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第6話
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彼が、いた。
ちょうど哲平たちに向かって歩いてくるところだった。
うわ、とあげかけた声を何とか飲みこめたのは、緊張が勝ったせいだろう。
耳が火照る。
身体中の血が、逆流しそうになる。
なにせ、昨日の今日だ。
どんな態度をとればいいのか、さっぱり分からない。
隣から夢売りの少年が、好奇に満ちた眼差しを送ってくる。
そのことにも気づいているくせに、どうしても哲平は「彼」から目が離せない。
距離がどんどん縮まるにつれて、胸の鼓動も早く鳴りだす。
どうすればいいのだ。
どんな顔をして会えばいいのだ?
混乱した頭のままでは、何もうまく考えられない。
とはいえ「落ち着け、落ち着け」と念じてみたところで、そうそううまくいくものでもない。
掌に、汗が滲んだ。
そのくせ、口の中はカラカラに乾いていた。
耳をすましているわけでもないのに「彼」の足音だけがはっきり耳に届いてくる。
3歩、2歩、1歩──
哲平は、息を飲み込んだ。
(あ……)
それはほんの一瞬だった。
立ち止まる気配すら見せず、そのまま通りすぎていった「彼」。
それだけでなにもかもが一変し、頭のなかがひどく冴えわたった。
──そうだ。そうだった。
いきなり突きつけられた現実は、容赦なく哲平を打ちのめす。
目の前を通り過ぎていく「彼」。
その後ろ姿がどんどん遠ざかってゆく。
立ち止まることも振り向くこともない。
いつもどおり「見知らぬ他人」の顔をして、彼は哲平の前を通り過ぎていった。
(ああ……)
わかっていたはずだった。
(あれは──夢だ)
夢のなかの出来事だ。
あの感触も声も、吐息も、すべて「現実」には存在しない。
目が覚めれば消えてしまう、ささやかな泡沫の世界。
分かっていたのに、手を出した。
分かっていたくせに溺れてしまったから、夢とうつつがごちゃごちゃになってしまったのだ。
遠ざかってしまった足音は、もはや人込みにまぎれてまったく聞こえない。
かわりに上り列車の到着を告げるアナウンスが、ずいぶん大きくホームに響き渡った。
「お兄さん、あのさ」
少年が、何か言いかけた。
だが、哲平は軽く手をあげて、続くはずだった言葉をさえぎった。
なぐさめも冷やかしも、商売の話も、今は聞きたくなかった。
少しの間でいいから、このまま放っておいてほしかった。
(ようやく目が覚めた)
ここが、これが、ほんとうの世界だ。
目を閉じれば、葉月のことを思い浮べることができる。
今でもはっきりとあの指先の感触をよみがえらせることができる。
けれども、所詮それは夢の世界の出来事にすぎない。
目覚めれば、なにも知らない他人どうし。
それが、真実の「自分と彼」なのだ。
「バッカみてぇ」
ぽつりと洩れた呟きは、折しもホームに滑り込んできた列車によって掻き消されてしまった。
ゆるやかに減速、そして停止──
ドアが開き、下車した人々の倍以上の客が我先にと競うように車両へと乗り込んでゆく。
サラリーマン、OL、老人、学生もしくはフリーター。
そして、そのなかにはおそらく「彼」も含まれているのだろう。
色褪せたパーカーのポケットに手を突っ込み、眠たげにあくびをしているだろう「彼」が。
それでも哲平は動けなかった。
ベンチに腰かけ、うなだれたまま、ただ早く列車が去ってくれることだけを祈っていた。
その日から、哲平は毎夜の夢を買うことをやめた。
なにもかも振り切るために。
なにもかも忘れてしまうために。
ちょうど哲平たちに向かって歩いてくるところだった。
うわ、とあげかけた声を何とか飲みこめたのは、緊張が勝ったせいだろう。
耳が火照る。
身体中の血が、逆流しそうになる。
なにせ、昨日の今日だ。
どんな態度をとればいいのか、さっぱり分からない。
隣から夢売りの少年が、好奇に満ちた眼差しを送ってくる。
そのことにも気づいているくせに、どうしても哲平は「彼」から目が離せない。
距離がどんどん縮まるにつれて、胸の鼓動も早く鳴りだす。
どうすればいいのだ。
どんな顔をして会えばいいのだ?
混乱した頭のままでは、何もうまく考えられない。
とはいえ「落ち着け、落ち着け」と念じてみたところで、そうそううまくいくものでもない。
掌に、汗が滲んだ。
そのくせ、口の中はカラカラに乾いていた。
耳をすましているわけでもないのに「彼」の足音だけがはっきり耳に届いてくる。
3歩、2歩、1歩──
哲平は、息を飲み込んだ。
(あ……)
それはほんの一瞬だった。
立ち止まる気配すら見せず、そのまま通りすぎていった「彼」。
それだけでなにもかもが一変し、頭のなかがひどく冴えわたった。
──そうだ。そうだった。
いきなり突きつけられた現実は、容赦なく哲平を打ちのめす。
目の前を通り過ぎていく「彼」。
その後ろ姿がどんどん遠ざかってゆく。
立ち止まることも振り向くこともない。
いつもどおり「見知らぬ他人」の顔をして、彼は哲平の前を通り過ぎていった。
(ああ……)
わかっていたはずだった。
(あれは──夢だ)
夢のなかの出来事だ。
あの感触も声も、吐息も、すべて「現実」には存在しない。
目が覚めれば消えてしまう、ささやかな泡沫の世界。
分かっていたのに、手を出した。
分かっていたくせに溺れてしまったから、夢とうつつがごちゃごちゃになってしまったのだ。
遠ざかってしまった足音は、もはや人込みにまぎれてまったく聞こえない。
かわりに上り列車の到着を告げるアナウンスが、ずいぶん大きくホームに響き渡った。
「お兄さん、あのさ」
少年が、何か言いかけた。
だが、哲平は軽く手をあげて、続くはずだった言葉をさえぎった。
なぐさめも冷やかしも、商売の話も、今は聞きたくなかった。
少しの間でいいから、このまま放っておいてほしかった。
(ようやく目が覚めた)
ここが、これが、ほんとうの世界だ。
目を閉じれば、葉月のことを思い浮べることができる。
今でもはっきりとあの指先の感触をよみがえらせることができる。
けれども、所詮それは夢の世界の出来事にすぎない。
目覚めれば、なにも知らない他人どうし。
それが、真実の「自分と彼」なのだ。
「バッカみてぇ」
ぽつりと洩れた呟きは、折しもホームに滑り込んできた列車によって掻き消されてしまった。
ゆるやかに減速、そして停止──
ドアが開き、下車した人々の倍以上の客が我先にと競うように車両へと乗り込んでゆく。
サラリーマン、OL、老人、学生もしくはフリーター。
そして、そのなかにはおそらく「彼」も含まれているのだろう。
色褪せたパーカーのポケットに手を突っ込み、眠たげにあくびをしているだろう「彼」が。
それでも哲平は動けなかった。
ベンチに腰かけ、うなだれたまま、ただ早く列車が去ってくれることだけを祈っていた。
その日から、哲平は毎夜の夢を買うことをやめた。
なにもかも振り切るために。
なにもかも忘れてしまうために。
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