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葉月の小学・中学校編

春道の誕生日

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 葉月の夏休みも終わり、残暑も段々と落ち着きつつある今日。
 何か特別な日なのかと質問をされれば、すぐに答えられる。
 何故なら、春道の誕生日だからだ。

 とはいえ、最近の和葉は家事に育児にと忙しい。忘れているなら別に構わず、無理に祝ってもらうつもりはなかった。
 朝から普通に過ごし、昼ご飯を食べて午後も仕事をする。
 誕生日だからとワクワクしたのは子供の頃だけで、大人になれば歳を重ねるだけの、ある意味で恐ろしいイベントに他ならなかった。

 コンコンと、春道の仕事部屋のドアがノックされた。春道がこちらの部屋にいる時は、和葉も葉月も滅多にやってこない。春道が一階で、家族とともに食事をとるようになってからはなおさらだ。
 何か緊急事態でも発生したのかと心配しながら、ドア向こうにいる誰かに返事をする。

「どうぞ」

 中へ入るのを促した直後に、遠慮気味にドアが開いた。廊下から姿を現したのは愛娘の葉月だった。
 菜月や和葉のことで困りごとでもできたのだろうか。向かい合っていた仕事用のノートPCから手を離して、部屋へ入ってきた葉月の方を向く。

「どうかしたのか?」

 相手を怯えさせたりしないよう、意識して春道は優しげな声を出した。

「あ、あのね。お仕事、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ。何か用があるなら、遠慮なく言っていいぞ」

 少し前、赤ちゃん返りをしていた葉月に、春道はある約束をした。
 それは和葉が菜月に構いっぱなしになってる間は、自分が葉月のものになるという内容だった。以降は意識して葉月と遊ぶようにした。
 それが原因となって、予想外にも妻の嫉妬を買ってしまったのは先日の話だ。
 その時の光景を思い出してる春道の前で、葉月はパっと顔を輝かせた。

「じゃあね、お出かけしよっ」

「お出かけ?」

 いきなりの提案に、春道は驚く。

「一体どこにだ」

 春道に好意を抱いており、いつでも一緒に遊びたがる。実際にそうしないのは、仕事をする春道に葉月が気を遣ってくれているからだ。
 その愛娘が誘ってきたのだから、よほど行きたいところがあるのだろう。
 しかしそういう場合は大抵、友人の好美らと一緒に出かけたりする。こんなふうに葉月から外出を提案するのは珍しかった。

「今日はパパの誕生日でしょ。遊んでもらってるお礼に、葉月がお祝いするのっ!」

 ようやく愛娘の真意を理解できた春道の顔に、自然と笑みがこみ上げてくる。
 お祝いを期待していなかったとはいえ、娘に先ほどみたいな台詞を言われれば、父親なら誰だって嬉しくなる。
 泣きそうにならないよう注意しながら、作業中だったノートPCの動作を終了させる。本日分はほとんど終わったも同然だったので、残りは帰宅後でも十分に間に合う。

「葉月が俺をエスコートしてくれるのか。それは楽しみだな」

「うんっ! 葉月ね、一生懸命考えたんだよー」

 そうかと頷きつつも、にこにこ笑顔の愛娘をとりあえず廊下に出す。

 家にいる春道は基本ジャージ姿だ。近くのコンビニへ行くだけならまだしも、きちんと外出するならそれなりの服に着替える必要がある。
 ジーンズに袖の長いシャツというシンプルなものではあるが、部屋着よりはマシなはずだ。
 着替え終えた春道が廊下へ出ると、小学校から帰ってきたままの恰好の葉月がじっと待っていた。

「さて、最初はどこへ案内してくれるんだ?」

「えへへ、こっちだよー」

 葉月が春道の右手を握ってくる。引っ張るように少しだけ前を歩き、まずは一階まで移動する。
 リビングにいた和葉に出かけてくる旨を告げ、葉月と一緒に家を出る。
 少し前にストレスを爆発させたおかげか、今回は変なやきもちを焼かれずに済んだのは幸いだった。

   *

 春道の誕生日をお祝いしたいと、大張りきりの葉月に連れて行かれたのは自宅近くにある大型のスーパーだった。

 ここの三階にはシアターがある。五十席くらいの小さなところだが、一応は映画館になる。
 近場では他に映画が見られる場所はない。遠出をせずに映画を見たいのであればDVDになるのを待つか、ここのシアターで上映してくれるのを期待するしかなかった。

 春道自身、映画館に来るのはずいぶんと久しぶりなような気がした。そのせいか少しだけテンションが上がる。

「映画館とは予想外だったな。それで何を見るんだ?」

「もちろん、これだよっ!」

 笑顔の葉月が指を差す。その先に視線を向けると、入り口付近に貼られているポスターへ辿り着く。可愛らしいアニメのキャラクターが描かれており、ひと目で子供向けの内容なのがわかる。

「夏休みに好美ちゃんたちと一緒に来て、凄く楽しかったんだよ。だから、パパにも見せてあげようと思ったの」

 事前に前売り券を購入していたらしく、チケットを係員に手渡す。子供たちだけで何度か来ているのか、葉月は入館の手続きに慣れていた。
 中へ入れるようになってから、春道の方を振り返って手招きをする。他にも中へ入りたがっているお客さんがいるので、いつまでも入口付近で立ち尽くしてるわけにもいかない。
 覚悟を決めて、葉月が待っているところまで歩いていく。

 館内のイスに座り、上映を待っている時点で、すでに春道の存在は浮いていた。なにせ周囲には子供の――それも女の子のお客さんしかいないのだ。背もたれから、大きく上半身をはみ出させているのは春道くらいのものだ。

 館内が薄暗くなり、映画が始まる。どこかで聞いたことのあるタイトルだと思ったら、よく葉月が自宅で見てるアニメと同じだった。
 そういえば以前に、友人たちと映画を見に行くと離していたのを思い出す。もしかしたら、これのことだったのかもしれない。

 春道も隣で熱中する葉月と一緒になって見てみたが、そもそも地上波での放映をきちんと見たことがないのだから、登場キャラクターも含めて内容を理解できるはずもなかった。
 ふと隣の席を見ると、愛娘が身を乗り出し加減にスクリーンへ熱中していた。一度見たはずなのに、ここまで楽しめるのだから本当に好きなアニメなのだろう。
 スクリーンに映し出されるキャラの動きに合わせて、堰の上で小刻みに揺れている葉月の姿がなんとも微笑ましかった。

 やがて本編が終わり、じっくりとエンディングまで堪能したあとで葉月が春道を見てきた。

「面白かったねー」

 小さな鼻腔を興奮気味にふっくらさせ、心の底からの感想を教えてくれる。ひとつひとつに相槌を打ちながら、春道は愛娘の言葉を楽しく聞き続ける。
 そのうちに葉月が急激に表情を曇らせた。

「そ、そうだ。今度はケーキでも食べようよ」

 ぐいぐいと腕を引っ張られる。シアターを出て、同じ三階内にある軽食も取り扱っているカフェに入る。
 店員のウェイトレスに案内された席に座る。葉月にはお目当てのものがあるらしく、メニューも見ずに定員へ注文をした。
 けれど返ってきたのは予想外の答えだった。

「申し訳ありません。あのケーキは夏の間だけの商品でして……」

「え……え……そ、そうなん……だ……」

 本当に申し訳なさそうなウェイトレスが水を置いて奥へ戻る間も、葉月は呆然とその背中に見送った。

「夏限定のケーキか。葉月はそれが食べたかったのか?」

 愛娘はようやくこちらを向いてくれたが、明らかに元気はなかった。俯き加減になったかと思ったら、今度は鼻をすすりだした。

「お、おい、どうしたんだ」

「ぐすっ。だ、だって……葉月、パパを喜ばせようと思ったんだけど、全然、うまくいかなくて。映画だって、考えてみれば、パパにはよくわからない内容だったはずだし……」

 ひっくひっくと肩を上下させながら、葉月は嗚咽を漏らす。

「ここのケーキもね。すっごい美味しいオレンジのケーキがあってね。いつかパパにも食べさせてあげようと思ってたのに、葉月……きちんと確認しなかったから……う、うぐっ、うええ……」

 正面に座っている愛娘は、今にも号泣しそうだった。春道は腕を伸ばして、髪の毛を優しく撫でる。
 エスコートの内容がどうこうではなく、葉月が自分で考えて、春道の誕生日をお祝いしてくれたのが何より嬉しかった。
 手作りのケーキもありがたいけれど、こういうのも悪くはない。心からそう思った。

「俺は葉月がお祝いしてくれるだけで嬉しいよ。今日は人生で一番楽しい誕生日だ」

 素直に感謝の気持ちを伝える。

「……本当?」

「ああ、本当だ。だから、そろそろ泣くのはやめてくれ。限定のはないけど、美味しいケーキを食べて帰ろう」

「うんっ」

 春道に頭を撫でられ続けていた葉月が、ようやく笑顔に戻ってくれた。
 二人で一緒に美味しそうなケーキを注文し、仲良く食べる。学校での出来事などを楽しそうに話してくれる顔を見てると、とても幸せな気分になれた。

   *

「それはよかったですね」

 帰宅した春道と葉月から話を聞いた和葉は、リビングで笑顔を浮かべた。先日と違って、奇妙なプレッシャーを感じないので安心してよさそうだ。

「ママの誕生日にも、二人で食べにいこうねー」

 念のためなのか、葉月がフォローの発言をした。

「ありがとう。楽しみにしているわね」

 普段から仲の良い母娘らしい会話に、自然と春道の目も細まる。年齢を重ねていくのは喜ばしいと思えなかったが、こうした時間を過ごせるのなら悪くない。

「さあ、葉月も春道さんも席についてください。晩御飯を食べましょう。今夜は春道さんの好きなものをメインに作っていますからね」

「あ、葉月もお料理運ぶの手伝うー」

 母娘で賑やかにしながら、春道の好物ばかりだという夕食を食卓まで運んできてくれる。すぐに美味しそうなにおいが室内に充満する。たっぷりと香りを楽しんでから、皆で箸をつける。

「やっぱり、ママの料理は美味しいねー」

「そうだな。和葉の手料理を毎日食べられて、幸せだよ」

 何気なく口にした発言だったんだが、和葉はとてもにこやかな表情で喜んでくれた。一緒に過ごすのに慣れてきたからこそ、機会があれば感謝の気持ちを伝えるべきなのかもしれない。
 もっと妻の態度やしぐさに気を配ろう。そんなふうに考えながら、本当に美味しい料理を平らげる。

「今年は、私が春道さんのケーキを作ってみました。初めて作った種類のものなので、上手にできてるか不安なのですが」

 そう言って和葉が冷蔵庫から持ってきてくれたのは、オレンジ色が実に鮮やかなケーキだった。

「前に葉月から、食べたオレンジのケーキが美味しかったという話を聞いていたので、試しに作ってみました」

「マ、ママ、すっごーいっ」

 春道よりも先に、愛娘が強烈な興味を示す。今にもかぶりつきそうな勢いだったので、苦笑しながら和葉が制した。

「少しだけ、我慢しなさい。せっかくですから、春道さん……パパに年齢の数だけローソクを消してもらいましょう」

「お、おいおい。ケーキにローソクを29本も突き立てる気なのか? さすがに多すぎだろ」

 懸命に訴えたが、楽しそうな母娘に春道の言葉は届かなかった。
 きちんと年齢の数だけ用意されていた小さなローソクに、チャッカマンで葉月が火をつける。全部に炎が灯ったところで、和葉が部屋の電気を消す。
 特有のやわらかい明かりに照らされた妻と愛娘の顔を見ながら、春道はローソクの炎を吐息で消した。任務完了となったところで、再び電気がつけられる。

「春道さん。お誕生日、おめでとうございます」

「パパ、おめでとー」

 いつの間に用意していたのか、お祝いの言葉とともに妻と娘がプレゼントを手渡してくれた。包み紙を開けると和葉のは腕時計で、葉月のはネクタイだった。

「とても嬉しいよ、ありがとう。
 さあ、皆で和葉の作ってくれたケーキを食べよう」

「うんっ。葉月ね、さっきからお腹がぐーぐー鳴ってるの」

 愛娘の発言に和葉が苦笑する。

「料理を食べたばかりでしょうに」

「甘いものは別腹なのですー」

 葉月が唇を尖らせたあとで笑う。

「だから、早く食べよー」

 和葉が皆の分をとりわけてくれた。
 三人でケーキを美味しくたべていると、葉月がふと口を開いた。

「早く、菜月も一緒にケーキを食べられるようになるといいねー」

「そうだな」

 春道は笑顔で頷いた。
 愛娘の願いは、さほど遠くない未来に叶うはずだ。
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