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雨歌恋歌

1話

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 しとしとと窓を打つ雨音は耳にも心にも優しい。雑草抜き程度しか碌な手入れをしていない花壇にも見事なアジサイが今年も咲いた。植物の生命力には毎年驚かされる。

「こんな風に泣く女……いないものかねえ」

 自宅兼管理人室である家のリビングのソファで、バイクの雑誌を広げながら圭輔けいすけは独り言を漏らした。
 女性が苦手ということではない。ただ過去の恋愛が抹消したいくらい、いい思い出が無いのだ。田舎の父から任されたこのレディースマンションの管理人業も、圭輔の女嫌いを見込んで頼まれたくらいだ。出世街道をひたすらに走っている姉三人の影響は大いにあるだろう。むしろ姉達から奴隷のように扱われる日々に嫌気がさして、大学進学を機に地元を離れた。
 一人暮らしは悠々自適だ。だが、圭輔に女を見る目がないのか、はたまた生まれ持っての天運か、彼は半年以上付き合いが続いた例がない。今年で二十八になるが、今はまさに友人達の結婚と出産ラッシュでジリ貧である。管理人業と並行している本業のマルチデザイナーの仕事が需要多数なおかげで三度の食事にはありつけているが、それもコンビニやらスーパーの惣菜で済ませるせいで手料理が恋しいのは否めない。
 田舎の両親は電話の度に「いつになったら嫁さんを紹介するのだ」と急かすが、そんな女性に出逢えるのならばこっちが訊きたいくらいだ、と毎度苦々しく思う。いっそ悪友のように、重度のシスコンゆえ「妹が彼氏を連れてきた日が俺の命日だ」と胸を張れたらどんなに楽だろうと圭輔は雑誌を閉じた。
 その時、インターフォンが鳴る。時刻は夜の八時を少々過ぎている。

「はい」

『すみません。五○三号室の神崎です。帰宅して玄関のスイッチを入れたら弾ける音がして、家中が真っ暗になってしまいまして……』

「あー……了解っす。部屋を拝見しても良いですか?」

『はい。お願いします』

 ヒューズが飛んだだけなら圭輔でも充分対処できると思い、懐中電灯だけを手に部屋を出た。しかし扉を開いて圭輔はぎょっとした。

「……神崎さん、傘持って行かなかったんですか?」

 インターフォンの前に立っていた神崎美桜はサラサラのショートボブから雨露を滴り落としながら立っていた。

「いえ。ビニール傘を持って行ったら、誰かに間違えて持って帰られたみたいです。折り畳みも、いつもは常備しているんですけど、今日に限って鞄に入れ忘れてしまって」

 第一印象は「薄幸の綺麗なお姉さん」で通るであろう美桜は意外にも色々と抜けているらしい。

「それじゃあ風邪ひきますよ。とりあえずタオル貸すから、これ持って待ってて」
 圭輔は急いで懐中電灯を美桜に押し付けると、タオルを取りに部屋へ戻った。適当に山積みになっている中から比較的新しいスポーツタオルをひっつかむとまた玄関に向かい、懐中電灯を持ったまま、つっ立っている彼女の頭にタオルを被せた。

「なんだか色々お世話になります」

 薄手のシャツまで濡れている彼女が丁寧にお辞儀をすると、今度は鞄がひっくり返って中身をぶちまける。

「あ」

「あーあー」

 髪を拭きながら、もそもそと鞄の中身を拾う彼女を見かねて、圭輔もしゃがんで手伝う。

「神崎さんって、意外とドジなんですね……」

「よく言われます。本当に……何から何まで大家さんにはお世話になりますね」

 ありがとうございます、と小さく笑った彼女はカスミソウを思い出すほどに淡い。思わず心臓が跳ねそうになった圭輔だが、次の瞬間にはまた眠そうな顔に戻っていた彼女を見て、見間違いかと考えを改めた。
 結局、彼女の家でも電源盤を確認しても異常は無かった。何度もスイッチを点けたり消したりを繰り返しても効果は見られない。

「……参ったな。こりゃあ業者の人を呼ぶしかなさそうですね」

 幸い、明日も平日だが当然ながら彼女も仕事だろう。朝一番で業者に連絡をしても運が良ければ昼には来てくれるが、混み合っていると日を改めないといけなくなる。

「明日って、訊くまでも無くお仕事ですよね」

「そうですね。……どうしよう……?」

 言葉に反して、彼女は対して狼狽える様子もなく、彼女はしばし逡巡していた。

「……あの、管理人さんは明日お忙しいですか?」

「いえ、俺は在宅勤務なのでほとんど家ですが」

「じゃあ、マスターキーで業者さんが来たら対応をお願いできませんかね」

 えらく大胆な申し出に圭輔の方が狼狽える。この女は危機感というものは備わっていないのだろうか。

「いやいやいや。一人暮らしの女性の家で、管理人とは言え男が対応するのはまずいでしょう!?」

「うち、別に盗られて困る物はありませんよ。……台所の調味料の配列だけは変えないで頂ければ」

「そういう問題では無く!!」

「では何が問題なんです?」

 他人との意思疎通がここまで難しいと思ったのは初めてだ、と圭輔は頭を抱えながら首に貸したタオルをひっかけている美桜と相対する。圭輔からの回答を待っているのか、変わらず眠たそうな目でこちらを見てくる。悩みぬいた末に圭輔は「……解りました」と答えた。

「明日、代わりに対応しておきます……。あの、本っ当に何もしませんからね!! なんなら誓約書書きます」

「大家さんって真面目ですね。お手数ですがよろしくお願いします。あの、御礼を……何かお好きな物とかありますか」

「そんなのも別に良いですよ」

「でも、お世話になりっぱなしですから」

 また問答が始まる予感がしたので、ここは圭輔が先手をうった。

「じゃあ、料理!! なんでも良いので手料理をお願いします!!」

「わかりました」

 あっさりと了承してもらえたので、圭輔は胸を撫で下ろす。しかし、まだ問題が残っていたことに気づいてしまった。おそるおそる美桜を見て尋ねる。

「あのー……今夜はどうするんですか?」

「え、蝋燭に火を点けて凌ごうかと思っていました」

「蝋燭、持ってるんですか」

「……無いですね」

 二人の間にまた沈黙が流れた。すでに予想がついていた圭輔は涙を飲んで「なんとなくね、なんとなく解ってはいたんですよ」などとぶつぶつ言っている。それに気づかない美桜は、はてと頭を傾げていた。
 もう問答することに疲れていた圭輔は結局彼女を自宅に連れ帰り、風呂と寝室を貸したのだった。



 翌朝、「お世話になりました」とお辞儀をした美桜は早めに部屋に帰って化粧と着替えだけを済ませると、再びマンションを出て仕事に向かった。やっと彼女から解放された圭輔は脱力してソファに倒れ込んだ。

「……究極のマイペースだな……未知との遭遇」

 聞こえないのを良いことに、言いたい放題だ。だが、管理人としての仕事は果たさねば、と業者に電話をし、午後には来てくれるとのことだったので、腹ごしらえをすることにした。
 買い置きのレトルトカレーを棚から取り出し、白米だけはあるので解凍しようと冷蔵庫を開けると、昨晩彼女が作ってくれたツナと白菜の煮物とニラ玉がラップに包まれて置いてあった。

 『重ね重ねお世話になります』と、象形文字と揶揄される圭輔の文字とは正反対の、流水のように美しい文字で一言メモが添えてあった。

「宇宙人だけど……こういうところは良いな」

 そんな失礼なことを考えながら、圭輔は彼女の料理をレンジで温めて完食した。
 午後にやってきた業者が言うには、電気系統の老朽化による一斉ショートらしい。確かに築年数は十年になろうかというところなので、他の部屋にも起こりそうだと考えた圭輔は、これを機に全ての部屋をLED電球に変えることを決意して、パソコンで住民に知らせるプリントを作って出力する。田舎の父も了承済みだ。
 印刷したプリントを各部屋のポストに入れていると一日が終わった。納期目前の仕事が入っていないのが幸いだったと安堵していると、ちょうどポストの前でスカイブルーのシャツを着た美桜に出逢った。

「おかえりっす。業者さん、対応してきましたよ」

「ありがとうございます。マンションの電球、全部変えるんですか?」

 彼女の部屋は交換済みだが、念の為に美桜にもプリントを渡した。

「神崎さんの部屋みたいな事が一斉に起こられたら困るので。お宅はもう終わってるので参考までに」

「管理人さんも大変なんですね」

「こんなのはたまにですよ。それよりも冷蔵庫に置いて行ってくれた飯、美味かったです。ごちそうさま」

「あれくらいで良ければいつでも作りますよ。それにしても大家さんの冷蔵庫は綺麗すぎて驚きました」

「……ストレートに何もないって言ってくれて良いのに」

「私でも言葉をオブラートに包むことくらいはできます」

 やたらと凛々しくそう言い放った彼女が可笑しくて、圭輔は笑いを堪える。

「俺、豚の角煮が好物なんです。もし気が向いたら作って下さい」

 それだけを言い終えると、圭輔は管理人室へと入って行った。残された美桜は渡された紙を見ながら自身も部屋へと帰って行った。

to be continued...

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