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第三章
オレのカラダ(3)
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マルカさんが、地下室への扉を開いた。電気がつき、その眩しさに顔をしかめる。
数秒後、目が慣れた視界に現れたのは、思ったよりもずっと広いきれいな部屋だった。扉のついた白い棚が壁沿いに並び、机、椅子、奥にはショーケースのような硝子の囲いがついた作業台のようなものも並んでいる。用途のわからない機械や、硝子ケースなんかもあるようだ。
素人目で見て、研究所らしい雰囲気だなと感じた。マルカさんに、「こちらへ」と促され、オレは壁際に置かれた机の前に行く。机の上には、少量の筆記具と写真立て、透明の水槽のようなケージが置かれている。その中で、白い小さな何かが動いた。腰を屈め、覗き込む。
「これって……ネズミ、ですか?」
「はい。この子はネズミの『マルチュー』です。もともと、創薬の研究用にと購入したのですが、この子に協力していただいた研究は途中で不都合が見つかり、中止となりました。本来ならばそこで処分するところを、社長の判断で、名前を付けて飼うことにしたのです」
「そ……それって、実験用マウスっていうやつですか? ここでは、そんな研究を……?」
「当然です。創薬というのは、そういった犠牲の上に成り立っているのです」
実験用動物。
そういうものが存在することは知っていたけれど、目の当たりにしたのははじめてだ。
なんというか、そこはかとない気まずさを感じる。思い出したようにこんな時だけ罪悪感を背負うのも、偽善的なんだろうけど……人間の傲慢さを思い知らされる存在だ。
マルカさんは写真立てを手にして、オレに向かって突き出した。写真立てには、花の写真が飾られている。白い、五枚の丸い花弁を持つ花の写真だ。
「こちらが、新薬を作るきっかけとなった名もない植物です。数年前、庭の花に紛れ、一本だけ別の花が咲きました。図鑑にも記載されていないその植物を調べたところ、薬のもととなり得る成分が発見され、社長が長年研究を重ねた結果、新薬の開発に成功したのです」
「え……?! あ、あの毒花と一緒に生えてた、って……毒の影響とかないんですか?!」
「ジキタリスの毒の影響はありません。ただ、新薬にはこの植物自体が持つ特殊な毒が使われています。社長いわく、これまで見たことのないこの植物特有の毒素だそうです」
「はあっ?! ど、毒で作った?! なななに言ってんの、そんなもの使えるわけないでしょ!」
「落ち着いて下さい。もちろん、毒性は抜いてあります。それに、毒由来の薬というのは、世の中にいくつも存在しているのですよ」
「えっ……?」
「インターネットでお調べになられても、すぐに事実は確認できると思います。筋弛緩剤や鎮痛剤、抗生物質もありますし……ジフテリアのワクチン等もそうです」
「えぇ…………そ、そうなんだ……全然、知らなかったけど…………」
オレが無知なのか? そのせいで、無駄に嫌な汗をかいた。肩のだるさも、やや増した。
「……でも、どうして急に違う花が咲いたんですか? 植えたわけじゃないんですよね?」
「ええ。相殺堂では昔から、動物実験を終えるたび、その時期に合った花の種を植えるという習慣があるのですが……その種の中に紛れていたのか、風や動物によってどこからか運ばれてきたのか、どうして相殺堂のプランターに咲いたのかは、残念ながら解明できておりません。そして、それ以降、この植物が再び芽を出すことはありませんでした。原料が尽きてしまった今、新薬はもう製造不可能となっています。ですからあの薬は、とても貴重なものなのです」
「…………」
凝然と黙り込んだのは、もう新薬が製造できていないという真実に驚愕したからだけでなかった。「動物実験を終えるたび、花を植える」という習慣にも黙然とさせられたのだ。
じゃあ、あの花の数だけ、実験でネズミが死んだ……いや、犠牲になったってこと……?
頭の中に、庭で見たピンクや白の花の映像が甦る。数本どころではない。数十本はあった。昔から、ということは、もっとたくさんの数が繰り返し植えられてきたのだろう。
机の上に置かれたケージのなかから、かたっと音がした。
オレの身体が短く大きくふるえ、その拍子にふらつく。なんとか足を踏ん張り、マルカさんに許可を得て、机の前の背もたれのある椅子に座った。そのまま、休ませてもらうことにする。
目を閉じた。机の上のマルチューが見れない。
新薬ができるまでに、花の種はいくつ植えられたんだろう。風に揺れていたあの花を、きれいだと感じたのはうそじゃない。ただ、次に見たときはそんな表面的な感想は持てないと思う。
今回はさほど症状が重くならなかったせいか、しばらく休むとオレの身体は落ち着いた。
「あの、もう大丈夫です。中断させてしまってすみませんでした」
「いいえ、構いません。無理はなさらないで下さい。一階に戻って、ベッドで休まれますか?」
「や、いいです。まだ、そんなに話を聞けてないし……続き、お願いします」
「そうですか……? 風音寺さんが、そうおっしゃるのなら……」
マルカさんはドア付近の棚の扉を開け、大量のノートを取り出した。それを、机の上に積み上げる。それから部屋の隅にあった丸椅子をオレの横に持ってきて、そこに座った。
「これは、社長の研究ノートの一部です」
細い指が表紙をめくると、1ページ目からびっしりと黒い文字が書き込まれていた。字が汚なすぎるのか日本語じゃないのか、なにが書かれているのかオレには解読不能だ。
「そういえば、新薬ってどういう薬なんですか? 具体的に知りたいんですけど」
「それは……専門家ではないわたしからは申し上げられません。ですが、このあと一階に戻ったのち、説明の時間を設ける予定です。それまでお待ちください。代わりと言ってはなんですが、これよりわたしがわが社についてお話させていただきます」
そこからマルカさんは、おしゃべりサイボーグと化した。
社長の研究ノートを順番に開きながら、そのノートが使用された年代に合わせた相殺堂の歴史を話していく。途中、経営理念や主力商品の説明なども上手く挟み込んでいた。
一定のペースを崩さず、淡々と続けられるそれは、洗脳に似たある種の恐怖すら感じた。
社長が相殺堂創設者の子孫であること、元々彼が大企業の研究者だったこと、それを辞職して稼業を継いだこと、仕事後に毎晩研究に励んでいることなど、とにかく社長に関する話題が多かったように思う。
オレは圧倒され、はい、へえ、そうなんですか、と相槌を打つばかりだった。
数秒後、目が慣れた視界に現れたのは、思ったよりもずっと広いきれいな部屋だった。扉のついた白い棚が壁沿いに並び、机、椅子、奥にはショーケースのような硝子の囲いがついた作業台のようなものも並んでいる。用途のわからない機械や、硝子ケースなんかもあるようだ。
素人目で見て、研究所らしい雰囲気だなと感じた。マルカさんに、「こちらへ」と促され、オレは壁際に置かれた机の前に行く。机の上には、少量の筆記具と写真立て、透明の水槽のようなケージが置かれている。その中で、白い小さな何かが動いた。腰を屈め、覗き込む。
「これって……ネズミ、ですか?」
「はい。この子はネズミの『マルチュー』です。もともと、創薬の研究用にと購入したのですが、この子に協力していただいた研究は途中で不都合が見つかり、中止となりました。本来ならばそこで処分するところを、社長の判断で、名前を付けて飼うことにしたのです」
「そ……それって、実験用マウスっていうやつですか? ここでは、そんな研究を……?」
「当然です。創薬というのは、そういった犠牲の上に成り立っているのです」
実験用動物。
そういうものが存在することは知っていたけれど、目の当たりにしたのははじめてだ。
なんというか、そこはかとない気まずさを感じる。思い出したようにこんな時だけ罪悪感を背負うのも、偽善的なんだろうけど……人間の傲慢さを思い知らされる存在だ。
マルカさんは写真立てを手にして、オレに向かって突き出した。写真立てには、花の写真が飾られている。白い、五枚の丸い花弁を持つ花の写真だ。
「こちらが、新薬を作るきっかけとなった名もない植物です。数年前、庭の花に紛れ、一本だけ別の花が咲きました。図鑑にも記載されていないその植物を調べたところ、薬のもととなり得る成分が発見され、社長が長年研究を重ねた結果、新薬の開発に成功したのです」
「え……?! あ、あの毒花と一緒に生えてた、って……毒の影響とかないんですか?!」
「ジキタリスの毒の影響はありません。ただ、新薬にはこの植物自体が持つ特殊な毒が使われています。社長いわく、これまで見たことのないこの植物特有の毒素だそうです」
「はあっ?! ど、毒で作った?! なななに言ってんの、そんなもの使えるわけないでしょ!」
「落ち着いて下さい。もちろん、毒性は抜いてあります。それに、毒由来の薬というのは、世の中にいくつも存在しているのですよ」
「えっ……?」
「インターネットでお調べになられても、すぐに事実は確認できると思います。筋弛緩剤や鎮痛剤、抗生物質もありますし……ジフテリアのワクチン等もそうです」
「えぇ…………そ、そうなんだ……全然、知らなかったけど…………」
オレが無知なのか? そのせいで、無駄に嫌な汗をかいた。肩のだるさも、やや増した。
「……でも、どうして急に違う花が咲いたんですか? 植えたわけじゃないんですよね?」
「ええ。相殺堂では昔から、動物実験を終えるたび、その時期に合った花の種を植えるという習慣があるのですが……その種の中に紛れていたのか、風や動物によってどこからか運ばれてきたのか、どうして相殺堂のプランターに咲いたのかは、残念ながら解明できておりません。そして、それ以降、この植物が再び芽を出すことはありませんでした。原料が尽きてしまった今、新薬はもう製造不可能となっています。ですからあの薬は、とても貴重なものなのです」
「…………」
凝然と黙り込んだのは、もう新薬が製造できていないという真実に驚愕したからだけでなかった。「動物実験を終えるたび、花を植える」という習慣にも黙然とさせられたのだ。
じゃあ、あの花の数だけ、実験でネズミが死んだ……いや、犠牲になったってこと……?
頭の中に、庭で見たピンクや白の花の映像が甦る。数本どころではない。数十本はあった。昔から、ということは、もっとたくさんの数が繰り返し植えられてきたのだろう。
机の上に置かれたケージのなかから、かたっと音がした。
オレの身体が短く大きくふるえ、その拍子にふらつく。なんとか足を踏ん張り、マルカさんに許可を得て、机の前の背もたれのある椅子に座った。そのまま、休ませてもらうことにする。
目を閉じた。机の上のマルチューが見れない。
新薬ができるまでに、花の種はいくつ植えられたんだろう。風に揺れていたあの花を、きれいだと感じたのはうそじゃない。ただ、次に見たときはそんな表面的な感想は持てないと思う。
今回はさほど症状が重くならなかったせいか、しばらく休むとオレの身体は落ち着いた。
「あの、もう大丈夫です。中断させてしまってすみませんでした」
「いいえ、構いません。無理はなさらないで下さい。一階に戻って、ベッドで休まれますか?」
「や、いいです。まだ、そんなに話を聞けてないし……続き、お願いします」
「そうですか……? 風音寺さんが、そうおっしゃるのなら……」
マルカさんはドア付近の棚の扉を開け、大量のノートを取り出した。それを、机の上に積み上げる。それから部屋の隅にあった丸椅子をオレの横に持ってきて、そこに座った。
「これは、社長の研究ノートの一部です」
細い指が表紙をめくると、1ページ目からびっしりと黒い文字が書き込まれていた。字が汚なすぎるのか日本語じゃないのか、なにが書かれているのかオレには解読不能だ。
「そういえば、新薬ってどういう薬なんですか? 具体的に知りたいんですけど」
「それは……専門家ではないわたしからは申し上げられません。ですが、このあと一階に戻ったのち、説明の時間を設ける予定です。それまでお待ちください。代わりと言ってはなんですが、これよりわたしがわが社についてお話させていただきます」
そこからマルカさんは、おしゃべりサイボーグと化した。
社長の研究ノートを順番に開きながら、そのノートが使用された年代に合わせた相殺堂の歴史を話していく。途中、経営理念や主力商品の説明なども上手く挟み込んでいた。
一定のペースを崩さず、淡々と続けられるそれは、洗脳に似たある種の恐怖すら感じた。
社長が相殺堂創設者の子孫であること、元々彼が大企業の研究者だったこと、それを辞職して稼業を継いだこと、仕事後に毎晩研究に励んでいることなど、とにかく社長に関する話題が多かったように思う。
オレは圧倒され、はい、へえ、そうなんですか、と相槌を打つばかりだった。
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