勇者のいない世界で

玄城 克博

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Ⅲ Archer

3-3 弓使い対――

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 椿優奈という少女について、俺が知っている事はあまりに少ない。

 以前は謳歌の所属する千雅高校に通っていたらしいという事、年齢、というより学年は俺や由実、謳歌に白岡、後はもし生きていたなら勇奈とも同じ二年生だという事。まともな個人情報としてはせいぜいがそのくらいだ。

 共に過ごしたごく短い時間でわかった事は、料理が上手いという事、犬よりも猫が好きだという事、人に気を使い過ぎる傾向があるという事、その他諸々の性格や好み、他にも得意な事や苦手なものといったいくつかの内面的な特徴についてのみ。

 記憶喪失である椿から住所や家族構成、生い立ちなどについて聞く事は無かった上、今の好みや性格が記憶を失う前と同じである確証も無く、俺はいまだ椿について理解しているとはとても言い難い。

 それでも、そんな断片的な情報からでも、椿はその性格も外見も勇奈のそれとまるっきり違う事は明らかで、だからこそ今までこのような事は無かったのに。

「椿、か」

 今だけ、一瞬だけ、椿が勇奈に見えてしまっていた。

 だが、勇奈でなく椿であっても、今この場にいるのは十分におかしい。俺が家を出た時点で既に眠りに就いていた椿が、こんなにタイミング良く助けに現れるはずが無い。

「……まぁ、椿でもありますけど」

 椿の拗ねたような態度の理由がわからないほどには、俺も愚鈍ではない。だが、椿がその事で機嫌を損ねるとしても、俺に椿を『ユウナ』と呼ぶ事はできなかった。

「ほら、後ろ来るぞ」

 全力の七射を無効化された由実は、だが即座に次の狙撃に移っていた。完全に校舎に背を向けてしまっていた椿に、光速で迫る矢に対応する余地も無く。

「ぁう! うぅ、痛い……」

 背後からの一撃をもろに喰らった椿は、背を反らせながら由実へと向き直る。

「痛い、で済むのか」

 紛う事無い直撃、それも胴体への一撃を喰らって何ともない耐久力は常人のそれを遙かに超え、副会長のような前衛職すら比較にもならない規格外。それほど驚きの感情が無いのは、七つの矢を苦も無く弾いた前例、そして初対面の時の椿を見ていたからだった。

「帰るぞ、椿」

「えっ、でも、これはゲームじゃないんですか?」

「いや、もういいんだよ。いいからさっさと帰ろう」

 呑気に会話をしている間も、由実の狙撃は止まらない。しかし、椿が手を翳すと、その先で光の矢のほとんどは消失していた。

「でも、まだこっちに撃ってきてますよ?」

「いいんだって、多分追ってまでは来ないから」

 食い下がる椿の腕を引いて、校舎を背にする。椿が防いでくれているおかげで、もたついている今も俺に矢は届かない。

「あの、宗耶さん? もしかしてですけど、怒ってます?」

「はは、助けられておいて怒るわけ無いじゃないか」

 どちらにせよ負けていた勝負。痛い思いをせずに済み、なおかつ勝敗すらあやふやになってくれるのであれば、少なくとも俺にとってはまったく不都合は無い。

 問題があるとすれば、由実から見てこの状況がどう映っているかであり、それを考えると気分は否応なしに曇らざるを得なかった。それこそ、この場は敗北しておいた方が良かったとすら思ってしまうくらいに。

「まぁ、とりあえずありがとう、椿」

 しかし、それでも身を挺して俺を守ってくれた椿に礼は言っておくべきだ。

「いえ、いつもお世話になってますから。このくらい気にしないでください」

 言葉の通り、椿は今も背後から追ってくる光の矢をまったく微動だにしない。何か障壁の類を展開して防御に向けているようだが、大して集中もせずにそんなものを保ち続けられる力は、俺や由実とは格が違うとすら言えた。

「でも、どうして俺をここまで助けに来れたんだ?」

「えっと、なぜかついさっき目が覚めてしまって。それで目を開けたら部屋に宗耶さんがいなかったので、何か嫌な予感がして……」

 椿の声が徐々にしぼんでいく。

 椿自身も上手く説明できないのだろう。嫌な予感がしたから、そして俺が学校にいるような気がしたから急いで駆け付けたなんてのは、いささか正気とは言い難い。

 ならば、それも椿のジョブの持つ異能か、それとも特性か。

 そもそも、俺達は自分達の異能について完全に理解しているとは言い難い。

 誰に説明を受けたわけでもなく、ただいつの間にか手に入れていた力。俺の自己催眠や由実の曲射も、気付いていなかった力の性質を知ったからこそ使えるようになったスキルであり、きっとまだ気付いていない力だってあるのだろう。

「それで、助けに来てくれたわけだ」

 そんな立場で適当な事を言うわけにもいかず、椿の言葉を継ぐだけに留めておく。

「その力は――」

 続けて椿への質問を口にしようとして、口を含めた全身の動きが止まる。

 極大の悪寒。

 第六感が優れているなどという自負も無く、すでに未来視を展開していなかった俺にもはっきりと感じられる、重力と錯覚しかねない程の圧が体を呑み込む。

「…………」

 椿も気付いたのか、無言で後ろへと振り向いた。

 だが、遅い。感じた悪寒は、既に放たれた矢によるものなのだから。

 そう、それは何の変哲も無い矢だった。眩いばかりに輝いているわけでもなければ、軌道が不自然に変化するわけでもない、木と鉄から成るただの矢。

 物理法則に縛られたその速度は光速を誇る光の矢とは比較にならず、音にも劣るほどだろうが、それでも人間が容易く回避できるような速度ではない。あるいは椿なら避けられたのかもしれないが、射線上に俺のいる状態での回避は選べない。

 椿の選んだのは、障壁による迎撃だった。

 そもそも、由実の光の矢の威力は普通の矢とほぼ同等。そして更に、力を溜めて放つ事によってその威力は加速度的に上がっていく。由実が必殺を期して放った七つの光矢すらも受け止めた椿の障壁が、一本の鉄矢程度に撃ち破られるはずも無い。

 だが、それならばわざわざ由実が鉄の矢などを放った意味とは何か。この局面において放たれたそれは、由実の力を応用した切り札と呼ぶにふさわしいものだった。

「……っ」

 まるで当然のように障壁を貫いた矢は、迎撃に動いた椿の右腕へと直撃し――そして跡形も無く消え去っていった。

 言ってしまえば、純粋な力負け。

 極大の悪寒を放った由実の切り札、矢という物体を核にする事で力の集約性を格段に跳ね上げた渾身の一撃も、椿がただ腕を振るう力にすら及ばなかったのだ。

「逃げましょう、宗耶さん」

 由実も敗北を悟ったのか、逃げる俺と椿の背へそれ以上矢が飛んでくる事はなかった。
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