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第三部 Waiting All Night
95話
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東の空が白くなってくると、礼は短い眠りから自然と目を覚ました。体を起こすと、横に寝ていた朔も体を起こした。礼が目覚めるより前に目が覚めていたようだ。
朔は礼を見ると。
「お前の顔、昨夜の夜の疲れた顔のままよ」
朔に先に言われてしまった。礼は眼帯をしたまま眠ったから、右顔しかわからないと思うが、酷い顔をしているらしい。朔もまだ疲れの残った顔をしていた。
礼は、朔もだ、と指摘はせず右目を擦った。そこに、春日王子の舎人一人が部屋の中に入ってきた。
「身支度をして、朝餉を食べたらすぐに出発をする」
それだけ言うとすぐに部屋を出て行った。礼が起き上がり、廊下へ出て台所に行くと昨日の侍女が朝餉の用意をしていた。そこから身支度のために桶に水を汲んで、部屋に戻った。
朔は見るからにだるそうに盥に入れた水をすくって顔を洗った。身なりを整えて、二人だけで朝餉の膳に向ったが、粥を少し口に入れると椀を膳の上に戻している。
「朔、もう少し無理をしてでも食べてみて」
礼が言うと、朔は首を振って袖口で口を押えた。
「もういらない。吐いてしまいそうよ」
礼は朔の背中をさすりながら、その細い体がいつまで持つだろうと心配した。この逃亡に心はもちろんのこと身もすり減らしていく。
礼はと言えば、ゆっくりとではあるが、椀の中の粥を全て掬って食べた。体力をつけておかなければ、いざというときに動けない。自分の体と朔の体を守るためだと、礼は少し無理をして朝餉を終えた。
昨日と同じ従者が礼を手招きした。先に飛び乗った男が、上から手を差し出して礼を馬の背に乗せてくれた。そして、春日王子の前に出て先頭を走る。
「今日は、後ろではないのね」
礼は男、笠(かさ)縄(なわ)の腹に手を回し、その耳元に問いかけた。
「あんたが後ろでは具合が悪いのさ。何かしら悪さをするといけないからな」
笠縄は言った。
「いらぬことはしない方がいい」
それから前を向いて、先導役をした。
礼は、昨日、帯を細く裂いて紐にして木に結び付けていた。自分が隊列の最後尾だから、この目印を見られることはないと思っていたが、相手もその危険を感じているようだ。
夏の早朝は爽やかで、一行は北に向かって前進した。
「橋を落としてきたのだろう?」
春日王子が不意に前を進む二人の舎人に聞いた。礼を背中に乗せている舎人とは別の舎人が首を振り向けて答えた。
「はい。確実に燃え落としました」
「そうであれば、川を渡るのに難渋しているだろうな。夏だから、水量は少なくなっているだろうが」
昨日、川を渡った後そこにとどまっていた男がいたことを礼は思い出した。それがいま答えた男だった。あれは、橋を焼き落とすために残っていたのか。都からくる追手は必ずあの橋を渡るから一時的なこととはいえ、あの橋を落として足止めを狙ったのだ。
できるだけ前進して、追手との距離を作りだすのだ。先に行かせておいた別の舎人が道案内して、春日王子たちを北へと連れて行く。
春日王子は自分の信頼する臣下や豪族など少ない味方を最大限に活かして逃げる道を突き進んでいく。
森の中を進んでいるので、木々の枝が陽を遮って昨日とは違い強い日差しにあたることはない。礼は首だけを振り返らせて後ろを見た。見えるのは手綱を持って前を見据えた春日王子だけで、その背中に寄り掛かっているだろう朔は、ぴったりと春日王子の背に隠れてその様子は見えない。頭から被っている絹の布の端がひらひらと揺れているのが見えるだけだ。
どうか、無事に今夜の休む場所までたどり着きますように、と礼は思った。
「……大丈夫か?」
礼の頭が擦るように背中に触れるのを気にした笠縄が少し首をひねって尋ねた。
笠縄が後ろに向けた顔と礼は目が合った。
礼は頷いたが、樹々が生い茂って風が通らず、熱気がこもった森の中の行進に頭がぼおっとしていた。
笠縄は腰に下げた竹筒を取って、同じく輿に下げた布を水に濡らした。
「これを」
馬上で体を後ろにひねって、礼の首に水に濡らした布を渡した。
「顔を拭け。筒にまだ水はあるんだろう?」
すぐに前を向いて手綱を操るが、再び首だけ横にして訊く。
礼は頷いて、腰の竹筒に手をやり、水を一口飲んだ。そして、笠縄が渡してくれた布の端を手に持って、こめかみに当てた。そのひんやりした感触に、はっと我に返るのだった。
「……気分が良くなったわ。助かったわ」
礼は男の耳元にそう囁いた。笠縄は頷き、首を横に向けて礼に言った。
「もうすぐ、川があるはずだからそこで休憩ができるだろう。それまでは辛抱しろ」
礼は頷いた。
「よければ、背中を貸す。頭を乗せていろ」
笠縄が続けて言うので、礼は遠慮なく笠縄の背中に頭を持たれかけて気分の悪さをやり過ごした。
「なんだこれは……」
先頭に立ってここまで来た男は目の前の光景を見て呟いた。後ろにいる男は黙って馬の首を反転させて来た道を走った。
先に走らせていた一行の中から一人がこちらに戻ってくるのを、後から進んでいた一行は怪訝な顔を見合わせた。徒歩の者たちは馬が引き返してくるのに道を開けた。
実言はこちらに向かってくる先遣隊の一人が自分の前に来るのを待って訊いた。
「どうした?」
「橋が焼き落とされています」
その声が聞こえた一同は一様に驚きの表情を見せた。
実言も驚いて、馬の腹を蹴り先の道を進んだ。実言は川の手前まで来て、目の前に広がる光景を眺めた。
この先に繋がっているはずの橋は対岸まで綺麗に焼け落ちている。ところどころに無残な黒い姿を残していた。
夏の川は水量を減らすが、今は上流で降った雨で目の前の川はほどほどの水量を湛えていた。
「今は逃げるが勝ちか……」
と実言は呟き。
「……相手も必死ということだな」
すぐ後ろにいた荒益の方を向いて言った。荒益も、遠くに見える対岸を見つめて頷いた。
「川を渡るしかない。もう少し浅瀬を探そうか。歩兵の者たちを安全に渡らせなくては」
実言は指示して、兵士たちは河原に下りて行き、安全に渡る浅瀬を探した。
「思うようには進めないものだな」
河原に下りて行った兵士を見ながら、荒益が言った。
「本当だ。しかし、焦ってもいいことはない。礼や朔のことは心配だがね」
実言は自分の腰に下げた竹筒を取って水を飲んだ。下にいた若い男がすっと手を差し出して実言から竹筒を受け取り、きれいな水を汲みに川上に向かった。
朔は礼を見ると。
「お前の顔、昨夜の夜の疲れた顔のままよ」
朔に先に言われてしまった。礼は眼帯をしたまま眠ったから、右顔しかわからないと思うが、酷い顔をしているらしい。朔もまだ疲れの残った顔をしていた。
礼は、朔もだ、と指摘はせず右目を擦った。そこに、春日王子の舎人一人が部屋の中に入ってきた。
「身支度をして、朝餉を食べたらすぐに出発をする」
それだけ言うとすぐに部屋を出て行った。礼が起き上がり、廊下へ出て台所に行くと昨日の侍女が朝餉の用意をしていた。そこから身支度のために桶に水を汲んで、部屋に戻った。
朔は見るからにだるそうに盥に入れた水をすくって顔を洗った。身なりを整えて、二人だけで朝餉の膳に向ったが、粥を少し口に入れると椀を膳の上に戻している。
「朔、もう少し無理をしてでも食べてみて」
礼が言うと、朔は首を振って袖口で口を押えた。
「もういらない。吐いてしまいそうよ」
礼は朔の背中をさすりながら、その細い体がいつまで持つだろうと心配した。この逃亡に心はもちろんのこと身もすり減らしていく。
礼はと言えば、ゆっくりとではあるが、椀の中の粥を全て掬って食べた。体力をつけておかなければ、いざというときに動けない。自分の体と朔の体を守るためだと、礼は少し無理をして朝餉を終えた。
昨日と同じ従者が礼を手招きした。先に飛び乗った男が、上から手を差し出して礼を馬の背に乗せてくれた。そして、春日王子の前に出て先頭を走る。
「今日は、後ろではないのね」
礼は男、笠(かさ)縄(なわ)の腹に手を回し、その耳元に問いかけた。
「あんたが後ろでは具合が悪いのさ。何かしら悪さをするといけないからな」
笠縄は言った。
「いらぬことはしない方がいい」
それから前を向いて、先導役をした。
礼は、昨日、帯を細く裂いて紐にして木に結び付けていた。自分が隊列の最後尾だから、この目印を見られることはないと思っていたが、相手もその危険を感じているようだ。
夏の早朝は爽やかで、一行は北に向かって前進した。
「橋を落としてきたのだろう?」
春日王子が不意に前を進む二人の舎人に聞いた。礼を背中に乗せている舎人とは別の舎人が首を振り向けて答えた。
「はい。確実に燃え落としました」
「そうであれば、川を渡るのに難渋しているだろうな。夏だから、水量は少なくなっているだろうが」
昨日、川を渡った後そこにとどまっていた男がいたことを礼は思い出した。それがいま答えた男だった。あれは、橋を焼き落とすために残っていたのか。都からくる追手は必ずあの橋を渡るから一時的なこととはいえ、あの橋を落として足止めを狙ったのだ。
できるだけ前進して、追手との距離を作りだすのだ。先に行かせておいた別の舎人が道案内して、春日王子たちを北へと連れて行く。
春日王子は自分の信頼する臣下や豪族など少ない味方を最大限に活かして逃げる道を突き進んでいく。
森の中を進んでいるので、木々の枝が陽を遮って昨日とは違い強い日差しにあたることはない。礼は首だけを振り返らせて後ろを見た。見えるのは手綱を持って前を見据えた春日王子だけで、その背中に寄り掛かっているだろう朔は、ぴったりと春日王子の背に隠れてその様子は見えない。頭から被っている絹の布の端がひらひらと揺れているのが見えるだけだ。
どうか、無事に今夜の休む場所までたどり着きますように、と礼は思った。
「……大丈夫か?」
礼の頭が擦るように背中に触れるのを気にした笠縄が少し首をひねって尋ねた。
笠縄が後ろに向けた顔と礼は目が合った。
礼は頷いたが、樹々が生い茂って風が通らず、熱気がこもった森の中の行進に頭がぼおっとしていた。
笠縄は腰に下げた竹筒を取って、同じく輿に下げた布を水に濡らした。
「これを」
馬上で体を後ろにひねって、礼の首に水に濡らした布を渡した。
「顔を拭け。筒にまだ水はあるんだろう?」
すぐに前を向いて手綱を操るが、再び首だけ横にして訊く。
礼は頷いて、腰の竹筒に手をやり、水を一口飲んだ。そして、笠縄が渡してくれた布の端を手に持って、こめかみに当てた。そのひんやりした感触に、はっと我に返るのだった。
「……気分が良くなったわ。助かったわ」
礼は男の耳元にそう囁いた。笠縄は頷き、首を横に向けて礼に言った。
「もうすぐ、川があるはずだからそこで休憩ができるだろう。それまでは辛抱しろ」
礼は頷いた。
「よければ、背中を貸す。頭を乗せていろ」
笠縄が続けて言うので、礼は遠慮なく笠縄の背中に頭を持たれかけて気分の悪さをやり過ごした。
「なんだこれは……」
先頭に立ってここまで来た男は目の前の光景を見て呟いた。後ろにいる男は黙って馬の首を反転させて来た道を走った。
先に走らせていた一行の中から一人がこちらに戻ってくるのを、後から進んでいた一行は怪訝な顔を見合わせた。徒歩の者たちは馬が引き返してくるのに道を開けた。
実言はこちらに向かってくる先遣隊の一人が自分の前に来るのを待って訊いた。
「どうした?」
「橋が焼き落とされています」
その声が聞こえた一同は一様に驚きの表情を見せた。
実言も驚いて、馬の腹を蹴り先の道を進んだ。実言は川の手前まで来て、目の前に広がる光景を眺めた。
この先に繋がっているはずの橋は対岸まで綺麗に焼け落ちている。ところどころに無残な黒い姿を残していた。
夏の川は水量を減らすが、今は上流で降った雨で目の前の川はほどほどの水量を湛えていた。
「今は逃げるが勝ちか……」
と実言は呟き。
「……相手も必死ということだな」
すぐ後ろにいた荒益の方を向いて言った。荒益も、遠くに見える対岸を見つめて頷いた。
「川を渡るしかない。もう少し浅瀬を探そうか。歩兵の者たちを安全に渡らせなくては」
実言は指示して、兵士たちは河原に下りて行き、安全に渡る浅瀬を探した。
「思うようには進めないものだな」
河原に下りて行った兵士を見ながら、荒益が言った。
「本当だ。しかし、焦ってもいいことはない。礼や朔のことは心配だがね」
実言は自分の腰に下げた竹筒を取って水を飲んだ。下にいた若い男がすっと手を差し出して実言から竹筒を受け取り、きれいな水を汲みに川上に向かった。
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