剣魔神の記

ギルマン

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第1章

5.森からの帰還

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 帰りの馬車についた護衛の騎士は、安全な森の外縁部まで随行すると引き返し、御者が一人で馬を操るだけになった。その御者も予定外の仕事に迷惑そうだった。

 車内の同行者は“治療師”だけだ。
 エイクは鍛練が出来ない状況だといつも落ち着かなくなるのだが、今はそれだけが原因ではなかった。目の前に座る“治療師”はその素顔を晒し、声も昨日の美しいものに戻していた。

 改めて見る彼女はやはり美しかった。
 年の頃は20歳代前半だろう。その瑞々しい肌は10歳代のものとも思えたが、落ち着いた様子と思慮深さを感じさせる漆黒の瞳が、彼女を10歳代には見せなかった。

 人前で顔を隠して声も変えているのはきっと騒ぎを起こさないようにする為だろう。この素顔を騎士たちが見たなら、決闘騒ぎの三つや四つは直ぐに起こってしまう。エイクはそう思った。

 その彼女が話しかけてきた。
「なあ少年。君が修行好きだというのは良く分かったが、今くらいは体を休めた方が良いぞ。昨日死にかけたばかりなのだからな」
「はい、分かっています」
「そうか。ついでに聞いて良いか?」
「はい、大丈夫です」
 エイクがそう答えてうなずくと“治療師”は問いを発した。それは思いもかけず本質的なものだった。
「君は何で強くなりたいんだ?」
「ッ!」

 不意の問いにエイクは息を呑み絶句するが、かまわず問いは続いた。
「君が驚くほどの努力家なのは昨日の一件だけでも良くわかる。
 しかしだ、そこまで努力しても強くなれないなら、それは戦いの才能が無いということだ。
 人の才能は一様ではない。自分の才能に合わせて努力して、世の中の役に立つ存在になれ。そう教えている神もいるし、それは一般論として正しい。
 君もそうすべきではないのかな。
 君が強くなるために費やしている努力の半分程度でも他の事に向ければ、大体の事で直ぐに並み以上の技量を身につけることが出来るだろう。
 うまく自分の才能にあった仕事を見つけることが出来れば、その道では世に名を残すほどの達人になれるかもしれない。
 その様な道を探す気はないのかな?」
「……」

 エイクは何も応えられなかった。それは彼が考えることを頑なに拒んで来た問いだった。
 なぜ強さに拘るのか、戦闘で勝利するための強さ以外にも、価値があるものは沢山ある。
 なぜそれらを選んではならないのか。
 なぜ、なぜ、なぜ、一度発せられたその問いは彼を責めさいなむようだった。
 しかし、疑問が投げかけられるその度に、それ反発する思いが滾って来る。

「それでも、どうしても強くなりたいのか?」
「なりたい!絶対に!」
 改めて発せられたその問いには、ほとんど衝動的に応えていた。
「ふむ。では重ねて問おう。その望みは周りを犠牲にしても追求するべきものなのかな?」
 エイクは再び絶句した。

「君の父君が、君のためにどれだけのものを費やしているか知っているだろう?
 私自身もその一人だが、君のために多くの専門家を雇った。
 そればかりか膨大な費用を費やして、訓練のためだけに消費される回復薬を買っているそうだな。
 その上暇さえあれば君の訓練につきあう。
 それに昨日の一件、君は未成年だから特に責は問われないが、その代わり父君の立場は悪くなるだろう。
 父君には炎獅子隊隊長としての給金が支払われ、領地なしの男爵としての手当てもある。そして、戦での活躍に対する褒賞、妖魔討伐で討った妖魔や魔物に対しても褒賞が出る。
 本来ならそれは自身の富貴の為に、あるいは仮にも貴族として恥ずかしくない生活を送るために使われるべきものだ。
 父君は、しかしその多くを君の為に費やしている。そのことで父君を馬鹿にする者達もいるようだ。
 君が強さに拘らなければ、父君はどれほど良い生活が出来ただろう?
 父君は、これほどの犠牲を強いられることを、これからも望むのだろうか?」

 その問いはエイクに今までにない衝撃を与えた。
 エイクは自分が父の負担となっており、迷惑をかけていることは自覚していた。しかし、父も自分が強くなることを望んでいるということを疑うことはなかった。
 だからこそ多くを自分に費やしてくれるのだと、だから自分はそれに応えなければならないと、そう信じていた。
 しかし、本当にそうか?

 自分が多少強くなったところで、今まで費やした費用を取り返せるとは限らない。少なくとも父に苦労を強いた数年間はもう取り戻せない。
 それなのに、これ以上負担を強いられることを父は望んでいるのだろうか。普通に考えればそんな事はありえないと思えた。

「仮に、仮にだ、父君がそれを望まないとするなら、どうだ?君は強くなるのを諦めるか?」
 それでも諦められない、それは自然に浮かんできた答えだった。だが……
「どうだろう、家族に負担を強い、世の中の役にも立ちそうにもない。そんな努力を続けるのは『正しい事』なのかな?」

 正しいわけがなかった。
 エイクは今まで、努力をするという事は無条件で正しいことだと思っていた。しかし、それは誤りだったのだ。
 彼は初めて自覚した。
 自分の強くなりたいという望は、父の為でも、自分と引き換えに死んだ母の為でも、まして世の為人の為でもない。唯の我侭、要するに己自身の欲望に過ぎなかったのだと。
 周りを省みず、むしろ犠牲を強いてまで、自らの欲望の為に邁進する。
 それは世間一般では『悪』と呼ばれるものだった。

「もう一度問おう。それでもなお、君は強さを望むのか?」
「………………それでも、強くなりたい」
 エイクは長い沈黙の末に搾り出すように答えた。
 例えその強さへの渇望が『悪』でも、理論だって他人に説明できないものでも、否定することは出来なかった。
 それが他者に規定されたものではなく、己の中から湧き出る欲求だと気が付いたからこそ、それを否定は出来ない。それは自分自身の否定だ。

「すばらしいな少年。それで良い。それこそが正しい道だ」
 “治療師”の言葉から唐突に責めるような雰囲気が消え、祝福するような言葉が放たれた。
 驚いたエイクが、いつの間にか俯いていた顔を上げると、心を溶かすような満面の笑みを浮かべた“治療師”の美しい顔が思いのほか近くにあった。

「そうとも少年。それが正解だ。
 極みに至り更にそれを超えようと欲するならば、周りのことなど気にしてはいられない。
 己が強くなることのみが尊く他は全て些事だ。
 君はその道にたどり着いた。
 大変好感が持てるよ。君に会えてよかった。うん、君は本当にすばらしい」

 突然の絶賛と全肯定の言葉が、エイクの心を強く打った。
 彼は賞賛されることに余りにも不慣れで、しかしそれに飢えていた。
 ほんの少しの言葉をかけられたに過ぎないのに、彼は今までにない充足感で心が満たされるのを感じた。

 しばらくの間沈黙が続き、その間に“治療師”の言葉がエイクの胸に染み渡って行く。
 ―――それで良い。
 他愛のない肯定の言葉が彼に胸に刻み込まれたようだった。
(それで良いのかな?)
 父に負担を強いているという罪悪感はぬぐえなかったが、今は目の前の美しい女性の言葉を信じたいと思った。

 やがて、“治療師”はまた話し始めた。
「だがな、文字通りの意味で鍛錬だけに全てを奉げるのは賛成できない。
 現実として人はそこまで強くはない。今は良くても、いずれ無理が来るだろう。多少の余暇は必要だぞ。
 それに己の能力に幅を持たせることも必要だ。
 君の求める強さが試合で勝つ為だけのものなら、剣技の鍛錬だけを励めばよい。
 しかし本当の強さとは実戦で勝てること。そして実戦で勝つには剣技だけでは不十分だ。相応の知識やその応用というものが必要だ。
 これは危険な誘惑でもある。偶の余暇と称して努力を忘れ遊興にふける者、幅広い能力を得ると称して多くのものに手を出し、本道を見失う者のなんと多いことか。
 君はそれらにも注意しなければならない。
 だが君ならば、その様な陥穽に陥ることはないだろう。どうだ?」
「はい、よく注意します」
「うん、よし。長い期間というわけには行かないだろうが、これから君にはいろいろと教えてあげよう」
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」

 目の前の相手は治療師であり、本来の役割はエイクの体調管理と、可能なら謎のオド欠乏症を治す事のはずだ。
 しかし、エイクはその教えを受けるという提案を、何の疑いもなく受け入れていた。
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