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幽霊

遭遇

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「母さんに咲良を会わせたい」

次の休日、そう昴に言われた私は慣れないワンピースに袖を通し、小さな鏡を覗き込んで何度も髪を直していた。

結婚して身を固めるにはまだ早い年齢の昴から、付き合い始めて早々にこのような申し出をされたことに少なからず動揺した。真意を尋ねれば、「彼女ができたら会わせてほしい」と以前から言っわれているから、と昴は答えた。

「お母さんから付き合っていいって言ってもらえるかな。私昴より年上だし、それに体が」

私は落ち着かず倉庫の部屋の中を行ったり来たりした。

「母さんは俺が決めたことには何も口は出さないよ」

昴はなぜか自嘲気味な口調で言った。

自分の兄が強引に従わせようとするタイプのせいか、家族というのは自分のことにいちいち首を突っ込んで口うるさくするものだと思っていたが、昴の家庭はそうではないようだ。

「絶対大丈夫。母さんは咲良を好きになる」

そう言って昴は私の頭にポンと手を乗せた後、バイク用のヘルメットを被せた。


昴の母の住まいは、街道を三十分ほどバイクで走った場所にあった。

大きな鉄製の両開きの門の向こうに立つ、二階建ての巨大な一軒家。萌黄色の外壁に深緑の屋根のその建物は、木々に囲まれて穏やかな面持ちで佇んでいた。

二階部分には同じ大きさの窓がいくつも規則正しく並んでいる。住居とも集合住宅ともつかない、不思議な構造の建物だった。

玄関ドアを開けると、吹き抜けになった玄関ホールから二階に向かう階段が伸びている。一階の奥にはリビングルームがあるのが、ガラス扉越しに分かった。

エプロンをかけた人が洗濯籠を持って、ホールを通り過ぎる。私は慌ててその女性に向かって頭を下げた。

「あら、昴くん。お母さんはいまリビングでお茶飲んでるよ」

エプロン姿の女性は笑顔で言うと、私にちらりと視線を向けた。

「こんにちは。彼女さん?いいね。お母さん喜ぶよ」

そう言って女性は立ち去っていく。

「ここはお医者さんが常駐するグループホームなんだ」

どぎまぎしている私の様子に気づいた昴が、緊張を和らげるように微笑んで言った。

「グループ…」

私は初めて訪れる場所に落ち着かない気分でいたが、あらゆる窓から日差しが差し込む明るいその建物は、不思議と私の心を落ち着かせた。

ガラス扉を開けると、広々としたリビングに出た。

中央には、庭に面した大きな掃き出しの窓。左には大きなテレビがあり、昼のワイドショーが流れている。右手のダイニングルームに続くドアが開けっ放しになっていて、そこから紅茶の香りが漂ってくる。

リビングのテレビの前にはL字型のソファが置かれ、六十代くらいの女性二人が並んで画面を眺めている。その横には彼女たちよりも年上らしい女性が横たわっていて、スタッフが毛布を掛けてあげている。

年齢に関係なく、体調がよくない人たちが過ごす施設兼住宅のようなものであることがわかった。

「母さん」

昴は掃き出しの窓の前に立って外を眺めていた女性に声をかけた。彼女が振り向く。

窓からの日差しが逆光になって、顔立ちに影が差しているが、大きな瞳が私を捕らえるのが分かった。五十代と思しき昴の母は、柔らかく微笑んで、私と昴を交互に見ながら手を振る。可憐な仕草が、少女のような愛らしさを残していた。

「来てくれたの、昴。部屋に行こう」

玄関ホールの階段を上がり、奥の個室に入る。

ベッドと小さなテーブル。シンプルな洋服ダンスの上には小さな鏡が置かれている。

「はじめまして。空野咲良です。昴さんとお付き合いさせていただいています」

私は彼女に向かって頭を下げた。

明夜以舞みょうや いぶです。よろしくね。昴がお世話になってます」

ベッドに座った以舞は深く頭を下げた後、にっこりと笑った。

「綺麗なお嬢さんね。どこで知り合ったの」

「仕事で」

「初めて彼女ができて、昴とっても舞い上がってるの。電話くれた時もすごく浮かれててね。咲良さんおかげで昴、すごく明るくなったの」

以舞は私と昴に交互に笑顔を向けながら話した。昴にとって初めての彼女と言われて内心驚いていた。見た目も魅力的で人好きする昴にこれまで恋人がいなかったわけがないと思ったが、母親の前に連れてこられた最初の彼女であることは確かなようだった。昴の照れる横顔をそっと眺め、胸の内側が温かくほぐれるのを感じた。

スタッフの女性がお茶を運んでくれて、小さなテーブルを囲んでしばらくおしゃべりをした。話しながら、彼女のいったいどこが悪いのだろうと考えた。痩せていて色も白く、決して丈夫そうには見えないけれど、楽し気に話す以舞の雰囲気から、体の不調からくる弱々しさのようなものを感じることがなかった。私の前で無理をしているのではないか、と心配になった。

「以舞さんと昴さんは、目元がよく似てますね」

名前で呼んでね、と言われたので、私は彼女を「以舞さん」と呼んだ。可憐な雰囲気を漂わせる彼女はどこか少女のようで、名前で呼ぶと近しい女友達のような気分になった。

「そうね。よく言われる。昴はこんな女みたいな顔、嫌いだってよく言ってる」

「それは子供の頃だろ」

昴は微笑んだあと、トイレ、と言って部屋を出て行った。

ふと沈黙が流れ、何を話そうか、と考えながら笑顔を向けた。

次の瞬間。以舞の視線が、凍り付いたようにドアに張り付いた。その怯えるような目に私はただならぬものを感じ、視線の先を追って振り返った。

「誰?」

怯えた声で、以舞が外に向かって言った。ドアは昴が閉め忘れて半開きになっていた。その向こうの廊下は、日の当たる個室と対照的に、暗く沈んでいてよく見えない。私は部屋の外を確認しようとして立ち上がると、以舞がものすごい力で服を引っ張って引き留めた。

「ダメ、行っちゃダメ」

以舞は声を震わせながら、ドアの隙間から漏れる暗闇をじっとうかがっていた。直後、近づいて来る何かから逃げるように体を反らせ、切羽詰まった声で以舞は叫んだ。

「…来ないで、来ないで、来ないで!」

ドアの向こうから近づいて来る人影などなかった。私はどうしていいかわからず、以舞の肩を抱いた。

「以舞さん、大丈夫?誰も来てないですよ」

以舞の肩が震えている。

「見えないの、そこにいるじゃない、女の子が」

私の陰に身を隠すように肩をすくめ、震える指でドアを指す。その眼はドアの隙間の影をじっと見つめたまま凍り付いたように見開いていた。

背筋に悪寒が走った。以舞の見ているものが、私には見えない。そのことがこんなに恐ろしいものだとは思わなかった。以舞は頭を手で覆い隠すようにしてベッドの上にうずくまってしまった。そこへ昴が戻ってきた。

「母さん?どうしたの」

「女の子が来るって、怖がり始めて」

小声で昴に言うと、昴はうずくまる以舞に布団をかけた。

「まだいるわよ…そこに立ってる」

「え?誰もいないよ…」

昴は状況がつかめず、薄笑いすら浮かべていたが、以舞の本当に怯えている様子を見た昴の顔から、みるみる血の気が引いていった。

「あたしのことを責めてるのよ。あたしがあの子を捨てたから」

「…捨てた?」

昴と私は、以舞の言葉を消化しきれず、呑み込めないものを吐き出すように、同じ言葉を繰り返した。


以舞は私をじっと見つめたまま、ゆっくりと頷くと、誰かに聞かれるのを恐れるように小さな声を震わせて話し始めた。

「…春休み、突然陣痛が来て、病院に運ばれたの…。翌日産まれて、助産師さんやお医者さんに、その子を渡した。そういうふうにするって、前から話し合ってたから。あたしは産んで、少しして退院して、一人で家に帰ったの。途中で胸が熱を出すほど張って痛かった。あたしの体は捨てた赤ちゃんに飲ませるために必死に母乳を作ってる、なのにあたしは何しているんだろうって、悲しくなった」

昴の顔色は真っ白で目元がひきつっていた。私は思わず昴の腕をぎゅっとつかんだ。

「それは、以舞さんに起こった話なんですか?」

「そう。あたし、話したことなかったかしら…あたしまだ十八歳だった。若すぎたの。どうにもならなかったのよ」

言葉を紡ぎながら次第に湿った震え声になった。そしてすべて言い終えると、声をあげて泣き始めた。両手で顔を覆い、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返している。

スタッフに、取り乱してしまった以舞の状況を伝えると、医師に診てもらうから少し外して欲しいと言われ、庭に出た。

丁寧に手入れされた花壇の花を見ながら、昴は呟いた。

「こんなの初めてだ。ごめんな。母のおかしなところ見せちゃって。驚いたろ」

私は首を振った。正直言えば驚いた。だけど、以舞が何かに怯えながら戦っていることを自分に教えてくれたような気もして、彼女との距離がぐっと近くなったような気もしていた。

「私にできること、ないのかな」

「こうやって会いに来てくれれば十分だよ。母に面会に来る人なんて、誰もいないから。親父ももう、七年会ってない」

「お父さんとは?」

「母さんさ、流産したのをきっかけに、精神的なバランスを崩したんだ。そのとき父親は急に家を出ていった。俺が十七歳のとき。そのあと離婚届が送られてきた。代理の弁護士かなんかが来て、いろんな手続きをしに来た。母親はだまって、離婚手続きを受け入れて、それからずっと一人」

私は淡々と語った昴の手を握った。

ひとりっこの昴は十七歳で父を失い、今に至るまで一人で不安定な母を支えてきたことになる。

「もしかして、お母さんがここに入居するからって、昴もあの倉庫に越してきたの?」

「そう。知り合いのつてで、いい施設があるって紹介してもらって、東京から越してきた。あの倉庫はいま働いてる会社のもので、少しの間っていう約束で、家賃無しで間借りしてる」

そこまで話したところで、担当の医師である精神科医の四十代くらいの女性が庭に出てきた。

「お母さん、少し混乱してますね。今日はこのまま帰ってもらったほうがいいかな。あとは私が看るから。夜には落ち着きますよ」

見ず知らずの私が突然訪ねたせいで以舞を混乱させてしまったのではないか…そんな私の不安を察してか、医師は硬い表情ではあったが、凛々しい微笑みをみせてくれた。

「咲良さん…今日は会えてうれしかった、また来て欲しいって、以舞さん言ってますよ」

私は胸をなでおろした。




そのまま萌黄の家を出ることにし、昴のバイクの後ろに跨った。

バイクのエンジンの音だけが二人を包む。昴がどんな顔で、どんな思いで今いるのかを思うだけで、胸がちぎれるように痛んだ。後ろから無駄な肉のない昴の腰にぎゅっとしがみついた。いつもは逞しく感じる身体が、なんだか今は頼りない心地がした。

私はこの手を離さない。そう強く思った。

昴が倉庫部屋にバイクを乗り入れてシャッターを下ろすと、静寂が二人を包んだ。頭上の窓から漏れるかすかな月明かりだけを頼りに、私たちは見つめ合った。

降って湧いたような以舞の突然の告白に動揺しているはずの昴は、悲し気に微笑んでみせたあと、包み込むように私を抱きしめた。ヴィンテージのロックTシャツの下に手を入れて、夜風に冷やされた昴の肌に触れた。

「咲良の手、熱い」

「昴が冷えてるんだよ」

私は昴の手を取ってベッドに招き入れた。ボロボロのコンバースを脱がせ、ジーンズを引き抜き、シャツも脱がせる。自分も服を脱ぎ捨てて、裸の昴にぴったりと寄り添って毛布を掛けた。

頬に口づけると、昴はまた微笑んだ。

「今日はごめんな咲良…母さんがあんなに不調だなんて思わなかった」

私は昴の頭を抱え込むように抱いて、柔らかい髪を撫でた。ふんわりとした髪の隙間には、まだ夜風の匂いが残っている。

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