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大地の章
参、後宮の憂い、民の燻り
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参、「後宮の憂い、民の燻り」
エイルがヤンジンに連れていかれたのは、緑萌える平野の真ん中にぽつんとあった集落だった。家はどれも同じ造りをしていた。茅葺き屋根に黒い木肌。鎧を付けていない長袍の男が五人、羊の脱走防止の柵にもたれていた。
ヤンジンは馬で歩み寄りながら「おーい」と馬上から男達に声をかけた。
「おお、真君!! 待ちくたびれちまったよ」
「すまん。こいつ、新入り。エリンという。海底龍王の第一王子だ」
「お、王子……? しかも海の。真君、正気なのか?」
五人は馬から降りたヤンジンに詰め寄る。エリンも馬から降りて、話の成り行きを見守った。
「まあ、落ち着け。今から詳しく話す」
「し、真君、俺は反逆になど加担しませんよ!?」
「エリン、お前も話を聞け。反逆など、そんな大層なものではない。我らが狙うのはジュウゼンの退位と、戦を望まぬ王の擁立だ」
エリンは、肩に乗ったテムを抱え直して、ヤンジンと五人の男達の後ろを警戒しながら追った。
ヤンジンが腰を落ち着けたのは、集落の中でも一際大きな家だった。長老の家らしい。
「村ぐるみで反逆者なのか……」
エイルが土間に突っ立っていると、ぱちぱちと炭が爆ぜる囲炉裏を長老と呼ばれる年老いた灰色の長い眉で目が埋没し、伸びっぱなしの口髭と顎髭に口が見えない老人の隣に座るよう、ヤンジンに命じられた。
「長老、海底の王子だ。話してやってくれ」
「……ほう……これはまた青いのお。ここに集まるのは青二才ばかりじゃが、とびきり青いわい」
「……はじめまして。海底龍王エイシャの第一王子・エイルと申します」
「『賢者』の息子か。もしも王が急逝なさったら、お主が王じゃ。どうする?」
「え、っと……それは、やはり官や信頼できる臣と話して……」
「信頼できる臣とな? 真君がおっしゃるには、宰相が間者なのであろう? 間者が新しい若き王にすんなりと玉座を渡すと思うかね」
エイルは黙り込んでしまった。長老の言うとおりだ。ロンやセツカならいざ知らず、若すぎるエイルを新王として擁立してくれる官や臣が、果たして何人いるだろうか。
三龍界の王位は、基本的に世襲制だが、例外も多数存在する。最も顕著なのがこの地上だと学んだ。ここは実力主義で、武力と統率力が王たる資質だと考えられている。
「どうやら地上の王位継承についての説明は要らぬようだ。話を進めよう」
「ま、待ってください……!! 真君、どうして竜宮の宰相が間者だとご存知なのですか!?」
ヤンジンは笑みを絶やさぬまま、天井を示した。エイルは上を見上げるが、太い梁と密集した茅しか見えない。
「馬鹿たれ。屋根じゃねえ。夜空だ」
「空?」
「俺は星詠みが得意でな。星は色々な情報の欠片をくれるのさ。海にも優秀な星詠みが居るだろう――エイシャ王がそうだ」
知らなかった、とエイルは唇を噛みしめる。その様子に長老は梟の鳴き声のような笑い声を上げた。
「これは育てがいがあるのお、真君。まっさらじゃ」
「だろう? うちの馬鹿弟子は人を見る目は確かだ――さてと、エリン。ここに集まる者の話をしよう」
エイルは慌てて居住まいを正した。顔の横ではテムも前のめりになり、両者の頬がくっついた。ロンは「真君が気まぐれに講義を始めたら真摯に耳を傾けろ」と言った。今がその時だ。
「お前の師は玉鼎真人様だな?」
「はい」
「では、歴史と、王政下での民の意を重視されたか?」
「はい、おっしゃる通りです」
「うん。地上の民の話をしよう。空でお前たちは奇襲が頻繁にあると言ったな。あれは王がジュウゼンに代わってから頻度が増えたとは聞いたか?」
「いいえ……ただロンが奇襲の補助に行っている間に、話してくれたタオ老師――空の占術師は、講和条約の隙間を縫って奇襲をかける、と。地平龍王に抗議をしても意見は通らぬとは伺いました」
ヤンジンは火箸で囲炉裏の炭を突きながら、エイルの話を聞いていた。長老も胡坐をかいたまま、微動だにしない。だが、先に口を開いたのは長老だった。
「空の占術師タオ、か。三龍大戦の引き金になった哀れな空の母と幼い娘もタオ姓であったのお」
「え……?」
「儂は空には詳しくはない。しかし、空の高官の母娘が犠牲になり、忌まわしい大戦が始まったと記憶しておる」
「十中八九、死んだ母娘はその占術師の血縁だろうな。ゆえに占術師という王に直訴する権力を持っている老師がリナリアと空石の同化を諫めなかったなら筋が通る」
タオはそんな話は一言もしなかった――否、思い返せば空の誰もが犠牲になった母娘の話は口にしなかった気がする。エイルは正座した脚の上で拳を握りしめた。
「地上もな、戦意に溢れている者など王宮に集う血の気の多い連中だけさ。他の大多数の民はこうやって安穏と日の出と共に起きて、夕べに草の匂いと木々の騒めきを聴きながら眠る。たったそれだけの平和を、地平龍王ジュウゼンは目を向けようとはしない。ここに居る連中は、だからこそ秘密裡に決起した。俺は知恵を貸しているにすぎぬ」
「だから、王の客体の立場を利用されたのですか? 王の交代と、安寧を望む人々が兵士になれるように」
「そうだ。この国は海底竜宮が羨ましい。争いを厭う賢明な王と、王の信念を遵守して眠りにつき、海底を護る姫が居る。実に羨ましい」
ヤンジンはここではない遠くに思いを馳せながら、穏やかな瞳をしていた。ロンは真君が地上の生まれだと言っていた。仙界の重鎮でありながらも、国を憂う気持ちに、エイルはまたうつむいた。
◇
ユウキという痩躯の男に「こちらが後宮となります」と王城の南側に案内されたロンは周囲を見回す。ここはおそらくヤンジンが泊まっていた客間の真下に位置するだろう。
ユウキに案内してもらっている間、謁見の間、ヤンジンの客室、後宮までの道――大まかな城の内部構造は把握できた。細かい点は異なるが、建築様式としては天空の久遠城が特殊であっただけで、この高麗城は海底竜宮と似ている。この事実だけでも、ロンにはありがたかった。
ユウキは後宮の扉を開いて、中に入っていく。
「ユウキ様、とおっしゃっていましたか。後宮とは女人以外は禁制だと伺ったことがあるのですが、あなた様は例外でいらっしゃる?」
「カリン殿は博識ですね。私は宦官という男としての機能を失った者です。後宮でも力仕事は必要だ。特に私はこの城の古株なので、いつも王に案内係を命じられるだけのこと」
「そうでしたか。不躾な問いをお許しください」
「いいえ、真君が目を付けただけの女性のようだ。どうか王后様をお慰めしてあげてください」
「お慰め、ですか? なにか哀しいことでも?」
「……お逢いすれば、お話しくださいます」
ユウキは哀しい笑みを浮かべて、後宮の奥に進んだ。ぼやけた緑の釉薬が塗られた扉を護る兵士に一礼して「王后様に王より新しい女官の案内を仰せつかりました」と述べると兵士はぎょろりと礼を取るロンを一瞥して、本が一冊入る程度の大きさをした窓から王后に声をかけた。
「入れ。中の会話は訊かせてもらう」
兵士はそう告げると、ロンだけの入室を許した。
(……まるで鳥籠だな……)
ロンがそう考えていると、長椅子で開け放たれた内扉から小鳥の鳴き声を聞いている女性が居た。栗色が混じった豊かな髪を高く花のように結い上げ、青と赤の交領襦裙の襟を大きく開いて肩を出した、絵画のような美女だ。傍には二人の女。二人はロンに羽扇で長椅子の女性の前に座るよう促した。
「真君が連れてきた海の者は、其方?」
王后は想像よりもずっと若い。外見の年齢だけなら、セツカと同じくらいだ。
「王后様に於かれましては拝謁の機を頂き、心より嬉しく存じます」
「堅苦しいのは抜きにしましょう? 顔をあげて。名は?」
「カリンと申します」
「まあ、よい名をお持ちね。地上には其方の名をした果実があるのよ。ご存知かしら?」
「はい、真君が教えてくださいました。なんでも甘く、喉によいので好まれる果実だとか」
「そうなの。私も大好き。ああ、話していたら飲みたくなってきたわ。カリンを招いた祝いに蜜漬けとお茶を――」
王后様は海の回遊蝶よりも、夢のように消えてしまいそうな印象を与えられる。茶を待つ間に、王后様の質問は続いた。
「カリン、その眼帯はなあに?」
「私は生まれつき左眼に視力がございません。周囲の皮膚が醜いので、こうして飾り隠しているのです」
「お気の毒ね。海は海底に竜宮があるのでしょう? 地上のように生き物はいるの?」
「海も生き物がたくさん居ります。小さな魚から、竜宮に匹敵する大きさの『鯨』という生き物も。王家の私有地である『珊瑚の森』と呼ばれる場所は、森だけに住まう蝶やイソギンチャクも多数」
カリンの話に興奮したのか、王后は頬を赤らめて「それで?」と前のめりになる。よほど他国の事情を知らぬと見たロンは、話題を選び、王后が求めているモノを探る。
「私が特別気に入っているのは、この頸鏈になっている真珠でしょうか。これは母の形見で白い真珠が連なっていますが、一粒だけ、海の秘宝・桜真珠に色味が似た桃色の真珠があります」
「まあ、そんな真珠は聞いたことがないわ。見せてくださるかしら?」
「ええ、喜んで」
ロンは頸鏈を外すと、すっと立ち上がり、両手で掲げて王后の手の届く場所で差し出した。
「桃色の真珠は、この飾りの部分に使われているのね……!! なんて愛らしいのかしら。桃真珠を護るように輝きを押さえた緑青石が二重の円になっているわ。素敵な一品をお母上は遺されたのね」
「はい、王后様にそんなにもお気に召して頂けただけでも、その頸鏈は幸せものでございます」
ロンはにこりと笑うと、王后は少女のようにずっと頸鏈をいじっている。ロンが色を変えたのだとは、とても言い出せない。あまり喜ばれると、少々罪悪感が芽生える。王后の身でありながら、とても世間知らずだ。ロンにとっては好都合だが、とてもあの頑強な地平龍王の正室とは思えぬ印象を受ける。
そんなことを考えていると、甘い香りの茶と茶菓子が運ばれてきた。
「カリンは地上のお菓子を口にするのは初めてかしら?」
「はい。海底と仙界しか行ったことがございません。このお茶が、私の名の果実からできたお茶なのですか? とてもよい香りですね」
「そうよ。どうぞ召し上がって。こちらの棗の蜜漬けも美味しいの。こちらの焼き菓子は香ばしい豆を砕いて、胡麻を混ぜている私のお気に入りよ」
うきうきと長椅子から起き上がった王后に勧められるまま、慎重にお茶と菓子を口にした。幸い、毒は入っていない。
「これは……どれも、とても美味しいですね。特に焼き菓子は、豆の香ばしさも胡麻の香り高さもそのままで、優しいお味がします。花梨茶もわずかなとろみの喉越しがたまりません」
「ふふ、其方はなんでも感動するのね。こんなにも気が合う女官はなかなかいないから、嬉しい。其方には、私の故郷を見せたくなる。ああ、故郷が恋しいこと……」
「王后様の故郷は、南部の暑い地域だと真君から伺いましたが、そちらのことですか?」
「真君ったらお口が軽い方。そうなの。この王都よりも少しだけ気温が高く、雨が少ない地域よ。私はその地方の領主の娘だったのだけれど、父と王にご挨拶に来たら、そのまま後宮に召し上げられたから、ずっと故郷が恋しいのです。時折、真君が故郷の様子が変わりないと話してくれる時間だけが、私が楽しめる時間です」
ロンは甘い花梨茶を啜りながら、あの小憎たらしい師匠の顔を思い浮かべた。長年の勘から、まず間違いない――この王后はヤンジンに恋をしていると。
「……罪作りな……」
「え?」
「いいえ、やはりとても美味しいなと思わず口調が乱れてしまいました。お恥ずかしい限りです」
つい出た本音を笑顔で取り繕う。王后も、お付きの女たちも袖で口を覆ってくすくすと笑った。
結局この日は、王后と茶を楽しんで終わった。夕餉も与えられた部屋に運ばれ、自室で済ませた。就寝時間になると、ロンは部屋中の装飾をひっくり返してどんな小さな宝石でも見つければ手を触れて、指輪に宝石の力を移した。
「……地平龍王め、惨いことをする……」
指輪が淡い金色の光を帯びたのを確認しながら、ロンは寝台に潜った。
昼間に逢った王后とおつきの二人――王后は足を、お付きの二人は同じく足と喉をつぶされていた。
後宮から逃がさぬよう、女性は楽器を爪弾く優雅な飾り物であれという悪習があるとは聞いていたが、いざ本人らを目の当たりにすると気分が悪い。同じ女の園でも、仙界の西部にはそんな風習はなかった。
しかも王后はヤンジンに恋をしている。エイルによからぬことを吹き込まなければいいがと義弟と仔龍の身を案じながらロンは浅い眠りについた。
続...
エイルがヤンジンに連れていかれたのは、緑萌える平野の真ん中にぽつんとあった集落だった。家はどれも同じ造りをしていた。茅葺き屋根に黒い木肌。鎧を付けていない長袍の男が五人、羊の脱走防止の柵にもたれていた。
ヤンジンは馬で歩み寄りながら「おーい」と馬上から男達に声をかけた。
「おお、真君!! 待ちくたびれちまったよ」
「すまん。こいつ、新入り。エリンという。海底龍王の第一王子だ」
「お、王子……? しかも海の。真君、正気なのか?」
五人は馬から降りたヤンジンに詰め寄る。エリンも馬から降りて、話の成り行きを見守った。
「まあ、落ち着け。今から詳しく話す」
「し、真君、俺は反逆になど加担しませんよ!?」
「エリン、お前も話を聞け。反逆など、そんな大層なものではない。我らが狙うのはジュウゼンの退位と、戦を望まぬ王の擁立だ」
エリンは、肩に乗ったテムを抱え直して、ヤンジンと五人の男達の後ろを警戒しながら追った。
ヤンジンが腰を落ち着けたのは、集落の中でも一際大きな家だった。長老の家らしい。
「村ぐるみで反逆者なのか……」
エイルが土間に突っ立っていると、ぱちぱちと炭が爆ぜる囲炉裏を長老と呼ばれる年老いた灰色の長い眉で目が埋没し、伸びっぱなしの口髭と顎髭に口が見えない老人の隣に座るよう、ヤンジンに命じられた。
「長老、海底の王子だ。話してやってくれ」
「……ほう……これはまた青いのお。ここに集まるのは青二才ばかりじゃが、とびきり青いわい」
「……はじめまして。海底龍王エイシャの第一王子・エイルと申します」
「『賢者』の息子か。もしも王が急逝なさったら、お主が王じゃ。どうする?」
「え、っと……それは、やはり官や信頼できる臣と話して……」
「信頼できる臣とな? 真君がおっしゃるには、宰相が間者なのであろう? 間者が新しい若き王にすんなりと玉座を渡すと思うかね」
エイルは黙り込んでしまった。長老の言うとおりだ。ロンやセツカならいざ知らず、若すぎるエイルを新王として擁立してくれる官や臣が、果たして何人いるだろうか。
三龍界の王位は、基本的に世襲制だが、例外も多数存在する。最も顕著なのがこの地上だと学んだ。ここは実力主義で、武力と統率力が王たる資質だと考えられている。
「どうやら地上の王位継承についての説明は要らぬようだ。話を進めよう」
「ま、待ってください……!! 真君、どうして竜宮の宰相が間者だとご存知なのですか!?」
ヤンジンは笑みを絶やさぬまま、天井を示した。エイルは上を見上げるが、太い梁と密集した茅しか見えない。
「馬鹿たれ。屋根じゃねえ。夜空だ」
「空?」
「俺は星詠みが得意でな。星は色々な情報の欠片をくれるのさ。海にも優秀な星詠みが居るだろう――エイシャ王がそうだ」
知らなかった、とエイルは唇を噛みしめる。その様子に長老は梟の鳴き声のような笑い声を上げた。
「これは育てがいがあるのお、真君。まっさらじゃ」
「だろう? うちの馬鹿弟子は人を見る目は確かだ――さてと、エリン。ここに集まる者の話をしよう」
エイルは慌てて居住まいを正した。顔の横ではテムも前のめりになり、両者の頬がくっついた。ロンは「真君が気まぐれに講義を始めたら真摯に耳を傾けろ」と言った。今がその時だ。
「お前の師は玉鼎真人様だな?」
「はい」
「では、歴史と、王政下での民の意を重視されたか?」
「はい、おっしゃる通りです」
「うん。地上の民の話をしよう。空でお前たちは奇襲が頻繁にあると言ったな。あれは王がジュウゼンに代わってから頻度が増えたとは聞いたか?」
「いいえ……ただロンが奇襲の補助に行っている間に、話してくれたタオ老師――空の占術師は、講和条約の隙間を縫って奇襲をかける、と。地平龍王に抗議をしても意見は通らぬとは伺いました」
ヤンジンは火箸で囲炉裏の炭を突きながら、エイルの話を聞いていた。長老も胡坐をかいたまま、微動だにしない。だが、先に口を開いたのは長老だった。
「空の占術師タオ、か。三龍大戦の引き金になった哀れな空の母と幼い娘もタオ姓であったのお」
「え……?」
「儂は空には詳しくはない。しかし、空の高官の母娘が犠牲になり、忌まわしい大戦が始まったと記憶しておる」
「十中八九、死んだ母娘はその占術師の血縁だろうな。ゆえに占術師という王に直訴する権力を持っている老師がリナリアと空石の同化を諫めなかったなら筋が通る」
タオはそんな話は一言もしなかった――否、思い返せば空の誰もが犠牲になった母娘の話は口にしなかった気がする。エイルは正座した脚の上で拳を握りしめた。
「地上もな、戦意に溢れている者など王宮に集う血の気の多い連中だけさ。他の大多数の民はこうやって安穏と日の出と共に起きて、夕べに草の匂いと木々の騒めきを聴きながら眠る。たったそれだけの平和を、地平龍王ジュウゼンは目を向けようとはしない。ここに居る連中は、だからこそ秘密裡に決起した。俺は知恵を貸しているにすぎぬ」
「だから、王の客体の立場を利用されたのですか? 王の交代と、安寧を望む人々が兵士になれるように」
「そうだ。この国は海底竜宮が羨ましい。争いを厭う賢明な王と、王の信念を遵守して眠りにつき、海底を護る姫が居る。実に羨ましい」
ヤンジンはここではない遠くに思いを馳せながら、穏やかな瞳をしていた。ロンは真君が地上の生まれだと言っていた。仙界の重鎮でありながらも、国を憂う気持ちに、エイルはまたうつむいた。
◇
ユウキという痩躯の男に「こちらが後宮となります」と王城の南側に案内されたロンは周囲を見回す。ここはおそらくヤンジンが泊まっていた客間の真下に位置するだろう。
ユウキに案内してもらっている間、謁見の間、ヤンジンの客室、後宮までの道――大まかな城の内部構造は把握できた。細かい点は異なるが、建築様式としては天空の久遠城が特殊であっただけで、この高麗城は海底竜宮と似ている。この事実だけでも、ロンにはありがたかった。
ユウキは後宮の扉を開いて、中に入っていく。
「ユウキ様、とおっしゃっていましたか。後宮とは女人以外は禁制だと伺ったことがあるのですが、あなた様は例外でいらっしゃる?」
「カリン殿は博識ですね。私は宦官という男としての機能を失った者です。後宮でも力仕事は必要だ。特に私はこの城の古株なので、いつも王に案内係を命じられるだけのこと」
「そうでしたか。不躾な問いをお許しください」
「いいえ、真君が目を付けただけの女性のようだ。どうか王后様をお慰めしてあげてください」
「お慰め、ですか? なにか哀しいことでも?」
「……お逢いすれば、お話しくださいます」
ユウキは哀しい笑みを浮かべて、後宮の奥に進んだ。ぼやけた緑の釉薬が塗られた扉を護る兵士に一礼して「王后様に王より新しい女官の案内を仰せつかりました」と述べると兵士はぎょろりと礼を取るロンを一瞥して、本が一冊入る程度の大きさをした窓から王后に声をかけた。
「入れ。中の会話は訊かせてもらう」
兵士はそう告げると、ロンだけの入室を許した。
(……まるで鳥籠だな……)
ロンがそう考えていると、長椅子で開け放たれた内扉から小鳥の鳴き声を聞いている女性が居た。栗色が混じった豊かな髪を高く花のように結い上げ、青と赤の交領襦裙の襟を大きく開いて肩を出した、絵画のような美女だ。傍には二人の女。二人はロンに羽扇で長椅子の女性の前に座るよう促した。
「真君が連れてきた海の者は、其方?」
王后は想像よりもずっと若い。外見の年齢だけなら、セツカと同じくらいだ。
「王后様に於かれましては拝謁の機を頂き、心より嬉しく存じます」
「堅苦しいのは抜きにしましょう? 顔をあげて。名は?」
「カリンと申します」
「まあ、よい名をお持ちね。地上には其方の名をした果実があるのよ。ご存知かしら?」
「はい、真君が教えてくださいました。なんでも甘く、喉によいので好まれる果実だとか」
「そうなの。私も大好き。ああ、話していたら飲みたくなってきたわ。カリンを招いた祝いに蜜漬けとお茶を――」
王后様は海の回遊蝶よりも、夢のように消えてしまいそうな印象を与えられる。茶を待つ間に、王后様の質問は続いた。
「カリン、その眼帯はなあに?」
「私は生まれつき左眼に視力がございません。周囲の皮膚が醜いので、こうして飾り隠しているのです」
「お気の毒ね。海は海底に竜宮があるのでしょう? 地上のように生き物はいるの?」
「海も生き物がたくさん居ります。小さな魚から、竜宮に匹敵する大きさの『鯨』という生き物も。王家の私有地である『珊瑚の森』と呼ばれる場所は、森だけに住まう蝶やイソギンチャクも多数」
カリンの話に興奮したのか、王后は頬を赤らめて「それで?」と前のめりになる。よほど他国の事情を知らぬと見たロンは、話題を選び、王后が求めているモノを探る。
「私が特別気に入っているのは、この頸鏈になっている真珠でしょうか。これは母の形見で白い真珠が連なっていますが、一粒だけ、海の秘宝・桜真珠に色味が似た桃色の真珠があります」
「まあ、そんな真珠は聞いたことがないわ。見せてくださるかしら?」
「ええ、喜んで」
ロンは頸鏈を外すと、すっと立ち上がり、両手で掲げて王后の手の届く場所で差し出した。
「桃色の真珠は、この飾りの部分に使われているのね……!! なんて愛らしいのかしら。桃真珠を護るように輝きを押さえた緑青石が二重の円になっているわ。素敵な一品をお母上は遺されたのね」
「はい、王后様にそんなにもお気に召して頂けただけでも、その頸鏈は幸せものでございます」
ロンはにこりと笑うと、王后は少女のようにずっと頸鏈をいじっている。ロンが色を変えたのだとは、とても言い出せない。あまり喜ばれると、少々罪悪感が芽生える。王后の身でありながら、とても世間知らずだ。ロンにとっては好都合だが、とてもあの頑強な地平龍王の正室とは思えぬ印象を受ける。
そんなことを考えていると、甘い香りの茶と茶菓子が運ばれてきた。
「カリンは地上のお菓子を口にするのは初めてかしら?」
「はい。海底と仙界しか行ったことがございません。このお茶が、私の名の果実からできたお茶なのですか? とてもよい香りですね」
「そうよ。どうぞ召し上がって。こちらの棗の蜜漬けも美味しいの。こちらの焼き菓子は香ばしい豆を砕いて、胡麻を混ぜている私のお気に入りよ」
うきうきと長椅子から起き上がった王后に勧められるまま、慎重にお茶と菓子を口にした。幸い、毒は入っていない。
「これは……どれも、とても美味しいですね。特に焼き菓子は、豆の香ばしさも胡麻の香り高さもそのままで、優しいお味がします。花梨茶もわずかなとろみの喉越しがたまりません」
「ふふ、其方はなんでも感動するのね。こんなにも気が合う女官はなかなかいないから、嬉しい。其方には、私の故郷を見せたくなる。ああ、故郷が恋しいこと……」
「王后様の故郷は、南部の暑い地域だと真君から伺いましたが、そちらのことですか?」
「真君ったらお口が軽い方。そうなの。この王都よりも少しだけ気温が高く、雨が少ない地域よ。私はその地方の領主の娘だったのだけれど、父と王にご挨拶に来たら、そのまま後宮に召し上げられたから、ずっと故郷が恋しいのです。時折、真君が故郷の様子が変わりないと話してくれる時間だけが、私が楽しめる時間です」
ロンは甘い花梨茶を啜りながら、あの小憎たらしい師匠の顔を思い浮かべた。長年の勘から、まず間違いない――この王后はヤンジンに恋をしていると。
「……罪作りな……」
「え?」
「いいえ、やはりとても美味しいなと思わず口調が乱れてしまいました。お恥ずかしい限りです」
つい出た本音を笑顔で取り繕う。王后も、お付きの女たちも袖で口を覆ってくすくすと笑った。
結局この日は、王后と茶を楽しんで終わった。夕餉も与えられた部屋に運ばれ、自室で済ませた。就寝時間になると、ロンは部屋中の装飾をひっくり返してどんな小さな宝石でも見つければ手を触れて、指輪に宝石の力を移した。
「……地平龍王め、惨いことをする……」
指輪が淡い金色の光を帯びたのを確認しながら、ロンは寝台に潜った。
昼間に逢った王后とおつきの二人――王后は足を、お付きの二人は同じく足と喉をつぶされていた。
後宮から逃がさぬよう、女性は楽器を爪弾く優雅な飾り物であれという悪習があるとは聞いていたが、いざ本人らを目の当たりにすると気分が悪い。同じ女の園でも、仙界の西部にはそんな風習はなかった。
しかも王后はヤンジンに恋をしている。エイルによからぬことを吹き込まなければいいがと義弟と仔龍の身を案じながらロンは浅い眠りについた。
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