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017 嫉妬と守秘義務と投げキッス
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キリアンの衝動的メイクラブに付き合うこと丸一時間、きらきら発光するメルティーナは魔力がまた大きく回復して、残り半分くらい。
魔力回復により少し余裕が出てきたので回復魔法を使って痛みや疲れは取れた艶々状態だ。そんなメルティーナはいいとして、キリアンのほうも艶々しているのは一体何故なのか疑問である。
――男性ってセックスで疲れないの? 逆に元気になるのかしら?
曲がりなりにも元プラチナクラスナンバーワン男娼なので、性欲が強い絶倫というやつなのかもしれない。
朝から元気なキリアンに抱かれて、また白濁まみれになってしまったメルティーナの身体を、キリアンは丁寧に洗ってくれた。
身体と髪を乾かしたあと、メルティーナはボケっとしてる間にバスローブ姿にドレッサーの前に座らされる。
王都で流行りという基礎化粧品で手入れをしてもらってから、紅茶を飲みつつキリアンが丁寧に髪を巻いてくれるのをっぼーっと見ていた。この男はメイドやスタイリストみたいなこともできるらしい。彼にできないことなんてあるんだろうか。
数日ここに寝泊まりする予定なので、いつものドレスを数着預けていたので、キリアンはそこから一着取ってブラシをかけてから持ってきた。
そんな彼はいつの間にか黒いワイシャツと白いスラックスを身に着けている。ネクタイは緩く結んでいて邪魔にならないようにシャツのポケットにインしている。
バスローブを脱いでドレスを着つけてもらうのも慣れた。既に身体の関係があるせいか、裸を見られたところで今更だ。慣れとは恐ろしい。
それに、甲斐甲斐しく更衣を手伝い身支度をしてくれるキリアンに、先ほどのような性衝動からくる反応は一切感じられない。まるで子供の身支度をしている父親のようだとメルティーナは思った。
子供の世話というのが我ながら若干引っ掛かるが、ここで欲情されても困るので、彼に逆らわず身を任せることにした。
VIPルームのテーブルでルームサービスで運び込まれた朝食をキリアンと差し向かいで食べたあと、コルヴィナス公爵家から迎えの馬車が来たとの連絡があった。
今日こそ玄関まで送ると言ってきかないキリアンにエスコートされながら、メルティーナは玄関に向かうと、そこは別れを惜しむ客と娼妓や男娼たちのキスの花園であった。
「ちょ……恥ずかしげもなく……」
「あー、昨日の夜宴会客入ってたもんな。めくるめく夜を過ごした恋人同士の別れだ」
――そういえばここでの従業員は客と恋人って設定で接客するんだったわね。だからなのか。
昨日の朝はこういうのはあまり見なかったが、宴会で泊まりの客が多いと次の日の朝はこんな様子が見られるのだそうだ。
熱烈に客を見送ったあと、振り返った娼妓や男娼はあくびをかみ殺して少々お疲れ気味の顔をしているのが何とも言えない。
接客業は華やかだけれど、従業員は実は色々大変なのだなと改めて思って、キリアンもそうなのかと彼を見上げると、目が合ったキリアンがにやりと笑った。
「メルさんもしたい?」
「は? ちが、そんなわけ」
「またまた~、行ってらっしゃいのキス、したいくせに」
「ちょ、こら!」
「いいからいいから」
そう言って腰を抱き寄せてくるキリアンに、とっさに彼の口を塞ぐメルティーナ。
ただ単に「貴方も大変ね」と労った視線を向けただけなのに、まさかあの疑似恋人たちのキスを羨ましいと思われたなどと、恥ずかしいにもほどがある。
「ぶふっ メルひゃん、てーこーすんなよぉ」
彼の口を塞いだメルティーナの手は、いとも簡単にキリアンに掴まれてしまった。そのまま彼の端正な顔が近づいてくる。
二人きりの部屋の中ならともかく、ここはエントランスだ。さすがにあの疑似恋人たちの仲間入りなんて恥ずかしすぎてできない。メルティーナは真っ赤になって抵抗した。
「ちょっと、ダメ!」
「いいじゃん。俺らもう恋人だろ?」
「そ、その設定もうおしまい! も、もう私出なきゃ……!」
「ダメ~、キスしないと行かせないよ?」
「貴方ね、いい加減に……!」
美形のタコチュー顔にぐぐぐ、と顔を背けて抵抗していると、こつこつとヒールを響かせて近づいてくる人物がいた。
「あらあ、『キーラ』じゃない。久しぶりね」
色っぽい女性の声がしたと思ってそちらを見ると、先ほど男娼と別れのキスをしていた妙齢のマダムがこちらを見ていた。
年のころは三十代後半から四十代ほどの艶やかな貴族の女性だ。その後ろに年若い男娼が所在なさげに佇んでいるのが見える。よく見たら先日のプラチナクラス上位の男娼ロニーだった。
キリアンは二人を横目で見てからそっとメルティーナを解放すると、そのマダムに張り付けたようなビジネススマイルを向けた。その変わり様に、メルティーナは一瞬ぎょっとしてしまったけれど。
「これはデリウス男爵夫人。今お帰りですか?」
「ええ、キーラ。昨夜も楽しませていただいたわ」
「それはようございました。あと私はもう『キーラ』ではありませんよ。引退前の源氏名で呼ばれるのはいささか……」
「あら、ごめんなさいねキリアン」
どうやらキリアンとこのデリウス男爵夫人というマダムは知り合いらしい。「昨夜も」というからにはこの娼館アスフォデルの常連で、男娼ロニーのお得意客のようだ。
――ふうん。常連客か。男爵「夫人」というからには夫がいるのかしら。でも妻が娼館で男娼を買うことに夫の男爵は何も言わないのって普通なの?
……ああ、もしかして寡婦とか。なら夫亡きあと自由に楽しむのは彼女の自由ではあるけれども。
メルティーナはとりあえずコルヴィナス公爵家でざっと読ませてもらった最新の紳士録を思い出そうとしたが、下位貴族である男爵家となるとかなりの数がいて紳士録の後ろの方に小さな文字で書いてあったのでなかなかデリウス家という名を思い出せなかった。
「ところで……貴方にしては随分お若いご令嬢を伴っているのね。できればご紹介していただけないかしら」
デリウス男爵夫人はメルティーナを上から下まで舐めるように見てからにこやかにキリアンに話しかけた。
彼女の言葉にキリアンはにっこり愛想笑いを送るが若干困った顔をしているように見えた。
「こちらは俺の個人的な特別客でして。事情がありましてご紹介はできません」
キリアンはメルティーナを背後に隠すように前に出ると、穏便に断りながらもビシッと拒絶の意を示した。
「まあお客なの? 引退したって言っていたけどもしかして今なら貴方を指名できるのかしら。それなら私も指名したいわぁ……ほら、昔みたいに、ね?」
「客」とは普通ビジネスの取引客みたいに使われるが、ここ娼館では娼妓や男娼を買う客という意味がほとんどだ。まして、エントランスでキスするのしないのと、はたから見たら痴話げんかしているみたいな現場を見られたので、男爵夫人がそうとるのも致し方ないかもしれないが……。
――嫌なかんじ。言い方からするとキリアンの現役時代のお客だったのかも。それもかなりのめり込んだ感じの……。だって現に、彼女から赤黒いオーラが見えるもの。
そう、彼女のメルティーナをチラ見する様子を伺うと、彼女からうっすら赤黒いオーラが揺れているのがメルティーナには見えていた。
これは嫉妬の感情の具現化だ。人は誰しも嫉妬心があるだろうが、ここまで具現化するのを見たのは久しぶりだった。
――それにしても、「昔みたいに」ってわざわざ私に聞こえるように言うって、完全に初対面から喧嘩売ってるわね彼女。そんなにキリアンのことが好きだったのかしら。
「あはは、夫人~、馴染みの男娼の前で浮気はいけませんぜ。うちの自慢の綺麗どころのロニーを困らせないでやってくださいよ」
キリアンは特に動揺した様子もなくさらりとスルーして優しく窘める大人な対応をしている。こういう客に対するあしらい方も慣れているのかもしれない。
娼館で馴染みとなったら浮気はご法度なのはどこの店でも一緒だ。
冗談に聞こえない冗談を言う彼女の横で男娼のロニーが苦笑いをしている。上司のキリアン相手に客を取ったとか浮気だとかを責めることもできないし、なんだか気の毒だ。
――っていうか、このマダムはロニー君の馴染み客だったのね。なんだかお近づきになりたくないタイプだから、ロニー君を選ばなくて良かったのかもしれないわ……。
先日初めてここに来て相手を選べとコルヴィナス公爵に言われたときに、もしキリアンが立候補してくれなければ、このニコニコしながら嫉妬の炎を燃やすマダムとロニーを巡って何かしらのトラブルになっていたかもしれない。触らぬ神に祟りなしと、東の国の諺であった気がする。
「もちろんロニーを振ったりしないわ。キリアンと一緒に買うと言ってもダメかしら。そちらのお嬢さんと同じで、特別に」
「さすがに遠慮しますよ。俺は基本的にはもう引退してるんで客は取りません。こちらはとある方からの本当に特別なお客なので、むしろ俺が頼んで相手させていただいているんです」
「……あらそう? でも……貴方がそんな年若いお嬢さん相手で満足できるのかしら? 貴方って昔から年上が好きで、若い子を面倒だと言っていたから大丈夫なのかしらと思っていたのだけれど」
「はは。それはもう昔の話ですけどね」
「確かに昔の話ね。懐かしいわ、貴方ってグラマーな大人の女性からとても人気があったし、自分もそういう女性が好みだって言っていたものね。私のことも綺麗だ、好みだってとっても褒めてくれたし……」
男爵夫人はにこやかに話しかける割にキリアンの背後にいるメルティーナを覗き込むようにして言葉を連ねる。その様子からなんだか悪意を感じる。
――この人。キリアンの過去の言動を晒して私に聞かせて、それに私が動揺するとでも思っているんだわ。……そうね、確かに本当に小娘だった動揺するんでしょうね。
キリアンとその後ろのメルティーナ、そして男爵夫人との間で空気が凍り付くのを見て、場を取り繕うようにロニーが間に入る。
「……夫人。もうそれ以上は。さあ、そろそろお見送りいたしますよ~」
「あら、ほほほ。じゃあキリアン、仕事じゃなくても個人的に連絡してきてくれてもいいのよ。私たちの仲じゃない」
「あはは。どんな仲でしたっけ。もう覚えてないな」
「……あら、つれないのねキリアン」
「またのご利用をお待ちしております、男爵夫人」
慇懃無礼を隠しもせず、ビジネスライクにビシッと笑顔を決めてお辞儀をするキリアンに、男爵夫人は一瞬表情を無くしたがすぐににっこりと笑顔を取り戻して踵を返してロニーと外へ出ていってしまった。
メルティーナにはきっちりと見えていたけれど。キリアンがさらっとスルーして一礼をした瞬間、彼女はメルティーナと目が合って、先ほどの赤黒いオーラがぶわりと膨れ上がってからぎゅっと小さく収まったのが。
――あれは嫉妬が収まったんじゃなくて、凝縮して小さくなっただけだわ。強靭な理性でぎゅっと抑え込んだのよ。さすが貴族だわ。でも少し心配ね、ああいう性格の女性はいつあの感情が爆発するかわからないもの。
正直、色々と言いたいことはあった。
男爵夫人はキリアンとの会話を通して嫉妬をメルティーナに向けていたことは確かだ。言葉のはしばしにメルティーナのような小娘と熟女好みだったキリアンは釣り合っていないというニュアンスを滲ませていた。
そして自分がいかにキリアンのことを深くわかっているかということを、さもキリアンと会話を楽しむていでメルティーナに聞かせていたのだ。
――彼女、私が貴方と同年代くらいだって言ったらどう思うかしらね?
件の男爵夫人の姿が見えなくなってから顔を上げたキリアンは、難しい顔をして腕を組んでいるメルティーナを伺うように話しかけた。
「あの、メルさん。今のは……その」
「貴方の現役時代のお得意様?」
「……そんな感じ。あ、でも昔の話で、今はもう全然そんなんじゃないから」
「男爵夫人って言ったかしら? もしかして寡婦なの? もしご主人がご存命なら妻が娼館で男娼を買うのを許すって、随分心が広いのね」
「……んー、まあそこは守秘義務ってのがあるから教えられないんだ。ごめんなメルさん。でもそこのトラブルは全くないから。うちにとっては上客だよ。悪い人じゃない」
彼女をかばうキリアンに何だかむっとしてしまったが、守秘義務と言われてはさすがにメルティーナも言い返せなかった。
キリアンはメルティーナのことも「とある方からのお客様」とだけ言ってそれ以上は言わなかった。確かにコルヴィナス公爵が娘の治療を秘かに行うために呼んだ魔女だから、うっかり喋ろうものなら公爵家にも迷惑がかかるからなのだけれども。
「ふうん。まあどうでもいいけど……綺麗な方ね」
「うん、まあ……そうかもね」
「貴方好みのグラマー熟女のようだし。残念だったわね、私の相手なんてしてなくて、ロニー君のお得意さんじゃなければ、あの人のお誘いにも乗れたのに。個人的に連絡してとか言われてたじゃない。むしろ一線退いた今なら自由なんじゃないの? 彼女も本気のようだし……ふふ、私にすごい嫉妬の目を向けてたもの。随分気に入られてるみたいね」
「……あれ? もしかして、メルさん嫉妬してる?」
理不尽な嫉妬の炎を向けられた不愉快さにムカついてつい、そういう二人の間のことはそっちで勝手にやっていてほしいとの思いで少し悪態をついてしまったが、別に嫉妬とかそういう気持ちだなんてメルティーナ自身は考えてもいない。確かに、彼女がキリアンに親し気に話していたのがなんだか嫌な気分になったけれども……。
それを嫉妬だと言われて、メルティーナは羞恥なのか怒りなのかわからないけどカアッと頬が熱くなった。
「なっ……するわけないでしょ! 勘違いも甚だしいのよ!」
「んー、そっかそっかぁ。なんだよメルさん、やべ、めっちゃ嬉しい」
接客のときの張り付けたみたいな笑みではなく、心から嬉しそうな、少年のような笑みを浮かべるキリアンに、メルティーナは胸がキュンとした気がした。それでもそんなことないと頭を振ってから文句を言う。
「う、嬉しがらないでよ! 違うってば! わ、私もう行くわ! 馬車が待ってるし」
キリアンを置いてずんずんとエントランスの外へ向かうメルティーナに、キリアンは笑いながら駆け寄って、馬車に乗り込もうとしたメルティーナの手を掴んだ。
「あー、待って待って! ね、メルさん、今夜デートしよう!」
「は?」
「今夜、こっちに帰ってきたらめちゃくちゃ旨い店に連れてってあげるからさ! ね、決まり!」
「は? 勝手に……ん、んん~っ!」
メルティーナの頬を両手でがしっと掴むと、キリアンは無理やり顔面をぶち当てるみたいにしてキスをしてきた。
突然のことにキリアンを突き放しかけたものの、その力強さと強引さに圧倒されて、メルティーナはされるがままになってしまった。
そのあと「はい、行ってらっしゃい!」と馬車の中に放り込まれたメルティーナは、窓の外で手を振って投げキッスまで送るキリアンを横目に、ずるずると馬車の椅子にへたり込んでしまうのだった。
魔力回復により少し余裕が出てきたので回復魔法を使って痛みや疲れは取れた艶々状態だ。そんなメルティーナはいいとして、キリアンのほうも艶々しているのは一体何故なのか疑問である。
――男性ってセックスで疲れないの? 逆に元気になるのかしら?
曲がりなりにも元プラチナクラスナンバーワン男娼なので、性欲が強い絶倫というやつなのかもしれない。
朝から元気なキリアンに抱かれて、また白濁まみれになってしまったメルティーナの身体を、キリアンは丁寧に洗ってくれた。
身体と髪を乾かしたあと、メルティーナはボケっとしてる間にバスローブ姿にドレッサーの前に座らされる。
王都で流行りという基礎化粧品で手入れをしてもらってから、紅茶を飲みつつキリアンが丁寧に髪を巻いてくれるのをっぼーっと見ていた。この男はメイドやスタイリストみたいなこともできるらしい。彼にできないことなんてあるんだろうか。
数日ここに寝泊まりする予定なので、いつものドレスを数着預けていたので、キリアンはそこから一着取ってブラシをかけてから持ってきた。
そんな彼はいつの間にか黒いワイシャツと白いスラックスを身に着けている。ネクタイは緩く結んでいて邪魔にならないようにシャツのポケットにインしている。
バスローブを脱いでドレスを着つけてもらうのも慣れた。既に身体の関係があるせいか、裸を見られたところで今更だ。慣れとは恐ろしい。
それに、甲斐甲斐しく更衣を手伝い身支度をしてくれるキリアンに、先ほどのような性衝動からくる反応は一切感じられない。まるで子供の身支度をしている父親のようだとメルティーナは思った。
子供の世話というのが我ながら若干引っ掛かるが、ここで欲情されても困るので、彼に逆らわず身を任せることにした。
VIPルームのテーブルでルームサービスで運び込まれた朝食をキリアンと差し向かいで食べたあと、コルヴィナス公爵家から迎えの馬車が来たとの連絡があった。
今日こそ玄関まで送ると言ってきかないキリアンにエスコートされながら、メルティーナは玄関に向かうと、そこは別れを惜しむ客と娼妓や男娼たちのキスの花園であった。
「ちょ……恥ずかしげもなく……」
「あー、昨日の夜宴会客入ってたもんな。めくるめく夜を過ごした恋人同士の別れだ」
――そういえばここでの従業員は客と恋人って設定で接客するんだったわね。だからなのか。
昨日の朝はこういうのはあまり見なかったが、宴会で泊まりの客が多いと次の日の朝はこんな様子が見られるのだそうだ。
熱烈に客を見送ったあと、振り返った娼妓や男娼はあくびをかみ殺して少々お疲れ気味の顔をしているのが何とも言えない。
接客業は華やかだけれど、従業員は実は色々大変なのだなと改めて思って、キリアンもそうなのかと彼を見上げると、目が合ったキリアンがにやりと笑った。
「メルさんもしたい?」
「は? ちが、そんなわけ」
「またまた~、行ってらっしゃいのキス、したいくせに」
「ちょ、こら!」
「いいからいいから」
そう言って腰を抱き寄せてくるキリアンに、とっさに彼の口を塞ぐメルティーナ。
ただ単に「貴方も大変ね」と労った視線を向けただけなのに、まさかあの疑似恋人たちのキスを羨ましいと思われたなどと、恥ずかしいにもほどがある。
「ぶふっ メルひゃん、てーこーすんなよぉ」
彼の口を塞いだメルティーナの手は、いとも簡単にキリアンに掴まれてしまった。そのまま彼の端正な顔が近づいてくる。
二人きりの部屋の中ならともかく、ここはエントランスだ。さすがにあの疑似恋人たちの仲間入りなんて恥ずかしすぎてできない。メルティーナは真っ赤になって抵抗した。
「ちょっと、ダメ!」
「いいじゃん。俺らもう恋人だろ?」
「そ、その設定もうおしまい! も、もう私出なきゃ……!」
「ダメ~、キスしないと行かせないよ?」
「貴方ね、いい加減に……!」
美形のタコチュー顔にぐぐぐ、と顔を背けて抵抗していると、こつこつとヒールを響かせて近づいてくる人物がいた。
「あらあ、『キーラ』じゃない。久しぶりね」
色っぽい女性の声がしたと思ってそちらを見ると、先ほど男娼と別れのキスをしていた妙齢のマダムがこちらを見ていた。
年のころは三十代後半から四十代ほどの艶やかな貴族の女性だ。その後ろに年若い男娼が所在なさげに佇んでいるのが見える。よく見たら先日のプラチナクラス上位の男娼ロニーだった。
キリアンは二人を横目で見てからそっとメルティーナを解放すると、そのマダムに張り付けたようなビジネススマイルを向けた。その変わり様に、メルティーナは一瞬ぎょっとしてしまったけれど。
「これはデリウス男爵夫人。今お帰りですか?」
「ええ、キーラ。昨夜も楽しませていただいたわ」
「それはようございました。あと私はもう『キーラ』ではありませんよ。引退前の源氏名で呼ばれるのはいささか……」
「あら、ごめんなさいねキリアン」
どうやらキリアンとこのデリウス男爵夫人というマダムは知り合いらしい。「昨夜も」というからにはこの娼館アスフォデルの常連で、男娼ロニーのお得意客のようだ。
――ふうん。常連客か。男爵「夫人」というからには夫がいるのかしら。でも妻が娼館で男娼を買うことに夫の男爵は何も言わないのって普通なの?
……ああ、もしかして寡婦とか。なら夫亡きあと自由に楽しむのは彼女の自由ではあるけれども。
メルティーナはとりあえずコルヴィナス公爵家でざっと読ませてもらった最新の紳士録を思い出そうとしたが、下位貴族である男爵家となるとかなりの数がいて紳士録の後ろの方に小さな文字で書いてあったのでなかなかデリウス家という名を思い出せなかった。
「ところで……貴方にしては随分お若いご令嬢を伴っているのね。できればご紹介していただけないかしら」
デリウス男爵夫人はメルティーナを上から下まで舐めるように見てからにこやかにキリアンに話しかけた。
彼女の言葉にキリアンはにっこり愛想笑いを送るが若干困った顔をしているように見えた。
「こちらは俺の個人的な特別客でして。事情がありましてご紹介はできません」
キリアンはメルティーナを背後に隠すように前に出ると、穏便に断りながらもビシッと拒絶の意を示した。
「まあお客なの? 引退したって言っていたけどもしかして今なら貴方を指名できるのかしら。それなら私も指名したいわぁ……ほら、昔みたいに、ね?」
「客」とは普通ビジネスの取引客みたいに使われるが、ここ娼館では娼妓や男娼を買う客という意味がほとんどだ。まして、エントランスでキスするのしないのと、はたから見たら痴話げんかしているみたいな現場を見られたので、男爵夫人がそうとるのも致し方ないかもしれないが……。
――嫌なかんじ。言い方からするとキリアンの現役時代のお客だったのかも。それもかなりのめり込んだ感じの……。だって現に、彼女から赤黒いオーラが見えるもの。
そう、彼女のメルティーナをチラ見する様子を伺うと、彼女からうっすら赤黒いオーラが揺れているのがメルティーナには見えていた。
これは嫉妬の感情の具現化だ。人は誰しも嫉妬心があるだろうが、ここまで具現化するのを見たのは久しぶりだった。
――それにしても、「昔みたいに」ってわざわざ私に聞こえるように言うって、完全に初対面から喧嘩売ってるわね彼女。そんなにキリアンのことが好きだったのかしら。
「あはは、夫人~、馴染みの男娼の前で浮気はいけませんぜ。うちの自慢の綺麗どころのロニーを困らせないでやってくださいよ」
キリアンは特に動揺した様子もなくさらりとスルーして優しく窘める大人な対応をしている。こういう客に対するあしらい方も慣れているのかもしれない。
娼館で馴染みとなったら浮気はご法度なのはどこの店でも一緒だ。
冗談に聞こえない冗談を言う彼女の横で男娼のロニーが苦笑いをしている。上司のキリアン相手に客を取ったとか浮気だとかを責めることもできないし、なんだか気の毒だ。
――っていうか、このマダムはロニー君の馴染み客だったのね。なんだかお近づきになりたくないタイプだから、ロニー君を選ばなくて良かったのかもしれないわ……。
先日初めてここに来て相手を選べとコルヴィナス公爵に言われたときに、もしキリアンが立候補してくれなければ、このニコニコしながら嫉妬の炎を燃やすマダムとロニーを巡って何かしらのトラブルになっていたかもしれない。触らぬ神に祟りなしと、東の国の諺であった気がする。
「もちろんロニーを振ったりしないわ。キリアンと一緒に買うと言ってもダメかしら。そちらのお嬢さんと同じで、特別に」
「さすがに遠慮しますよ。俺は基本的にはもう引退してるんで客は取りません。こちらはとある方からの本当に特別なお客なので、むしろ俺が頼んで相手させていただいているんです」
「……あらそう? でも……貴方がそんな年若いお嬢さん相手で満足できるのかしら? 貴方って昔から年上が好きで、若い子を面倒だと言っていたから大丈夫なのかしらと思っていたのだけれど」
「はは。それはもう昔の話ですけどね」
「確かに昔の話ね。懐かしいわ、貴方ってグラマーな大人の女性からとても人気があったし、自分もそういう女性が好みだって言っていたものね。私のことも綺麗だ、好みだってとっても褒めてくれたし……」
男爵夫人はにこやかに話しかける割にキリアンの背後にいるメルティーナを覗き込むようにして言葉を連ねる。その様子からなんだか悪意を感じる。
――この人。キリアンの過去の言動を晒して私に聞かせて、それに私が動揺するとでも思っているんだわ。……そうね、確かに本当に小娘だった動揺するんでしょうね。
キリアンとその後ろのメルティーナ、そして男爵夫人との間で空気が凍り付くのを見て、場を取り繕うようにロニーが間に入る。
「……夫人。もうそれ以上は。さあ、そろそろお見送りいたしますよ~」
「あら、ほほほ。じゃあキリアン、仕事じゃなくても個人的に連絡してきてくれてもいいのよ。私たちの仲じゃない」
「あはは。どんな仲でしたっけ。もう覚えてないな」
「……あら、つれないのねキリアン」
「またのご利用をお待ちしております、男爵夫人」
慇懃無礼を隠しもせず、ビジネスライクにビシッと笑顔を決めてお辞儀をするキリアンに、男爵夫人は一瞬表情を無くしたがすぐににっこりと笑顔を取り戻して踵を返してロニーと外へ出ていってしまった。
メルティーナにはきっちりと見えていたけれど。キリアンがさらっとスルーして一礼をした瞬間、彼女はメルティーナと目が合って、先ほどの赤黒いオーラがぶわりと膨れ上がってからぎゅっと小さく収まったのが。
――あれは嫉妬が収まったんじゃなくて、凝縮して小さくなっただけだわ。強靭な理性でぎゅっと抑え込んだのよ。さすが貴族だわ。でも少し心配ね、ああいう性格の女性はいつあの感情が爆発するかわからないもの。
正直、色々と言いたいことはあった。
男爵夫人はキリアンとの会話を通して嫉妬をメルティーナに向けていたことは確かだ。言葉のはしばしにメルティーナのような小娘と熟女好みだったキリアンは釣り合っていないというニュアンスを滲ませていた。
そして自分がいかにキリアンのことを深くわかっているかということを、さもキリアンと会話を楽しむていでメルティーナに聞かせていたのだ。
――彼女、私が貴方と同年代くらいだって言ったらどう思うかしらね?
件の男爵夫人の姿が見えなくなってから顔を上げたキリアンは、難しい顔をして腕を組んでいるメルティーナを伺うように話しかけた。
「あの、メルさん。今のは……その」
「貴方の現役時代のお得意様?」
「……そんな感じ。あ、でも昔の話で、今はもう全然そんなんじゃないから」
「男爵夫人って言ったかしら? もしかして寡婦なの? もしご主人がご存命なら妻が娼館で男娼を買うのを許すって、随分心が広いのね」
「……んー、まあそこは守秘義務ってのがあるから教えられないんだ。ごめんなメルさん。でもそこのトラブルは全くないから。うちにとっては上客だよ。悪い人じゃない」
彼女をかばうキリアンに何だかむっとしてしまったが、守秘義務と言われてはさすがにメルティーナも言い返せなかった。
キリアンはメルティーナのことも「とある方からのお客様」とだけ言ってそれ以上は言わなかった。確かにコルヴィナス公爵が娘の治療を秘かに行うために呼んだ魔女だから、うっかり喋ろうものなら公爵家にも迷惑がかかるからなのだけれども。
「ふうん。まあどうでもいいけど……綺麗な方ね」
「うん、まあ……そうかもね」
「貴方好みのグラマー熟女のようだし。残念だったわね、私の相手なんてしてなくて、ロニー君のお得意さんじゃなければ、あの人のお誘いにも乗れたのに。個人的に連絡してとか言われてたじゃない。むしろ一線退いた今なら自由なんじゃないの? 彼女も本気のようだし……ふふ、私にすごい嫉妬の目を向けてたもの。随分気に入られてるみたいね」
「……あれ? もしかして、メルさん嫉妬してる?」
理不尽な嫉妬の炎を向けられた不愉快さにムカついてつい、そういう二人の間のことはそっちで勝手にやっていてほしいとの思いで少し悪態をついてしまったが、別に嫉妬とかそういう気持ちだなんてメルティーナ自身は考えてもいない。確かに、彼女がキリアンに親し気に話していたのがなんだか嫌な気分になったけれども……。
それを嫉妬だと言われて、メルティーナは羞恥なのか怒りなのかわからないけどカアッと頬が熱くなった。
「なっ……するわけないでしょ! 勘違いも甚だしいのよ!」
「んー、そっかそっかぁ。なんだよメルさん、やべ、めっちゃ嬉しい」
接客のときの張り付けたみたいな笑みではなく、心から嬉しそうな、少年のような笑みを浮かべるキリアンに、メルティーナは胸がキュンとした気がした。それでもそんなことないと頭を振ってから文句を言う。
「う、嬉しがらないでよ! 違うってば! わ、私もう行くわ! 馬車が待ってるし」
キリアンを置いてずんずんとエントランスの外へ向かうメルティーナに、キリアンは笑いながら駆け寄って、馬車に乗り込もうとしたメルティーナの手を掴んだ。
「あー、待って待って! ね、メルさん、今夜デートしよう!」
「は?」
「今夜、こっちに帰ってきたらめちゃくちゃ旨い店に連れてってあげるからさ! ね、決まり!」
「は? 勝手に……ん、んん~っ!」
メルティーナの頬を両手でがしっと掴むと、キリアンは無理やり顔面をぶち当てるみたいにしてキスをしてきた。
突然のことにキリアンを突き放しかけたものの、その力強さと強引さに圧倒されて、メルティーナはされるがままになってしまった。
そのあと「はい、行ってらっしゃい!」と馬車の中に放り込まれたメルティーナは、窓の外で手を振って投げキッスまで送るキリアンを横目に、ずるずると馬車の椅子にへたり込んでしまうのだった。
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【この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません】
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小説家になろうで投稿している短編です。あちらでブックマークが多かった作品をこちらで投稿しました。
内容は題名通りなのですが、作者的にもヒーローがやっちゃいけない一線を超えてんなぁと思っています。
ヤンデレ?サイコ?イケメンでも怖いよ。が
作者の感想です|ω・`)
また場面で名前が変わるので気を付けてください
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