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第1章 運命じゃない青い糸
第7話 放課後の教室で
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放課後、私はひとり図書館にこもって数学の課題に黙々と取り組んでいた。
いつもならとっくに家に帰っている時間だ。けれど、今日は違った。
「はぁ……」
意図せずしてため息がこぼれる。やっぱりどうにも集中できない。
昨日の瞳さんの言葉に引き続き、朝に美菜から言われた一言で、私は今日の授業中も休み時間も悶々と悩んでしまっていた。そのせいで、いつもなら授業中にこっそりと終わらせる課題プリントがまったくと言っていいほど進んでいなかった。しかも今日は朝から両親の機嫌がすこぶる悪く、あまり顔を合わせたくなかった。
結果、私は家に帰ることなく少しでも集中しようと図書館に出向いたわけだが、くだんの課題プリントは未だに五個ある問題のうちの半分程度までしか進んでいない。
少しでも手を止めれば蘇ってくるのは瞳さんや美菜の言葉。あるいは今日の朝の両親の緊迫した空気と態度。自分の中にくすぶる想いとその後押し、そして青い糸がみせる不幸の現実に完全に挟まれていた。
「……はぁ。ダメだ」
どうにもこうにも気分が乗らない。校内をぐるっと一回りしようと、私は席を立って図書館をあとにした。
授業が終わった後の校内は、部活動の喧騒に包まれていた。グラウンドから聞こえる掛け声に、上の階から響いてくる楽器の演奏。体育館から漏れ聞こえるボールのドリブル音、階段を駆け上がる運動部らしきアップテンポの足音。教室に残って勉強に勤しむ生徒たちのシャーペンの擦れる音……はさすがに聞こえないけれど。
高坂くんも、今は部活中かな。
高坂くんの所属している陸上部は、学校ではなく近くにある市営の陸上競技場で練習しているらしい。時間的にも練習の真っ最中だろうから、当然学校にはいない。今朝の一件からどうも話すのが恥ずかしかったし、鉢合わせの心配がなくて何よりだ。……って、なんで私はまた高坂くんのことを考えてるんだろ。
小さく頭を振って思考を掻き消すと、ちょうど私のクラスの前まで来ていた。
ちらりと教室の中を見るも、誰もいない。どうやら今日は居残りをしている人はいないみたいだ。
滑りの悪いドアを開けて、私は中に入る。昼休みや放課後すぐはあんなに賑やかだったのに、今はすっかり静まり返っている。なんだか変な感じだ。
夕陽が差し込む無人の教室を前から見渡すと、やっぱりというべきか、彼の席が目についた。窓際の真ん中、いつも騒がしい男子たちが集まっている席だ。彼の人気っぷりが容易に想像できた。
普段は決して近づくことのできない席に、私は引き寄せられるように歩いていく。
高校一年生の時もそうだが、私は青い糸で繋がれた高坂くんの近くに、なるべくいないようにしていた。なにかの弾みで接点なんかもたないように、可能な限り避けていた。そのおかげで、教室では事務連絡以外ほとんど話したことはない。教室の外では、偶然が重なった事故のごとく話してしまうことはあったけれど。
高坂くんの机にそっと触れる。隅のほうに、小さな落書きがあるのを見つけた。
「ふふっ。なにこれ」
タヌキをモチーフにした教師だ。きっと私たちのクラスの現代文を担当している田牧先生だろう。名前もさることながら、垂れ目で童顔というタヌキ顔なので、みんなからはタヌキ先生と呼ばれている。それにしてもそっくりだ。こういう落書きのセンスも、彼の魅力のひとつなんだろう。
「ん? これって」
落書きの書いてある机の角の真下に、なにかが落ちていた。拾い上げてみると、青色のキャンパスノートだった。表には「数学」の文字と「高坂実」という名前があった。
あーあ。今日数学の宿題出てたのに。高坂くんって、たまにおっちょこちょいなんだよね。
普段は格好いいけれど、こういう抜けているところもある。高坂くんらしいなあなんて思いながら、私は何気なくノートをめくった。
「…………え?」
最初のページを開いて、私は驚愕した。
一ページ目にあったのは、数学の公式でも課題の解答でもなかった。
ノート一ページをダイナミックに使った、教室の窓から見える風景のデッサンだった。
「これ……」
そのデッサンは、とても丁寧に描き込まれていた。空を流れる雲に、遥か彼方に連なる山々の稜線。遠目に見える細かな街並みから、手前に広がるグラウンドに、その周囲を規則的に囲っている常緑樹の葉まで。とても落書きとは思えないほどの緻密さだった。
もっとも、絵全体のバランスはそれほど良いとは言えない。微妙に大きさがおかしいところもあるし、線の太さもまちまちだ。もしかして、最近絵を習い始めたんだろうか。
クラスメイトのノートの中身を勝手に見ることに罪悪感を覚えつつも、私はさらに一枚、もう一枚とキャンパスノートのページをめくっていく。表紙には「数学」と書かれているわりに、そのなかにはデッサンしか描かれていなかった。後ろから眺めた教室の光景に、これは四階、あるいは屋上から見た反対側の風景だろうか。ほかにも、最初のページと同じ構図のデッサンも何枚かあった。後半になるにつれ、崩れていたバランスが整ってきていた。明らかに、上達していた。
でも、なにか違和感があった。
言葉では言い表せない、けれど強烈に心を突く違和感だった。既視感、といってもいいのかもしれない。私は今はじめて目にしたデッサンを、どこかで見たような気がしていた。
さらに、私はページをめくっていく。デッサンの数が減り、代わりに見たことのない風景の絵が増えた。画面構成は変化し、描きたいものなのだろう花や海、動物などを主体とした絵に変わった。さりげなく描かれた背景と、細部まで丁寧に仕上げられたモチーフの対比が印象的だった。丁寧にゆっくりと描いたはずなのにどこか勢いのある、そんな絵だった。素敵な絵だなあ、なんて単純な感想を持ちつつまた次のページを開いて、私の指先は止まった。
「あ……」
そこに描かれたのは、画面いっぱいに広がる空に、二枚の花弁だった。
認識する間もなく、鉛筆のみで描かれたはずのモノクロの絵が、鮮やかに色を帯び始める。
深くて雄大な青。日光を表す勢いのある白。ムラのある薄いピンク。
私が惹かれた、つい最近駅構内で目にした佳作が、目の前に浮かびあがる。
「――あれ? もしかして春見か?」
私の中に『春心』が蘇ったのと、爽やかな声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
いつもならとっくに家に帰っている時間だ。けれど、今日は違った。
「はぁ……」
意図せずしてため息がこぼれる。やっぱりどうにも集中できない。
昨日の瞳さんの言葉に引き続き、朝に美菜から言われた一言で、私は今日の授業中も休み時間も悶々と悩んでしまっていた。そのせいで、いつもなら授業中にこっそりと終わらせる課題プリントがまったくと言っていいほど進んでいなかった。しかも今日は朝から両親の機嫌がすこぶる悪く、あまり顔を合わせたくなかった。
結果、私は家に帰ることなく少しでも集中しようと図書館に出向いたわけだが、くだんの課題プリントは未だに五個ある問題のうちの半分程度までしか進んでいない。
少しでも手を止めれば蘇ってくるのは瞳さんや美菜の言葉。あるいは今日の朝の両親の緊迫した空気と態度。自分の中にくすぶる想いとその後押し、そして青い糸がみせる不幸の現実に完全に挟まれていた。
「……はぁ。ダメだ」
どうにもこうにも気分が乗らない。校内をぐるっと一回りしようと、私は席を立って図書館をあとにした。
授業が終わった後の校内は、部活動の喧騒に包まれていた。グラウンドから聞こえる掛け声に、上の階から響いてくる楽器の演奏。体育館から漏れ聞こえるボールのドリブル音、階段を駆け上がる運動部らしきアップテンポの足音。教室に残って勉強に勤しむ生徒たちのシャーペンの擦れる音……はさすがに聞こえないけれど。
高坂くんも、今は部活中かな。
高坂くんの所属している陸上部は、学校ではなく近くにある市営の陸上競技場で練習しているらしい。時間的にも練習の真っ最中だろうから、当然学校にはいない。今朝の一件からどうも話すのが恥ずかしかったし、鉢合わせの心配がなくて何よりだ。……って、なんで私はまた高坂くんのことを考えてるんだろ。
小さく頭を振って思考を掻き消すと、ちょうど私のクラスの前まで来ていた。
ちらりと教室の中を見るも、誰もいない。どうやら今日は居残りをしている人はいないみたいだ。
滑りの悪いドアを開けて、私は中に入る。昼休みや放課後すぐはあんなに賑やかだったのに、今はすっかり静まり返っている。なんだか変な感じだ。
夕陽が差し込む無人の教室を前から見渡すと、やっぱりというべきか、彼の席が目についた。窓際の真ん中、いつも騒がしい男子たちが集まっている席だ。彼の人気っぷりが容易に想像できた。
普段は決して近づくことのできない席に、私は引き寄せられるように歩いていく。
高校一年生の時もそうだが、私は青い糸で繋がれた高坂くんの近くに、なるべくいないようにしていた。なにかの弾みで接点なんかもたないように、可能な限り避けていた。そのおかげで、教室では事務連絡以外ほとんど話したことはない。教室の外では、偶然が重なった事故のごとく話してしまうことはあったけれど。
高坂くんの机にそっと触れる。隅のほうに、小さな落書きがあるのを見つけた。
「ふふっ。なにこれ」
タヌキをモチーフにした教師だ。きっと私たちのクラスの現代文を担当している田牧先生だろう。名前もさることながら、垂れ目で童顔というタヌキ顔なので、みんなからはタヌキ先生と呼ばれている。それにしてもそっくりだ。こういう落書きのセンスも、彼の魅力のひとつなんだろう。
「ん? これって」
落書きの書いてある机の角の真下に、なにかが落ちていた。拾い上げてみると、青色のキャンパスノートだった。表には「数学」の文字と「高坂実」という名前があった。
あーあ。今日数学の宿題出てたのに。高坂くんって、たまにおっちょこちょいなんだよね。
普段は格好いいけれど、こういう抜けているところもある。高坂くんらしいなあなんて思いながら、私は何気なくノートをめくった。
「…………え?」
最初のページを開いて、私は驚愕した。
一ページ目にあったのは、数学の公式でも課題の解答でもなかった。
ノート一ページをダイナミックに使った、教室の窓から見える風景のデッサンだった。
「これ……」
そのデッサンは、とても丁寧に描き込まれていた。空を流れる雲に、遥か彼方に連なる山々の稜線。遠目に見える細かな街並みから、手前に広がるグラウンドに、その周囲を規則的に囲っている常緑樹の葉まで。とても落書きとは思えないほどの緻密さだった。
もっとも、絵全体のバランスはそれほど良いとは言えない。微妙に大きさがおかしいところもあるし、線の太さもまちまちだ。もしかして、最近絵を習い始めたんだろうか。
クラスメイトのノートの中身を勝手に見ることに罪悪感を覚えつつも、私はさらに一枚、もう一枚とキャンパスノートのページをめくっていく。表紙には「数学」と書かれているわりに、そのなかにはデッサンしか描かれていなかった。後ろから眺めた教室の光景に、これは四階、あるいは屋上から見た反対側の風景だろうか。ほかにも、最初のページと同じ構図のデッサンも何枚かあった。後半になるにつれ、崩れていたバランスが整ってきていた。明らかに、上達していた。
でも、なにか違和感があった。
言葉では言い表せない、けれど強烈に心を突く違和感だった。既視感、といってもいいのかもしれない。私は今はじめて目にしたデッサンを、どこかで見たような気がしていた。
さらに、私はページをめくっていく。デッサンの数が減り、代わりに見たことのない風景の絵が増えた。画面構成は変化し、描きたいものなのだろう花や海、動物などを主体とした絵に変わった。さりげなく描かれた背景と、細部まで丁寧に仕上げられたモチーフの対比が印象的だった。丁寧にゆっくりと描いたはずなのにどこか勢いのある、そんな絵だった。素敵な絵だなあ、なんて単純な感想を持ちつつまた次のページを開いて、私の指先は止まった。
「あ……」
そこに描かれたのは、画面いっぱいに広がる空に、二枚の花弁だった。
認識する間もなく、鉛筆のみで描かれたはずのモノクロの絵が、鮮やかに色を帯び始める。
深くて雄大な青。日光を表す勢いのある白。ムラのある薄いピンク。
私が惹かれた、つい最近駅構内で目にした佳作が、目の前に浮かびあがる。
「――あれ? もしかして春見か?」
私の中に『春心』が蘇ったのと、爽やかな声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
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