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第四章

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 朱鷺世は搗き米を前ほど欲しがりはしなくなった。これまで露の握り拳ほどの搗き米の塊が一つでは足りないと言うので、二つ用意していたのに、今は一つで十分だというし、腹は空いていないと言う時もある。その時は二人で搗き米を一口ずつ交互に食べた。
 腹が減ったとは言わない朱鷺世は、その代わり今は性欲に支配されているようで、会うたびに露は求められる。
 露は嫌だとは思わなかった。
 大きな体に包み込まれていると落ち着く自分がいる。仕事の失敗や同僚とうまくいかなかったこと、寒い、お腹が空いた、疲れた。そう言った心を不安にさせるものが静まって行く気がする。
 交わりの後に起き上がって露は朱鷺世の胡坐の中に座った。朱鷺世の腕が露の体に巻き付く。露が顔を上げると朱鷺世はじっと露を見つめて、自然と唇が重なった。最初は露が強く押しつけていたのだが、途中から朱鷺世に吸われた。恍惚となった露は朱鷺世の唇が離れても、少し惚けたような顔で朱鷺世の腕に抱かれていた。
 朱鷺世の体が小さく震えたかと思うと、大きなくしゃみをした。
「……朱鷺世、寒い?」
 露が訊いた。
「いいや。鼻がむず痒いだけ」
 朱鷺世は答えて、露の肩に顔を埋めた。袴を下ろしたままのため横抱きに座っている露は朱鷺世の内腿が見えた。
「朱鷺世……太腿の傷は治ったみたいね……」
 赤く裂けた皮膚は塞がっているが、傷跡は残っている。
「……うん」
「舞はうまくいっているの?こんな傷を作ってまでやるなんて」
「……ん……」
「こんな痛い思いをしてまで練習して朱鷺世は才能があるのね……。叩かれるのはあなたを見込んでのことなのかしら」
「……わからん。今はもう叩かれることはないが、ただ叩かれていただけではないと思う。……舞の腕は上がったように思うから……」
「朱鷺世の舞を観てみたいわ……。舞台の上で舞っている姿」
「……宮廷の宴や行事で舞うことがあれば、その時観たらいい。……仕事の合間に見ることができるだろう」
「そうね。宴の給仕をしていたら、もしかしたら観ることができるかもしれない。そうなればいいな」
 朱鷺世は露にまわした腕に力を込めて抱くとしばらくして体を起こした。
 それは朱鷺世が自分の部屋に戻る合図である。露は、もっと一緒にいたいなどとは言わず、身なりを整えるとその場で別れて、自分の部屋へと戻って行った。
 朱鷺世は露が用意してくれる搗き米を前ほど必要にしなくなったのは、朝、夕の食事の時に、配膳された食事を邪魔されることなく食べられるようになったからだった。そして、稽古場で練習が終わった後に、雅楽寮の長官である麻奈見が葉に包んだ搗き米を渡してくれからでもある。
 それを一人きりになった稽古場で貪り食った。
 もっと太った方がいい。朱鷺世は細すぎるよ。
 そう言った麻奈見だが、他の者も腹を空かしているのに、朱鷺世だけたくさん食べさせてくれとは言えず、陰でこうして朱鷺世に食事を与えた。
「朱鷺世、体格が良くなったね」
 練習の準備をしているところに早目に稽古場に現れた麻奈見が朱鷺世に近づいて来て言った。
 へこっと顔を上げたまま首を下げて、顔の位置が少し下がった。それで朱鷺世は返事をしたつもりだ。
「しかし、まだまだだな、もっと食べないと」
 という。そこへ岩城実津瀬が稽古場に入って来た。楽団員と話をしていた淡路がそれに気づいて、近寄って行った。
 朱鷺世は実津瀬の姿を見つめた。
 別にどうっということはないが、最近よく並んで舞わされる。
 最初に舞った時は、余裕のある速度で舞っていたのに、途中から淡路が奏でる笛の調べが速くなっていった。驚いた朱鷺世だったが、それは実津瀬が意識的に早くしていたのだと気づいて、負けてなるものかと、それ以上の速さで舞った。それを感じ取った淡路が朱鷺世に合わせてくれたため、逆に実津瀬が朱鷺世に追いつこうとした。
 速ければいいというものではないが、最初に速さを仕掛けてきたのは実津瀬だ。それに勝ったことが純粋に嬉しかった。
 それ以降、何度か並んで舞っているが、速さを競うようなことはない。時々、真ん中に淡路を置いて、三人で同じ型を何度も舞った。
 なぜ、三人で舞うのだろう、と思うが頭である麻奈見がそうするように言うから、仕方なくやっている。
 その様子を取り巻いてみている仲間たちが、面白く思ってはいないのはよくわかる。今は、いらぬいじめや暴力はないが、徹底して無視、無関心である。
 しかし、朱鷺世はそんなこと気にならなかった。こうして、舞えと言われることは、自分が必要とされているからだろう。叩かれて痛い思いもしたが、自分の居場所はあるのだ。それに、露がいる。露と会えればそれでよかった。
 翌日、朱鷺世はいつもの通り午前中は王宮の下働きとして仕事をした後、稽古場に向かった。
 いつものように、銘々が気の合う仲間と集まって話をしたり、楽器の調整をしたりしていた。
 朱鷺世は一人、扉の近くに座り込んで淡路や麻奈見が来るのを待っていた。
 開け放たれた扉に影が差した。
 視線を向けると、岩城実津瀬が稽古場へと入って来た。淡路もいないため、一人いつも使っている奥の隅へと向かう。
 今日もあの男と一緒に舞うのかな……。
 自分とは正反対の男。
 まず、生まれついた家が違う。俺は幼いころから親兄弟と離れ、独りぼっちでこの宮廷の中でどうやって生き延びていったらいいのか、と不安な毎日を過ごしてきた。反対にこの男は、都随一の権力者、岩城一族に生まれついた。分家であると聞いたが、本家も分家も大差はないようだ。互いを補完してその権力を強化している。あの男に、生きる不安はないだろう。腹が減った、寒い、暑い、寝心地の悪い褥に我慢するなんてこともないだろう。
 朱鷺世は実津瀬から視線を外し、楽器を担当する者たちが、奥から大きな楽器を持ち出しているのをぼんやりと眺めていると、いきなり大きな声が稽古場に響いた。
 朱鷺世は何を言っているのかわからず、扉の方を振り向いた。淡路が稽古場に飛び込んできていた。
「これから桂様がいらっしゃる。皆、お迎えする準備をしろ」
 皆が聞こえるように、同じことを何度か言った。
 朱鷺世も二度目の淡路の叫び声で今から桂が来ることが分かった。
 盛りの花は梅から桃へと移った。そろそろ山には桜の白い蕾が見える頃だった。
 宴と言えば月見の宴だが、それにはまだ日がある。何か花見の宴でもするのだろうか……。
 朱鷺世はそんなことを考えていたが、桂、と聞いて、朱鷺世を贔屓にしている女王の登場の予告に、稽古場の視線は一瞬朱鷺世に集まった。
「ぼさっとするな。立ち上がれ。楽器を出せ」
 淡路の次の言葉に、団員たちは急に早回しに動き出した。
「久しぶりにこの稽古場を訪れる。私が頻繁に訪ねたら、皆、練習にならないと思ってな。訪ねたい気持ちを抑えていた」
 桂の機嫌のよい声が稽古場に近づいて来た。
 開け放たれた扉に影が差して、群青色に織が入って、動くたびに模様が浮き出て美しい上着に、裳は目にも鮮やかな朱色の衣装を身にまとった桂が現れた。一歩下がって雅楽寮の長官である麻奈見が付き添いっている。
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