死神の詩

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日常

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 あの日。フラインが越智姫のもとへとやってきたあの日から、二人と影達の不可思議な生活は始まった。しかし、それでも、ここに不幸な人間は誰もいなかった。彼等は皆、自分が望んだ居場所を手に入れることが出来たのだから。フラインは、翌日から越智姫の言う通りに家事仕事を手伝った。今までも影達がなにくれとなく世話を焼いてくれていたが、やはり昼間の人手が必要だったためにフラインの存在は大いに有難いものだった。また、その少年の本来からの穏やかな心は、長く孤独を生きてきた少女にとっては、とても暖かく優しく感じられた。そんなフラインだからこそか、越智姫はすぐにフラインの事を気に入り、気兼ねなく付き合うようになるのにさして時間はかからなかった。
 フラインがやってきてから、二ヶ月余りが過ぎていた。その日は春先には珍しく日差しが強く暑い日だった。朝方はそれでも少し暖かい位か、と思っていたら見る間に気温はぐんぐんと上がっていき、まるで真夏日のような太陽が、容赦無く照りつけていた。
「あー、暑いのう」
 越智姫は洗濯物を終えて、板敷きの上にヒトデのように張りついて唸っていた。全身汗まみれで肌襦袢が身体に張りつく感覚が酷く気持ち悪い。いっその事全て脱ぎ散らかそうか、そう思った時。
「ただいまー」
 慣れた感じの少年の声が響く。越智姫は、はっとなり、危うい所でとんでもなく恥かしい目に合う所だったと頬を染める。が、脱ぎ散らかすのはやめにしても、この姿勢を正すだけの気力はなかった。一緒に暮らし始めた当初は随分と意識していたように思うが、今ではフラインがいるのは当たり前のように感じていた。だからこそか、彼の前で気が緩んでも何思う事も無いのだった。
「固形燃料、街から持ってきたよ……って、うわ」
 フラインは板敷きに転がって未知の生物のようにだれている越智姫を発見して言葉を失う。フラインの足元から視線を上げる越智姫は、その長くまとわりつく黒髪の間から瞳を覗かせて、上目遣いにフラインの顔を見上げる。
「あー……、お帰り、フライン」
 挨拶だけ済ませて、越智姫はまたしてもぐでっと伸びる。そのだらしなさに、フラインは目を覆ってしまう。
「んもう、なんてカッコウだよ。幾ら暑いからって、ちょっと酷いよこれは」
 少し強く非難したが、当の越智姫はどこ吹く風、右から左に聞き流して適当な受け答えをする。
「良いではないか。見られても別に困らぬ」
 どうやら先程の羞恥心はもう影も形もなくなっているらしい事に自分でも気が付いたが、どうでも良くなっていく。暑さで完全に脳がとろけているんだと本気で信じてしまうほど無気力に、ただなすがままに床に広がる。色気なんてかけらもない。だが、このままでは本当にフラインの前でも服を脱ぎかねない。
「僕が困るよ。それにそういう問題じゃないでしょ」
「……あぁー、もう、うるさいのう。お主まで……影供と同じような事を言うでない」
 そこでフラインは、いつもなら真っ先に小言を述べてくれるはずの亡者達の気配がしない事に気がついた。
「あれ? 皆はどうしたの?」
「んう? 何やら用事があるとかでどこぞへと失せた。すぐに戻ると言っていたが、まあ、そのようなことはどうでもよい……うぁー、暑いのぅー……」
 本当に溶けているんじゃないかと疑う程に、越智姫は全力でダラけていた。フラインはそんな姿を直視できずに頭を抱える。
「越智姫様、なんというはしたないっ!!」
「ひゃいっ!?」

 突然の怒声に越智姫は跳ね起きてぴょこんと正座した。すると、いつの間にか戻っていたらしい影達の嘆きとも怒りともつかぬ雰囲気が越智姫を取り囲んでいく。
「越智姫様。我々が少し目を離した隙に、何と言う体たらく。品位が無いにも程がありますぞ!」
「確かに今日は暑いでしょう。だからと言ってダラけてしまえばそれこそ無為にございますよ」
「つーか、己は本気で越智姫様の頭まで溶けたのかと心配しましたぜ」
「良いですか、越智姫様。暑い時に暑いというのは簡単で―――」
 その後、醜態を晒していた天罰か、越智姫は延々と亡者達にくどくどくどくどと説教を受け続けていた。流石に少し哀れに思うフラインだったが、しかしその状況を作り出したのは彼女本人である。これもたまの薬にはいいか、とフラインはそっと場を離れた。背中に突き刺さる強烈な恨みの視線は気にしないように努める。
 それから何刻が過ぎたのか。越智姫は未だに解放されず影達の小言に苛まれていた。
「ですから、普段の心がけというのは――」
「あぅー」
「……越智姫様? いかがなさいました?」
 大人しく説教を聞きつづけていた越智姫の様子がどうもおかしい。その事に気がついた影達が様子を伺おうとする間もなく、突然に
「きゅー」
 ぱたんと人形のように崩れ落ちた。
「うわぁっ!? お、越智姫! 大丈夫!?」
 説教を受け続けていた越智姫の代わりに、洗濯物を取り込んでいたフラインは、カゴを放り出して駆けより抱きかかえる。その身体は驚く程熱がこもっていた。
「越智姫様!?」
「いけねえ、ちっとやりすぎたか?」
 燦燦と直射日光が当る板敷きの上に長い間正座を強制されていたせいか、越智姫は目を回していた。どうやら熱中症の類のようだ。
「は、早く冷やさないと!」
「裏手の川へ連れていこう。フライン殿、すまぬがお願いできるだろうか?」
「もちろん。さ、越智姫、しっかりして」
 亡者達は夜にならねば現界できない。昼日中に越智姫を運べるのはフラインだけだ。フラインは、越智姫を背中に担ぐ。すると、無意識の行動なのか越智姫がしがみつくようにフラインの首へぎゅっと抱きついた。
「わ!?」
 突然の事に越智姫を取り落としそうになったが、何とか持ちこたえる。それを見守る影達から抗議が飛んできた。
「フライン殿、しっかりしてくだされ」
「落として後で怒られるのは己じゃないぜ」
「わ、解ってますよ」
 首から背中にかけて感じる越智姫の熱い体温と、それ以上に熱く感じる二つの膨らみが背中に押しつけられている感触を、フラインは出来るだけ意識しないように念じ続ける。しかしその行為こそが意識しすぎていると言う事に、彼は気が付けなかった。越智姫に教えてもらったいろは歌を心の中で熱唱する。
「ささ、こちらへと」
 影達の声に従い、川へ向かう山道へと足をむける。その最中も、フラインは越智姫に教わったいろは歌を心の中でひたすらにループさせていた。
 いろはにほへとちりぬるおわかよたれそつねならむういやまけふこえてあさきゆめみしえひもせすん いろはにほへとちりぬるおわかよたれそつねならむういやまけふこえてあさきゆめみしえひもせすん いろはにほへとちりぬるおわかよたれそつねならむういやまけふこえてあさきゆめみしえひもせすんいろはにほへとちりぬるおわかよたれそつねならむういやま――。
 その時、足元が小石に取られ、体制を崩しかけたが、何とかこらえる。が、おぶられていた越智姫にもがくりと衝撃が伝わり、その拍子に背中に柔らかいものが押しつけられるように圧迫される。
「―――!!」
 純情な少年であるフラインは、咄嗟に叫び声を上げそうになった。越智姫に当てられたように顔ばかりか二の腕まで熱い。
「フラインどの」
「な、なにっ?」
 剣呑な影の声に、焦って上ずった返事を返した。周りの影達は呆れるような、面白がるような、微妙な空気をふりまいていた。
「女子には慣れておらぬのですか」
「あ、当たり前だよ」
「そうですか。まあ、とにかく落とさぬようにくれぐれもお願いしますぞ」
「う、うん」
 その言葉に、フラインは少しばかり冷静さを取り戻す。そうだ、今は恥かしがっている場合ではない。フラインはそれから、途中何度か抱え直したものの影達に先導され、無事川に辿り着いた。
「越智姫、しっかりして」
 もってきた手ぬぐいを川に浸し、充分水気を残してある程度絞る。それを川原に寝かせた越智姫の額へとあてがった。ぬるくなればすぐに水に浸し、何度かそれを繰り返す。
「どうやら症状としては軽いようだ。直に目も覚まされる事だろう」
 越智姫の影へと潜り込んでいた亡者が、そんな事を言ったので、フラインはやっと安心して、一息ついた。
「良かった……。全く、心臓が止まりそうだったよ」
「私共も冷や汗をかきました」
「原因は確かに越智姫かもしれないけど、君達もやりすぎだよ」
 穏やかに非難され、影達は珍しくしゅんと萎縮してしまう。
「全く面目次第も無い」
「ほほぅ、これは珍しい。お主達が言い負かされるとはな」
 勝気な言葉と共に、越智姫は額のてぬぐいを抑えながら半身を起した。咄嗟にフラインは越智姫の肩をささえ、布越しにその体温が随分と平熱まで近付いているのを感じる。
「越智姫様! お加減はいかがですか」
「もう起きられるんですかい」
「ああ、心配ない。身体の調子もそれほど悪くは無い」
 確かに顔色も良くなっている。だが、フラインは起き上がろうとする越智姫をやんわりと抑えて寝かそうとした。
「これ、私はもういいというに」
「ダメ。今無理して、酷くなったらどうするの」
「お主は心配性に過ぎる。亡者ども以上に感じるぞ」
 そんな軽口にもフラインは優しく微笑んで、とにかく越智姫を横に寝かしつけた。だが、頭だけはフラインの膝の上に乗せられている。
「ば、バカ! これではあべこべではないか!」
 越智姫も、本で得た知識によってそれがどういう行為で、どういう意味なのかを知っていた。そして、それが本来は逆の立場のはずであることも。堪らず起き上がろうとして、しかしまたしてもフラインに抑えられ、膝枕を強制させられる。
「僕達は、これでいいんじゃない?」
 その穏やかな笑みに、越智姫はすっと急に自分の中にあった羞恥心などが抜け落ちていくのを感じる。代わりに、とても暖かで心地の良い満足感が込み上げてきた。確かに誰に見られるわけでも無し、私達のありようで良いか、と考えを改めて、ならばとフラインに全てを預ける心持でゆっくりと瞼を落とし、フラインの体温を感じる。背中を預けるとは、このように満たされるものなのか、と新鮮な感動と共に、いつしか浅いまどろみに浮かんでいた。
 ……どれほどの時が流れたのか。越智姫が肌寒い夜気に促されはっと気がつき目を開けると、目の前にはこちらを覗き込んで微笑むフラインの顔が視界一杯に広がっている。
「………………!」
 寝起きざまにも関わらず息を飲んだ。
「やあ、目が覚めたかな」
 あくまで平然としたフラインとは対象的に、越智姫は口を何度も開け閉めして、しかし結局言葉は音に鳴る前に抜けてしまう。そのせいで、ぴすんぴすんと、鼻が可愛らしく鳴った。フラインがそれにくすりと笑うと、その意味を悟って越智姫の顔は猛然と朱に染まる。こんな間近で、はしたない音を聞かれた――! とてつもない羞恥心に、振り解くかのように慌てて身を起こす。顔が後から後から熱を上げていくのを抑えられない。しかしフラインは更に追い討ちをかけるように駄目押しをした。
「あ、えー、と。そんなに、気にしなくても、可愛かったし」
「――――!!!」
 その言葉に、弾かれるように家へと駆っ飛ぶ。取り残されたフラインと影達は、しばしの間無言であった。が、影達の剣呑な空気にフラインは身の置き場もない様に落ち着かない。やがて、影の一人がぽつりと諦めたように呟く。
「フライン殿が悪いですな」
「そ、そうなのかな?」
 追っ付け家へと辿り着いたフラインを迎えたのは、憮然とそっぽを向いて目も合わせてくれない越智姫だった。この後、フラインが何とか越智姫の機嫌を取るのに、実に三日もの時間を要する羽目になった。口は災いの元とは、確かこの国のことわざだったか。それを噛み締め、フラインはとりあえず女性の心の機微にもう少し気を配る事を誓うのだった。
 梅雨に入ってしばらくの時。その日は、珍しく快晴となった。じめじめとした湿気がからりと乾き、ここぞとばかり洗濯物を片付け様とした矢先、フラインは満面の笑みをたたえた越智姫に捕まった。
「フライン、今日は街へ行くぞ」
「街? 街へ行って何するの?」
「何、見ているだけでも面白いものだ。影共は日が暮れてからでないと姿が現せぬから、一人で行ってもつまらんかった」
 それは何だかとてつもなく魅力的な提案に聞こえる。フラインも逡巡する間もあらず、首を縦に振っていた。
「そっか。うん、行こう!」
 二人は、連れ立って街へと続く山道を降りていく。その道中、越智姫はしきりにフラインに故郷の話しを聞きたがった。
「のう、フライン。フラインのいる国というのはどのような所なのだ?」
「うーん、僕は元々アメリカっていう国にいたんだけど。今はもう無くなっちゃった」
「国が……? どうして?」
「国民の数が激減して、維持できなくなったみたい」
 何気なく口にした言葉に、フラインはハッとなって越智姫の様子を窺った。心なしか顔が青ざめているように思える。フラインは、薄々彼女こそが絶対死線域の原因に違いないと思っていたが、それを聞くのはあまりにも残酷な事だと思って努めて触れないようにしていた。彼女が望んでこのような事態を引き起こしたはずが無い。それは断言して言える事だった。
「……ごめん」
「何の事だ? 気にするな。私は、気にしていない」
 明らかな強がりだったが、それに気が付かない振りをした。
「だから、僕のいた所……ううん、この結界の外には、もう国はないんだ」
「国が?」
 越智姫は目を丸くした。
「そう。僕達のいたところは新人類群"コミュニティ"っていう名前なんだ。そこには国境はない。全部で一つなんだ」
「こみゅにてぃ……。しかし、それは素晴らしい事なのではないか? 人が、一つにまとまっているという事なのだろう?」
 楽しそうなその声に対して、フラインは即答することができなかった。
「どう、かな。僕には解らない。だって、ここに来るためだけに監獄から解放されて、そのための教育を受けるだけでずっと過ごしてきたんだ。施設の中は自由に出来たけど、でも僕は外に出た事がないんだ」
 沈んだフラインの声音に、越智姫は自分が失言をしたことに顔をしかめる。
「す、すまぬ。そうとは知らなかったのだ」
「気にしないで。僕は、気にしていない」
 先程の越智姫の口真似をして、フラインは笑う。
「お主、それはひょっとして私のまねか!?」
 怒ったように越智姫が詰め寄ると、フラインはのけぞるように身を引いた。
「あははは」
「く、ふふっ、ははは!」
 それに吊られて越智姫も我慢しきれずに吹き出した。二人の間に横たわっていた陰鬱な影は、もう形も見えずに霧散していた。ひとしきり笑い合った後、フラインが思い出したように質問する。
「そういや、ここに来るまでに街をいくつか見てきたけど、あれってどうしてかな?」
「あれって、どれの事だ?」
「うん、人がいなくなってから5年しか経ってないはずなのに、どの街も鬱蒼とした緑に覆われていてビックリしたんだ。すっかり野性動物とかも住み付いてるみたいだったし」
 その疑問に、越智姫はああ、と軽く頷いてみせた。
「それは山神達の仕業だろう」
「山神?」
「元来山にいる神なのだが、近年は富に居場所を削られていたようでな。今までの仕返しではないが、無人の街を緑で埋め尽くす気なのだろう」
「へー。じゃあ、越智姫はそう言ったカミサマと会えたりするんだ」
 フラインはそういう人外の存在と意思疎通が出来るのはどういう気分なんだろうと思ったのだが、越智姫は寂しそうに笑いながら首を横に振った。
「残念だがそれはできぬのだ」
「え?」
「山神は元々それほど強い力を持っておらんのだ。ましてや、今は私の力があまりにも強すぎて……他の神達は現界する事もできぬ」
「力?」
「あ、いや。まあ、その、な」
「ふうん……」
 ならば越智姫は、ずっと一人でここにいたのか。それを思うと、自分の今までの境遇と重なって見え、フラインは胸の奥が絞られるように熱く苦しくなっていくのを抑えられない。そんなフラインの沈んだ様子に、今度は越智姫が気が付き、慌てて言いつくろった。
「わ、私は別に寂しいなどと思った事はないぞ。一人も結構いいものだ。影達もいたしな。でも、それに……今は、お主がいるだろう」
「うん、うん……そうだね。僕も君がいて良かった」
 その半泣きのようなフラインの笑顔に、越智姫は心臓が一回大きく脈動した事を不思議に思った。顔が少し熱いのは、何故なのだろうとも考えながら。
 街に着くと、相変わらず緑生い茂る建物が立ち並んでいる。これからどうするのだろう、とフラインが越智姫を振り返ると、彼女はもう既に行く先を決めているようでしっかりとした足取りで一つの建物に真っ直ぐ向かっていった。置いて行かれては堪らないとばかりにフラインもそれに続く。
 そこは、元々ビル一つが丸ごとショッピングセンターになっている所らしかった。入り口を手でおしあけて中に入ると、意外にも中は二年も放置されていた割りにそれほど荒れていなかった。扉が小動物等の侵入を防いでいたのだろう。
「こっちだ、こっち」
「あ、待ってよ!」
 越智姫はずんずん先導して行く。今は動かないエスカレーターを一気に3階分駆け上る元気の良さで、まだ昇りきっていないフラインをエスカレーターの上から見下ろして急き立てた。
「ほらほら、早く来い!」
 その顔はとても楽しそうで、ついフラインも吊られて笑顔になってしまう。
「どうだ、結構な品揃えだろう」
 越智姫は自分の仕事のように自慢気にフロアを紹介した。そこは、呉服のフロアーで一階丸ごと高級そうな着物がひしめいている。手入れするものがいなくても、その美しさはさほど損なわれていない。
「お主は着たきりだろう。ここで服を揃えると良い」
「ああ、なるほど。でも、人がいないのに、キレイなものだね?」
 ビルの外側の様子からして、中も推して知るべしだと思っていたフラインは、虫食いやホコリが殆ど無いも同然の着物達を不思議に思う。
「ふむ、どうも影達が"時裂結界"を施してくれているようだな」
「ジレツケッカイ?」
 またしても耳慣れない単語が飛び出した。フラインの様子に、越智姫は何故か少し得意気に解説を始めた。
「"時裂結界"というのは、結界内の時間の流れを強引に押し留めるためのものだ。実際には時を止めているわけではなく、恐ろしく緩やかにしているだけなのだが、まあ我々の感覚からすると止まっているに等しいと言えるだろう」
「はあ……」
 突然すらすらと難しい事をそらんじた越智姫に、フラインは感嘆の息を漏らした。普段のわがままさや子供っぽさと妙にちぐはぐなその印象に、意外な一面を垣間見た気分になる。そんなフラインの様子に、越智姫ははっと固まり、慌てて顔を俯かせた。
「わ、私の話しはつまらなかったかな」
 どうやら呆れられていると勘違いしたらしい。フラインは、そのいつもの"らしさ"に、つい顔を綻ばせる。
「違うよ。本当に、素直に感心していたんだ。凄いね、越智姫」
 正直なフラインの言葉に、越智姫は俯いた顔を上げ辛くなった。何と言うか、やはり照れ臭いのだ。微妙な間を察したフラインが、近くの男性用の着物を手にとってぽつりと呟いた。
「僕としては、洋服の方が着慣れてるんだけどね」
「ふむ……ならば先に上へ参ろう。そちらに洋服があったはずだ」
「いいの?」
 越智姫自身も、服を揃えるつもりでいたのではないかとフラインは思っていた。
「良い。後でじっくりと品定めするからな」
 これは大変な事に付き合わされる気がする、とフラインは苦笑した。古今東西、女の子は着る物にうるさいと相場が決まっている。だがもちろんイヤではない。むしろ楽しみですらある。
「じゃ、上に行こうか」
 うきうきと弾む心で、上へと昇る。5階はメンズの服のフロアになっている。フラインは適当に流してみて回るが、先程の高揚もどこへやら、少し落胆してしまっていた。
(こういうのはちょっと、似合わないよなぁ……)
 いかにも上品なブランド嗜好の服は、田舎生まれの自分には抵抗があると思う。一応手にとって見てみるが、やはりもう少しフランクに着れる心安い服の方が好みなのだ。
「どうした? 気に入らぬのか?」
「え、ああ、うーん。もうちょっと、着やすい服の方がいいかな」
「これはダメなのか?」
 適当に一つ、手にとって見るが彼女には良し悪しがさっぱり解らなかった。ただでさえ男物で、更に今まで触れてこなかった洋服なのでそれも当然と言える。
「ここらにあるのは高級な服が多いから。ちょっと、僕には合わないと思うんだ」
「ふふ、お主も慎み深いのぅ」
 遠慮がちなフラインの様子がおかしくて、越智姫は優しく微笑んだ。例えそれが本当に似合っていなくとも、それを笑うものなど居はしないというのに。ここには自分と彼の二人しか――と、そこでようやく今の状況に気が付いた。考えてみれば影達もいない完全な二人きりという状況は初めての事なのだ。

「――――っ!」
 途端、それまで平静だったのに急に良く解らない恥かしさが込み上げてきた。二人きりという単語が頭の中でぐるぐる回って踊り狂っているようだ。かあっとまるで熱でもあるかのように頬が熱くなる。
「越智姫?」
「なっなんだっ!?」
「わっ? ど、どうしたの」
 呼びかけたフラインが驚く程自分は声が上ずっているらしい。変に思われないようにしなければ、と必死に頭を冷静にさせようとするが、こういう時は焦れば焦るほど上手くいかなくなるもので余計にかっかっと血が上せて来る。
「な、な、何でもないっ何でもないぞっ何でもないのだっ」
「そ、そう?」
 明らかに何でも無いわけが無かったのだが、それを言えば多分怒るだろう。それに、それほど深刻な事態ではなさそうだと判断したフラインは、極自然に越智姫の手を取って歩き出す。
「ふぁぅっ……!?」
 思いきり意表を突かれた越智姫は気の抜けるような吐息を漏らした。しかしそれはフラインの耳には届かなかったらしく、越智姫に笑顔を向ける。
「上の階にカジュアルがあるみたいだから、そっちに行こう? 婦人服もあるみたいだし」
 急激に血の上った頭では、握られた手に全神経が持っていかれて、何を言われているのかさっぱり解らなかった。
「ふぁぅっ……ふぁぅっ……」
 越智姫はくいくいと決して強くない力に引かれ、それに合わせるように自動的に吐息が漏れる。もうフラインの顔をまともに顔を見ることなど不可能となっていた。為す術もなく5階へと連れていかれ、頭の片隅でその事を、大部分の思考力は手の暖かさの記録に使用された。今日は髪を下ろしてきて正解だったと、越智姫は心底思う。でなければ、リンゴのように真っ赤になった顔を見られて更に恥かしい思いをしたに違いない。こうして俯き加減に歩いていれば髪が顔を覆ってくれる。
「うーん、やっぱりこっちの方が……あっ?」
 フラインは辺りを見回して、視線の先、一点に釘付けになった。それは女の子用の服で、フリフリと可愛らしいフリルに彩られたドレスタイプの服だ。それを一目見て、頭の中でそれを着ている越智姫が想像されて、それがこの上なく魅力的に感じた。
「ねえ! 越智姫もああいうの着てみない?」
 そこで越智姫は上の階に上がってきて初めて顔を上げた。幾分顔が赤かったものの、先程よりは大分マシになったと言える。どこかぽうっとした眼差しでフラインの指し示した服を見るに至り、目を大きく見開いて固まってしまった。
「わ、わ、私が!? あのような服を!?」
「うん、多分……ううん、絶対に似合うよ!」
 何のてらいもなく言ってのけたフラインを、怒ったような泣きそうなような微妙な顔で一瞥し、越智姫は幾度も上から下まで目を通す。
「ほ、ほ、本当にこれを私が着るのか?」
「大丈夫だよ、絶対いいから!」
 渋る越智姫だったが、結局フラインに押しきられ、そのままの勢いで更衣室に押し込まれてしまった。仕方なく、着物をするすると脱いでいき、一糸まとわぬ姿になる。そしてドレスを手にとって、目の前で広げてみる。何と言うか、フリフリだ。そのふわふわした見た目は確かに物珍しい以上に可愛らしい。だが、やはり身に纏うのには躊躇した。
(これを着て私は、フラインにどう思われるのだろう)
 それを着ている自分を想像してみようとして……無理だった。今まで一度も洋服に袖を通した事がないのだから、仕方が無い。変に思われないだろうか。彼には変に思われたくない。しかしフラインは似合うと言ってくれたのだから……いやいや、ひょっとしたら彼の期待を裏切ってがっかりさせるかもしれない。ダメだ、やはりこれは……そこで、越智姫は先程から自分がフラインの事ばかりを考えている事に気がついた。
「ううぅぅぅーー……」
「お、越智姫? どうかした?」
「い、いや、何でも無い……」
 思わず唸り声を上げてしまった。越智姫は、じっと手にあるドレスを見詰めていたが、ついに半ば自棄になってそれを着る覚悟を決める。いざ、着込もうとして―――とても重大な問題に気がついた。
「フ、フライン! そこにいるか!?」
「うん、いるよ。どうしたの」
 フラインは切羽詰ったような声に多少たじろいだ。
「あ、ああ。それが―――だな。ちょっと、な」
 しかし最初の勢いは徐々にしぼんでいき、ごにょごにょと歯切れの悪い解答に、フラインはどうしたのかと不思議に思う。
「何かあったの」
「う、うむ。あったというより、無かったというか……ない、のだ」
 語尾が極めて小さく、とても聞き取れるようなものではない。
「ええ? 何て言ったの?」
 聞き返すと、越智姫は鋭く息を飲む。数瞬後、越智姫は諦めたように告げた。
「下着が、ないのだ!」
 ヤケを起したように喚く越智姫の言葉に遅れて半秒。
「えっ、えええぇぇぇ!?」
 フラインは目を白黒させた。
「ないって、どうして!?」
「着物には下着など使わぬから……ついうっかり忘れていた」
「あ、あーあー……」
 日本文化の勉強をさせられた時に、確かにそのような事を聞いた覚えがある。
「すまぬが、持ってきてくれるか?」
「ごめん、良く聞こえなかった!」
 そうは言ったもののそれは嘘だった。顔から今にも火が出そうだ。本当ははっきり聞こえていたのだが、例え誰もいないといっても下着売り場に行くなど勘弁して欲しかったからだ。聞き返せば越智姫も流石にもう一度は言い辛いだろうと、そう思ってのことだった。
「すまぬが下着を適当に見繕って、持ってきて欲しいのだ。頼む」
 だが、期待は見事に打ち砕かれ、はっきゆっくり解りやすく説明されてしまった。越智姫は何が何でも取りに行かせたいらしい。こうなるともう、是非も無い。フラインは顔を多少引きつらせながら一人下着売り場へと向かった。下着売り場に着いてからは、店員すらいないというのに、ろくに見ずに(というか見れない。恥かしくて)置いてあるものを掴んですぐに引き返した。戻ってきたフラインから、カーテン越しにそれを受け取った越智姫は、改めてそのデザインを見て絶句する事になる。それはかなり大胆なデザインの下着で、越智姫などは見ているだけで赤面してしまう。
「お、お主は、こ、こういうのが好みなのか?」
「え? な、何が?」
「い、いや、良いのだ。流石は、外国というのは進んでいるのだな……」
 何かとんでもない誤解を受けている気がしてならないフラインだったが、それを確かめる気にはならなかった。
「しばし待て」
「うん」
 静寂に満たされた空間に、衣擦れの音だけが大きく聞こえる。フラインはドレス姿の越智姫を想像するだけでわくわくした。

「…………着たぞ」
 やがてカーテンの向こうから、恐縮するような小ささで越智姫が告げた。しかし、一向にカーテンが引かれる様子がない。どうしたのかとフラインは小首を傾げた。
「どうしたの? 早く見せて欲しいな」
「う……うむ。しかし……。やはり止めにせぬか?」
 ここまできて越智姫は往生際悪く抵抗する。
「勿体無い! 折角なんだからさ。お願いだよ」
「うむぅ……お主が、そこまで言うのなら……。だが、一つだけ約束をしておくれ」
「何?」
「絶対笑うでないぞ!」
「大丈夫、大丈夫。さ、見せて!」
「ぜ、絶対だからな……」
 ためらいがちな声とは裏腹に、シャッと素早くカーテンが開け放たれる。その中には、ドレス姿に身を包んで強張ったように赤い顔をして俯いている越智姫の姿があった。
「や、やはり私には似合わぬか……?」
 何も言わないフラインに不安になり、恐々と顔を覗き込む。しかしフラインは、目を輝かせて満面の笑みを浮かべていた。
「凄い! 良く似合ってる。素敵だ!! とってもキュートだよ!!」
 興奮したように越智姫の手をしっかりと握り締めながらしきりに褒めちぎるフラインに、越智姫は只でさえ赤い顔をより紅潮させる。
「な……うぅ、き、"きゅうと"とは、何だ?」
「とっても可愛いって事!」
「そ、そうか……私は"きゅうと"か。そうか……"きゅうと"か」
 越智姫は、その言葉を何度も噛み締めるように呟いた。
「うん、思った通り!」
 目の前の少年が自分の事のように誇らしげにしている様を見て、越智姫は何とも言えない、奇妙な安心感と大いなる満足感を覚える。フラインが喜んでくれたという事実が、何よりも越智姫にとっては嬉しかった。
「よし、次はお主の服だな。どれ、私が見立ててやろう!」

「お手柔らかに」
 フラインが少々難しい言葉を使った事にも驚かないくらいに越智姫は舞い上がっていた。早速二人でメンズの売り場へと戻る。
「む、これなどいいのではないか?」
「え……、これ?」
 越智姫が満面の笑みと共に突き出したのは、1枚のシャツだった。真っ黒な地に赤く血で書いたような"NO FUTURE!!"という文字が踊り狂っていて、袖口には無意味な銀の装飾がじゃらじゃらとつけられている。極めつけは所々に入っている紫色のドクロマークだ。
「な、何でコレ?」
「んん、いや、ほら、えーごが書いてある」
 それだけの服などそれこそ無数にあるだろうに、何故よりにもよってこれを選んだのか。ひょっとして遠大な嫌がらせをされているのではと、少々被害妄想気味になったところで、それはないか、と苦笑した。
「ぼ、僕はもうちょっと大人しいもののほうがいいかな」
「ふむ、ならばこれはどうだ?」
 次の服は綺麗な水色をした涼しげなシャツだった。
「ああ、うん。これはいいね、目立たない程度に凝ってるし」
「そ、そうか! これがいいか!」
 越智姫はまたしても天にも昇るような気持ちで、いそいそとその服をしまう。
「あれ、どうしてもうしまうの?」
「これは初めて記念だからな。大事なものは、ハレの日に着るものだ」
「ハレの日って、今日は晴れてるよ」
「そうではない」
 フラインの勘違いにくすりと笑って、越智姫は説明した。
「いつもの何でもない日常をケと言い、特別な日をハレと言う。例えば、お正月や成人式等の行事はハレで、その日は特別な装い、つまり晴着を着るという習慣があるのだ。普通は、着物の事を指すのだが……まあ、この場合は細かい事は良いだろう?」
「なるほど……」
 いかにも感心したように、深く頷くフライン。
「つまり、僕と越智姫が出会った日もハレって事だよね」
「……!! ああっ、もちろんだとも! あれは、人生最良の日だ!」
 澱みなく断言する越智姫の笑顔は、その日一日で一番輝いていた。それから二人は日常着る為のものを数点見繕い、越智姫は何とドレス姿のまま家に帰った。家に着いてからの唖然としたような影達の表情が、その日の締めくくりに相応しいと言えばそうだろう。

 変わった夢を見ていた。
 夢の中で、自分は狐だった。無性にお腹が空いたので、何か食べ物を探して山の中をうろうろと歩き回る。
 うろうろ、うろうろ。
 しばらくの間歩き回っていたが、周りには食べられそうな物は見つからない。もう、諦め様かなと思った時、目の前に狸が座り込んでいるのが見えた。狸は、何やらじっと目の前の植物を凝視しているようである。
「何をしているのさ」
 自分がそう問いかけると、狸は前足で植物を差して答えた。
「うん。ここに果物がなっていて。お腹が空いたから食べ様って思ったんだ」
「ふーん……」
 ちらと見ると、確かにその植物には赤々しい色の実が生っている。美味しそうだ。
「じゃあ、食べればいいじゃないか」
 何でそれを見ているだけで、手を出さないのか。お腹が空いている自分は多少イライラしながら言った。
 イライラ、イライラ。
「でも、僕がこれを食べると、困る人がいるんだ」
「誰だい、それは」
 自分の中で、今はもう狐らしくいかにこの狸をだまくらかしてその実を食べるかの算段をしながら聞き返す。
「それは君だよ」
「……。何言ってるの?」
 全然意味が解らなかった。だって、こいつは、明らかに自分と会うよりも前から座っていた。それじゃあ話しが通らない。
「でも、君はお腹が空いているんだよね」
「確かに僕はお腹が空いているよ」
 狸の余りにも変な言葉に、思わず正直に答えてしまってから、失敗した、と思った。警戒されてしまうとやりづらくなる。
「なら、二人で分けようよ」
「何を言ってるんだ。君が見付けたのに、どうして僕と半分こなんだ?」
「だって、僕がそうしたいから。独りで食べても、きっと美味しくなかったよ」
 一人で食べても美味しくない、だって?
「さあ、どうぞ」
 狸は自分の返答を待たずに、実をもぎとって手渡してきた。思わず受け取り、何か企みがあるのかと疑ってしまったが、どう見ても狸はただのお人好しだった。
「じゃあ……もらうよ……」
「どうぞ。頂きます」
 二人で並んで座り、実にかじりつく。その実は果汁が溢れていて、甘くて、とても美味しかった。
「ね、二人で食べると美味しいでしょ」
 幸せそうに笑う狸を見て、自分はなんて愚かなのだろうと思った。狸の言う通り、二人で並んで食べた実は、それまでに食べてきたどんな物よりもずっとずっと美味だった。
「美味しい。美味しいよ」
「うん。まだまだあるよ。二人で食べよう」
「二人で――」
 そう、二人で。
「ぅ…………」
 小鳥のさえずりが慎ましく流れる中、越智姫は布団の中で目を覚ました。
「……夢? 夢、なのか」
 夢の中で、自分はどうしようもなく疑い深くてこずるい狐になっていた。自分の中に、あんなに卑しくて愚かしい考えが棲んでいるなんて考えただけで気分が滅入る。しかも、親切にしてくれた狸を騙そうとして……。越智姫は、布団に入ったまま顔を横に向け、隣で同じように布団を敷いて寝ているフラインの寝顔を見詰めた。
「狐――狸――」
 だが、越智姫は心の中で納得していた。何しろ、自分は本当の事を、フラインに伝えていないのだから。彼も、薄々は感づいているのかもしれないが、何も言いはしない。それが彼の優しさなのだから。そんな優しさに、自分は一体何を返して上げられると言うのだろうか?
「私は、ずるい女だ」
 怖いのだ。どうしようもなく怖いのだ。本当の事を告げた時に、彼から軽蔑されたり、糾弾されるのが怖くて怖くて仕方が無いのだ。この到底償えきれないであろう罪を明かす事で、フラインが自分から離れていってしまうのが恐ろしいのだ。もちろん、彼が自分を非難する姿等、想像できない。そして、だからこそ余計に怖い。想像が及びもつかない事が、越智姫の心を陰鬱にさせる。
 もしも彼に罵られたら――自分はどうなってしまうのだろう。そう考えただけで、胸の奥の癒えない傷がじくじくと疼き、心のかさぶたが傷口から押し上げられて更に傷が広がる。その痛みに耐えかねて、布団を頭から被り、苦渋に満ちた表情を隠した。
「いつか、本当の事を話したい……」
 布団の中、その呟きと決意は誰に見られる事も、悟られる事もなかった。
 季節はゆっくりと巡り、フラインと越智姫はそれぞれ自分の国の年中行事をお互いに披露してすごした。そして、夏のある日。
「ふむ、知れば知るほど外国というのはおもしろいものなのだなあ」
「それは僕もだよ。この国の行事はとても面白い。七夕なんて、とてもロマンチックだしね」
 そういって、微笑む。越智姫は、その顔を見ただけで胸の鼓動が不自然に脈打つのを感じる。彼女は、最近それについて悩む事があった。何しろ、
最近フラインの事が気になって気になって仕方が無いのだ。ずっと二人で暮らして来て、今ではそれが当たり前に感じているからか、少し離れていた時間があるだけで、もうフラインの事を考えてしまっている。彼の、穏やかな笑顔を思い浮かべてしまっているのだ。ダメだ。越智姫は軽く頭をふりはらって、頭からフラインの事を追い出そうとした。このままでは、何か取り返しのつかない事になる気がしたのだ。それは、今の、この生活が全て壊れてしまうような、そんな不安を抱かせずにはいられない。
「そ、そうだ。フラインは、もう字は書けるようになったか?」
「あはは、練習はしてるんだけど……そういう越智姫は?」
「私も、練習はしているのだが……」
 二人は、最近お互いの国の文字をお互いに教えていた。フラインはアルファベットを、越智姫はひらがなをそれぞれ教えていた。フラインは読み方と話し方一辺倒で教えてこられたので、日本語を書くことが出来なかった。何しろ筆談の必要はなしと、判断されたためである。これが二人にはなかなか新鮮で面白かったのだが、いかんせん習得には時間がかかりそうだった。
「そうだ、字が書けるようになったら、越智姫にグリーティングカードを上げるよ」
「ほう、何だ、それは」
 越智姫は興味津々に身を乗り出す。
「僕の国では、親しい人との間に、えーと、ハガキみたいなメッセージカードを送る事があるんだ。お誕生日や、クリスマス何かにね」
「ほうほう、なるほどのう。では、私もそれをやってみたいぞ。今度、それの作り方を教えてくれ」
「いいよ、じゃあ、街に紙とか探しにいかないとね」
「ふふふ、楽しみだのう」
 言葉どおりに、本当に楽しそうに、越智姫は笑う。そうだ、こんな幸せを、私は手放したくない。いつも通り、このままでいいじゃないか。このまま何も変わる事なく、過ごしていければ……。ドサッっと、肩に重みがかかる。驚いて横を見ると、フラインが越智姫の肩に頭をのせて寄りかかっていた。間近に迫るフラインの顔に、頬が熱くなるのを抑えきれない。
「これ、こんな所で寝るでない」
 本当はその重みが心地よかったりするのだが、しかし内心とは裏腹に、子供を叱るような事を言ってしまった。
「…………」
「? フライン、どうした……。フライン!?」
 冷静になって良く見ると、フラインの顔が青い。一緒に暮らし始めてから、病気らしい病気をしていなかったのだが、今は苦しげな呻き声を上げていた。
「こ、これは……! おい、お前達! 誰か、誰か!!」
「越智姫様、いかがなされました」
 気がつかぬうちに、辺りはもう、夜の帳が下りている。故に、越智姫の声に反応して影達はゆらゆらと黒く不定形な身体を揺らして集まってきた。
「フ、フラインが! 何故かは解らぬが、突然苦しそうに……!」
「失礼します」
 動揺している越智姫の横を抜けて、フラインの横に立つと、影はにゅーと手のようなものを伸ばして、それをフラインの顔の上に持っていく。越智姫はその様子を心配そうに見詰めていたが、やがて影が手を引くと同時に、弾けるように質問した。
「どうなのだ!? フラインは、どうなっているのだ!」
「何と申しましょうか……。風邪に似ているようですが……、どうやら、自然の病気ではないようです」
「呪術的なものが原因だと?」
「いえ、それも違うようですな」
 ふむ、と影はしばらく熟慮する。
「どうやら、人工的に病気を誘発させているようです」
 越智姫がもどかしさのあまり、影に掴みかかるように間髪いれずに問い返した。
「それは、例のうぃるす兵器とかいうものなのか?」
「恐らく、似たようなものでしょう。どちらにしろ、これは我々にはどうしようもない」
 その言葉に、越智姫は激昂した。
「どうしようもない!? どうしようもないだと、一体どういうことだ!! フラインは、私の初めての、初めての友達なのだぞ!? そう、友達だ! フラインは、私の……私の……!!」
 それ以上は言葉がでてこず、越智姫は嗚咽にも似た力無い呟きを繰り返す。フラインを診ていた影は、その越智姫のあまりの動揺ぶりを痛ましく見ていた。それは他の亡者達も同じだった。この可憐な女の子が初めて出会う事の出来た友が、今、逼迫した状況に置かれている。それだけで、越智姫はこうも取り乱すのだ。
「越智姫様、とりあえず落ち着かれませ。お忘れのようですが、彼は不死人です。苦しみはあるでしょうが、死ぬ事はありません」
 なだめ様としたその言葉に、越智姫はいよいよ相貌を歪めた。
「そんな事は解っておる!! もしこのままフラインが治らねば、フラインは、この先永遠に病の苦しみに侵され続けるのだぞ!!」
 影を跳ね除け、越智姫は布団に横たわっているフラインに取りすがるように抱きついた。
「フライン、フライン……」
 ただ、名前を呼んだだけだが、それはどれほどの効果があったのだろう。苦しみに彩られていても、決して開きはしなかった目を、うっすらと開ける。
「あっ……」
「あれ、越智姫……。どうして、泣いているの……?」
 フラインは、越智姫の泣き顔を見とめて、無意識に手を伸ばした。顔に触れようとしたのだが、しかし、手を布団の中から出す事すらままならない。
「あはっ、ごめん。ちょっと、力が入らないや……」
「良い、よいのだフライン。お主は何もしなくとも良い」
 越智姫はフラインの意識が戻った事に幾らかは安堵した。だが、それは何の解決にもならない事も知っている。
「そうか……この事、だったんだ……。そうか――」
「どうしたのだ、フライン。一体何の事だ?」
 一人、納得行った顔をしているフラインを取り囲むように、少女と影達は少年を見詰めた。やがて、フラインは越智姫に微笑んだ。
「お願いが、あるんだ。手を、握ってくれないかな?」
「よし、こ、こうか?」
 布団の中から、なるべく丁寧にフラインの手を出すと、越智姫は最初ガラス細工を扱うようにそっと、だが、絶対に離さないようにきゅっと強く手を握りなおした。
「ああ――。ありがとう。とても、安心するよ――」
「礼などいい。私達は……か、家族、ではないか」
「そうだね。そうだ――」
 暫く、フラインは大きく、大きく深呼吸を2、3度繰り返して、そして天井を見据えながら口を開いた。
「出発前に、注射を打たれたんだ。これは何の注射かと聞いたら、それは"保険"なのだと、そう教えられた。その意味がわからなかった。最初は2日置き、後は段々その間隔が短くなる。最初に発現したら、すぐに引き返す事を勧める、そう、言っていた。この事、だったんだ――」
 何故、自分はその事を、その可能性を考えなかったのかと悔やんだ。あの人でなしどもが、安易に自分を解放するわけがなかったのだ。"保険"とは、つまり、この病気を治したければ自分達の元に帰る事で、それをしないならば永遠に地獄の苦しみを味わうという、そういうものだったのだ。
「何と言う、何と言う奴等だ! このような、こんな……あんまりではないか。あんまりだ……」
 越智姫はフラインの身の不幸を思い、うなだれる。2日置き、と言う事は、明日まではこのままの状態で、明後日はまだ治まっている状態だという事だろう。
「ぐうっ!? がぎっぐはぁぅ!?」
「フライン!?」
「いかん、押えつけろ! 越智姫様、離れていてください!」
 突然、胸をかきむしるように暴れ出したフラインに弾き飛ばされ、越智姫は板敷きを転がる。フラインに影達が群がって、暴れる体を必死に押えつけていた。
「うっ……」

 とても見ていられなかった。しかし、越智姫はフラインを見守ることを止めようとはしなかった。耳を塞ぐ事も考えが及ばなかったので、怒号のような苦悶の声が、延々と越智姫の耳を侵していた。彼が、一体何をしたというのだろう。彼に何の罪があったのだろう。闇の中に、いつまでも人間の叫びが木霊していた。
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