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 行き慣れない三階の廊下を、和彦はぎゅっぎゅっと歩いてゆく。
 休み時間——たくさんの三年生たち。
 なんだか、みんなの視線が痛い。
 なんで一年生がここにいるの? そう言われているような気がして。
 だが、それは気のせいだ。
 気のせいに決まっている。
 誰も自分のことなんか見てはいない。
 だから、早く3組にいかなくては。
 彼に、このハンカチを返さなくては。

 ことの起こりは二日前、実習教室が並ぶ新館でのこと。
 人通りの少ない階段の踊り場で、和彦はひとり鼻をつまんで上を見上げていた。
 移動中に鼻血が出て止まらなくなってしまったので、ひと休憩していたのだ。
 ティッシュペーパーなんて気の効いたものはなかったから、鼻をつまんで上を向くしかなかった。
 ときどき血が大量に喉を通過してごほっと噎せ返りそうになるが、今はとりあえず何とかやり過ごして、治まるのを待つしかない。
(まいったなぁ)
 気温も湿度も高い日だったから、おそらくのぼせただけなのだろう。
 だが、それにしても今回は大量に流れようとしていたようだ。
 ごふっ、とまた噎せそうになって、和彦はかすかに口を開ける。
 いい加減、首も頭も痛くなってきたなぁ、と思っていたそのとき、
「ダメだよ、下を向かなくちゃ」
 少し離れた場所から声が聞こえてきた。
 和彦は、視線だけをチラリと動かした。
 見知らぬ男子生徒が立っている。
 男——3の3——早瀬……。
「聞こえてる? 鼻血が出ているときは上を向いたらダメなんだよ。血が喉につまって、窒息する可能性があるんだから」
 窒息。その言葉にギョッとして、和彦はすぐさま頭を戻した。
 とたんに、鼻の中の血が逆流して、一気に流れ落ちていく。
 慌てて鼻まわりを手で覆った和彦に、彼は「ハイ」と何かを差し出してきた。
 ハンカチ。
 それも、きれいに折り畳まれた真っ白なもの。
 視線を動かしてそれを確認すると、和彦は「はひはほう(ありがとう)」と、空いている手でそれを受け取った。
 鼻に当てると、布地はみるみるうちに赤くなり、吸収できなかった分だけがポタリポタリと床に染みを作った。

 結局、鼻血はその後10分ほどで治まったものの、先程の彼はすでに姿を消していたし、残されたハンカチは当然のことながら血にまみれて真っ赤に染まっていた。
 仕方なく和彦は、水飲み場で30分かけてハンカチを洗った。
 石けんでこすりながらの洗濯は8割ほど赤い色を落としはしたものの、完全に元の白に戻すことはやはり不可能なようだった。
 仕方がないから、帰りにデパートで新しいものを購入した。
 ハンカチ一枚に1000円もかけるなんて、生まれてはじめての経験だ。
「プレゼントですか?」と訊ねられて、「いいえ」と首を振る。
 いや、買って返すならプレゼントなのか——と少しだけ思いもしたが、それはやはりおかしいような気がしたから、もう一度、今度は心のなかだけで「いいえ」と短く答えておいた。

 けれども、慣れない三階の教室に足を運ぶのは、少し——いや、かなり度胸を要した。
 どこの部活にも所属していない和彦は、三年生との交流がほとんどない。
 唯一、母方のいとこが4組にいたが、ハンカチを貸してくれた彼とは違うクラスだから返却を頼むわけにもいかなかった。
(早瀬——3年3組……)
 和彦が分かっているのは、彼の顔とこの二つの情報だけ。
 教室が近付いてくるたびに、情けなくも緊張度が増してくる。
 まったく、どうしてしまったのだろう。
 たかだかハンカチ一枚を返しにきただけだというのに。
 有り難いことに、3組のドアは開いていた。
 恐る恐る、覗き込んでみると──
(……いた)
 窓際の後ろに、見覚えのある顔を見つけた。
 間違いない。彼だ。
 どうやって呼び出そうかと周囲を見まわすと、ちょうど女子生徒が一人こちらに向かってくるところだった。
 運がいい。あの人に呼んできてもらおう。
 和彦は彼女に近づいた。
「あの……」
「あれ、和彦?」
 いきなり割り込んできたのは、聞き覚えのある声だった。
 振りかえると、案の定いとこの淳が不思議そうな顔をして立っている。
「どうしたの、お前? こんなとこで」
 視線が集まるのを感じる。
 気のせいではなく、今度ははっきりと周囲にいる三年生たちが自分のほうを見ている。
「いや、その……ちょっと用があって……」
「用? 3組に?」
 淳の声は、よく通る。
 特別声をはっているわけではないのに、不思議とみんなが振り返ってゆくのだ。
「用っていうか、その、なんていうか……」
 なんだか居心地が悪くなってきて、つい言葉を濁してしまう。
 そんな和彦の頭上に、無情にも始業のチャイムが鳴り響いた。
 タイムリミットを告げるそれに逆らってまで、早瀬を呼び出す勇気が今の彼にあるはずがなかった。

 渡しそびれたハンカチを、授業中こっそり膝の上に広げてみた。
(微妙に違うんだよな)
 この真新しいハンカチよりも、あのとき借りたハンカチはもっとキレイだったような気がする。
 目を奪うような、真っ白な……
(どういう人なんだろう)
 あんな、ちゃんとしたハンカチを普通に持ち歩いているだなんて。
(マジメな人かな)
 もしかしたら、成績も抜群に良くて、学級委員なんかもつとめているのかもしれない。
(しかも、すげぇ本とか読んでいて、放課後は図書室に入り浸っていたりして)
 我ながら貧困な発想だと思いはしたが、その光景が一番彼らしいような気がした。
 だって、開襟シャツの襟がぴしっと折れているような、そんな清潔さと放課後の図書室は、ひどく似合っていそうじゃないか。

 だからこそ、その日の放課後、資料返却のために訪れた図書室で、本当に早瀬の姿を見かけたとき、和彦は思わず頭を抱えたくなってしまった。
(マジか……本当にいるのかよ!)
 窓辺の席、頬杖をついて、彼——早瀬は、ぼんやりと外を眺めていた。
 想像と違っていたのは、机の上に広げられていたのが小説ではなく、バインダーと教科書だってことくらいで、あとは昼間の和彦の妄想がそのまま現実になったかのようだ。
(怖ぇ……)
 返却手続きはすぐに終わり、和彦は少し迷ってから彼と机三つ分くらい離れた席に腰を下ろした。
 ハンカチを返すには絶好のチャンスだというのに、声をかける最初の一言がどうしても思いつかなくて、ぐるぐると頭をめぐらせてしまう。
 いっそ向こうから気付いて、こちらに声をかけてくれないだろうか——そんな都合のいい展開を期待してみたが、彼の視線はあいかわらず窓の外だけに向けられている。
 一体なにを見ているのだろう。
 ふと好奇心が沸き起こって、和彦はそれとなく彼の視線を追ってみた。
 彼が見ているのは、自転車置場にいるカップルのようだった。
 女子生徒は、さらさらロングヘアのキレイなタイプ。
 そして、男子生徒は——
(……あれ? 淳ちゃん?)
 そうだ。間違いない、淳だ。
 こちらに背中を向けているけれど、付き合いの長い和彦が見間違えるはずがない。
 やがて、女子生徒は、淳に手を振ってその場を離れてしまう。
 だが、早瀬の視線は去っていった女子生徒を追うことはなく、そのまま淳の上に留まっていた。
 まっすぐに、ただまっすぐに。
「……」
 和彦はそっと視線を外した。
 なんだか見てはいけないものを見てしまったかのような、罪悪感に似た思いが沸きおこった。
 帰ろう。
 ハンカチのことは改めて考えよう。
 和彦は静かに立ちあがると、そのまま席から離れようとした。
「和彦ーッ」
 ──サイアクだ。
 今このタイミングで気づくのか。
 よく通るいとこの声が、よりによって今、自分の名前を呼んでいる。
(気付かないでよ、こんなときに)
 そう思ったものの、いつまでも呼んでいるいとこを無視するわけにもいかない。
 仕方なく、和彦は窓の外へと向き直ると、ひらひらと明るく手を振り返してみせた。
「なにやってんだよーっ。まだ帰んないのかーっ?」
「今、帰るとこ」
「じゃあ、一緒帰ろうぜ。待ってるから」
 分かった、と答えて、和彦は今度こそその場を離れようとした。
 一瞬だけ、早瀬と目が合った。
 彼は、怖いくらいまっすぐな眼差しで、和彦のほうをじっと見つめていた。
 そのことに軽い衝撃を受けて、和彦は逃げるようにその場を離れた。

 彼は——早瀬は、覚えていないかもしれない。
 数日前、新館の踊り場で、鼻血を出して上を向いていた一年生のことを。

 けれども今、覚えたかもしれない。
 図書室を逃げるように飛び出した、淳の知り合いらしい一年生のことを。

 人気の少ない放課後の廊下を、和彦はほとんど駆け足に近い速度で歩いてゆく。
 ポケットのなかでは、渡しそびれたハンカチがまだ誰のもにもならずに眠っている。
(どうしよう、これ)
 右手の指先に、冷たい感触がよみがえった。
 ハンカチを受け取るときに少しだけ触れた、早瀬の手——その感触とひどくよく似ているような気がした。
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