上 下
168 / 425
葉月の高校編

菜月の入学式

しおりを挟む
「春道さん、準備できた?」

 寝室のドアを開けた愛妻の和葉が、顔だけ出して中を覗き込んだ。

「問題ない。ビデオカメラも無事に動くしな」

 スーツ姿で立っていた春道は、持っていたビデオカメラのチェックを終えてケースに収納する。
 和葉も膝下までのスカートにジャケットで、髪も綺麗にセットしている。色は淡い青色で、四月という季節によく合っている。

「早いもんだよな。この間、葉月の卒業式があったと思ったら、今度は菜月の入学式だ」

 この春から高木家の次女の菜月は、長女の葉月も通った小学校へ入学する。さすがに当時の教員は誰もいないが、校舎自体は変わりない。

「それだけ子供たちの成長が早いということよ。私も年を取るわけだわ」

「年を取っても和葉は綺麗だ。自分の妻を周囲に自慢できるかと思えば、ワクワクするな」

「またそんなことばかり。
 春道さんの口の上手さは、どこの学校で習ったのかしらね」

「和葉と出会って自然に覚えたのさ。
 さて、そろそろ行くか」

 今回は菜月の入学式なので、好美や実希子の両親はいない。その代わり、幼稚園に通ってる頃から和葉が頑張って関係を構築してきたママ友がいる。
 家事全般だけでなく、対外の人間関係も和葉が一手に引き受けてくれている。春道は参加を打診された際に、会合などへ出席するだけだ。

   *

 小学校から指定された駐車場に車を止め、そこからは徒歩で会場となる体育館へ向かう。葉月で色々とイベント事は経験させてもらってきたが、こと小学校の入学式に関しては初めてだった。

 春道が葉月と知り合ったのは、彼女が小学校の低学年の時であり、それ以前については当人や和葉に教えてもらった情報しか持っていない。
 だが菜月の場合は、生まれた時から見守ってきた。幼稚園の卒園式などもである。だからといって葉月との愛情に差をつけたりはしない。二人とも春道にとっては最愛の娘なのだ。

 ただ緊張はする。何事も初めてというのは期待感より不安が大きくなるものだ。
 用意された保護者席に座り、入学式の開始を待つ。娘が絡むと相変わらず極度に緊張する和葉は、他の人にバレないようそっと春道の上衣の裾を握り締めていた。

「菜月のことだから心配ないと思うけど、大丈夫かしら」

「問題ないだろう。彼女ならきっとそつなくこなすよ」

「そうよね。ありがとう、春道さん」

 微笑みかける和葉に、春道が返したのは戸惑いだった。

「俺、何も言ってないんだけど」

「――え?」

 二人揃って背後を見る。するとそこには何故かビシッと決めた戸高夫妻がいた。

「に、兄さんに祐子さん? まさか菜月の入学式を見に来たの?」

「ついでにね。主目的は宏和のことさ」

「宏和君がどうかしたの?」

「ああ。春からここに転校することになったんだ」

 微塵も想定していなかった情報に、無意識に和葉が素っ頓狂な声を上げた。
 厳かな雰囲気が高まりつつあっただけに目立ち、数多くの視線が何事かと和葉に突き刺さる。
 慌てて自身の手で口を押さえた和葉は、視線で実兄の泰宏にどういうことなのかを問いかける。

「菜月ちゃんが通うと知ってね。転校したいと宏和が喚いたんだ。仕方ないから、こっちに家を借りることにした。祐子が一緒に住んで、世話をする。和葉には迷惑をかけないよ。
 ……多分、それほどには」

 途中からどんどん自信を失いつつあったのは、泰宏がそのつもりでも、彼の妻である祐子が同様の方針を取るとは限らないからだろう。
 兄妹とはいえ、今は別々の家庭を築いている。文句はあれど、必要以上に介入するつもりは和葉も春道もなかった。転校すると決めたなら、そうかと言うしかない。

「俺も主にこちらの家を使うことになると思う。実家は昔からのお手伝いさんに任せるよ。もちろん俺も祐子もこまめに実家には帰るから安心してくれ」

「安心も何も、兄さんがそう決めたのなら仕方ない――ん?」

 会話の途中で、和葉は自身の足元に黒い何かがあるのに気づいた。
 彼女の視線を追いかけた春道も確認する。黒い何かというのは蜘蛛だった。
 それも、この近辺にはなかなか存在してないだろうなというくらい巨大な蜘蛛である。
 足元にあった蜘蛛を、軽いため息をつきつつ、あっさりと和葉は拾い上げる。

「そうよね。転校云々の話であれば、宏和君も来ているわよね。悪戯は結構だけど、入学式の最中に他のご両親へしては駄目よ」

 祐子の足元で見つからないように丸まっていた宏和は、注意を受けて気まずそうに立ち上がった。小学生だけに、男児といえども身長はまだまだ低い。
 わかったと返事をして、受け取った蜘蛛の玩具を半ズボンのポケットにしまう。宏和はジャケットに半ズボンという、まるで入学式に参加するような服装だった。

「ずいぶんとめかし込んでいるのね」

 和葉の問いかけに、宏和を自身の膝の上に乗せた祐子が答える。

「入学式の前に、校長先生との面談がありましたので。当たり前ですが、無事に転校は認められました」

「話もいいけど、そろそろ入学式が始まるぞ」

 予期せぬ戸高夫妻の登場で春道はおろか、和葉でさえもこの瞬間まで緊張を忘れていた。その点だけは、感謝していいのかもしれない。

 音楽が鳴り、新一年生が入場してくる。小学校は高校に比べて数が多いのもあり、生徒数が分散されるため二クラスでも足りる。菜月が歩いてきたのは、最初のクラスだった。
 隣の愛妻に揺さぶられながらも、軸をずらさずに撮影を続ける技術を身に着けた春道は慌てない。しっかりと高木家二女の行進姿をビデオカメラに収める。

   *

 入学式が終われば、保護者も子供たちのクラスへ移動する。教室独特の懐かしい香りを嗅ぎながら、椅子に座っている愛娘を見る。
 名前を呼ばれれば満面の笑みで返事をし、周囲の子供たちとの雑談にもフレンドリーに応じる。相変わらず外面は子供ながらにして完璧だった。
 そうした面は母親似だと思うのだが、うっかりとこぼして隣の妻を悪鬼羅刹化させないように気を付ける。

「……春道さん、今、よからぬことを考えてたわね」

「気のせいだ」

 直感が鋭すぎる和葉と視線を合わせないようにする。必然的に菜月を見る形になり、楽しそうな様子に安堵と嬉しさを覚える。
 戸高家の面々はさすがに教室まではついてきておらず、体育館で別れた。今頃は家族仲良く、どこかのレストランで食事でもしているのではないだろうか。

 担任の教師は中年の女性。少しふくよかで眼鏡をかけており、優しそうな口調と雰囲気がある。生徒達の晴れ舞台に合わせて、教員もワンピースにジャケットで身なりをきちんと整えている。

「皆さんは今日から小学生になりました。明日から先生と一緒に、多くの事を楽しく学んでいきましょう」

 小学生らしく、児童たちが「はーい」と元気に返事をする。菜月のそのうちの一人だ。
 普段の大人びた言動や態度とは違い、どこから見ても普通の小学生である。

「周りの環境に合わせて、上手くやっていけそうね。学校でも私の真似をして、大人じみた口調を使わないか心配だったけど」

「菜月なら心配いらないだろ」

 基本的に天真爛漫な葉月とは違い、菜月は計算高い性格だ。とはいえ徹しきれない部分もあり、そこが彼女の可愛いらしい魅力の一つだったりする。

   *

 入学式後の簡単な説明も終わり、児童と保護者が一緒に帰れるようになる。席を立った菜月は、真っ先にこちらへ来て和葉の手を握った。

「ママ、帰ろ」

「そうね。途中で食事でもしていきましょうか」

 正午に近い時間なので、昼食をとるには問題ない。他の保護者の方に挨拶をしつつ、三人で教室を出る。

 真ん中で菜月を挟む形で歩いていると、校門を出たあたりで急に黒い影が降ってきた。
 菜月の目の前を通過して、彼女の足元に落ちたのはどこかで見た覚えのある巨大な蜘蛛だった。

 チッ。舌打ちをした菜月から、可愛らしい黒のワンピース姿とは不似合いな禍々しいオーラが放出される。
 怖がって悲鳴を上げたりはしない。ワンピースと同じ色の靴で巨大蜘蛛の玩具を踏みつけ、さらにはおもいきり蹴り飛ばす。

 肛門の斜め前にあった電柱に勢いよくぶつかり、巨大蜘蛛は力なく地面に転がる。すると電柱の陰から泣きそうな顔の宏和が姿を現した。
 さすがというべきか、巨大蜘蛛を見た時点で本物かどうかはおろか誰の仕業かも菜月は見抜いていたのである。

 もしかしたら、宏和が隠れている場所すら見当をつけていた可能性がある。そういえば蜘蛛が降ってきた直後、菜月と和葉は即座に電柱のある方向を見ていたような気がする。
 この親にして、この娘ありか。心の中の台詞を悟られないようにしつつ、春道は一人で苦笑する。

「何するんだよ」

 冷徹な言葉で切って捨てるのではなく、抗議してくる宏和を菜月は無視した。
 最初からそこには何もいないという態度で、和葉に早く食事へ行こうと訴える。

「こ、この玩具は高いんだぞ。ぼ、僕に謝れ」

「ママ。私、お寿司がいいな」

「ぼ、僕に」

「校門で立ち止まってると他の人の迷惑になるから、早く行こう」

 無視される辛さか寂しさか、とうとう宏和が泣き出す。何度目かもわからない光景に、さすがの和葉も呆れ気味にため息をつく。
 だが菜月を叱りつけたりすると、逆に宏和が調子に乗るのであえて口は出さない。近くで様子を見守ってるはずの戸高夫妻も助太刀には来ない。

 やがて一人ぼっちなのを自覚した宏和は、ボロボロと涙をこぼしながら菜月のワンピースの袖を掴んだ。

「お願いだから、遊んでよぉ」

「それなら、くだらない悪戯をしないで、最初からそう言いなさい」

 まるで悪戯っ子と母親の会話である。ちなみに叱りつけているのは、小学生になったばかりの少女――菜月だ。

「ところで、どうして宏和がここにいるのよ」

 呼び捨てにされても文句一つ言わなくなった宏和が、転校の事実を告げる。
 さして驚きもせず、菜月は「ふうん」と言ったあとで小悪魔的な笑みを作る。

「さてはあんた、前の学校で一人も友達を作れなかったんでしょ」

 ぎくりとした様子を宏和が見せる。どうやら図星だったようだ。

「どうせ今回みたいに、誰彼構わず悪戯をして回った挙句に嫌われたんでしょ。それでも繰り返すんだから処置なしだわ」

「だ、だって、そうしないと皆、遊んでくれないだろ」

「どうしてそう思うのよ」

「大人は皆、忙しそうに歩き回ってるじゃないか。僕を見てくれるのは、悪戯をした時だけだ。だから……」

 悪戯好きな理由の一端を思わぬ形で知ることになった。
 話を聞いた和葉がジト目で塀のある家と面している道路の曲がり角を見る。どうやらそこに戸高夫妻は隠れているようだ。

 広い家で構ってもらえず、寂しいから悪戯を仕掛けて強制的に遊んでもらっていた。そこから誰かとコミュニケーションを取るには悪戯が一番だと誤解してしまったのだろう。

「あのね、これからは友達が欲しいのなら、素直にそう言いなさい。悪戯は禁止。いいわね? じゃないと二度と遊んであげない」

「うう……わ、わかったよう」

 よほど菜月と遊びたいのか、不承不承ながらも宏和は悪戯をしないと誓った。
 そのタイミングで、校門前に戸高夫妻がやってくる。姿を現した地点は、やはり和葉が目星をつけていた曲がり角だった。

「はっはっは。宏和の悪戯癖が治りそうで何よりだよ」

「兄さん。最初から菜月を利用するつもりだったわね」

「誤解だよ。
 そもそも宏和が、菜月ちゃんと同じ学校に通いたいと駄々こねたんだ」

「ちょ、ちょっとパパ!?」

 とんでもない暴露を当人の目の前でされ、かわいそうなくらい宏和が慌てふためく。どうしていいかわからずに、最終的に宏和は母親の祐子の足元に抱きついた。

「私ばかり相手にするのはと思って、たまに一人で遊ばせてみたりしたの。それがこんな悪戯好きに成長させるなんてね。小学生になって同年代の子と接すればと思ったんだけど、逆効果だったみたい。
 私が注意しても聞いてくれないから、荒療治じゃないけど菜月ちゃんと同じ学校へ通うのを承諾したのよ。
 ありがとう、菜月ちゃん。これで宏和の悪戯癖も少しは良くなりそうだわ」

「……まあ、いいですけど。これの世話を今後数年間はすることになると思うと頭痛がするわ」

「はっはっは、いいじゃないか。お礼に今日は俺がご馳走するよ。お寿司だったね。皆で食べに行こう」

 父親の泰宏の提案を聞いた瞬間、宏和が泣きべそ顔を一変させる。

「感謝しろよ」

「じゃあ行かない」

「え!?
 あ、あの、その……い、一緒にお寿司を食べてください」

 おろおろしたあとで、言われる前に宏和はお願い口調に変わった。どうやら早くも主従関係が構築されたようである。

「喧嘩するほど仲が良い、か。そんな感じかな」

 菜月と宏和。二人のやりとりを見ながら、春道はそんな台詞を呟く。
 視線の先には宏和にまとわりつかれて鬱陶しそうにしながらも、どことなく楽しげな菜月がいた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

パート先の店長に

Rollman
恋愛
パート先の店長に。

【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら

瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。  タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。  しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。  剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。

今日の授業は保健体育

にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり) 僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。 その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。 ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

キャバ嬢とホスト

廣瀬純一
ライト文芸
キャバ嬢とホストがお互いの仕事を交換する話

処理中です...