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菜月の中学・高校編

春休みの母娘パン作り対決

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 麗らかな日差しが擽るように頬を照らす。
 冬の肌寒さがまだ残る空気に白い吐息を滲ませながら、高木菜月は適度に雲を纏わせた大空を見上げた。

 菜月は早朝のシンとした雰囲気が好きだった。
 近所の人間が起き出し、火が灯るみたいに日常が動いていく。

「なっちーは今日も早いね」

 ぼんやりとしていた菜月に、背後から声がかけられた。
 寝惚け眼で欠伸をする姉の姿に、菜月は振り返らせた顔をしかめる。

「はづ姉が遅いのよ。仕事に遅刻するのではないの?」

「お休みだから大丈夫だよ。なっちーこそ、せっかくの春休みなんだから、お寝坊さん生活を満喫すればいいのに」

 手を引っ込め、桜色のパジャマの袖をヒラヒラと振る。寒さに耐え兼ねて部屋へ戻るつもりなのかもしれない。

「早起きは三文の徳と言うでしょう。私はいつでも得をしていたいの。はづ姉こそ、二度寝なんて考えない方がいいわよ」

「せっかくのママの朝食を逃す手はないしね」

 あははと屈託なく葉月が笑う。
 今年に大学を卒業し、実家に戻ってきた姉だが、高校時代とあまり変わってないように思えた。

 外見がすっかり大人っぽくなっているだけに、奇妙な安心感を覚える。姉に言ったら調子に乗りそうなので、菜月が態度に表すことはないのだが。

「葉月、菜月。外にいるの? もうすぐ朝食の時間よ」

 家の中からかけられた声に、葉月が真っ先に反応する。

「はーい。着替えたらすぐにいくね。ほら、なっちーも」

「……すでに身支度を整えている私が、急かされる理由はないのだけれど」

 ため息をつきながらも、菜月は早足で家に戻る姉の背中を追いかけた。

   *

「そんなわけで、パン作り大会を開催します!」

 昼下がりのゆったりした時間を、リビングで読書に費やしていた菜月の目の前で、一人で大盛り上がりの姉が楽しげに拍手をする。

「一身上の都合により辞退させてもらうわ」

「またまたあ。なっちーってば素直じゃないんだから」

「あっ。大人気ないわよ、はづ姉。本を返して! それ、新刊なのよ」

 ぎゃあぎゃあと戯れる姉妹の声に呼び寄せられたのか、のっそりと春道が姿を現した。どうやら本日の仕事は一段落したらしい。

「我が家も賑やかになったな」

 嫌味なく笑った春道が食卓に着くと、阿吽の呼吸のごとく和葉がコーヒーを差し出した。
 愛妻にお礼を言ってから、春道が嬉しそうにコーヒーを啜る。

「で、何を楽しそうにしてるんだ」

「パパに、社会人となった私の実力を披露するの」

 胸を張った姉の手が、逃さないとばかりに菜月の肩を強引に捕まえる。

「実力って、はづ姉がパン屋さんに就職して、まだ一ヶ月も経っていないじゃない」

「だから試してみたいんだよ。オリジナルの創作パンをね」

「やめて! 基礎も固まってないのに応用に手を出すなんて、無理を通り越して無謀だわ。パンという名前の謎物体を食べさせられるイベントなんて、御免被るわ」

「ぶー」

「唇を可愛く尖らせても駄目よ。どうしてもと言うのなら、せめて皆がきちんと食べられるものを調理してちょうだい」

 キツめに注意した直後、待ってましたとばかりに葉月が満面の笑みを浮かべた。嫌な予感が菜月の全身を包む。

「きちんと食べられるパンを作るなら、なっちーも参加してくれるんだね」

「ま、待ちなさい。私はまだ正式な意思表示を――」

「――さあて。茉優ちゃんたちも誘ってあげないとね」

 ニコニコしながら着実に外堀を埋めていく。そんな姉を呆然と眺めていた菜月の小さな肩に、父親の大きな手がポンと置かれた。

「諦めろ。ああなったらもう誰の意見も聞きはしないんだ」

 観念せざるを得ないと悟り、菜月は本日何度目かもわからないため息をついた。

   *

 それぞれジャージなどの小麦粉がついても構わない服装に着替え、菜月と葉月、さらには和葉を含めた三人でのパン作り勝負が始まった。

 キッチンから食卓までを調理スペースとして活用し、試食係である春道はリビングでのんびりと待っている。

「楽しみだねぇ。どんなパンができるんだろうねぇ」

「茉優、涎を拭きなさい。いかにはづ姉がプロのパン屋さんになったとはいえ、まだレジ係の新米。一緒に住んでいなかった四年間で鍛え上げた私の調理技術で、目にものを見せてあげるわ」

 補助係の茉優にテキパキと指示を飛ばしつつ、料理本片手に作業工程を急ぐ。側では和葉が一人で生クリームを粟立てている。どうやら菓子パン系で攻めるつもりのようだ。

 一方の葉月は補助を頼んだ真と一緒に、こそこそとキッチンの隅で作業をしていた。

「は、葉月さん。明太子なんて何に使うんですか?」

「ママは甘いパンで、なっちーはきっとオーソドックスに仕上げてくると思うの。なら私は辛いので勝負するべきでしょ」

「それならカレーパンとかでいいんじゃ……」

「まっきーはわかってないね。あえて不利な状況から逆転する。それこそが本物の証なのよ」

「ごめんなさい。僕には何を言ってるのか、さっぱりわからないです」

 真顔で首を振る真。
 姉との会話を聞いていた菜月は、脱力しそうなのを堪えるのがやっとだった。

「どうやらはづ姉チームは勝手に脱落したみたいね。主催した際の約束を忘れているようなのが腹立たしいけれど、参加している以上、狙うのは優勝のみ。単独参加とはいえ、調理の技術が誰よりも秀でているママに勝ちにいくわよ」

「じゃあじゃあ、プリンとかはどうかな。きっと美味しいよ」

「……それは勝つための秘策ではなくて、茉優が食べたいだけでしょう」

 嘆息しながらも、菜月は冷蔵庫の中身を確認する。

「とはいえ、食べたいものを作るというのは重要でもあるわ」

 腕組みをして考えること数十秒。菜月は閃いたと瞳を輝かせる。

「フフ。これなら勝てるわ。ママもはづ姉もまとめて撃退よ」

 腰に手を当てて高らかに笑う菜月。
 背後では面白がって茉優も真似しており、ある種、異様な光景が高木家のキッチンで繰り広げられていた。

   *

 美味しそうなにおいが広がる高木家のリビングには、審査員役として春道に加え、途中から合流した仲町和也の姿もあった。県内企業で就職した彼は葉月の交際相手で、連絡を受けて仕事終わりに直行してくれたのだった。

「先手は私が取らせてもらうわ」

 真打は最後に登場するものと言い張る葉月を後目に、菜月が一歩前に進み出た。

「空腹時にこそ、人間の味覚は最大限に高まるもの。従って、有利なのは先攻。恰好をつけたがる浅はかなはづ姉の前で、華麗に勝利を決めさせてもらうわ」

 茉優と真も審査員役としてリビングにつくのを待ってから、テーブルに皿を置く。
 仕上げは一人でやっただけに、完成品を見ていなかった茉優が真っ先に「ふわぁ」と感嘆の声を漏らした。ついでに涎が漏れそうになるのを、苦笑いを顔に張りつけた真がハンカチで阻止していた。

「確かに凄いが……これはプリンだろ」

 王様の如く、皿の真ん中で威厳たっぷりに揺れる黄色い物体。カラメルソースを宝石みたいに煌めかせる一品は、大人も子供も虜にすること間違いなしだ。

「私に敵わないと見て、勝負を避けて人気を取りにきたのね。卑怯だとは言わないわ。これも立派な戦略だもの」

「フッ。早合点しないでもらいたいわ。
 プリンの中の秘密に、パパなんかイチコロよ」

 真正面から視線をぶつける姉妹を横目に、まず最初に春道がプリンにスプーンを入れた。

「ん? 何か硬いのが……。
 そうか。ラスクみたいに仕上げて、プリンの中に隠したんだな」

「ご名答よ。中に詰め込むばかりが工夫ではないわ。これが私の秘策よ。さあ、揃って平伏すがいいわ!」

「くっ……やるわね、なっちー」

 睨み合う竜虎のごとく張り合う姉妹。緊張感を加熱させているのは本人たちだけで、周囲は微笑ましげに眺めながら、菜月のプリンパンを試食していく。

「甘さに甘さが加わって美味しいねぇ」

「うん。柔らかい食感の中に混じる丁度いい噛み応えが、飽きを防いでるね」

 茉優と真の感想だけで、高評価なのがわかる。
 微かな焦りを滲ませる姉を前に、菜月はフフンと得意げに胸を反らした。

「では次は私ね。オーソドックスな生クリームドーナツだけど、どうかしら」

「和葉の手作りパンが不味いわけないだろ」

 春道が喜べば、そのうちに義息となるかもしれない和也も賞賛の言葉を並べる。

「本当に美味しいですよ。葉月ママの手料理は何度もご馳走になってますけど、やっぱり上手ですよね」

 男二人に褒められて、和葉も満足げだ。
 さらには子供代表の二人も、菜月のプリンパンに負けない勢いで食べ進める。

「さすがはママね。
 はづ姉の存在は最初から無視して、そちらに全力を注ぐべきだったわ」

 本気で悔しがる菜月に、真打と公言していた葉月がこめかみをヒクつかせる。

「勝ち誇るのは、私の作品を見てからだよ。じゃじゃーん!」

 元気に効果音まで発しながら、葉月がリビングのテーブルに皿を置く。
 丸形で平べったい生地は仄かに赤く染まっている。噂の明太子が香りを漂わせるも、決して不快になる類のものではなかった。

「ふわぁ。すごく美味しそうだよ」

「仕上げにマヨネーズとコーンを使ったんですね」

 茉優と真が大きくした瞳を輝かせる。

「ふっふっふ。これが私の実力だよ。明太マヨコーンパンの実力を、なっちーもその舌で味わいなさい!」

 向けられた人差し指をむんずと掴んで寄せながら、菜月はフォークを使ってひと欠片ほどを手に取った。

「ぐ……お、美味しい……」

 ガックリと項垂れる菜月を、得意満面の勝者が見下ろす。審査員に判定してもらわなくとも、食べ比べれば結果は明らかだった。

「なんとかお姉ちゃんの威厳を保ててよかった。でも、なっちーのパンだって美味しいよ。工夫も上手かったしね」

「……フン。はづ姉に褒めてもらっても嬉しくなんてないわ」

「はっはっは。そう言いながらほっぺが赤くなってるぞ」

 茶化す春道を、菜月はキッと睨みつける。

「これは明太子のせいよ!」

 両手を上げて降参する春道の代わりに、和葉が愛娘の頭を撫でる。

「順位なんておまけでしかないわ。家族と友人で楽しい一日を過ごせたことを、葉月に感謝するのよ」

「……わかってるわよ。でも、はづ姉のパンって本当に美味しいわね。これって、もしかしてママのよりも上なんじゃ……」

「もう一度食べてみなさい」

 にこりと笑顔を作る和葉。しかしながら目はまったく笑っていない。

「ちょ、ちょっと。順位はおまけって……!」

「いいからもう一度食べてみなさい」

「パパ、助けてっ! ママが大人気ない!」

「はっはっは。いつものことじゃないか」

 朗らかに笑う春道を、ゆらりと髪の毛を揺らめかせた和葉が半眼で見据える。

「ええ、そうですね。ですが、春道さんの放言癖も毎度のことですよ」

「菜月、助けてっ! ママが大人気ない! ギャアア!」

 本人は怒り狂って首を締めようとしているのかもしれないが、菜月からすれば単に両親がイチャついているようにしか見えない。

 犬も食わない何とやらは放置して、菜月は苦杯を嘗めさせられた葉月へ逆襲すべく、溜めに溜めていた質問を和也にする。

「ところで、いつ頃から和也さんをお義兄さんと呼べばいいですか?」

「ぶほっ!」

 盛大に咳き込んだのは和也だけではなかった。隣に腰を下ろしていた葉月も、耳朶まで真っ赤にして噎せている。

「フフ。はづ姉もまだまだ甘いわね」

 用意したホットミルクを口に含みながら、菜月はしたり顔でおすましをした。
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