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第一章

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 上に……上に……上がらなければ……。沈んだままではだめ……。
 芹は水の中の深い底から浮き上がろうともがいていた。
 光の中に向かって上がるのよ。ここにずっといてはいけない。光に向かって上がればいいのよ……。
「……芹……芹!」
 自分の名を呼ぶ声に答えるため、芹は意識の底深いところから浮き上がり、眠りから覚めた。
 眼を開けて、声のする方へ少しばかり顔を向けた。視界に人の顔の形の影が見えた。視界がぼやけてすぐには誰とわからないが、その声は誰のものかわかる。その人の呼びかけが、目覚めたがらない自分を目覚めさせてくれたのだ。
「……実津瀬」
 芹はかすれた声で夫の名を呼んだ。
「ああ、目が覚めた」
 実津瀬は両手で包んで握っていた手を芹の右手を胸に引き込み、顔を近づけた。
 血色のない顔が少し動いて、実津瀬の目を捉えた。
「辛い目に遭わせたね」
 実津瀬の言葉に、芹は思い出した。
「淳奈は?」
「元気だよ。苗と遊んでよく笑っている」
 淳奈の様子を聞いてほっとしたような顔をした芹はすぐにまた眉根を寄せて悲しそうな顔をした。
「……私……お腹に」
「ややのことは聞いたよ。あなたが気に病むことはないよ。あなたと淳奈が無事でいてくれてよかった」
 実津瀬が言うと、芹は実津瀬から視線を外して天井を見上げた。
「喉が渇いたかい?水を飲ませてあげよう」
 実津瀬は褥の上に上がって芹の上半身を起こし、自分の体を芹の下に入れて抱いた。芹の足側に座っていた侍女の編が寄って来て、水を入れた椀を実津瀬に渡す。実津瀬は椀の淵を芹の唇に当ててゆっくりと水を飲ませた。
「……今日はいつ……月の宴は、明日?」
「今日が月の宴だ」
「では、あなたは今から用意を」
「いいや、今回の舞は辞退したよ」
「そんなこと……あなたは今まで準備をしてきたのに。私のことはいいのよ」
「毎回私が舞う必要はないんだよ。もう何度も舞っているし、飽きた人もいるだろう。そんなことよりあなたや淳奈の方が大事だから、今回は仮病を使って舞わないことにした。それに、楽団には多くの舞手がいてね。よい代役が見つかるだろう。だから、私は芹の傍にいていいんだ」
 芹は実津瀬の説明を聞いて、月の宴は一旦忘れ、その代わり昨日の出来事が再び頭の中を支配した。
「あなた……淳奈を危ない目に遭わせて、申し訳ありませんでした」
「うん……二人が無事でよかった。それだけだ……。しかしこれからは、天彦に傍にいるように言うよ。岩城の者は一度は命を狙われる宿命にあるようだ」
「……はい……」
 悲観的になる芹の性格をよくわかっている実津瀬は、芹が負担に感じないようにと言葉を選んでいるが、芹は目尻から涙をこぼし始めた、
「……芹……泣かないで」
 実津瀬は後ろから抱いた芹の顔を上から覗き込み、指で涙を拭ってやる。
「私……私……」
 こんな幸せな日々が自分の将来に待っていたなんて思ってもみなかった。実津瀬と暮らし、淳奈を授かり、優しい人々に囲まれた生活。
しかし、淳奈の誘拐未遂が起き、自分のお腹に宿っていた命が流れてしまった。
私は何か悪いことをしたかしら……罰を受けなくてはいけないほどの何か。
「芹と淳奈が無事であって、嬉しい」
 実津瀬はもう一度後ろから抱く腕に力を込めた。
「もう一度お眠り。そして、起きたら、淳奈を抱いてやっておくれよ」
 まだぼうっとしている芹は、頷くともう一度椀から水を飲んで実津瀬に手伝ってもらって横になった。
「傍にいるからね」
 芹は目を瞑っていると、眠りの中に引きずり込まれるように落ちて行った。次に起きる時は、夫とそして息子の声で目覚めたいと思った。


 実津瀬は突如熱を出して立ち上がられず、月の宴の舞を舞えないと父を通して宴の係に連絡した。仮病をかたって欠席したから、それから三日ほど邸に閉じこもった。
 それは、芹の傍に付き添うことができたし、さらわれそうになり、池に投げ落とされるという恐ろしい目になった息子の心を観察することもできて、よい時間となった。
 そして、四日目、朝、実津瀬は自分が所属している中務省の事務所に行った。仕事を終えると、宮廷楽団の稽古場へと向かった。
 前日に熱が出たと言い出したものだから、代わりの者を選ぶのは大変だと思ったが、宴から帰った父から聞くには、宮廷楽団の若い男が見事な舞を見せて、喝采を浴びたそうだ。
 特に、昔から実津瀬の舞を高く評価してくれている現大王である香奈益大王の従妹にあたる桂王女が熱烈に褒めていたと聞いて、実津瀬の心にはさざ波が立った。
 稽古場の扉は開け放たれており、すっとその中に体を入れると、相棒の淡路と楽団を率いている麻奈見が向かい合って話しているのが見えた。すぐに淡路が顔を上げて実津瀬に気づき、続いて麻奈見が気付いた。
 実津瀬は麻奈見の前に立ち、頭を下げた。
「楽長、ご迷惑をおかけしました」
 宮廷楽団を率いている楽長の麻奈見に、突然月の宴を欠席したことを謝った。
 麻奈見は実津瀬の父、実言とは旧知の仲で、実津瀬は小さな頃に麻奈見の舞を観てまねをしたのが、舞いを始めた最初だった。実津瀬にとって楽長は師匠である。
「実津瀬殿、お体はもういいのですか?」
 麻奈見の隣に立つ淡路が言う。
 淡路は歳も近く、少年の頃から長く二人舞の相方として付き合ってきたので、身分に差があっても、かしこまらない仲を築いてきたのだが、実津瀬が成人として宮廷に出仕してからは言葉に気を付けている。会うたびに、それを実津瀬が今まで通りに話そうと、注意することを一回やらないと淡路は昔のように砕けた話し方に戻さない。
「淡路……やめてよ、そんなかしこまった言い方。宴のことはすまなかったね。急に体調を崩してしまって代役を見つけるのに大変だっただろうか」
 実津瀬が言うと、淡路はお決まりの儀式が終わったとして、慣れた口調に戻って話し始める。
「実津瀬でなくても私にも何が起こるかわからないから、同じ舞を数人が練習していた。あの舞台で大王を始めとする目の肥えた方々にご覧いただくのには、誰がいいかと考えてね……楽長とも相談してね」
「そうなんだよ。誰が適任かと考えてね……」
 麻奈見が言う。
「朱鷺(とき)世(よ)に決めたんだよ」
 朱鷺世……。
 実津瀬はその名前を聞いても、すぐに誰、と顔は思い浮かばなかった。
「朱鷺世!」
 淡路に呼ばれて稽古場の隅で練習前の雑談に興じていた楽団の男たちの中の一人がこちらに顔を向けた。淡路の手招きで、痩躯を薄い着物で包んだ朱鷺世は輪から外れてこちらに向かってゆったりと歩いて来る。
 背が高く、手が長い。長い髪を頭の頂点に上げてまとめて結んでいる。
 実津瀬はその顔を見ても、誰だかわからない。その男の存在を知らなかったのだ。
「はい?」
 近寄って来た朱鷺世は、なぜ呼ばれたのかわからず、怪訝な顔で返事をした。
「この男だよ。実津瀬よりも少し若いけど、舞の才能はある。今回舞わせてみてわかったが、本番に強い」
 褒める淡路の声が聞こえていないのか朱鷺世は反応することなく、無表情に実津瀬の方を見ている。
 実津瀬と淡路の舞は二人で舞うので、背格好は同じくらいが良い。その点で、実津瀬の相手は淡路に決まった。この朱鷺世が選ばれたのは、実津瀬や淡路とそれほど身長に差がなかったことも一つあったのだと思う。実津瀬より少しばかり上からの目線で、じっと見つめられた。
「度胸が良いのか、本番の舞は最高の出来栄えだった。初めてあのような舞台で舞うとは思えないような動きだった」
 麻奈見も褒めるが、朱鷺世は喜ぶことはなく暗い目を向けただけだ。
「急な代役ですまなかったね。とても素晴らしい舞だったようだ。よい評判をきいている」
 朱鷺世は少し頭を揺らした。それが、実津瀬の言葉への返事のようだ。
 朱鷺世はほとんど言葉を発することなくまた、隅でたむろしている仲間の元へと戻った。

「何?」
 席に着いた王女、桂は、側近の舎人の耳打ちされた言葉に思わず声を上げた。
「実津瀬が来ない!」
 ここ数年の月の宴は、毎年岩城実津瀬が舞を舞っている。それは、この宮廷の中で誰よりも舞と管弦を愛している王女桂が実津瀬の舞を高く評価し、ことあるごとに所望するからである。
「どうして?舞はどうなる。二人の舞は取りやめるのか?」
 桂が言うと、舎人の後ろについていた楽団の楽長の麻奈見が進み出て説明する。
「実津瀬殿はお体を悪くされたそうです。這ってでも来たい気持ちであるが、這うこともままならないとのことで、代わりの者を立てて舞をする所存でございます」
「這うことができないなら、板にでも載せて運んできたらいいではないか!」
 楽しみにしていた実津瀬の舞が見られなくなった桂は自分の思い通りにならないことに怒り、それに任せて言いたいことを言う。
「這うこともできない者は良い舞も舞えません。しかし、桂様と同じように毎年恒例となりましたこの舞を楽しみにしていらっしゃる方がいらっしゃいます。我々楽団はよい舞手を育成していますので、代わりにその者が桂様に舞をお見せ致します」
 桂は「ふん!」と鼻を鳴らして横を向いた。
 桂のこのような態度に慣れている麻奈見は気にしない。
 淡路と、そして実津瀬の代わりに選んだ朱鷺世の舞が良ければ、このお方の機嫌は瞬く間に良くなることはわかっている。反対に、舞がまずかった場合は……どうなるか。その時には覚悟しようと思った。
 楽団の演奏者は既に舞台の上、下に着席し、楽器はその音色の状態を確かめ終わっている。場を読んだ観客たちが次々に小声の雑談をやめて口をつぐむ。
 舞台の下には煌びやかな衣装を纏った舞手、淡路とそしていつも一緒に舞う実津瀬……ではなく、緊張した面持ちの朱鷺世が片膝をついてその時を待っていた。
 痩せた少年は化粧をして、美しい衣装を身に着けるとその姿は化けたという言葉が思わず出てしまうほど映えた。
 舞台は始まった。
 それぞれの楽器が自分勝手に自分の音色を出す。自分の音を主張して耳障りに感じていると、それの音は一つの旋律に纏まって音楽になった。そうなるまでの間に、舞台下にいた舞手たちは背中を丸めて小さくなって舞台上へと階段を上がった。全ての楽器の音がひときわ大きく響いた、その時に舞台の周りの篝火に火が追加されて、舞台上が明るくなった。
 そこで、両手を広げた舞手の二人がすすっと舞台の端から中央に進み出た。
 舞台下に行く直前に、淡路はこのような大舞台が初めての朱鷺世に基本の型に忠実に、動きを合わせることを言い聞かせた。
 口数の少ない男は、淡路の言っていることがわかっているのかいないのか、小さく前後に頭が動いたのを見て淡路は頷いたのだと判断した。
 淡路の後ろで、大きく息を吸ったり吐いたりし、えずく仕草を見せていた。
 しかし、いざ、舞が始まると、朱鷺世は二回目の変貌を見せる。
 背が高く手足が長いこの男は、手足を広げたら大変さまになる。動き始め、伸ばず手、踏み出す足、淡路との手の向き、顔の向きと角度、二人の動きが止まるところ、全てを決めていく。大きな動きは美しく、手の指の先、足先まで伸びる、止まるが完璧である。
 楽器はからきしだめで、舞しかない男であるが、その舞が今、この代役の舞台で花開いて行くのを、楽団の仲間たちは息を殺して見ているのだった。
 実津瀬の舞のような派手さはないが、新人舞手の忠実な舞はまた観る者にとって新鮮であった。
 舞が終わり舞台を下りた淡路と朱鷺世は大広間の端から自分達を招く手が見えた。
 階の下に控えていた舎人から声が掛かる。
「桂様からお言葉がありますので、お待ちください」
 桂が椅子から立ち上がり、広間の前まで出てきた。
「そこの。お前の名前は何というのだ?」
「この者は」
 すぐに淡路が答えようとした。
「私は、淡路に訊いているのではない」
 そう制されて、淡路は口をつぐみ後ろの朱鷺世を振り返った。
 朱鷺世は桂を見上げて、口を二度ぱくぱくと明けたり閉じたりした後、やっと言った。
「……朱鷺世……と言います」
「朱鷺世か!」
 桂は淡路の方へ顔を向けた。
「なかなか有望な舞手ではないか?淡路、うかうかしてはおられんぞ。いつ代役の立場が入れわかるかわからない」
 淡路は平伏して、朱鷺世と一緒に舞台裏へと下がった。
 思った以上に朱鷺世の舞は素晴らしかった。まだまだ伸びしろのある舞で、次の舞を楽しみにする人もいるだろう。
 都一と言っていいほど舞や管弦が好きな王女桂が直々に声を掛けてきたということは、朱鷺世の舞が気に入ったのだ。そのうち、朱鷺世に舞わせろと話があるかもしれない。
 朱鷺世は翔丘殿の裏にある控えの間に入ると、柱を背に座り込んだ。
「大丈夫か?」
 頭を立てた両膝の間に落とし込むようにしてぐったりしている姿に、淡路が声を掛けた。
 朱鷺世は目だけを上げ、少しばかり頭を揺らした。それが、大丈夫という返事なのだろう。
 その場を離れた淡路は付き人の少年に朱鷺世のところに水を持って行ってやるように言った。
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