Infinity 

螺良 羅辣羅

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第三部 Waiting All Night

55話

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 五日はすぐに経った。
 大田輪王は二人の舎人を連れて徒歩で哀羅王子の邸に来た。哀羅王子は供を付けずに大田輪王の案内で、六条の通りをずっと西に行った都の外れにある築地塀に囲まれた束佐という臣下の別宅へたどり着いた。
 訪いを入れるまでもなく、門の内で人が待っていてすぐに邸の中へと通された。この別宅の主である、束佐家の主人とその妻が部屋で待っていて、挨拶をした。そして、しばらくすると今日の歌会に集まった面々に引き合わされた。
 束佐夫妻と、臼杵田名麻呂(うすきのたなまろ)という貴族、王族で大田輪王より少し若い賀須和(かすわ)王の五人と哀羅王子が今日の歌会の参加者である。皆が、大田輪王に連れられてきた哀羅王子を興味深そうに見ている。
 目の前に机が用意されて、その上には筆と木簡が置かれていた。皆で雑談をしながらも、歌を作る時は黙って真剣に考え、思い思いの歌を詠みあった。哀羅王子も思いつくままに歌を詠んだ。
「恥ずかしいです。皆さまの歌に比べると、私はなんとも幼稚なものばかりで」
 皆歌好きとあって、技巧を凝らした歌を歌う。哀羅王子は心苦しくなって言い訳めいたことを口にした。
「いやいや。あなたはまっすぐな気持ちを歌っている。聞いていて、こちらもすがすがしい気持ちになりますよ」
 大田輪王が言って、皆が頷いている。大方お世辞であろうが、哀羅王子の気持ちは和らいだ。
 陽が暮れたら食事をしながら歌の心得のある侍女が、酌をして参加していたが、夜が更けると束佐の妻も含めて女人は下がって男だけになった。雲のない夜で、半月が煌々と庭を照らしている。
 その趣を面白がって臼杵田名麻呂や賀須和王は木簡に歌を書きつけては、声高らかに歌った。別宅のある都の外れは人通りもなく、夜道を野犬が徘徊し遠吠えが聞こえる。夜も深くになると、大田輪王が腰を上げた。
「そろそろいい時間ですな。哀羅殿も慣れないことで、お疲れになっているのではないですか。部屋に戻って休みましょうか。あなたと個人的に話したいこともありますから」
 促されて哀羅王子は立ち上がった。
「部屋で待っていてください。すぐに追いかけますから」
 束佐家に仕える舎人に付き添われて、哀羅王子は部屋に入って腰を下ろした途端に、大田輪王が部屋に入ってきた。まだ、付き添ってくれた舎人も部屋に残ったままだ。
「失礼するよ」
 大田輪王も舎人に付き添われて部屋に入ってきた。素早く几帳の陰から中に入ってきて、哀羅王子に笑いかける。深夜に似つかわしくない表情で、哀羅王子は印象的に思った。すると、すぐさま後ろに控える大柄な舎人を振り返り。
「さあ、早く」
 と言った。
「大田輪様、感謝いたします」
 俯いていた舎人は、大田輪王の言葉を合図に、顔を上げてお礼を述べると、前へと進み出た。
「哀羅様、岩城実言でございます」
 哀羅王子の前に跪いた舎人は、そう名乗って改めて哀羅王子へと顔を向けた。
「なっ!」
 哀羅王子は急なことで、顔を向けた舎人への警戒から声を荒げたが、よくみるとこちらを見る男は、実言だった。
「……実言……」
「お待たせして申し訳ございません。もっと早くに連絡を取りたかったのですが」
「お前!」
「哀羅殿、今はこの人に従いなさい」
「……実言、私を」
「詳しい話は場所を移して」
「……お前には酷いことをしてきた」
「私はあなた様にお伝えしたではありませんか。どんなことがあろうとも、あなた様の僕であると」
「ああ、しかし……」
「この男が、あなたの代わりになります。衣装を取り換えてください。早く。あなたについている間者を欺くためです」
 哀羅王子に付き添っていた舎人を指して、実言は言った。舎人はすでに上着を脱いでいる。実言も、哀羅王子の首元に手を伸ばして、上着の留め金を外そうとした。
 急き立てられるままに、哀羅王子は上着を脱いで舎人と上着を取り換えた。
「この者が、朝まであなた様に成り代わって、ここに寝ていますから」
 実言は言って、立ち上がった。
「大田輪様は?」
 舎人の上着を着終わった哀羅王子が言った。
「しばらくこの者と、たわいのない雑談をしたら、部屋に戻って休みましょう」
 哀羅王子はようやく岩城実言と大田輪王が結託して、この日が来たのだと分かった。
「大田輪様、どのように感謝の気持ちを伝えればいいか」
「私のような年寄りにあなたがつき合ってくれたことが、いいことにつながりましたかな。いずれにせよ、早く行きなさい」
 実言の後ろについて、哀羅王子は部屋を出て行った。簀子縁には篝火もなく、実言も手に灯りを持っていない。月は屋根に遮られて暗い中を実言の足元に集中してついて行った。邸の奥に進んで、閉じた蔀が並ぶ一角に着くと、実言は目の前の扉を押した。
 部屋の中に入ると、男が一人いた。哀羅王子と実言を待っていた岩城家の舎人である。
 部屋は四方に几帳を立てていて、真ん中には二つの円座がある。その間には高灯台があり部屋の中を明々と照らしていた。部屋の中の男はすぐに二人に席を譲って、部屋の隅に控えた。
「哀羅様、お座りください」
 実言に促されて哀羅王子は上座へと腰を下ろした。
「お前は隣の部屋で控えていてくれ、用があれば、すぐに呼ぶから」
 実言は隅に控える舎人に言うと、男は一礼して静かに部屋を出て行った。
 部屋の中には、哀羅王子と実言の二人きりになった。哀羅王子にとっては無言の時間が重苦しかった。
「……王子」
 口火を切ったのは実言だ。
「私は嬉しいです。あなた様の邸の者から、あなた様が私と連絡を取りたいと言われたとき、どのような経緯があったのかわかりませんでしたが、私の答えは一つしかありませんでした。そして、早くあなた様と連絡を取りたかったのですが、あなた様の邸を見張らせるとあなた様の邸を監視している者がいる。だから、邸の使用人の中でも下働きの下男を遣いにしたのだと分かりました。見張りに気づかれないよう慎重に行動して連絡を取らないといけないと思いました」
 実言は静かに話す。哀羅王子は口を挟むことなく、俯いて聞いている。
「今日、こちらの歌会に大田輪王が参加されることを知り、あなた様の父上に近い大田輪王であれば、あなた様を誘っても怪しまれまいと思い、お会いするのがこの日までかかってしまいました。どうか、このように時間がかかったことをお許しください」
 低頭して実言は哀羅王子に詫びた。
「……物分かりのいいことだ。下男が道端で声をかけただけで、これまであったことを水に流したとばかりに、お前はこんな凝った苦労をして私に会ってくれる。しかし、お前は許せるのか、私を。これまで、お前は私にたびたび過去の誤解を取り去り、昔のようにつき合いたいと言ってきたが、いずれも私はお前をこっぴどく突き放し辱め、罵ってきた」
「……はい。しかし、いずれ誤解が解ければ、全てがはっきりすることと思っていました」
「私が下男を遣わしたこと。それは何かの罠だと思わなかったのか?」
「王子……そうなのですか?本当に?」
 真剣な声音で問い返す実言に、哀羅王子は口をつぐんで何も言わない。
「そんなうそ話をなぜするのです」
「私はお前にこんなふうに頼めたものではないことはわかっている。……しかし、このままでは若くして死んだ父上が私に託そうとしたことを何も成し遂げず、父上が生きたことも消し去ってしまいそうだ。何もかも不出来な私が、春日王子にいいように利用されたことが招いたと知ったが、自分ひとりではこの状況を変えることはできない。無力な自分に絶望した。そして、誰かに頼るしかないと。頼れるのは誰かと考えた時、……それは岩城園栄と、実言……お前しかいないと思ったよ。吉野の山の中に逃げ隠れて、自分がこのような苦しい侘しい目にあっているのは、岩城のせいだと長い間憎み続けて、都に戻ってきてからお前に酷いことをしてきたというのに。どのような顔をして頼めるものだろうか。だから、下男からお前の返事を聞いた後で、何も接触がないことは私の本気を見計らっているのだと思っていた……罵ってくれ。私がお前にしたように罵倒し突き放されて、それでも私は跪いて許しを請うほどの覚悟があることをみてもらいたい。そうでなければ、私の言うことを信用してはもらえないと覚悟していた」
「王子……いいのです。あなたが嘘を言ったり人を騙したりする人ではないことを私は知っています。王族のあなたの立場を考えた時、政争の道具にされてもおかしくないのです。父は……今日のことを父の園栄にだけは言ってあります。父は、とても喜んでいました。父は渡利王との約束を果たせそうだと不覚にも目を潤ませていました。十五年前に父は、まだほんとに若い哀羅様をそのまま渡利王の邸に住まわせておくのは不用心で、岩城の邸に部屋を用意して移り住んでいただこうと考えている矢先に、王子をさらわれたようです。父は、なぜに早く行動して若い王子を守れなかったのかと自分に怒り、悔やんで渡利王の墓の前で泣いてお詫びしたと言っていました。だから、こうして王子が我々を頼ってくださるのは、渡利王の願いが通じ、我々がその約束を果たす機会を得たのだと思っています。そして、全霊で私はあなた様をお守りします。この気持ちは、前にも一度申し上げました。私は子供の時から少しも変わらず、哀羅様をお慕いしています」
「実言……。園栄……、ああ父上……」
 哀羅王子は、そう声を上げると右手を上げて額に手をやり、目を隠すように広げた。
「王子、私にお任せください」
 そんな哀羅王子とは反対に、実言は明るい声でいった。
「ああ、実言……お願いするよ。いや、お前に命じる……私を元の道に戻してくれ、お前の先導で」
「もちろんです」
 実言の声は湿っぽくならず、張りがあって哀羅王子は救われる気持ちだった。何のわだかまりも感じさせない空っと晴れたような明るいこの男の気性が現れている。
 十五年という歳月の積もり固まった誤解の山は見る間に崩れていった。崩れてしまうと、そこにあるのは少年の頃に一生の友人、生涯支える主人と思い合った感情が現れた。時空を超えたかのように打ち解け合って、お互いが見聞きした十五年前のことを話し、その時の思いを打ち明けた。そして、哀羅王子の吉野の暮らしをきいた。
「王子、なんとお辛い目にあわれたことか」
「ああ、本当に。よく耐えられたものだと思うよ」
 自嘲的に言うと、実言は哀羅王子に詰め寄って言った。
「取り戻しましょう。哀羅様と私で失ったものを」
 力強い言葉が、やっと哀羅王子の笑い顔を誘った。
後日、実言は母の毬に呼ばれて感謝された。
「束佐様からお礼のお手紙が届いたわ。あなたが引き受けてくれた歌会のための紙のこととても感謝しておられたわ。とても褒めて嬉しがっておられた。お前はどのようなものを用意したの?」
 方々を探して、王宮に献上されるほどの上質なものを取り寄せた。白い美しい滑らかな紙である。
 哀羅王子は実言と語り合った後、その部屋で少し眠り、日が昇るころ、身代わりになってくれたものと入れ替わるため、舎人の姿で部屋に戻った。朝餉を取って帰る時には、歌会に集まった者たちが詠んだ歌が美しい筆跡で上等な紙に書かれたものを皆で覗き見た。この紙が哀羅王子と実言を会わせるきっかけになったことは知るよしもない。
「さあて、帰りましょうか」
 この日の立役者である大田輪王はのんびりとした調子で言って、哀羅王子を後ろに従えて都の中心へ、我が邸へと帰って行った。
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