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第一章

act.07 僕と若葉と海の話 その2

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 迂闊うかつだった。僕たちは夏休みでも大人は働いている。

 僕はそれを忘れて総武快速線直通で湘南へ楽勝、なんて考えていた。

 今日は平日だから普通に通勤ラッシュがあったのだ。

 総武快速線の久里浜行きは混んでいた。僕はなんとか吊り革につかまることができたけれど、場所的に若葉から届く吊り革がない。

 若葉は通勤客に押し合いへし合いされながら、必死に僕の腕を掴んで立っている。時々不満そうな目で僕を見て頬を膨らませつつ。

「若葉、もうちょっと、たぶんさすがに東京駅まで行ったら混み具合も全然違うと思うから」

「……うん、わかった」

 そう言って若葉は僕の腕をギュッと握り直す。

 なにしろ江ノ島の方まで行きたいとリクエストしたのは若葉。不満を言っても仕方がないと諦めた様子だった。


 △


 今日の朝、若葉はリビングのテラスから入ってくることもなく玄関のピンポンを鳴らした。だいたいウチの母親が家にいる時間帯に限って、若葉は玄関のピンポンを鳴らして礼儀正しく入ってくる。もし若葉が狙ってやっているとしたら抜け目のないやつだ。

 「まだ早いよ若葉」と言いながらカギを開けると、そこには若葉とおばさん、つまり若葉のお母さんが一緒に立っていた。若葉の面倒を一日見る御礼代わりにと、おばさんは僕に封筒を差し出す。

 触った感触では封筒の中はお札が一枚。一枚といっても千円ということは無い、高校生の僕でも常識的にわかる。二千円札なんて生まれてこのかた実物を見たこともない。つまり中身は五千円か一万円札と予想。これは母親に報告しないとあとで僕が責められる。そう思った僕は母親を呼んだ。

「おばさん、ちょ、ちょっと待ってね。母さん! 玄関にカズのお母さんが!」

 やっぱりこういう時は『若葉のお母さん』じゃなくて『カズのお母さん』と言ってしまう。四年経ってもなかなか直らない。

 そこからしばらく母親同士のお喋りが続いたあと、若葉はまだ子どもだからよろしく、とおばさんが僕に言う。「子ども」とストレートに言われたのが極めて不満なのだろう、若葉がフンッと鼻を鳴らしてから僕を睨む。別に僕がそこまで子ども扱いしている訳でもないのに、まさに八つ当たりというやつだ。

 というわけで、中身の一万円がどうなったかというと、神村家と竹原家が五千円ずつ出し合って僕に預けることで片がついた。やっぱりこれも若葉にとっては子ども扱いされていると感じたようで、プクッと頬を膨らませていた。

「若葉! 綾彦くんの言うことをよく聞くのよ!」

「綾彦! 若葉ちゃんが怪我でもしたら承知しないからね! 命懸けで守りなさいよ」

 お互いの母親にそう言われて家をあとにする僕と若葉。

 なるほど、若葉のためなら僕が犠牲になれ、ということか。確かにそうかもしれないと思う。なんといってもウチにはまだ兄貴がいる。それに対して向こうは正真正銘の一人娘。

 それにしても五千円や一万円で命を懸けろ、と言われて微妙な気持ちだ。なにしろ守る相手が若葉じゃなければ到底釣り合わない。

 ――そう、相手がカズの妹の若葉じゃなければ。


 △


 さて、通勤ラッシュだった久里浜行きの電車は錦糸町駅で結構空いた。さらに東京駅までには若葉を座らせる席がひとつ空き、東京駅で僕も座ることができてホッとする。

 東京駅の地下ホームには仕事に行き交う人々。となりの席には薄いピンク色の半袖シャツにデニムのハーフパンツ姿の若葉。今日の若葉は白い帽子を被っているので、顔だけを見ると本当にカズによく似ていると思った。

 足元は赤いスニーカー。僕の家に来た時には素足に可愛いサンダル履きだったのだけれど、歩きやすい靴のほうがいい、と言い聞かせてなんとか履き替えさせたのだった。


「ねえ綾兄、あとどれくらい?」

 暇つぶしに読んでいた少女コミックを、パタンと閉じて若葉が言う。

「そうだな、あと一時間くらいかな」

 そう答えて僕は、昨日兄貴の部屋から拝借してきた湘南のガイドブックを取り出す。少し古いけれど地図もついていて、A5版なので小さくて持ちやすい。

「ああっ、いいの持ってる、見せて! 見せて!」

 取り出したガイドブックは早速をもって若葉に取られた。じゃあかわりにその少女コミックを読ませてくれ、と言おうと思ったけれど、実に可愛らしい絵柄の表紙を高一男子が読むのも恥ずかしいのでやめた。

 僕の大きなスポーツバッグの中には、自分の分だけではなく若葉のタオルケットやビーチサンダル、レジャーシート、ビーチボールまで入っている。これを肩から下げての長時間移動は苦行に近い、やっぱり押し切ってプールにしておけば良かったと少しだけ後悔する。 

 地上に出た横須賀線が品川駅を出た頃、若葉が僕の肘をつついた。

「綾兄、綾兄! ここのお店行こうよ、パンケーキがすごく美味しそう! 一万円も手に入ったんだからいいでしょ!?」

 なるほど若葉が見せたページには、美味しそうなイチゴのパンケーキやタルトが載っている。しかしそのガイドブック、実は五年前のもの。流行り廃りの早い今の時代、はたしてその店があるかどうかの不安もよぎる。

「そうだな、行ってもいいけど、その店が一時間待ちの行列とかだったら却下な」

「綾兄ホントに行列とか人混み嫌いだよね、じゃあ三十分待ちは?」

「う~ん、まあ……ギリギリセーフ」

 だいたい三十分以上も並んで美味しいケーキを食べるなら、コンビニのシュークリームでも食べたほうがいいと僕は思うのだけれど、女の子の甘い物に対する思い入れがわからない。

 僕は並んだりするほうじゃないけれど、たとえば美味しいラーメン屋があるから三十分並ぼう、と若葉に言ったとする。そのとき若葉は、まるで宇宙人にでも出会ったかのような反応をするに決まっている。そのくらいの想像は僕にもつく。女の子にとってパンケーキの行列はよくてもラーメンはダメなのだ。
 
 でもどうしてパンケーキの三十分待ちはよくても、ラーメンはダメなのか。その違いが分かる男こそ、選ばれた民として女の子にモテるのかもしれない。つまりは、僕はダメなんだろう。

「じゃあここか、ここね! 絶対だよ、三十分以内だったら絶対だよ!」

 と、若葉はガイドブックの端を少し折る。僕はどちらかの店でも営業し続けていることを願った。

 
 △


 やがてガイドブックにも飽きたのか、若葉は少し居眠りを始めた。着いたら起こして、と言って僕の肩にチョコンと帽子頭を乗せる。着いたら起こせと言われても、あと二十分もしないうちに大船に着く。

 まあしょうがない、乗り慣れない通勤ラッシュで朝から疲れたのだろう。少しの間だけどゆっくりさせてやろうと、僕も肩を貸して目をつむる。

 電車の揺れが心地良い。僕も朝からいろいろあって少し眠気を感じた。

 少しだけ、少しだけ寝よう。十分だけ、十分だけなら大丈夫、今日一日の体力温存のためだ。そう自分に言い訳をしながら、――僕の意識はそこで飛んでしまった。

 次に目が覚めたとき、電車は既に大船駅を過ぎて次の駅、北鎌倉に着こうとしていた。

 △

「綾兄、最悪!! 寝過ごすなんてサイアク!!」

 寝過ごしたことを知った若葉は、大きな目をさらに大きく見開いて抗議を繰り返した。

「わるい、ごめん若葉。つぎ鎌倉だから、鎌倉から江ノ電で行こう。ほらほら江ノ電とか乗ってみたいって、言ってなかったっけ?」

「別に言ってないよ、ただの電車でしょ?」

 全国の鉄道愛好家を敵に回すような発言をする若葉。

 そんな若葉をなだめすかして鎌倉駅で横須賀線を降り、江ノ電に乗り換えたのだけれど……。

  
「綾兄……、あれに乗るの?」

 僕の方をジトっとした目で若葉が見上げる。

「だから言っただろ、観光シーズンは激混みだって……」

 僕たちの目の前には、観光客であふれて満員状態の江ノ電があった。
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