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葉月の高校編
本物の友達
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体育祭やソフトボール部の春の地区大会が終わり、南高校は次なる行事の文化祭へ向かって突き進む。
高校生になって初めての文化祭となるので楽しみにしていたが、その前に中間テストという名の試練が待っていた。
地区では進学校とされ、文武両道が当たり前とされてるだけに、所属する部活で好成績を収めたからといって赤点は許されない。テストの期日が近づいてくると、練習の厳しい野球部の人間であろうと参考書と睨めっこしなければならない。
葉月たちのグループの中で成績優秀な好美は余裕。次いで頭の良い柚もさほど気負ってはいない。葉月はあまり自信はなかったが、それはトップに近い点数を得られるかというものである。赤点を取らないということに限定されるなら、可能性は低いだろうと思っていた。
誰より窮地に立たされているのは、勉強するより体を動かしたい、好美や菜月曰くゴリラな実希子である。高校に入学して以降、授業中でも大口を開けて寝ていたりするらしい。そのたびに担当教師に叱責されているらしいのだが、当人はどこ吹く風なのだと好美が教えてくれた。
頭を抱える好美の前で、トレードマークのポニーテールを揺らして「ナハハ」と実希子が笑う。放課後に市内の図書館で勉強を開始してたった数分で、早くも彼女は音を上げていた。
試験前というのもあって、ソフトボール部の練習は休みになっていた。
その代わり勉強に全力を費やし、赤点だけは回避するようにと監督の田沢良太から厳命されている。赤点を取った生徒は、追試に合格するまでの間、部活での練習は禁止するとも。
葉月たちはそうなんだ程度の認識だったのだが、一人だけ深刻度の違う人間がいた。それが実希子である。号泣しそうな表情で好美にすがりつき、このままじゃ部活できないと叫んだらしかった。
その実希子のための勉強である。好美が先生役となり、マンツーマンで教えている。高校受験の際にやったのと同じ勉強方法だった。
葉月は柚と一緒に参考書を広げていたのだが、ここで新たな問題が発覚する。
「……嘘。全問不正解だわ」
驚愕の声を漏らしたのは柚である。彼女の視線の先には、申し訳なさそうな御手洗尚がいる。
「尚ちゃん。私立の中学校にいたわよね?」
「そ、そうだけど、私立の生徒が全員、頭が良いわけじゃないし。だから私はこっちの高校に来たわけだし……」
話してるうちから、どんどん尚の声が小さくなっていく。
「私立だからさ、お金を積めば入れたりもするわけでさ、両親が行けって。でも私には場違いでさ、中学入ってすぐに失敗したなって思ったの」
頭が悪いから、嫌われないように媚を売って自分の居場所を得るしかなかった。それが他の誰かを虐めるという行為でも躊躇わなかった。犠牲となったのが、今は行動を共にする柚である。
「私はアホだから、そのうちに自分も偉いと勘違いするようになってね。グループから外れたら虐められるのは間違いないだろうから、気に入られるためにお小遣いでカラオケ奢ったりとかさ。
今にして思えば財布代わりにグループに入れられてただけだよね。それで調子に乗ってたんだから、つくづく救いようがないわ」
自虐的に話す尚に、葉月はなんて声をかけたらいいかわからなかった。
「傍から見てれば一目瞭然だっただろうし、柚ちゃんも私の立ち位置には気づいてたんでしょ?」
「……そうね。でも、怖かったのに変わりはないわ。高校に入って尚ちゃんの顔を見た時、その場にへたり込みそうになったもの。
地元へ逃げ帰って来たのに、追ってこられたかと思ったわ。情けない自分を知られたくなくて、葉月ちゃんたちには隠そうとしたけど無理だった。尚ちゃんの声を聞いただけですくみ上ってしまったもの」
「ごめん……」
二人揃ってその時の状況を思い出しているのだろう。重苦しい雰囲気になる。見れば二人で勉強している好美と実希子も、こちらを気にしているみたいだった。
「謝らなくていいわ。私はもう尚ちゃんを許しているもの。
でも、それと関係なく虐めの記憶や恐怖はなくならない。何かの拍子に思い出して、たまらなく怖くなるの。虐めは最低の行為だと思う。
そして私はその行為を葉月ちゃんにしてしまった。だから、尚ちゃんに文句を言う資格はないのよ」
誰も何も言えないでいると、柚が笑って立ち上がった。
「私のせいで暗くなっちゃったわね。ごめんなさい。何か飲み物を買ってくるわ。何がいい? あ、もちろんお金はあとで貰うわよ」
「何だ、奢りじゃないのかよ」
「当たり前でしょ。特に実希子ちゃんに奢ったりしたら、一日で私の財布が空になっちゃうわよ」
軽口を叩きながら、柚が一人でジュースの自動販売機が設置されている図書館の外へ向かう。飲み食いが禁止されてるわけではないので、よほど汚く散らかさない限りは注意されたりしない。
葉月の妹の菜月も、休日には母親の和葉にお弁当を作ってもらって、一日中図書館で過ごしたりするらしい。そのため彼女は司書の大半と知り合っているみたいだった。今日も菜月の姉というだけで、葉月たちは歓迎されたくらいである。
「私、柚ちゃんを手伝ってくる。これくらいで許されたりはしないだろうけどね。少しずつでも、償えるようにしたいんだ」
「そっか。ま、いいんじゃねえか。間違いは誰にでもあるしな」
「だからといって、赤点を取るまでテストの問題を間違えていいわけじゃないわ。実希子ちゃんはひたすら勉強しなさい」
*
実希子と好美のやりとりに笑った尚が柚を追いかけてから、十五分程度が経過した。二人はまだ戻ってこない。
飲みたいジュースがなくて、他の自動販売機を探しに行ったのだろうか。気になった葉月も外へ出てみることにした。
菜月がよく利用するこの図書館は、葉月の子供時代からある。壁のところどころに入ったひび割れが年季を感じさせる。利用者用には小さな個室が二つほどと、葉月たちのいる大部屋がある。
個室は予約制で強い人見知りの子など特殊な事情がある場合に貸し出されるらしい。葉月は利用した経験がなかった。
大部屋は広大なホールみたいな感じで、出入口からすぐのところに貸し出しのカウンターがあって、そこに司書が二人ほど座っている。奥には司書用の小部屋がある。
司書カウンターから見渡せるような配置で、木製の長机が三つ部屋に対して縦並びで置かれている。机を挟む形で椅子があり、一つの長机で詰めれば三十人くらいが座れる。それが三つあるので、頑張れば百人くらいは同時に利用できるかもしれない。
もっとも、昔から利用していた葉月でもそこまで混雑しているのは見たことがなかった。今日も葉月たち以外に利用者はいない。
長円形の形の部屋の奥には、丸まった壁に沿うようにして無数の本棚が置かれている。二階部分もあり、合計すると数えきれないほどの本がある。漫画の種類なども揃っているため、活字には興味を示さない実希子でも利用できるのが特徴だ。
だがこの図書館では、インターネットやスマホの影響なのか、利用者は減少の一途を辿っているらしかった。菜月は人が少なくてゆっくりできると気に入っているみたいだが。
図書館の大部屋と出入口は一本道であり、歩けばすぐに外へ出る。専用の駐車場があり、車であれば五台程度が利用できる。自転車置き場もある。
ジュースの自動販売機が設置されているのは、図書館の敷地から出て左方向に少し歩いた場所だった。そこまで行ってみるも、柚と尚の姿はない。
「やっぱり他の自動販売機を二人で探しに行ったのかな」
図書館に戻りつつ、スマホで連絡を取ろうと考える。スカートのポケットに入れていたのを右手に持った時、建物の裏側の方から物音が聞こえたような気がした。
「何の音だろう? 柚ちゃんたちが犬か猫でも見つけて遊んでるのかな」
呑気な考えを抱きながら歩を進めると、物音だけでなく声も聞こえるようになった。
「もう一度言ってみてくれる? 私の耳が遠くなったのかしら」
誰のかは知らない声のあと、尚のだとわかる声が怒りにまみれた台詞を作った。
「何回でも言ってやるわよ。私はもうアンタたちの仲間じゃない。だから柚ちゃんを虐めたりしない!」
「柚ちゃん? ずいぶんと仲良くなったのね。私達に媚を売って、手先にしてもらっていたアホの子のくせに。ああ、だからかしら。いじめられっ子にアホの子でお似合いだものね」
「そうだね。だから私達のことは放っておいて。興味なんてないはずでしょ。大体、どうしてこの町にいるのよ」
「尚の学校の奴に図書館にいるって聞いたから、わざわざ様子を見に来てあげたのよ。ついでにカラオケとかショッピングも楽しもうと思ってね」
「私にお金をたかりにきたんでしょ。残念だけど、アンタたちにあげるお金なんて一円もないわ」
「へえ……ずいぶんと偉そうな口をきくようになったわね。私、悲しいわ」
不穏な空気が、葉月のいる場所まで伝わってくる。続いて聞こえたのは尚と柚の悲鳴。もう一刻の猶予もなかった。
「そこで何してるの!」
飛び出した葉月に、全員の注目が集まる。
「――尚ちゃん!? 柚ちゃんも大丈夫!?」
建物に寄りかかるようにして、尚が地面にお尻をついていた。両手でお腹を押さえ、顔は苦しげに歪んでいる。
一方の柚も壁に半身を預けて両足を震わせている。恐怖と不安のせいで、自力で立っていられないのだろう。今にも泣きそうで、とても弱々しい。
怒りで今にも飛びかかりたくなった葉月の肩を、後ろから誰か引っ張った。振り返ると、いつの間にか実希子と好美が立っていた。
葉月に尚と柚を任せ、実希子が前に出る。相手は三人ほどいるが臆したりしない。むしろ得体の知れない威圧感に、向こうがたじろいでいる感じだった。
「ああ、今度はこの人たちに媚を売ってるのね。相変わらず一人では何もできないみたいね」
「それはお前もだろ」
睨みつける実希子の剣幕に押され、軽く舌打ちしたリーダー格らしき黒髪に軽くパーマをかけた女が、仲間に帰るわよと告げた。
「懸命な判断だと思うわ。私もこれを使う必要がなくてよかった」
好美が右手に持ったスマホを操作すると、女たちと尚とのやりとりが再生された。葉月が知らないうちに近づいてただけでなく、会話の録音もしていたのである。
「脅すつもり?」
「私立の高校なんでしょ? バレたら大問題になると思うわ」
「お生憎様。それくらい揉み消せるわ」
「マスコミやネットに流されても? 特にネットは怖いわ。炎上したら手が付けられないもの」
もう一度、リーダー格の女が舌打ちする。今度は葉月たちに聞こえるくらい大きなものだった。
「わかったわよ。私もそんなに暇じゃないしね。あげるわ、その財布。便利だから有効に使いなさいな」
クスクス笑いながら、女たちがこの場を去ろうとする。
小声で好美が実希子に「殴りかかったら駄目よ」と注意していた。
「わかってるよ。アタシもそこまで考えなしじゃないって。ムカつくのは事実だけどな」
女たちの背中が見えなくなったところで、実希子がパアンと自分の手のひらを叩いた。
「尚ちゃん、大丈夫?」
安全になったからには、残る問題は尚の安否である。どうやら腹部を殴ったり蹴られたりしたみたいで、今も痛がっている。
顔を覗き込む葉月の隣に、柚も力なく座り込んだ。青白い顔で、瞳には涙を溜めている。
「ごめんなさい。尚ちゃん、守ってくれたのに、私……怖くて一歩も動けなかった。本当にごめんなさい」
とうとう柚の両目から涙がこぼれる。
心からの懺悔を受けた尚は、いいのよと返す。
「怖くて当然よ、私だって正直、足が震えてたもの。漏らさなくてよかったくらいよ。私は、こんな恐怖を柚ちゃんに与えてたんだね」
涙で顔を濡らす柚に、尚がスカートのポケットからハンカチを手渡す。
「こんなのを三年間も受けてたら、誰だってトラウマになるわ。それを与えた私が、同じ恐怖を知らないなんて不公平よ。それに連中と縁が切れたみたいでホッともしているの。聞いたでしょ。彼女らは私を財布にしか思ってなかった。
でも、柚ちゃんたちは違う。こんな私にも普通に接してくれる。軽くない罪を犯したのに、虐めるわけでもなく。輪の中に入れてもらって思ったんだ。私も本物の友達を作りたいって」
「尚ちゃん……」
葉月と柚が見つめる中、尚の頭を軽く実希子が叩いた。
「ちょっと怪我人に何をしてるのよ」
好美の抗議に「だってよ」と実希子が肩を竦める。
「尚が変なこと言うからさ。本物も何も、アタシらはもう友達じゃねえか。今さらだろ」
今度は尚が泣き出す番だった。
「そう、だね。今さらだね……ぐすっ。実希子ちゃん、ありがとう」
「だから礼を言うことじゃねえよ」
今度は優しく尚の頭を撫でた。
幸いにして尚の腹部の怪我も酷くなく、図書館に戻って休んでるうちにかなりよくなった。
そしてこの日以降、柚と尚のぎくしゃく感はだいぶ薄れていく。
互いに笑顔を見せるようになり、二人は本物の友達となるべく一歩ずつ距離を詰めていくのである。
高校生になって初めての文化祭となるので楽しみにしていたが、その前に中間テストという名の試練が待っていた。
地区では進学校とされ、文武両道が当たり前とされてるだけに、所属する部活で好成績を収めたからといって赤点は許されない。テストの期日が近づいてくると、練習の厳しい野球部の人間であろうと参考書と睨めっこしなければならない。
葉月たちのグループの中で成績優秀な好美は余裕。次いで頭の良い柚もさほど気負ってはいない。葉月はあまり自信はなかったが、それはトップに近い点数を得られるかというものである。赤点を取らないということに限定されるなら、可能性は低いだろうと思っていた。
誰より窮地に立たされているのは、勉強するより体を動かしたい、好美や菜月曰くゴリラな実希子である。高校に入学して以降、授業中でも大口を開けて寝ていたりするらしい。そのたびに担当教師に叱責されているらしいのだが、当人はどこ吹く風なのだと好美が教えてくれた。
頭を抱える好美の前で、トレードマークのポニーテールを揺らして「ナハハ」と実希子が笑う。放課後に市内の図書館で勉強を開始してたった数分で、早くも彼女は音を上げていた。
試験前というのもあって、ソフトボール部の練習は休みになっていた。
その代わり勉強に全力を費やし、赤点だけは回避するようにと監督の田沢良太から厳命されている。赤点を取った生徒は、追試に合格するまでの間、部活での練習は禁止するとも。
葉月たちはそうなんだ程度の認識だったのだが、一人だけ深刻度の違う人間がいた。それが実希子である。号泣しそうな表情で好美にすがりつき、このままじゃ部活できないと叫んだらしかった。
その実希子のための勉強である。好美が先生役となり、マンツーマンで教えている。高校受験の際にやったのと同じ勉強方法だった。
葉月は柚と一緒に参考書を広げていたのだが、ここで新たな問題が発覚する。
「……嘘。全問不正解だわ」
驚愕の声を漏らしたのは柚である。彼女の視線の先には、申し訳なさそうな御手洗尚がいる。
「尚ちゃん。私立の中学校にいたわよね?」
「そ、そうだけど、私立の生徒が全員、頭が良いわけじゃないし。だから私はこっちの高校に来たわけだし……」
話してるうちから、どんどん尚の声が小さくなっていく。
「私立だからさ、お金を積めば入れたりもするわけでさ、両親が行けって。でも私には場違いでさ、中学入ってすぐに失敗したなって思ったの」
頭が悪いから、嫌われないように媚を売って自分の居場所を得るしかなかった。それが他の誰かを虐めるという行為でも躊躇わなかった。犠牲となったのが、今は行動を共にする柚である。
「私はアホだから、そのうちに自分も偉いと勘違いするようになってね。グループから外れたら虐められるのは間違いないだろうから、気に入られるためにお小遣いでカラオケ奢ったりとかさ。
今にして思えば財布代わりにグループに入れられてただけだよね。それで調子に乗ってたんだから、つくづく救いようがないわ」
自虐的に話す尚に、葉月はなんて声をかけたらいいかわからなかった。
「傍から見てれば一目瞭然だっただろうし、柚ちゃんも私の立ち位置には気づいてたんでしょ?」
「……そうね。でも、怖かったのに変わりはないわ。高校に入って尚ちゃんの顔を見た時、その場にへたり込みそうになったもの。
地元へ逃げ帰って来たのに、追ってこられたかと思ったわ。情けない自分を知られたくなくて、葉月ちゃんたちには隠そうとしたけど無理だった。尚ちゃんの声を聞いただけですくみ上ってしまったもの」
「ごめん……」
二人揃ってその時の状況を思い出しているのだろう。重苦しい雰囲気になる。見れば二人で勉強している好美と実希子も、こちらを気にしているみたいだった。
「謝らなくていいわ。私はもう尚ちゃんを許しているもの。
でも、それと関係なく虐めの記憶や恐怖はなくならない。何かの拍子に思い出して、たまらなく怖くなるの。虐めは最低の行為だと思う。
そして私はその行為を葉月ちゃんにしてしまった。だから、尚ちゃんに文句を言う資格はないのよ」
誰も何も言えないでいると、柚が笑って立ち上がった。
「私のせいで暗くなっちゃったわね。ごめんなさい。何か飲み物を買ってくるわ。何がいい? あ、もちろんお金はあとで貰うわよ」
「何だ、奢りじゃないのかよ」
「当たり前でしょ。特に実希子ちゃんに奢ったりしたら、一日で私の財布が空になっちゃうわよ」
軽口を叩きながら、柚が一人でジュースの自動販売機が設置されている図書館の外へ向かう。飲み食いが禁止されてるわけではないので、よほど汚く散らかさない限りは注意されたりしない。
葉月の妹の菜月も、休日には母親の和葉にお弁当を作ってもらって、一日中図書館で過ごしたりするらしい。そのため彼女は司書の大半と知り合っているみたいだった。今日も菜月の姉というだけで、葉月たちは歓迎されたくらいである。
「私、柚ちゃんを手伝ってくる。これくらいで許されたりはしないだろうけどね。少しずつでも、償えるようにしたいんだ」
「そっか。ま、いいんじゃねえか。間違いは誰にでもあるしな」
「だからといって、赤点を取るまでテストの問題を間違えていいわけじゃないわ。実希子ちゃんはひたすら勉強しなさい」
*
実希子と好美のやりとりに笑った尚が柚を追いかけてから、十五分程度が経過した。二人はまだ戻ってこない。
飲みたいジュースがなくて、他の自動販売機を探しに行ったのだろうか。気になった葉月も外へ出てみることにした。
菜月がよく利用するこの図書館は、葉月の子供時代からある。壁のところどころに入ったひび割れが年季を感じさせる。利用者用には小さな個室が二つほどと、葉月たちのいる大部屋がある。
個室は予約制で強い人見知りの子など特殊な事情がある場合に貸し出されるらしい。葉月は利用した経験がなかった。
大部屋は広大なホールみたいな感じで、出入口からすぐのところに貸し出しのカウンターがあって、そこに司書が二人ほど座っている。奥には司書用の小部屋がある。
司書カウンターから見渡せるような配置で、木製の長机が三つ部屋に対して縦並びで置かれている。机を挟む形で椅子があり、一つの長机で詰めれば三十人くらいが座れる。それが三つあるので、頑張れば百人くらいは同時に利用できるかもしれない。
もっとも、昔から利用していた葉月でもそこまで混雑しているのは見たことがなかった。今日も葉月たち以外に利用者はいない。
長円形の形の部屋の奥には、丸まった壁に沿うようにして無数の本棚が置かれている。二階部分もあり、合計すると数えきれないほどの本がある。漫画の種類なども揃っているため、活字には興味を示さない実希子でも利用できるのが特徴だ。
だがこの図書館では、インターネットやスマホの影響なのか、利用者は減少の一途を辿っているらしかった。菜月は人が少なくてゆっくりできると気に入っているみたいだが。
図書館の大部屋と出入口は一本道であり、歩けばすぐに外へ出る。専用の駐車場があり、車であれば五台程度が利用できる。自転車置き場もある。
ジュースの自動販売機が設置されているのは、図書館の敷地から出て左方向に少し歩いた場所だった。そこまで行ってみるも、柚と尚の姿はない。
「やっぱり他の自動販売機を二人で探しに行ったのかな」
図書館に戻りつつ、スマホで連絡を取ろうと考える。スカートのポケットに入れていたのを右手に持った時、建物の裏側の方から物音が聞こえたような気がした。
「何の音だろう? 柚ちゃんたちが犬か猫でも見つけて遊んでるのかな」
呑気な考えを抱きながら歩を進めると、物音だけでなく声も聞こえるようになった。
「もう一度言ってみてくれる? 私の耳が遠くなったのかしら」
誰のかは知らない声のあと、尚のだとわかる声が怒りにまみれた台詞を作った。
「何回でも言ってやるわよ。私はもうアンタたちの仲間じゃない。だから柚ちゃんを虐めたりしない!」
「柚ちゃん? ずいぶんと仲良くなったのね。私達に媚を売って、手先にしてもらっていたアホの子のくせに。ああ、だからかしら。いじめられっ子にアホの子でお似合いだものね」
「そうだね。だから私達のことは放っておいて。興味なんてないはずでしょ。大体、どうしてこの町にいるのよ」
「尚の学校の奴に図書館にいるって聞いたから、わざわざ様子を見に来てあげたのよ。ついでにカラオケとかショッピングも楽しもうと思ってね」
「私にお金をたかりにきたんでしょ。残念だけど、アンタたちにあげるお金なんて一円もないわ」
「へえ……ずいぶんと偉そうな口をきくようになったわね。私、悲しいわ」
不穏な空気が、葉月のいる場所まで伝わってくる。続いて聞こえたのは尚と柚の悲鳴。もう一刻の猶予もなかった。
「そこで何してるの!」
飛び出した葉月に、全員の注目が集まる。
「――尚ちゃん!? 柚ちゃんも大丈夫!?」
建物に寄りかかるようにして、尚が地面にお尻をついていた。両手でお腹を押さえ、顔は苦しげに歪んでいる。
一方の柚も壁に半身を預けて両足を震わせている。恐怖と不安のせいで、自力で立っていられないのだろう。今にも泣きそうで、とても弱々しい。
怒りで今にも飛びかかりたくなった葉月の肩を、後ろから誰か引っ張った。振り返ると、いつの間にか実希子と好美が立っていた。
葉月に尚と柚を任せ、実希子が前に出る。相手は三人ほどいるが臆したりしない。むしろ得体の知れない威圧感に、向こうがたじろいでいる感じだった。
「ああ、今度はこの人たちに媚を売ってるのね。相変わらず一人では何もできないみたいね」
「それはお前もだろ」
睨みつける実希子の剣幕に押され、軽く舌打ちしたリーダー格らしき黒髪に軽くパーマをかけた女が、仲間に帰るわよと告げた。
「懸命な判断だと思うわ。私もこれを使う必要がなくてよかった」
好美が右手に持ったスマホを操作すると、女たちと尚とのやりとりが再生された。葉月が知らないうちに近づいてただけでなく、会話の録音もしていたのである。
「脅すつもり?」
「私立の高校なんでしょ? バレたら大問題になると思うわ」
「お生憎様。それくらい揉み消せるわ」
「マスコミやネットに流されても? 特にネットは怖いわ。炎上したら手が付けられないもの」
もう一度、リーダー格の女が舌打ちする。今度は葉月たちに聞こえるくらい大きなものだった。
「わかったわよ。私もそんなに暇じゃないしね。あげるわ、その財布。便利だから有効に使いなさいな」
クスクス笑いながら、女たちがこの場を去ろうとする。
小声で好美が実希子に「殴りかかったら駄目よ」と注意していた。
「わかってるよ。アタシもそこまで考えなしじゃないって。ムカつくのは事実だけどな」
女たちの背中が見えなくなったところで、実希子がパアンと自分の手のひらを叩いた。
「尚ちゃん、大丈夫?」
安全になったからには、残る問題は尚の安否である。どうやら腹部を殴ったり蹴られたりしたみたいで、今も痛がっている。
顔を覗き込む葉月の隣に、柚も力なく座り込んだ。青白い顔で、瞳には涙を溜めている。
「ごめんなさい。尚ちゃん、守ってくれたのに、私……怖くて一歩も動けなかった。本当にごめんなさい」
とうとう柚の両目から涙がこぼれる。
心からの懺悔を受けた尚は、いいのよと返す。
「怖くて当然よ、私だって正直、足が震えてたもの。漏らさなくてよかったくらいよ。私は、こんな恐怖を柚ちゃんに与えてたんだね」
涙で顔を濡らす柚に、尚がスカートのポケットからハンカチを手渡す。
「こんなのを三年間も受けてたら、誰だってトラウマになるわ。それを与えた私が、同じ恐怖を知らないなんて不公平よ。それに連中と縁が切れたみたいでホッともしているの。聞いたでしょ。彼女らは私を財布にしか思ってなかった。
でも、柚ちゃんたちは違う。こんな私にも普通に接してくれる。軽くない罪を犯したのに、虐めるわけでもなく。輪の中に入れてもらって思ったんだ。私も本物の友達を作りたいって」
「尚ちゃん……」
葉月と柚が見つめる中、尚の頭を軽く実希子が叩いた。
「ちょっと怪我人に何をしてるのよ」
好美の抗議に「だってよ」と実希子が肩を竦める。
「尚が変なこと言うからさ。本物も何も、アタシらはもう友達じゃねえか。今さらだろ」
今度は尚が泣き出す番だった。
「そう、だね。今さらだね……ぐすっ。実希子ちゃん、ありがとう」
「だから礼を言うことじゃねえよ」
今度は優しく尚の頭を撫でた。
幸いにして尚の腹部の怪我も酷くなく、図書館に戻って休んでるうちにかなりよくなった。
そしてこの日以降、柚と尚のぎくしゃく感はだいぶ薄れていく。
互いに笑顔を見せるようになり、二人は本物の友達となるべく一歩ずつ距離を詰めていくのである。
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