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#1 それは猫ちゃんの雄叫びとともに

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 コツコツとノッカーの音がして、アニーは用心しながらちょっとドアを開けてみると、くたびれた黒だか灰色だか茶色だかさっぱりわからない色の旅装束にマフラーで顔面の下半分を覆った背の高い男が立っていた。長い黒髪をだらりと下ろし、覆面の上から赤茶色の切れ長の瞳がこちらを見ている。
 不気味だ。非常に不気味だ。とりあえず、夫が発明した改良型電撃サスマタを手にする。

 時刻は深夜。夫に留守を任されて女一人の家で、こんな時間の訪問者など用心するに越したことはない。

「間に合ってます」

 うさん臭さに思わずドアを閉めようとしたものの、ドアノブをしっかり向こうから掴まれてなかなか離してくれない男。アニーは新緑の色をした瞳を細目にしてじとりと相手を睨んだ。
 
 男の後ろで発情期の野良猫が数匹、物凄い鳴き声でアオオオオと鳴き散らしているし、陰になっている所では雄猫ちゃんと雌猫ちゃんがわっせわっせとズンドコ交尾に耽っているのが月明りに眩しい。もう春の風物詩となっているけれど、今はそれどころじゃない。
 どうしてうちの周囲は野良猫の集会所になっているのかわからない。トイレは別にあるらしいので特に臭くはないけれども。
 
「夜警さんを呼びますよ、3、2、1……」
「待って待って! 私だよアニー!」
「私、私、という新手のオレオレ詐欺ですねわかります」
「私の名前はフルカス・ヴァーチューズです! この家の主人でアニーの夫です!」
「あら、旦那様」

 そこまで言って男は覆面にしたマフラーをぐいと下ろして顔を見せる。ようやく顔を見せた冒険者兼医者であるアニーの夫、フルカスは、次の瞬間にぐいっと横を向いて「ぶえええっくしょいぃぃっ」と盛大にくしゃみをした。


 フルカスの本業は医者だ。隣町にこの季節ならではの疾患を患った患者が多く出たらしいので、大きなカバンを持ってつい二日前に出かけていったはずだった。
 今は一度風呂に入って身綺麗になってから、薬の調合や実験室として使用している部屋の中央のテーブルで、ごりごりとハーブを調合し始めた。
 アニーも夫を手伝い、必要なハーブや薬剤、道具などををせっせと部屋に運んできた。

「特殊な花粉症、ですか?」
「そう。隣町の教会が管理しているご神木が、百年に一度綺麗な花を咲かせるらしくて、丁度今年がその百年の節目にあたっていたみたいでね」
「その花粉に、街の皆様があてられて花粉症患者がたくさん出たんですね」
「ん。でもってその花粉がやっかいでさ。通常のくしゃみ、鼻水、鼻詰まり、頭の重怠さ、目のかゆみ、といったアレルギー症状のほかに」
「はい、そのほかに?」

 調合を手伝いながら話を聞くアニーに、夫フルカスは鼻と口を覆った医療用マスクの上で何やら意味深な視線を妻に送ってから、くしゃっと顔を歪ませてそっぽを向いた。

「ぶえええくしゅっ!」
「大丈夫ですか? 一応毎日掃除はしてるんですが」
「いや、これはその花粉症。埃じゃないよ、部屋は綺麗だ。いつもありがとう」
「まあ家事ですので」
「アニーは花粉症にならないよね。羨ましい」
「まあ、農場の娘ですからってのは建前ですけど、体質なんでしょうね。割と毎年平気ですね。あとでミントティーを淹れましょう」
「助かるよ」

 薬を調合している間は余計な成分が入らないようにしないといけないので、ミントティーを飲めるのは調合が終わった後でなのだが。除菌のためにこの部屋には浄化・洗浄の結界魔法がかけられているので、薬の調合には影響はないけれど一応の配慮だ。

 フルカスが鼻をかんだティッシュでくずかごがいっぱいになってきたので、アニーはそれを片付けて戻って来た。

「……それで、さっきの話なんだけど」
「えっと、何でしたっけ。ああそうそう、特殊な花粉症、でしたね」
「ご神木っていうのが原因なのかもしれないけど、この花粉にやられた町人にちょっとおかしな症状が出て」
「はあ」
「……ムラムラするんだそうだ」
「えっ」
「春の猫ちゃんみたいに発情する」
「えっ」

 ちょうど家の外でアオオオオオとかギャオオオオオとか物凄い猫の雄叫びが聞こえてくる。もはやBGMとなっていた毎年春の風物詩だけれど、フルカスの話を聞いた後では何だかひどく生々しく聞こえてきた。
 しかも隣町の教会で信仰されている神様は豊穣と子宝の神様で、非常に子供好きな神様だったような。

 聞けば、この発情する花粉にあてられて隣町の町人たちは、イケナイ妄想で頭がいっぱいになって仕事が手につかなくなったり、家で配偶者や恋人の顔を夜になるまでまともに見れなかったらしいし、数件ある娼館や辻に立つ娼婦や男娼が大繁盛状態だったらしい。いいのか悪いのか。

「……ご神木が、花粉で人間を発情させてるんですか」
「そう、それで拒否反応がでてアレルギー症状として花粉症の諸症状が……ぶええっくしゅっ!」

 アニーは無言でフルカスにティッシュ渡した。くしゃみに鼻水、声も鼻声だし、目も潤んで充血している気がする。目尻がやたらと鮮やかなピンクだ。鼻をかみ過ぎて小鼻もピンクだが。

 典型的な花粉症の人の顔だけれど、どこかとろんと熱に浮かされたみたいな顔をしている。妻のアニーを見つめる目がもうなんかすっごいギラギラしててめっちゃ怖い。
 この表情の夫を見たことがある。夫婦の寝室でだ。
 一瞬条件反射で夫の股間に目が行ってしまったけど、白衣に隠れて良くわからなかった。いや、わかりたくもないけども。

「……旦那様、その症状が出てるんですか」
「じわじわ来てる」
「発情してるんですか、猫ちゃんみたいに」
「にゃあ」
「にゃあじゃないですよ」
「セックスしたい」
「何言ってんだこのやろう」
「まあ聞いてアニー。植物にとっての花粉は男の射精みたいなもんなんだよ」
「やめてください、それ鼻から吸ってるとか考えたら気持ち悪い」
「しかもそれがご神木のだよ? しかも子宝祈願のご神木で、そんな有難いような有難迷惑なような魔法の花粉が飛びまくっていたあの村ではあちこちで風紀が乱れまくってたんだ」

 ということは、そのご神木の魔法みたいな花粉にあてられた人々が町中であっはんうっふんして阿鼻叫喚のるつぼだったということになる。想像してアニーは真っ赤になったり青くなったり忙しい。
 しかも豊穣を司る神様のご神木を切るわけにもいかない。どんな祟りがあるかわからないし。

 フルカスはドクターズバッグに準備していた症状を抑えるハーブで、今隣町に出た患者は治療してきたけれど、材料が無くなったので一旦自宅に戻って来たという。もちろん自分の症状も抑えないとならなかったし。

「あれと、これと……よし、ベースはできた。後必要なのは……アラクネの分泌液」

 乳鉢の中で必要なハーブを磨り潰し、残りの材料を取ろうと薬品棚に手を伸ばしたフルカスだったが、目的の茶色い薬瓶を手に取った瞬間、また「ぶええっくしゅんっ!」と大きなくしゃみをし、うっかり手を滑らせてその瓶を落としてしまったのだ。

 ガシャン! 大きな音がして、床に茶色いガラスの欠片と透明な水状の薬品が飛び散ってしまった。

「うわああっ! やっちゃった!」
「大丈夫ですか、旦那様?」
「えっと、これの予備は……?」
「そこは旦那様だけしか触れない薬品棚ですから私は弄らないですし、そこに無かったら私にはわからないですよ」
「えっ、えっ、ってことは、これ最後? うわー、たっぷり入ってたからまだ補充は大丈夫だと思って油断した!」
「それ何ですか? 私でも採取しに行ける物?」
「無理……アラクネっていう魔物から抽出した液体だから……」

 アラクネは鼻先に人間の女性の身体が付いた巨大な人食い蜘蛛だ。毒持ちではあるが、その体液は一度熱を通すと毒が薬効成分に変わるので、薬品として使うことができるらしい。アニーにはよくわからないけれど、薬効属性としては「陰」の属性で、「陽」の属性である植物の花粉の症状を中和してくれる効果があるそうだ。
 もちろん、魔物退治する冒険者がやっとの思いで倒し、医者や薬剤師がやっとの思いで抽出する、大変手間がかかる代物であるため、そう簡単には手に入らない。

 これのひと瓶をドクターズバッグに入れて隣町に持って行ったので、隣町の患者の分は何とかなったけれど、その特殊な花粉症を持ち帰ったフルカスの分はこのままでは作れない。

 何度も盛大にくしゃみを繰り返しては、机に突っ伏して「あああああ~!」と発情期の猫みたいに雄叫びを上げているフルカスを後目に、アニーは箒と塵取りを持って、飛び散ったガラスを片付けた。最後に雑巾がけをしてバケツを片付けて戻ってくると、フルカスはまだ机に突っ伏して放心していた。

「……もう駄目だ耐えられない。へ、へ、へいっくしょぉん! 畜生、バカ、私のバカぁあああああ」

 くしゃみしながら絶望しているフルカスが面倒くさい。最後の「バカぁあああああ」の叫びと家の外で「うぉあああああ」と雄叫ぶ猫の声がハモッていたのがなんか可笑しい。

「……何か代用品はないんですか? 身近な物で……その零してしまった薬品には及ばないかもしれませんが」
「……」
「旦那様?」
「……そうだ」
「え?」

 フルカスはがばっと起き上がって、放置しっぱなしの乳鉢から中の粉を紙に移し、三角に折ってさらさらと口に入れ始めた。横の蒸留水をカップにどばどば入れてグイっと飲み干した。

「それ、まだ途中なんじゃ」
「……アニー」
「はい?」

 フルカスはやおら立ち上がると、つかつかとアニーに近寄り、いきなりがばりと抱き上げた。

「きゃっ! な、何ですか急に!」
「代用品だ、ちょっと付き合って」
「ど、どういうこと」
「ぶえっくしょい!」
「汚っ! ちょっと、旦那様!」

 説明する時間も惜しいとばかりに急ぎ足で妻を運んでいくその先は寝室だった。
 乱暴に足で寝室のドアを開け、尻でばたんと閉めると、つかつかとベッドに歩み寄り、その上にアニーを降ろしてすぐに彼女に覆いかぶさった。

「ちょっと、旦那様! 今日はそんなこと予定してなかったじゃないですか!」

 一応結婚しているからには子供が欲しいけれど、そこはフルカスは医者なので、アニーの体調管理カレンダーを作成して夫婦の事をする日時は決めてあるのだ。けれど、今日はその日には当たらない。次の排卵日はまだ先だ。

「ん……薬効属性が陰のアラクネの分泌物の代用品は、はあ、同じ陰の属性を持つ雌個体の……はあ、アニー、アニー」

 熱に浮かされたみたいにもたつく服を脱ぎながら、何やら難しいことを説明しだすが、最後は単なる発情した男みたいになっている。深夜であったためアニーも夜着姿だったので簡単に生まれたままの姿にされてしまった。

「雌個体の……体液だ」
「え?」
「代用品」
「え? え?」
「もう黙って」

 一方的に喋ってるのはあんただろというアニーのツッコミは、フルカスの強引な口づけに塞がれた。
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