38 / 83
第1部あなた
第二章19
しおりを挟む
はぁはぁはぁ…
実津瀬は自分の息の音が大きくて追跡者に居場所がわかってしまうと心配して、大きく息をしないようにと思ったが、傷を負った雪を抱いて精一杯走るとどうしても息が上がる。
実津瀬は宮殿の裏にある倉が立ち並ぶ区域に逃げ込んだ。倉の裏に座り込み、雪の胸の上に顔を伏せて、激しい息遣いを整えようとするが、簡単におさまるものではない。肩を大きく上下させていた。
実津瀬の耳に雪の手が当たる。実津瀬は顔を上げた。指を切られていない方の手を上げて、実津瀬の顔に触れようとしていた。
「なに?苦しいかい?」
実津瀬は腕の中の雪の顔を覗き込んだ。
雪は実津瀬の頬を指で撫でる。
「逃げて……私を置いて……」
「嫌だ!そんなことしない」
実津瀬はそう言って、雪の頬に自分の右頬を付けた。
「ずっと一緒だ。早くあなたの傷の手当てをしないといけないね。私の母は医者でね。いい薬があるはずだから、あなたを治すことができるよ」
と言った。
雪が男と会っていたこと、それも岩城と敵対する一味の男と一緒に歩いていたのを見た時に、雪を問い詰めればよかったのだ。雪を追いかけて離れないと決めたのだから、雪となんでも正直に話しをすればよかったのに。
今夜、雪が背中に矢を受けた時からずっと悔いていることだ。
実津瀬は雪の背中を支えている右手のぬるっとした感触の正体を、雪の体越しに見た。手のひら全体が赤く染まっていた。白布で傷口を押えたが、大した止血にはならなかったようだ。弱っていく雪の様子を見て焦った。
実津瀬は息を整えている間も、耳はあたりの音を一つも逃すまいと意識を尖らせている。鳥の小さく羽ばたく音も逃すまい。そして、もちろん追撃者の足音も。
実津瀬よりも、雪が先に反応した。
実津瀬も顔を上げて、聞き耳を立てた。
地面に落ちた樹の枝を踏んで折れる音がする。相手は、もう気づかれずに近づこうという気はないのだ。逃げる実津瀬を何としてでも見つけて、後は一突きにでもして殺そうということだ。
実津瀬は丸腰だ。逃げて逃げて逃げ切るしかない。雪の体を抱く手に力を込めた。
雪が悲鳴の代わりに吐息を吐いたが、実津瀬はその息を振り切って立ち上がり、倉の裏を壁伝いに走った。
敏感に実津瀬の足音に反応した追撃者は、すぐに立ち並ぶ倉の裏側に姿を現し、逃げていく実津瀬の背中を見咎めると弓を構えて、迷いなく射た。
実津瀬の背中を追いかけてきた弓は、その背中を追い越して実津瀬の行くてを阻むように地面に突き刺さった。実津瀬は怯む心を叱咤して、その矢の傍を走り去った。次に放たれる矢が自分に当たらないことはない。
どこか身を隠すのに安全な場所はないか……せめて夜明けまで。
隣の倉は大きくて、その裏を抜けるのに時間がかかった。前に回り込むと、雪を抱いたまま入り口に差してある閂を抜いて、扉を押した。小さく軋む音をさせて扉は開き、実津瀬はその中へと入った。
倉の天井は高く、壁には棚が設えられ、その前には雑然と大きな樽や箱が重ねて置かれている。奥の壁には二階に上がる階段もあった。
実津瀬は傍の箱に雪の体を持たれかけさせるようにして下ろすと、扉の前に落とした閂を拾って内側から栓をした。内側から閉じても、大勢が力を合わせればすぐに開けられてしまうはずだ。すこしでも時間稼ぎになればと、実津瀬は額から大粒の汗を滴らせて、荒い息遣いとともに四つの箱と一つの樽を扉前に動かした。
そこまでやって雪の元に戻り、その傍に跪いた。
倉の奥へ隠れようと雪の背中と膝の下に腕を回すと、雪は首を振り右手を実津瀬の胸に置いて押し返す。しかし、手を上げるだけの力しかなく、実津瀬の胸に当てただけのようになった。
雪は荒い呼吸の間に実津瀬に向かって言葉をつないだ。
「私をここに置いて、あなたはどこかに身を隠して……隙があれば逃げてください。……私が……少しでも足止めさせる……」
何度目の同じ問答だろうか。実津瀬は雪の言葉を無視して、雪をゆっくりと抱き上げた。
「あなたも強情な人だね。諦めが悪い。私はそんなことはしないと言っているのに、何度も同じことを言ってくる。私は後悔しているんだ。あなたと心を開いて話さなかったことを。あなたのことを好きだ好きだと言っても、男としてあなたを幸せにしたいと思っていたかと言ったら……そうだとは言えない。だから、これ以上後悔をしないために、私は私の心に従う」
実津瀬は言うと、倉の奥へと入って行った。
蓮は景之亮の背中を見つめて少し小走りについて行った。大きな背中が前へ前へと進んでいく。蓮はそれについて行くのに必死だ。
景之亮の背中が近いと思ったら、それは景之亮が立ち止まったからだった。蓮は止まることができずに、その背中にぶつかった。すると、振り向いた景之亮が蓮の腰に手を回して抱き留めて、そのまま近くの低木の陰に一緒にしゃがみこんだ。
蓮はその動きで、向こうに敵がいるのだと知った。景之亮は大きな体を低くして、繁った低木の脇から真っ暗闇をじっと目を凝らして見ている。蓮は邪魔にならないように息を殺して、低木に身を押し付けて隠れていた。
出していた顔を引っ込めると景之亮は後ろにいる蓮へと顔を近づけた。
「宮殿の裏には倉が立ち並んでいる。そのうちの一つに人が集まっているようです。きっと実津瀬殿はその倉の中に逃げ込んだのでしょうね。扉をすぐに破られないようにしてはいるでしょうけど、人数をかければいずれ開くはずです。私は援護に行ってきます。あなたはここに身を隠していて。もし、身の危険を感じたら逃げるのです。安全なところに」
そう言うと、身を低くしたまま木の陰から出て、近くの幹の太い樹にその大きな体を預けて様子を窺い、また前の立ち木へと移って行った。蓮は出て行った景之亮の姿を四つん這いになって低木の端から目だけ出して見送った。
大きな体に似合わず俊敏な景之亮は二つ先の樹の陰に隠れると、背中の筒から矢を取り、弓を構えて放った。間を置かずにすぐに次の矢を取り、放つ。そこで、相手からの応戦があった。飛んできた矢に、景之亮は素早く幹に体を隠した。
蓮は真っ暗闇に目が慣れて、景之亮の様子が見えた。一度にいくつもの矢が飛んで来るのは相手が一人でなく複数人であるということだ。
景之亮は幹から体を起こすと、再び背負っている筒から矢を取り、弦を引きながら構えると、樹の陰から身を出して相手めがけて放った。そして、すぐに幹に隠れる。相手が応戦してくることを考えて、すでに次の矢を筒から取って、構えに入っている。向こうから矢が飛んで来たら、先ほど姿を出した方とは逆の幹から体を出して、矢を放った。
蓮は隠れている低木からでは、動く景之亮の様子がわからず少しずつ体が前に行く、また木の陰に体を引っ込めるをやっていた。
ああ、鷹取様は、大丈夫かしら。鷹取様は一人なのに、向こうから何本も矢が飛んできているよう。何か助けになることを私はできないかしら。
蓮は景之亮に、ここに身を隠していろ、と言われたことを忘れたわけではないが、どうしても景之亮のことが気になった。
四つん這いになって、景之亮が最初に身を隠した大木の幹まで這って行った。そこから、地面に顔が着きそうなほど身を低くして、景之亮の様子を窺った。
景之亮は筒から矢を取っては狙いすまして射る。近づいたからか、蓮にも向こうから呻き声が聞こえて景之亮の矢が相手に命中しているのだと分かった。
邸に来た時に宗清に弓を教えていた景之亮は、本当に弓の名手なのだろう。淡々と背中に背負った筒から矢を取って構える後ろ姿を蓮は見つめた。
敵はどこから矢が飛んで来ているのか分かったようで、相手が放つ矢が景之亮の隠れている幹へと集中してきた。
景之亮はこの樹を捨てて別の場所に移動して、倉の前にいる敵を他のやり方で倒さなければ、と考えた。
景之亮は相手の矢が自分の隠れている幹に突き刺さったのを機に、幹の陰から飛び出して左前に走った。そこには先ほどまで隠れていた樹と同じほどの大きな樹があり、その陰に飛び込んだ。その時に、背負っていた矢を入れた筒の紐が切れて、景之亮が次の樹にその体を隠した時には、樹と樹の間の身を隠すものは何もない地面に筒とそこから飛び出した矢が散らばり落ちた。
影が動いたことは相手も見えているはずで、次にあの真ん中に飛び出して行ったら、射てやろうと弓を構えているに違いない。
景之亮は、どの機会に飛び出してその筒を拾おうか、それとも弓は捨てて腰の剣を使うか。時としては一瞬ではあるが頭の中では随分と深く考えた。
剣を使った接近戦はもう少し後にしたい。
どうかして、相手の不意を打ってあの筒を拾いたいが……
景之亮は前方の敵を睨み、そして心を悩ませている右後ろの落ちた筒に目をやった時、先ほどまで自分が身を隠していた幹から小さな影が飛び出し、地面をさらうと、真っすぐに自分の方へと突進してくるのが見えた。
景之亮は何者かと驚き身構えたが、落ちた矢の筒を拾ってこちらに、自分めがけて走って来るのが蓮だと分かると、自然と両手を広げてその体を受け止めた。
「蓮殿!」
景之亮は自分の胸の中で切らせた息を整えながら、上を向いた蓮を目を見開いて見つめた。
「……鷹取様が……お困りのようだったので、私……とっさに飛び出してしまいました」
「なんて危ないことをしたのです!」
景之亮は低く鋭い声で言った。
「こんな危ないこと、これからは絶対にしてはいけません。敵も突然のことで反応できなかったからよかったものの、それは運が良かっただけ。もしも、あなたが傷を負うようなことがあったら、私は実言様に顔向けができません」
叱りはしたが、跪いたままの蓮を助け起こした。
「……ええ、こんな危ないまねはもうしません」
蓮は下を向いてうつむいたままだ。そんな蓮をみていると、景之亮は少し声音を優しくして言った。
「正直に言うと、困っていました。……とても助かったのは本当です。それにしても、あなたは度胸のある女人だ。……ははっ、なんとも勇ましく頼もしい」
景之亮は笑いと感嘆の言葉が出た。
蓮は景之亮の言葉に顔を上げた。見上げた景之亮は目尻を下げて笑った顔に見えた。
「矢をこちらに」
景之亮は蓮が拾った筒を受け取った。
「でも、多くが落ちてしまいました」
「ええ、それは仕方ない。これだけあるだけでもありがたい。準備の時に、私が丈夫な紐かよく確認しておかなかったからいけない」
景之亮は言うと、蓮を自分の背中へと押しやり、幹の陰から倉の入口を見つめた。
蓮も景之亮の背中にくっついて、向こうの様子を知ろうとした。そんな蓮の様子を知った景之亮は一度、蓮に振り向いた。
「蓮殿、これだけはわかってください。今夜、あなたはここにはいてはいけない人なのです。何かの手違いでここにいるのだと。だから、むやみな好奇心を起こして、身を危険に晒してはいけません」
蓮は怖い声音で景之亮に再び叱られて、その顔を上目遣いで見た。
「わかっています」
しゅんとして蓮は景之亮の後ろを一歩下がった。
景之亮はわかればよろしい、といった表情で再び倉の前に視線を戻した。
倉の前で数人の男たちが集まって、扉を押したり引いたりしている。中から閉じているのか、簡単には開かないようだ。
実津瀬は自分の息の音が大きくて追跡者に居場所がわかってしまうと心配して、大きく息をしないようにと思ったが、傷を負った雪を抱いて精一杯走るとどうしても息が上がる。
実津瀬は宮殿の裏にある倉が立ち並ぶ区域に逃げ込んだ。倉の裏に座り込み、雪の胸の上に顔を伏せて、激しい息遣いを整えようとするが、簡単におさまるものではない。肩を大きく上下させていた。
実津瀬の耳に雪の手が当たる。実津瀬は顔を上げた。指を切られていない方の手を上げて、実津瀬の顔に触れようとしていた。
「なに?苦しいかい?」
実津瀬は腕の中の雪の顔を覗き込んだ。
雪は実津瀬の頬を指で撫でる。
「逃げて……私を置いて……」
「嫌だ!そんなことしない」
実津瀬はそう言って、雪の頬に自分の右頬を付けた。
「ずっと一緒だ。早くあなたの傷の手当てをしないといけないね。私の母は医者でね。いい薬があるはずだから、あなたを治すことができるよ」
と言った。
雪が男と会っていたこと、それも岩城と敵対する一味の男と一緒に歩いていたのを見た時に、雪を問い詰めればよかったのだ。雪を追いかけて離れないと決めたのだから、雪となんでも正直に話しをすればよかったのに。
今夜、雪が背中に矢を受けた時からずっと悔いていることだ。
実津瀬は雪の背中を支えている右手のぬるっとした感触の正体を、雪の体越しに見た。手のひら全体が赤く染まっていた。白布で傷口を押えたが、大した止血にはならなかったようだ。弱っていく雪の様子を見て焦った。
実津瀬は息を整えている間も、耳はあたりの音を一つも逃すまいと意識を尖らせている。鳥の小さく羽ばたく音も逃すまい。そして、もちろん追撃者の足音も。
実津瀬よりも、雪が先に反応した。
実津瀬も顔を上げて、聞き耳を立てた。
地面に落ちた樹の枝を踏んで折れる音がする。相手は、もう気づかれずに近づこうという気はないのだ。逃げる実津瀬を何としてでも見つけて、後は一突きにでもして殺そうということだ。
実津瀬は丸腰だ。逃げて逃げて逃げ切るしかない。雪の体を抱く手に力を込めた。
雪が悲鳴の代わりに吐息を吐いたが、実津瀬はその息を振り切って立ち上がり、倉の裏を壁伝いに走った。
敏感に実津瀬の足音に反応した追撃者は、すぐに立ち並ぶ倉の裏側に姿を現し、逃げていく実津瀬の背中を見咎めると弓を構えて、迷いなく射た。
実津瀬の背中を追いかけてきた弓は、その背中を追い越して実津瀬の行くてを阻むように地面に突き刺さった。実津瀬は怯む心を叱咤して、その矢の傍を走り去った。次に放たれる矢が自分に当たらないことはない。
どこか身を隠すのに安全な場所はないか……せめて夜明けまで。
隣の倉は大きくて、その裏を抜けるのに時間がかかった。前に回り込むと、雪を抱いたまま入り口に差してある閂を抜いて、扉を押した。小さく軋む音をさせて扉は開き、実津瀬はその中へと入った。
倉の天井は高く、壁には棚が設えられ、その前には雑然と大きな樽や箱が重ねて置かれている。奥の壁には二階に上がる階段もあった。
実津瀬は傍の箱に雪の体を持たれかけさせるようにして下ろすと、扉の前に落とした閂を拾って内側から栓をした。内側から閉じても、大勢が力を合わせればすぐに開けられてしまうはずだ。すこしでも時間稼ぎになればと、実津瀬は額から大粒の汗を滴らせて、荒い息遣いとともに四つの箱と一つの樽を扉前に動かした。
そこまでやって雪の元に戻り、その傍に跪いた。
倉の奥へ隠れようと雪の背中と膝の下に腕を回すと、雪は首を振り右手を実津瀬の胸に置いて押し返す。しかし、手を上げるだけの力しかなく、実津瀬の胸に当てただけのようになった。
雪は荒い呼吸の間に実津瀬に向かって言葉をつないだ。
「私をここに置いて、あなたはどこかに身を隠して……隙があれば逃げてください。……私が……少しでも足止めさせる……」
何度目の同じ問答だろうか。実津瀬は雪の言葉を無視して、雪をゆっくりと抱き上げた。
「あなたも強情な人だね。諦めが悪い。私はそんなことはしないと言っているのに、何度も同じことを言ってくる。私は後悔しているんだ。あなたと心を開いて話さなかったことを。あなたのことを好きだ好きだと言っても、男としてあなたを幸せにしたいと思っていたかと言ったら……そうだとは言えない。だから、これ以上後悔をしないために、私は私の心に従う」
実津瀬は言うと、倉の奥へと入って行った。
蓮は景之亮の背中を見つめて少し小走りについて行った。大きな背中が前へ前へと進んでいく。蓮はそれについて行くのに必死だ。
景之亮の背中が近いと思ったら、それは景之亮が立ち止まったからだった。蓮は止まることができずに、その背中にぶつかった。すると、振り向いた景之亮が蓮の腰に手を回して抱き留めて、そのまま近くの低木の陰に一緒にしゃがみこんだ。
蓮はその動きで、向こうに敵がいるのだと知った。景之亮は大きな体を低くして、繁った低木の脇から真っ暗闇をじっと目を凝らして見ている。蓮は邪魔にならないように息を殺して、低木に身を押し付けて隠れていた。
出していた顔を引っ込めると景之亮は後ろにいる蓮へと顔を近づけた。
「宮殿の裏には倉が立ち並んでいる。そのうちの一つに人が集まっているようです。きっと実津瀬殿はその倉の中に逃げ込んだのでしょうね。扉をすぐに破られないようにしてはいるでしょうけど、人数をかければいずれ開くはずです。私は援護に行ってきます。あなたはここに身を隠していて。もし、身の危険を感じたら逃げるのです。安全なところに」
そう言うと、身を低くしたまま木の陰から出て、近くの幹の太い樹にその大きな体を預けて様子を窺い、また前の立ち木へと移って行った。蓮は出て行った景之亮の姿を四つん這いになって低木の端から目だけ出して見送った。
大きな体に似合わず俊敏な景之亮は二つ先の樹の陰に隠れると、背中の筒から矢を取り、弓を構えて放った。間を置かずにすぐに次の矢を取り、放つ。そこで、相手からの応戦があった。飛んできた矢に、景之亮は素早く幹に体を隠した。
蓮は真っ暗闇に目が慣れて、景之亮の様子が見えた。一度にいくつもの矢が飛んで来るのは相手が一人でなく複数人であるということだ。
景之亮は幹から体を起こすと、再び背負っている筒から矢を取り、弦を引きながら構えると、樹の陰から身を出して相手めがけて放った。そして、すぐに幹に隠れる。相手が応戦してくることを考えて、すでに次の矢を筒から取って、構えに入っている。向こうから矢が飛んで来たら、先ほど姿を出した方とは逆の幹から体を出して、矢を放った。
蓮は隠れている低木からでは、動く景之亮の様子がわからず少しずつ体が前に行く、また木の陰に体を引っ込めるをやっていた。
ああ、鷹取様は、大丈夫かしら。鷹取様は一人なのに、向こうから何本も矢が飛んできているよう。何か助けになることを私はできないかしら。
蓮は景之亮に、ここに身を隠していろ、と言われたことを忘れたわけではないが、どうしても景之亮のことが気になった。
四つん這いになって、景之亮が最初に身を隠した大木の幹まで這って行った。そこから、地面に顔が着きそうなほど身を低くして、景之亮の様子を窺った。
景之亮は筒から矢を取っては狙いすまして射る。近づいたからか、蓮にも向こうから呻き声が聞こえて景之亮の矢が相手に命中しているのだと分かった。
邸に来た時に宗清に弓を教えていた景之亮は、本当に弓の名手なのだろう。淡々と背中に背負った筒から矢を取って構える後ろ姿を蓮は見つめた。
敵はどこから矢が飛んで来ているのか分かったようで、相手が放つ矢が景之亮の隠れている幹へと集中してきた。
景之亮はこの樹を捨てて別の場所に移動して、倉の前にいる敵を他のやり方で倒さなければ、と考えた。
景之亮は相手の矢が自分の隠れている幹に突き刺さったのを機に、幹の陰から飛び出して左前に走った。そこには先ほどまで隠れていた樹と同じほどの大きな樹があり、その陰に飛び込んだ。その時に、背負っていた矢を入れた筒の紐が切れて、景之亮が次の樹にその体を隠した時には、樹と樹の間の身を隠すものは何もない地面に筒とそこから飛び出した矢が散らばり落ちた。
影が動いたことは相手も見えているはずで、次にあの真ん中に飛び出して行ったら、射てやろうと弓を構えているに違いない。
景之亮は、どの機会に飛び出してその筒を拾おうか、それとも弓は捨てて腰の剣を使うか。時としては一瞬ではあるが頭の中では随分と深く考えた。
剣を使った接近戦はもう少し後にしたい。
どうかして、相手の不意を打ってあの筒を拾いたいが……
景之亮は前方の敵を睨み、そして心を悩ませている右後ろの落ちた筒に目をやった時、先ほどまで自分が身を隠していた幹から小さな影が飛び出し、地面をさらうと、真っすぐに自分の方へと突進してくるのが見えた。
景之亮は何者かと驚き身構えたが、落ちた矢の筒を拾ってこちらに、自分めがけて走って来るのが蓮だと分かると、自然と両手を広げてその体を受け止めた。
「蓮殿!」
景之亮は自分の胸の中で切らせた息を整えながら、上を向いた蓮を目を見開いて見つめた。
「……鷹取様が……お困りのようだったので、私……とっさに飛び出してしまいました」
「なんて危ないことをしたのです!」
景之亮は低く鋭い声で言った。
「こんな危ないこと、これからは絶対にしてはいけません。敵も突然のことで反応できなかったからよかったものの、それは運が良かっただけ。もしも、あなたが傷を負うようなことがあったら、私は実言様に顔向けができません」
叱りはしたが、跪いたままの蓮を助け起こした。
「……ええ、こんな危ないまねはもうしません」
蓮は下を向いてうつむいたままだ。そんな蓮をみていると、景之亮は少し声音を優しくして言った。
「正直に言うと、困っていました。……とても助かったのは本当です。それにしても、あなたは度胸のある女人だ。……ははっ、なんとも勇ましく頼もしい」
景之亮は笑いと感嘆の言葉が出た。
蓮は景之亮の言葉に顔を上げた。見上げた景之亮は目尻を下げて笑った顔に見えた。
「矢をこちらに」
景之亮は蓮が拾った筒を受け取った。
「でも、多くが落ちてしまいました」
「ええ、それは仕方ない。これだけあるだけでもありがたい。準備の時に、私が丈夫な紐かよく確認しておかなかったからいけない」
景之亮は言うと、蓮を自分の背中へと押しやり、幹の陰から倉の入口を見つめた。
蓮も景之亮の背中にくっついて、向こうの様子を知ろうとした。そんな蓮の様子を知った景之亮は一度、蓮に振り向いた。
「蓮殿、これだけはわかってください。今夜、あなたはここにはいてはいけない人なのです。何かの手違いでここにいるのだと。だから、むやみな好奇心を起こして、身を危険に晒してはいけません」
蓮は怖い声音で景之亮に再び叱られて、その顔を上目遣いで見た。
「わかっています」
しゅんとして蓮は景之亮の後ろを一歩下がった。
景之亮はわかればよろしい、といった表情で再び倉の前に視線を戻した。
倉の前で数人の男たちが集まって、扉を押したり引いたりしている。中から閉じているのか、簡単には開かないようだ。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。
でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。
けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。
同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。
そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる