるかよ!」
捕手の落とした肩を強制的に上げさせ、宏和が吼えた。
味方野手にもベンチにも活気が戻り、死闘が始まった。
*
長引いた午後の試合も終わり、日差しの勢いも若干だが弱まった。けれど夕暮れはまだ遠く、背の高い木の作る陰に隠れても、生温い風から逃れられない。
……敗戦のショックからも。
「負けちまったなあ」
いまだ土の残るユニフォーム姿のまま、宏和は少し前まで試合していた球場を外から見上げていた。
正面に立つのは菜月ただ一人。試合後に話があるとメールで呼び出された。
普段なら軽口の一つも叩くところだが、今日のために頑張ってきた宏和を見てきただけに何も言えなかった。それに彼は三年生だ。一生に一度しかない中学校での野球部生活は、もう終わってしまった。
「何で菜月が落ち込んでんだよ」
「……仕方がないでしょう」
そう言うのがやっとだった。
口を開き続けていれば、不覚にも涙が滲んでしまいそうだった。
けれど菜月が泣くのは違う。宏和が気丈に振舞っているのに、先に涙を流すわけにはいかなかった。
沈黙が降り、嫌うように少しだけ冷たい風が吹き抜けた。
呪縛から解き放たれたように、宏和がゆっくり立ち上がる。
昔は変わらなかったのに、今では菜月よりもずっと背が高い。身体つきも立派になり、時に大人と見間違うほどだ。
「なあ、菜月。俺さ……この大会が終わったら、お前に言おうと決めてたことがあるんだ。本当は勝って言いたかったけど、な」
いつになく真剣な顔つきと声。
引き結ばれた唇が解けるより先に、察しがついた菜月の心臓が痛いくらいに走り出す。
「今回ばかりは本気だ。お前との関係を壊したくなくて、茶化すようにしてばかりいたけど、しっかりと答えが聞きたい」
顔が熱い。
身体が熱い。
手先が震えて、半開きになった唇を閉じられない。
次の台詞を聞くのが怖かった。
逃げ出したかった。
けれど聞かなければいけない。その先に何が待っているとしても。
「俺……菜月が好きだ。本気で大好きだ。だから……付き合ってほしい」
いつでも自信満々。
愛花がそう評していた少年は、答えを恐れるように閉じた瞼を小刻みに震わせている。
誰だって怖いから勇気を出す。逃げられないからお腹に力を入れる。
それはこの場面を迎えた菜月も同じだった。
「……ごめんなさい」
大きく頭を下げた。真剣に、想いを乗せた。
相手の気持ちは痛いほど伝わってきたが、応じることはできなかった。
「宏和のことは嫌いではないわ。恰好いいとも思う。でも恋愛対象とは見れないの。どうしても家族みたいな……手のかかるお兄ちゃんみたいに感じてしまう。だから……だから……!」
「……もういいって。悪かったな、辛い思いをさせちまった」
「違う! そんな……私は……」
涙が溢れた。
宏和も泣いていた。
「振られるのはわかってたんだ。でもさ、気持ちに決着をつけないといけないような気がした。俺も菜月も、これから大人になってくんだから」
「……うん……うん……」
「それにさ、大切に想ってもらってるのがわかって俺は嬉しいんだ。だから、お兄ちゃんでもいいさ」
泣き顔のまま宏和は笑い、菜月の頭を撫でてくれた。
優しく、労わるように、丁寧に。
「ごめ……んな、さい……!」
「もう泣くなって。頑張って答えてくれて、ありがとうな」
宏和は菜月が泣き止むまで待ってくれた。
「じゃあ、俺は行くぜ。変に気にしないで、見かけたらまた虐めてくれよ!」
「宏和って変態だったのね」
気軽に右手を上げた従兄弟に、涙の残る声で菜月は言った。
まあなと笑い、宏和が軽やかに走り去る。
拍子抜けするほどあっさりとした態度だった。気持ちに決着をつけられて、スッキリしたのかもしれない。
そうだとしたら、少しだけ、ほんの少しだけ菜月も救われる。
けれど、菜月は聞いてしまう。
少し離れた場所。木陰に隠れながら蹲る少年の嗚咽を。
「……ごめんなさい」
小さな、とても小さな呟きだけをその場に残し、菜月は何も見なかったことにして友人たちのもとへ急いだ。
大切なお兄ちゃんの優しさを無駄にしないためにも。
初めての一勝にソフトボール部の面々が浸っている間に、男子野球部は早くも夏の大会を迎えていた。
「ふわぁ、凄い人だねぇ」
茉優が驚くのも当然で、所属する中学の応援スタンドにはソフトボール部の大会とは比べ物にならないほどの観客が詰めかけていた。
「今年は優勝候補らしいね」
真の言葉に、最近になって仲良くなった恭介が頷く。
「宏和先輩の実力は本物だからね」
「実力だけではありません!」
強い口調で愛花が言った。勝利の女神になるのだと、気合を入れてコーディネートしたらしい膝丈の白いワンピースが眩しい。
「常に堂々とし、自信満々な態度。
まさに戸高先輩こそ勝者に相応しい方なんです!」
「宏和への高評価は一体どこからくるのかしら……」
友人の間違いを正そうと何度も頑張ったのだが、菜月の手に負える案件ではなかった。
「まさか愛花の好みがああいう男だったとは……」
「あれなら涼子ちゃんが男だったら可能性あったよね」
「くっ……生まれてくる性別を間違えた……!」
本気で悔しがる涼子。
明美を加えたトリマキーズの会話を聞かなかったことにして、菜月は改めてグラウンドで試合前練習をしている宏和のチームを見た。
するとすぐにその宏和と目が合い、大きく右手を振ってきた。
「口ではあれこれ言いながらも、大事な時にはしっかり応援に来るよな。やっぱり愛だな」
「……宏和が電話で応援に来てくれないと死ぬとか喚きたてるからでしょ。そんなこと言うなら、今すぐ帰るわよ」
「ショックを受けた俺のメンタルがボロボロになって、野球部敗戦の元凶になっていいのか?」
「菜月さんっ!?」
愛花が今にも世界が崩壊しそうな悲鳴を上げる。
「宏和のくせに頭を使うようになってきたわね。
でも女子を脅すのはいただけないわ」
「説得だよ、説得」
軽くウインクするが、イケメンの恭介と違って、宏和の場合はどことなくぎこちない。
「慣れない真似してないで、しっかり調整しなさい。
……後で後悔しないようにね」
「わかってる。だから菜月にも応援に来てもらったんだ。勝つ確率を少しでも上げないとな」
話を終えようとしたところで、エースナンバーを観客席に向けた宏和に愛花が声をかける。
「戸高先輩! わたしも応援します! 精一杯応援します! だから、頑張ってください!」
「おう! 力が漲ってくるぜ!」
後輩女子の声援を個人的に受けたのをチームメイトに冷やかされながら、宏和がマウンドに立つ。
「相手の中学も強豪校なんだってね」不安げに真が言った。
「ええ。しかもソフトボールの大会と違って、今年はトーナメント制らしいわ」
要するに一回負ければさようならである。口ではふざけ合っていても、両校の野球部員は並々ならぬ緊張感を漲らせている。
「わたしたちのような弱小ならどこと当たっても格上なので気持ちの作り方は変わりませんが、戸高先輩たちみたいに強くなってくると、初戦はせめて楽な学校と当たりたかったですよね」
「そうやって油断すると足元をすくわれるわよ、愛花ちゃん。どんな相手でも油断大敵。宏和も十分にわかっていると思うけれどね」
「そうですね。わたしが甘かったです……」
「でも、勝ってほしいという気持ちは一緒よ。愛とか云々は一切ないけれど」
「ないのですか?」
不思議そうに愛花が聞いてきた。
「あれだけ素敵な方ですのに」
「……素敵でも何でも従兄弟だからね。世の中にはそれでもカップルになる人たちもいるみたいだけど、私は割り切れそうにないわ」
宏和の気持ちを考えたのか、少しだけ辛そうに、だけど少しだけ安堵したように愛花は俯いた。
「そんなことより試合が始まるわ。
せっかく来たのだから、しっかり応援しましょう」
*
「戸高先輩! 打ってください!」
愛花が声を張り上げる。
場面は四回裏。ツーアウトながらランナーを一塁と三塁において、エースで主砲の宏和が打席に入った。
「宏和先輩もだけど、相手ピッチャーも調子よくここまできてるからね。先制点を取れるかどうかは大事だよ」
恭介も固唾を呑んで見守る。
直球が外角低めに決まり、二球目でカーブを空振りしてあっという間に追い込まれる。
「テンポも切れも良さそうね。伊達に強豪と呼ばれてないわね」
「でも、ひっきーなら打ってくれるよ!」
「……その呼称、定着させるつもりなの?」
なんだか引き篭もりの新しい呼称みたいに思えたが、茉優が楽しそうなので指摘はしないでおいた。
声が聞こえて脱力したわけではないだろうが、続く三球目。勝負を焦った相手投手のストレートを、宏和が力みのないスイングで弾き返した。
地上を走る流星のごとく、白球が菜月の前を駆け抜けていく。
「これは長打になるぞ!」
はしゃぐ涼子の言葉通り、外野手の間を打球が点々と転がる間に、一人また一人とホームインする。
打った宏和も三塁に達し、歓声が大空に響くグラウンド上で高々と右手を上げた。
「……素敵です」
普段は勝負だ何だと変に張り切る愛花も、宏和の前では一人の恋する乙女になる。菜月にはそういう気持ちをそれほど理解できないが、愛花の言葉を借りれば、ほんの少しだけ素敵だなと感じたりもする。絶対に内緒だが。
「やったね、愛花ちゃん」
どさくさ紛れに明美が愛花に抱き着き、ずるいぞと唇を尖らせた涼子も覆い被さるように体を密着させる。
下心ある男性がいればこっそり加わりそうなものだが、一緒に応援中の真も恭介もそういうタイプではなく、二人でハイタッチして宏和の活躍を喜んでいた。
「宏和! ここで気を抜いたら晩御飯を抜くからね!」
強烈な声援が、菜月の頭上からグラウンドに降り注いだ。
宏和の母親の戸高祐子だ。隣には仕事を休んだのか父親の姿もある。
一緒に応援に来たらしい春道と和葉が、菜月に小さくを手を振った。
「あ、なっちーのお父さんとお母さんがいるねぇ」
「挨拶した方がいいのかな」
いつでもほんわか気味の茉優と違い、何故か真が狼狽し始める。
「ここでうろうろしたら、他の観客にも迷惑がかかるから、別にいらないと思うわよ」
と菜月は言ったのだが、それでもと真や他の面々は揃ってその場でお辞儀をした。
「うんうん。なっちーの友達は、皆、いい子ばかりだね」
「はづ姉、いつの間にこっちへ来たの?」
Tシャツにホットパンツという健康的かつ微妙にセクシーな服装の姉に尋ねると、可愛らしく舌を出す仕草でついさっきと返された。
「やっぱり従兄弟の活躍は最前列で見たいしね。ほら、和也君もOBなんだから堂々としてなよ」
腕を掴まれて引っ張り出されたのは、葉月の彼氏の仲町和也だった。ペアルックではないが、似たような恰好をしていた。
「OBといっても、もう随分前だしな」
「まだ十年も経ってないよ! 私たち若いから! ピチピチだから!」
「はづ姉、その発言がすでにおばさん臭いわ」
「ガーン!」
大袈裟に葉月が頭を抱える間に四回裏の攻撃は終わり、0-2で試合は五回へ突入していた。
*
マウンド上で宏和が肩で息をする。回を経るにつれて、疲労が蓄積されているのが傍目でもわかった。
「わたしの場合とは比べものならないでしょうけど、僅差の場面は普段よりずっと体力を消耗します。すでに八回ですし、戸高先輩も相当にキツいはずです」
祈るように愛花が組んだ両手に力を込めた。
コントロールも定まらなくなりつつある宏和の背後には、味方に混じって三名もの敵がいた。
「けど、ツーアウトまではこぎつけたんだ! もうひと踏ん張りっすよ、先輩!」
涼子が声を張り上げ、明美も頑張ってくださいと続けた。
煩いくらいの敵の吹奏楽部のマーチに乗って、威勢の良い応援がグラウンド全体に響き渡る。
それに負けないように菜月も大きな声を出す。
「気合を入れなさいよ! 全国制覇するんでしょ!? ここで負けたらできないわよ!」
――わかってるから、安心して見てろ。
そんな声が聞こえたような気がした。
口元を小さく綻ばせた宏和が渾身の一球を投じる。
唸るような声を漏らし、打者が振ったバットは空を切り、同じ中学の関係者は誰もが歓喜の表情を浮かべ――。
――そして愕然とした。
「振り逃げだ!」
相手チームの誰かが叫んだ。
打者を寄せ付けなかった高めの真っ直ぐは、皮肉にもボールを受ける捕手のミットさえ弾いてしまった。
反射的に宏和はベースカバーに走るが、運悪く、バックネット付近でバウンドを変えたボールが自チームのベンチ前まで転がってしまう。
一人目に続き二人目もホームインして、試合が振り出しに戻る。
「まだだ! まだ終わっちゃいない! 負けてたまるかよ!」
捕手の落とした肩を強制的に上げさせ、宏和が吼えた。
味方野手にもベンチにも活気が戻り、死闘が始まった。
*
長引いた午後の試合も終わり、日差しの勢いも若干だが弱まった。けれど夕暮れはまだ遠く、背の高い木の作る陰に隠れても、生温い風から逃れられない。
……敗戦のショックからも。
「負けちまったなあ」
いまだ土の残るユニフォーム姿のまま、宏和は少し前まで試合していた球場を外から見上げていた。
正面に立つのは菜月ただ一人。試合後に話があるとメールで呼び出された。
普段なら軽口の一つも叩くところだが、今日のために頑張ってきた宏和を見てきただけに何も言えなかった。それに彼は三年生だ。一生に一度しかない中学校での野球部生活は、もう終わってしまった。
「何で菜月が落ち込んでんだよ」
「……仕方がないでしょう」
そう言うのがやっとだった。
口を開き続けていれば、不覚にも涙が滲んでしまいそうだった。
けれど菜月が泣くのは違う。宏和が気丈に振舞っているのに、先に涙を流すわけにはいかなかった。
沈黙が降り、嫌うように少しだけ冷たい風が吹き抜けた。
呪縛から解き放たれたように、宏和がゆっくり立ち上がる。
昔は変わらなかったのに、今では菜月よりもずっと背が高い。身体つきも立派になり、時に大人と見間違うほどだ。
「なあ、菜月。俺さ……この大会が終わったら、お前に言おうと決めてたことがあるんだ。本当は勝って言いたかったけど、な」
いつになく真剣な顔つきと声。
引き結ばれた唇が解けるより先に、察しがついた菜月の心臓が痛いくらいに走り出す。
「今回ばかりは本気だ。お前との関係を壊したくなくて、茶化すようにしてばかりいたけど、しっかりと答えが聞きたい」
顔が熱い。
身体が熱い。
手先が震えて、半開きになった唇を閉じられない。
次の台詞を聞くのが怖かった。
逃げ出したかった。
けれど聞かなければいけない。その先に何が待っているとしても。
「俺……菜月が好きだ。本気で大好きだ。だから……付き合ってほしい」
いつでも自信満々。
愛花がそう評していた少年は、答えを恐れるように閉じた瞼を小刻みに震わせている。
誰だって怖いから勇気を出す。逃げられないからお腹に力を入れる。
それはこの場面を迎えた菜月も同じだった。
「……ごめんなさい」
大きく頭を下げた。真剣に、想いを乗せた。
相手の気持ちは痛いほど伝わってきたが、応じることはできなかった。
「宏和のことは嫌いではないわ。恰好いいとも思う。でも恋愛対象とは見れないの。どうしても家族みたいな……手のかかるお兄ちゃんみたいに感じてしまう。だから……だから……!」
「……もういいって。悪かったな、辛い思いをさせちまった」
「違う! そんな……私は……」
涙が溢れた。
宏和も泣いていた。
「振られるのはわかってたんだ。でもさ、気持ちに決着をつけないといけないような気がした。俺も菜月も、これから大人になってくんだから」
「……うん……うん……」
「それにさ、大切に想ってもらってるのがわかって俺は嬉しいんだ。だから、お兄ちゃんでもいいさ」
泣き顔のまま宏和は笑い、菜月の頭を撫でてくれた。
優しく、労わるように、丁寧に。
「ごめ……んな、さい……!」
「もう泣くなって。頑張って答えてくれて、ありがとうな」
宏和は菜月が泣き止むまで待ってくれた。
「じゃあ、俺は行くぜ。変に気にしないで、見かけたらまた虐めてくれよ!」
「宏和って変態だったのね」
気軽に右手を上げた従兄弟に、涙の残る声で菜月は言った。
まあなと笑い、宏和が軽やかに走り去る。
拍子抜けするほどあっさりとした態度だった。気持ちに決着をつけられて、スッキリしたのかもしれない。
そうだとしたら、少しだけ、ほんの少しだけ菜月も救われる。
けれど、菜月は聞いてしまう。
少し離れた場所。木陰に隠れながら蹲る少年の嗚咽を。
「……ごめんなさい」
小さな、とても小さな呟きだけをその場に残し、菜月は何も見なかったことにして友人たちのもとへ急いだ。
大切なお兄ちゃんの優しさを無駄にしないためにも。
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