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出発
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ぱちりと目が開く。酷く不恰好に手足を投げ出して寝ていたのに気がついたのは、自分の節々がぎしぎしと軋みを上げてからだった。越智姫はどこか緩慢に起き上がる。見上げると、亡者達が心配そうにこちらの様子を窺っているようだった。
「おはよう」
その何気ない挨拶に、亡者達はほっと胸を撫で下ろしたような気配を漂わせる。亡者達は、フラインの最後を目の当たりにして、次に目覚めた時に越智姫の心が壊れてしまっているのではないかと心配していたのだ。
「越智姫様。ご気分はいかがですか?」
「すこぶる悪い」
返答とは裏腹に意外な程に落ち着いている様子の越智姫に、影達はその心の強さに万感の思いを抱く。
「そうですか……取り乱しておいででしたので、強制的に意識を断たせて頂きましたのでその名残でしょう。すぐに治まります」
「……フライン」
影の言葉を聞き流して、越智姫はフラインがうめいている布団に目を凝らした。
「私はどれほど眠っていたのだ?」
「丸一日と言った所です。その間のフライン殿のお世話はしっかりとやらせて頂きました」
「そうか、済まない。後は私がやろう」
立ち上がり、体がぐらつきかけたのを何とか堪えた。それを見ていた影達は何とも言えない表情をする。
「ですが―――」
「お願いだ―――私にやらせてはくれまいか」
影達は、初めての越智姫からの懇願を無下に拒む事など出来はしなかった。
「ご随意に」
「我々は越智姫様に従いますゆえ」
「ああ、ありがとう」
短く感謝すると、しずしずとフラインの横へと移動して、ぺたりと腰を下した。
「フライン。私はこれからも、ずっとお主の傍にいるぞ。良いだろう? 私達は、恋人同士なのだから」
フラインのもがくように揺れ動く手をしっかりと抱きとめ、真摯にその苦悶に歪んだ顔を見詰める。
それからの1週間は、以前と変わらぬように甲斐甲斐しくフラインの世話をしていた。しかし時折耐えきれずに嗚咽を漏らすようになり、影達はその度に毒にも薬にもならない事を言って慰めていた。
ある日の事。影達が気が付くと、越智姫は奇妙な事をした。あの焼け爛れた黒電話を見詰め、側へ座ったかと思うと、受話器を取り上げ耳を当てて、デタラメなダイヤルを回していたのだ。当然電気が通っていないどころか、そもそもこの国には話し相手等いないと言うのに、越智姫は発信音すらない受話器に耳を当てて、ぶつぶつととても小さな声で、力無く呟いている。
「……けて……くれ」
何事か、と亡者共は越智姫の傍へと移動する。
「――――!」
そして亡者達は衝撃の余り、言葉を失った。
「たすけて……フラインを助けてくれ……誰か……フラインを……たす・……けてくれ……誰か……」
必死に、祈るように固く目をつむりながら、何度も何度も、壊れた機械のように、フラインの助けを求める。影達はとても見ていられず、その場から離れて顔つき合わせる。
「このままでは越智姫があまりに可哀想だ」
「それを言うならフライン殿もだ。あの者は未だに生き地獄の真っ只中にいるのだから」
「どうにかせねばなるまい。いずれにしろ―――」
「お前達。来ておくれ……」
奥から越智姫の力無い声が呼んだ。影達は、その言葉に従い越智姫のもとへと参る。
「いかがなさいました、越智姫様」
影達が着くと、越智姫は何時の間にかフラインの隣へと戻っていた。フラインの顔を眺めて、しばらく、何かに悩むように手がふらりふらりと中空をさ迷っていたが、やがてその手で、フラインの顔を愛でるようにゆっくりと撫でさする。そして、おもむろに口を開いた。
「私は、考えたのだ。このままではフラインはずっと苦しみが続く。そんな事は耐えられない。やはり、フラインを国に帰してやろうと思う」
愛おしむようにフラインの顔をさすりながら、一語一語をはっきりと口にした。その決断に、影達はゆらゆらと体をゆする。
「ですが、そんな事をすればあなたはまた―――」
「良いのだ。私は、娘を産もうと思う。だが、次代の死神を産むのではないぞ。結果的にはそうだろうが……。私は、私の娘を産むのだ。私と……フラインの子を……」
影達に向いていないその目は、真剣そのものだった。しかし、それでも影達は聞かずには、確認せずにはいられない。
「な、なんと……」
「本気ですかい」
「ああ。その為に、お前達に手管を教えてほしいのだ」
突然飛び出した単語に、影達は面食らった。一体どこでそんな言葉を覚えてきたのかと、父親のように心配してしまう。
「越智姫様、手管などと品の無い表現はおやめください。……本当に、お子を設けられる気なのですか」
その質問に、越智姫は憂いを帯びた表情をひらめかせる。
「やはり、一人は寂しい。耐えられぬからな。だが、愛しい者との子と一緒ならば……私はがんばれる気がする」
その言葉を得て、亡者達はお互いに見合わせると、頷いた。これはもう、越智姫のやりたいようにさせてやるしかないのだろう。
「わかりました。では、今からお教えしますので、その通りになさってください。まず―――」
翌晩。朝の内では影が動けないので、日が落ちてからフラインの乗ってきたという船へと向かう事になった。夕暮れの日もすっかりなりを潜めて、冷ややかな空気が忍び寄る頃。越智姫は出かけるための準備をしていた。身の回りの品はすぐに揃えられたが、衣服をタンスから抜き出してからが悩みどころであった。何を着ようと、フラインは何も見ることはかなわないのだが、だからこそ越智姫はそこにこだわりたかった。
「ううむ、どれにするかのう」
小首を傾げて悩む姿に、影達は複雑な眼差しを向ける。そうしている様はまるで年相応の娘そのものなのだが、現実を取り巻く環境はあまりにも過酷に過ぎた。
「……やはり、あの服しかないな」
散々悩みぬいた末に、越智姫は一着の服を選択した。
越智姫が服装の選択に手間取っている内に、影達は手早くフラインと越智姫を担ぐための輿を用意していた。意識の無いフラインに、越智姫がずっと付き添っていられるように、大きさも工夫されている。
「越智姫様、準備は宜しいですかな」
未だに家屋の中にいる越智姫へと声を掛けると、すっと静かに歩み出てきた。
「ああ、待たせたな」
「その格好は……」
影達はその服装に目を見張る。ひらひらのフリルのついた、ドレスを着ていた。それはもちろん、かつて越智姫がフラインと共に選んだ特別な衣装に間違いなかった。
「やはり、この格好が一番相応しいのではないかと思ってな……。なあ、構わぬだろう?」
その許しを請うような悲哀の瞳に、何を言うべき事があるというのだろうか。
「越智姫様、どうして我々にそれを咎める事が出来るでしょう。良く、お似合いですよ」
「ふふ、そうか。ありがとう」
暖かそうに微笑むと、フラインが丁寧に横たえられている輿の上へと乗り込んだ。亡者達はそれを見越して、ゆっくりと輿を持ち上げる。
「さあ、行こう。フラインの為に」
この山奥から海岸線までの距離は、とても一朝一夕で踏破できるものではなかった。どれだけ急いでも10日はかかる道のりだ。しかも夜の間にしか移動できないとなればなおさらだった。だが、越智姫はそれ程急いでもいなかった。たった一度では不安だったので、動けない日中に何度も何度も交わった。回を重ねる事に、越智姫は自分だけが快楽に溺れそうになるのをこらえるのに必死だった。
フラインとの遠出が、まさかこのような形になったのは残念だが、それでも越智姫はフラインと一緒に風景の移ろいを見やり、丁寧にその詳細や感想をフラインへと囁いて聞かせていた。その途中。越智姫は家で過ごした二人の良き思い出を、とつとつと語って聞かせる。フラインはその話しに何も反応してはくれなかったが、心の中では繋がっているのだと彼女は頑なに信じていた。
「ああ、あそこの桜は実に見事な咲き様だったな。明松火を焚いてやった夜桜見物は、この世のものとも思えぬ程美しかったなあ」
「のう、あの河で二人、魚捕りをしたなあ。あの時は、肉を食べるのを嫌がった私をお主が叱ってくれたのだ。お主が怒ったのは、後にも先にもあの一度きりだった。嬉しかったぞ。真剣に私の身を案じて怒ってくれて、嬉しかった」
「そうそう、満天の夜空の下、二人で何するでもなく寝そべって星を眺めていた事もあったか。お主が語って聞かせてくれた星座の物語は、どれもとても面白かった」
「あのでぱあとで、私達の服を見繕ったな。私はこのドレスを着せられて……あれは本当に恥かしかったのだからな。でも、その時お主がしきりに喜んでくれて、着てよかったと心の底から思えたぞ」
「私達の物語りは、もう、後幾つ残っていたかな……」
そして、17日目の夜を迎える。
潮騒の音に紛れて、時折鳥の鳴き声が響き渡る。見渡す限りの濃紺に、月光が澄み渡る。その反射光を受けて光りのくずを散らしたような寄せては返す波間に、それとは相容れない巨大な影が落ちている。フラインの乗ってきた高速小型艇だ。乗る者も寄る者も無く、ただひっそりと砕ける波に身を任せ、微動だにせず沈黙している。越智姫は、その闇色の物体を見上げ、全く未知のその形状に見を見張った。
「これがフラインの船か……」
フラインを影へと託し、ざぶざぶと波にドレスの裾を絡めとられるのも気にせず、越智姫は船へと近付いた。船首の間近に迫り、そっと船体へ触れると、冷やりとした不思議な感触がある。
「よし、己が中を見てきますよ」
影の一人が、越智姫の側へとやってきた。
「頼む」
頷き、亡者の一人がゆるゆると船の中へと消える。越智姫は、影達からフラインを受け取り、その頭を胸にかかえて心持強く抱き締める。海辺では少しばかり強い潮風が吹きつけてくる。越智姫は長い黒髪をベタつく風に翻弄されながらも、風から庇うようにフラインを抱き締め続ける。幾ばくかの時が過ぎ、やがて亡者が揚々と帰ってきた。
「いやあ、永年放っておかれていたわりには全然問題なさそうですぜ。ただ、己には機械の事はわかりませんので……」
「良い。どうせ領域内ではまともに機械は動かんのだから。ならばお前の眷属に海を引かせてやってくれ」
「わかってますぜ。では、船の中へ……」
影達に助けてもらい、フラインと共に船の中へと乗り込んだ。見渡すと寝台らしいものが目に入ったので、そこへ丁寧に横に寝かせる。越智姫は、その横に座すとフラインの顔を覗き込んだ。自分の髪は風に吹かれるままに放っておいたが、フラインの乱れを優しく手でより分ける。
「お別れだ、フライン。私は、お主に会うまでは本当に独りだけだった。お主がいてくれた生活は、新しい発見ばかりで、ただただ毎日が楽しかった。感謝しているのだ、本当に。お主は、向こうの国に着いた時に、以前の言葉通りに私を恨むかもしれない。その時は恨んでくれてもいい。私は、その後にお主が幸ある人生を送れる事をここでずっと祈り続ける。私以外の誰かを好きになって、愛してしまっても、私はそれを吉報として受けいれる。そして、私の娘にも、私には、心の底から愛した人がいたのだと伝えておく。ただ、私達が愛し合った事をお主が覚えていないのが残念だが……。その証は、ずっとここにあるのだ」
越智姫はそういってお腹をさする。そしてまたフラインに顔を向けた。
「お別れだ、フライン。私はお主を忘れない。絶対に、忘れない」
言葉を終え、しばらくフラインの顔を見詰める。相変わらずの苦痛に歪んだ顔だが、越智姫にはそれがこの上なく愛しい。フラインの胸に両手を置いて、しなだれかかるように少し身を乗り出す。片方の手を、フラインの手に絡ませて、顔を近づけ、永い永いキスをした。唇を離した後も名残惜しそうに固まっていたが、夜明けが近い事を知ると立ち上がった。最後に、戸口から一度だけ振り返ったが、未練を断ち切るように慌てて船を降りた。
「では、やってくれ」
「はい。それでは――」
影が奇妙な動作を取ると、水平線の彼方から5つの影がぐんぐんと近寄ってくる。やがてそれらは海岸線ギリギリでストップし、一斉に水面に顔を出した。
「キューキュー」
「ほう、これがいるかという奴か。愛嬌のある顔だな」
「お前達、あの船を、彼の国へと届けてくれ。道々でどこからやってきたのかを仲間に聞くがいい。では、必ず届けるのだ」
「キュー」
いるか達は一鳴きすると水に潜った。船に近づき、そして移動させる。徐々に船は海へと押し戻され、ぐらりと大きく揺れ、完全に水に浮かんだ。いるか達はもう一度水面に顔を出し、やがて緩やかに船を引き始めた。
「………………」
遅々として遠ざかる船の後姿を、越智姫は眺めていた。朝日が水平線の向こうからさし込んで、黄金の線を浮かび上がらせる。
「フライン!! もし、もしお主が覚えていたら―――許してくれるなら―――望むなら―――」
その先の言葉は潰える。その代わりに、紡がれるのは歌。死者達の魂揺さぶる歌を、越智姫は船に向かって歌い続ける。
越智姫の最後の言葉も、歌も、船室で深い眠りについているフラインのもとまでは届いていないはずだった。しかし、フラインは地獄のような夢の中で、確かに、最愛の人の言葉を受け取ったような気がした。
「おはよう」
その何気ない挨拶に、亡者達はほっと胸を撫で下ろしたような気配を漂わせる。亡者達は、フラインの最後を目の当たりにして、次に目覚めた時に越智姫の心が壊れてしまっているのではないかと心配していたのだ。
「越智姫様。ご気分はいかがですか?」
「すこぶる悪い」
返答とは裏腹に意外な程に落ち着いている様子の越智姫に、影達はその心の強さに万感の思いを抱く。
「そうですか……取り乱しておいででしたので、強制的に意識を断たせて頂きましたのでその名残でしょう。すぐに治まります」
「……フライン」
影の言葉を聞き流して、越智姫はフラインがうめいている布団に目を凝らした。
「私はどれほど眠っていたのだ?」
「丸一日と言った所です。その間のフライン殿のお世話はしっかりとやらせて頂きました」
「そうか、済まない。後は私がやろう」
立ち上がり、体がぐらつきかけたのを何とか堪えた。それを見ていた影達は何とも言えない表情をする。
「ですが―――」
「お願いだ―――私にやらせてはくれまいか」
影達は、初めての越智姫からの懇願を無下に拒む事など出来はしなかった。
「ご随意に」
「我々は越智姫様に従いますゆえ」
「ああ、ありがとう」
短く感謝すると、しずしずとフラインの横へと移動して、ぺたりと腰を下した。
「フライン。私はこれからも、ずっとお主の傍にいるぞ。良いだろう? 私達は、恋人同士なのだから」
フラインのもがくように揺れ動く手をしっかりと抱きとめ、真摯にその苦悶に歪んだ顔を見詰める。
それからの1週間は、以前と変わらぬように甲斐甲斐しくフラインの世話をしていた。しかし時折耐えきれずに嗚咽を漏らすようになり、影達はその度に毒にも薬にもならない事を言って慰めていた。
ある日の事。影達が気が付くと、越智姫は奇妙な事をした。あの焼け爛れた黒電話を見詰め、側へ座ったかと思うと、受話器を取り上げ耳を当てて、デタラメなダイヤルを回していたのだ。当然電気が通っていないどころか、そもそもこの国には話し相手等いないと言うのに、越智姫は発信音すらない受話器に耳を当てて、ぶつぶつととても小さな声で、力無く呟いている。
「……けて……くれ」
何事か、と亡者共は越智姫の傍へと移動する。
「――――!」
そして亡者達は衝撃の余り、言葉を失った。
「たすけて……フラインを助けてくれ……誰か……フラインを……たす・……けてくれ……誰か……」
必死に、祈るように固く目をつむりながら、何度も何度も、壊れた機械のように、フラインの助けを求める。影達はとても見ていられず、その場から離れて顔つき合わせる。
「このままでは越智姫があまりに可哀想だ」
「それを言うならフライン殿もだ。あの者は未だに生き地獄の真っ只中にいるのだから」
「どうにかせねばなるまい。いずれにしろ―――」
「お前達。来ておくれ……」
奥から越智姫の力無い声が呼んだ。影達は、その言葉に従い越智姫のもとへと参る。
「いかがなさいました、越智姫様」
影達が着くと、越智姫は何時の間にかフラインの隣へと戻っていた。フラインの顔を眺めて、しばらく、何かに悩むように手がふらりふらりと中空をさ迷っていたが、やがてその手で、フラインの顔を愛でるようにゆっくりと撫でさする。そして、おもむろに口を開いた。
「私は、考えたのだ。このままではフラインはずっと苦しみが続く。そんな事は耐えられない。やはり、フラインを国に帰してやろうと思う」
愛おしむようにフラインの顔をさすりながら、一語一語をはっきりと口にした。その決断に、影達はゆらゆらと体をゆする。
「ですが、そんな事をすればあなたはまた―――」
「良いのだ。私は、娘を産もうと思う。だが、次代の死神を産むのではないぞ。結果的にはそうだろうが……。私は、私の娘を産むのだ。私と……フラインの子を……」
影達に向いていないその目は、真剣そのものだった。しかし、それでも影達は聞かずには、確認せずにはいられない。
「な、なんと……」
「本気ですかい」
「ああ。その為に、お前達に手管を教えてほしいのだ」
突然飛び出した単語に、影達は面食らった。一体どこでそんな言葉を覚えてきたのかと、父親のように心配してしまう。
「越智姫様、手管などと品の無い表現はおやめください。……本当に、お子を設けられる気なのですか」
その質問に、越智姫は憂いを帯びた表情をひらめかせる。
「やはり、一人は寂しい。耐えられぬからな。だが、愛しい者との子と一緒ならば……私はがんばれる気がする」
その言葉を得て、亡者達はお互いに見合わせると、頷いた。これはもう、越智姫のやりたいようにさせてやるしかないのだろう。
「わかりました。では、今からお教えしますので、その通りになさってください。まず―――」
翌晩。朝の内では影が動けないので、日が落ちてからフラインの乗ってきたという船へと向かう事になった。夕暮れの日もすっかりなりを潜めて、冷ややかな空気が忍び寄る頃。越智姫は出かけるための準備をしていた。身の回りの品はすぐに揃えられたが、衣服をタンスから抜き出してからが悩みどころであった。何を着ようと、フラインは何も見ることはかなわないのだが、だからこそ越智姫はそこにこだわりたかった。
「ううむ、どれにするかのう」
小首を傾げて悩む姿に、影達は複雑な眼差しを向ける。そうしている様はまるで年相応の娘そのものなのだが、現実を取り巻く環境はあまりにも過酷に過ぎた。
「……やはり、あの服しかないな」
散々悩みぬいた末に、越智姫は一着の服を選択した。
越智姫が服装の選択に手間取っている内に、影達は手早くフラインと越智姫を担ぐための輿を用意していた。意識の無いフラインに、越智姫がずっと付き添っていられるように、大きさも工夫されている。
「越智姫様、準備は宜しいですかな」
未だに家屋の中にいる越智姫へと声を掛けると、すっと静かに歩み出てきた。
「ああ、待たせたな」
「その格好は……」
影達はその服装に目を見張る。ひらひらのフリルのついた、ドレスを着ていた。それはもちろん、かつて越智姫がフラインと共に選んだ特別な衣装に間違いなかった。
「やはり、この格好が一番相応しいのではないかと思ってな……。なあ、構わぬだろう?」
その許しを請うような悲哀の瞳に、何を言うべき事があるというのだろうか。
「越智姫様、どうして我々にそれを咎める事が出来るでしょう。良く、お似合いですよ」
「ふふ、そうか。ありがとう」
暖かそうに微笑むと、フラインが丁寧に横たえられている輿の上へと乗り込んだ。亡者達はそれを見越して、ゆっくりと輿を持ち上げる。
「さあ、行こう。フラインの為に」
この山奥から海岸線までの距離は、とても一朝一夕で踏破できるものではなかった。どれだけ急いでも10日はかかる道のりだ。しかも夜の間にしか移動できないとなればなおさらだった。だが、越智姫はそれ程急いでもいなかった。たった一度では不安だったので、動けない日中に何度も何度も交わった。回を重ねる事に、越智姫は自分だけが快楽に溺れそうになるのをこらえるのに必死だった。
フラインとの遠出が、まさかこのような形になったのは残念だが、それでも越智姫はフラインと一緒に風景の移ろいを見やり、丁寧にその詳細や感想をフラインへと囁いて聞かせていた。その途中。越智姫は家で過ごした二人の良き思い出を、とつとつと語って聞かせる。フラインはその話しに何も反応してはくれなかったが、心の中では繋がっているのだと彼女は頑なに信じていた。
「ああ、あそこの桜は実に見事な咲き様だったな。明松火を焚いてやった夜桜見物は、この世のものとも思えぬ程美しかったなあ」
「のう、あの河で二人、魚捕りをしたなあ。あの時は、肉を食べるのを嫌がった私をお主が叱ってくれたのだ。お主が怒ったのは、後にも先にもあの一度きりだった。嬉しかったぞ。真剣に私の身を案じて怒ってくれて、嬉しかった」
「そうそう、満天の夜空の下、二人で何するでもなく寝そべって星を眺めていた事もあったか。お主が語って聞かせてくれた星座の物語は、どれもとても面白かった」
「あのでぱあとで、私達の服を見繕ったな。私はこのドレスを着せられて……あれは本当に恥かしかったのだからな。でも、その時お主がしきりに喜んでくれて、着てよかったと心の底から思えたぞ」
「私達の物語りは、もう、後幾つ残っていたかな……」
そして、17日目の夜を迎える。
潮騒の音に紛れて、時折鳥の鳴き声が響き渡る。見渡す限りの濃紺に、月光が澄み渡る。その反射光を受けて光りのくずを散らしたような寄せては返す波間に、それとは相容れない巨大な影が落ちている。フラインの乗ってきた高速小型艇だ。乗る者も寄る者も無く、ただひっそりと砕ける波に身を任せ、微動だにせず沈黙している。越智姫は、その闇色の物体を見上げ、全く未知のその形状に見を見張った。
「これがフラインの船か……」
フラインを影へと託し、ざぶざぶと波にドレスの裾を絡めとられるのも気にせず、越智姫は船へと近付いた。船首の間近に迫り、そっと船体へ触れると、冷やりとした不思議な感触がある。
「よし、己が中を見てきますよ」
影の一人が、越智姫の側へとやってきた。
「頼む」
頷き、亡者の一人がゆるゆると船の中へと消える。越智姫は、影達からフラインを受け取り、その頭を胸にかかえて心持強く抱き締める。海辺では少しばかり強い潮風が吹きつけてくる。越智姫は長い黒髪をベタつく風に翻弄されながらも、風から庇うようにフラインを抱き締め続ける。幾ばくかの時が過ぎ、やがて亡者が揚々と帰ってきた。
「いやあ、永年放っておかれていたわりには全然問題なさそうですぜ。ただ、己には機械の事はわかりませんので……」
「良い。どうせ領域内ではまともに機械は動かんのだから。ならばお前の眷属に海を引かせてやってくれ」
「わかってますぜ。では、船の中へ……」
影達に助けてもらい、フラインと共に船の中へと乗り込んだ。見渡すと寝台らしいものが目に入ったので、そこへ丁寧に横に寝かせる。越智姫は、その横に座すとフラインの顔を覗き込んだ。自分の髪は風に吹かれるままに放っておいたが、フラインの乱れを優しく手でより分ける。
「お別れだ、フライン。私は、お主に会うまでは本当に独りだけだった。お主がいてくれた生活は、新しい発見ばかりで、ただただ毎日が楽しかった。感謝しているのだ、本当に。お主は、向こうの国に着いた時に、以前の言葉通りに私を恨むかもしれない。その時は恨んでくれてもいい。私は、その後にお主が幸ある人生を送れる事をここでずっと祈り続ける。私以外の誰かを好きになって、愛してしまっても、私はそれを吉報として受けいれる。そして、私の娘にも、私には、心の底から愛した人がいたのだと伝えておく。ただ、私達が愛し合った事をお主が覚えていないのが残念だが……。その証は、ずっとここにあるのだ」
越智姫はそういってお腹をさする。そしてまたフラインに顔を向けた。
「お別れだ、フライン。私はお主を忘れない。絶対に、忘れない」
言葉を終え、しばらくフラインの顔を見詰める。相変わらずの苦痛に歪んだ顔だが、越智姫にはそれがこの上なく愛しい。フラインの胸に両手を置いて、しなだれかかるように少し身を乗り出す。片方の手を、フラインの手に絡ませて、顔を近づけ、永い永いキスをした。唇を離した後も名残惜しそうに固まっていたが、夜明けが近い事を知ると立ち上がった。最後に、戸口から一度だけ振り返ったが、未練を断ち切るように慌てて船を降りた。
「では、やってくれ」
「はい。それでは――」
影が奇妙な動作を取ると、水平線の彼方から5つの影がぐんぐんと近寄ってくる。やがてそれらは海岸線ギリギリでストップし、一斉に水面に顔を出した。
「キューキュー」
「ほう、これがいるかという奴か。愛嬌のある顔だな」
「お前達、あの船を、彼の国へと届けてくれ。道々でどこからやってきたのかを仲間に聞くがいい。では、必ず届けるのだ」
「キュー」
いるか達は一鳴きすると水に潜った。船に近づき、そして移動させる。徐々に船は海へと押し戻され、ぐらりと大きく揺れ、完全に水に浮かんだ。いるか達はもう一度水面に顔を出し、やがて緩やかに船を引き始めた。
「………………」
遅々として遠ざかる船の後姿を、越智姫は眺めていた。朝日が水平線の向こうからさし込んで、黄金の線を浮かび上がらせる。
「フライン!! もし、もしお主が覚えていたら―――許してくれるなら―――望むなら―――」
その先の言葉は潰える。その代わりに、紡がれるのは歌。死者達の魂揺さぶる歌を、越智姫は船に向かって歌い続ける。
越智姫の最後の言葉も、歌も、船室で深い眠りについているフラインのもとまでは届いていないはずだった。しかし、フラインは地獄のような夢の中で、確かに、最愛の人の言葉を受け取ったような気がした。
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