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第1部あなた
第一章14
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蓮は机に向かって、本の続きを写していた。
父と一緒に束蕗原から帰るのに唯一持って帰って来たものだ。例によって、母と……伊緒理がいつでも読めるようにと写している。
伊緒理……にこの本は必要かしら……。
いや、違う。本を写す私は必要かしら……これを写したら誰が伊緒理に届けるの。私ではない違う人が届けてもいいのだが、岩城から届けば私が写したとわかるもの。伊緒理は優しいから、私の思いを受けられないのに、本だけ受け取るのを心苦しく思うだろう。
しかし、蓮はそんな迷いを抱えながらも最後まで写した。糸で閉じる作業を終えると、明日、伊緒理の邸に持って行こうと決めた。伊緒理がいてもいなくても、会えても会えなくてもいいのだ。
医術の道に邁進する伊緒理を支えたい。妻になりたいという気持ちが一番ではあるが、夢を追う伊緒理の手助けをしたいという気持ちは強い。それは伊緒理の妻になってもなれなくても変わらない。
蓮は心を決めると晴れやかな気持ちになった。簀子縁まで出て、見上げた青空のように。そこに舞の稽古から帰って来た実津瀬が庭を歩いている姿が見えた。
「実津瀬!」
蓮が呼びかけると、実津瀬は蓮のいる簀子縁の下に歩いてきた。
「……蓮、何しているの?」
「いま、本を写し終えて閉じたところなの。一仕事、終えたところよ」
「そう」
「お父様が、一緒に夕餉を食べようですって。実津瀬は笛を吹けと言われるわよ」
「ああ、そんなこと、お安い御用だよ」
「……実津瀬……何かいいことあったの?」
「……なぜ?」
「だって、なんだか、顔が笑っているわよ。声も、明るいもの」
そう言われて、実津瀬は顔に手をやった。
先ほど雪と別れたばかりで、心が浮足立っているのが顔や声などの表面に現れたようだ。実津瀬は、少しばかり顔を引き締めた。
「そうかな?……何もないけど」
と素っ気ない返事をした。
「隠し事なんてしてないでしょうね?隠し事をしたって、私にはいずれわかるんだからね!」
怒った顔を作って蓮は言った。実津瀬は笑って、自分の部屋に向かった。
夕餉時になって実津瀬の部屋に従者がやってきて、父の部屋で夕餉を取ることを告げた。実津瀬が父の部屋に行くと、もう蓮は来ていた。
「遅くなりました」
そう言って実津瀬が蓮とは反対側の席に座った。
「まだ、料理も来ていないからね。遅くはない。それより、実津瀬、笛は持って来ているかい。今日は晴れているし、よい月夜になりそうだ。一曲でもお前の笛を聴かせてもらいたいものだ」
「お望みかと思って、笛は持ってきました」
実津瀬は胸の上に手を置いて笛が懐にあることを示した。
「私にはまったく音楽の素質がない。礼も同様だ。だけど、実津瀬にはその才がある。お前の努力もあるだろうがね。本当に嬉しいね」
父の実言はそう言って、先に来た酒の入った徳利が置かれた膳から杯を取り上げた、それを見計らって、蓮は徳利を持ち上げて父の持つ杯に酒を注いだ。
蓮は父が言った、自分達親には音楽の素質がないのに、実津瀬にはその才があって嬉しいという言葉。まだまだ幼い時には大人たちから何を言われているのかわからなったが、成長するにつれてその意味は分かった。
都では、突如、岩城実言に二人の子供が出現したことを怪しんだ。一人は本妻の礼が産んだ子だろけど、もう一人はどこかに囲っていた愛人に産ませた子を本妻との間にできた双子と言っているのだろうと言うのだ。母の礼が束蕗原で出産して、二年ほどそこで過ごしていたため、都の人々は誰も本当のことがわからない。
舞や笛の才能を持った実津瀬は特に、愛人に男児が生まれたため、本妻が産んだと言って迎え入れたのだと噂された。
そのことを実言をはじめ、誰も明確に反論しないため、噂はひとり歩きしたが、実言たち当人は本当のことをわかっているからなんの動揺もなかった。
実津瀬は私より先に母のお腹から出てこの世の空気を吸った者だ。その後に同じ道を通って私がこの世に出た。間違いようのない同じ父母の子供である。連にとっては、考えるというか、わかりきっているのだ。
蓮は飲み干された父の杯に酒を注いだ。
実言は我が子の思ってもみなかった才能に喜び、精進する息子にはできる限りのことをした。懇意の宮廷楽団の跡取りであり舞の名手である音原麻奈見の弟子にしてもらい舞と笛を習わせた。実津瀬の舞は評判で、何かの催しがあれば一番に声がかかるほどだ。
侍女たちが夕餉の料理を載せた膳を持って現れた。三人は目の前の膳に並ぶ料理に早速箸を取った。
「お前たちに伝えておかないといけないことがあった。前に、有馬王子と宮廷で会ったじゃないか。他にも同じ年代の男女が集まってね」
父の実言の話に、実津瀬と蓮は本家の稲生と藍と一緒に有馬王子と会った時のことを思い出した。二人が頷くと、実言は続いて。
「また、同じような集まりをするらしいから、行くように。本家の稲生と藍も行くことになっているから」
それを聞いて蓮は緊張した。お妃候補の品定めがまた行われるのだろうか。
「王宮の庭が花で美しいから、皆でそれを楽しもうということらしいよ。有馬王子の周りは少し年上の者ばかりだから、同年や少し年下の者と交流したいようだ。お前たちも様々な人と会えるし、行っておいで」
伊緒理の妻になることができないのであれば、自分は誰の妻になるのだろう。有馬王子の妻だって、悪くないかも……。将来の大王候補最有力だ。
そんなことを蓮はぼんやりと考えた。
「蓮、悪いね、注いでくれる?」
空の杯を上げて、実言が言った。
「……ああ、ぼんやりして、ごめんなさい」
徳利を取って、杯に並々と注いだ。それでちょうど徳利が空になった。実津瀬が笛を吹いて、舎人や侍女が庇の間に座って聴いているときだった。
「酒もなくなったことだし、これでお開き。三人で話すのも悪くないね。小さい子がいるとそれはそれで楽しいけど、お前たちももう大人になるのだから、小さな子に合わせた話が物足りなく思うこともあるだろう」
父に言われて実津瀬も蓮も頷いた。
宮廷の話、本家の話、この邸の家政のこと、どれも将来の岩城一族に関わるような話を聞かされた。重い話ではないが、榧や宗清がいては話せない話である。
「若いとは羨ましいことだよ。この年になって思う心境だけどね。二人にはまだわからないことだろうけどね」
実言はそう言って、最後の酒をあおった。
「礼に早く帰ってきてもらいたいものだね。寂しいよ」
そんな独り言を言った。
母の礼はまだ十日ほど束蕗原にいる予定だ。
本当に父は母一筋だ。
蓮は思う。父の母への思い。こんなに思ってもらえるなんて嬉しいこと限りない。私もこんなふうに思ってもらいたい。本家の叔父は妻を何人か持っていて、それで諍いが起こっていることもある。従姉妹たちも異母姉妹の仲がぎくしゃくとなることもある。一人の男から自分だけに向けられる愛がどんなに平穏をもたらし幸せなことだろうか。
ああ、どうしたら私の思いは遂げられるのかしら。
部屋から退出した蓮は黙って実津瀬の後ろを歩いていた。
「……蓮、少しは元気になったように見えるけど、どうなの?」
実津瀬が振り返って問うた。
「……うん、恋に破れても生きていけるものね……でも、明日、伊緒理の邸に最後の写した本を届けに行こうと思うわ」
「……私が付き添いをしようか?」
「ううん。いつものように一人で行くわ。変に伊緒理に気を使わせてしまうのは申し訳ないもの。私の一方的な思いですもの……」
「清々しい別れができればいいね」
実津瀬に言われて、本当にこれで吹っ切れればいいと思った。
翌日、蓮は鋳流巳を連れて徒歩で伊緒理の邸へと向かった。鋳流巳が前を歩いて、先導してくれる形だ。
伊緒理はいるだろうか……。
そのことが気になって蓮は無口になってただ鋳流巳の背中だけを見て歩いた。都の外れにある伊緒理の邸の門をくぐって訪いを入れると、いつもの舎人が現れて、少しばかり待ってくれと言われた。
しばらくすると、同じ舎人が蓮を案内すると言った。
伊緒理が会ってくれるのだと、蓮はこの期に及んで嬉しくなった。
簀子縁から庇の間に入るときに、舎人が立ち止まった。これから先は一人で行けということらしい。
蓮は庇の間に入ると、奥の部屋の机の前に座っていた伊緒理が顔を上げた。
「蓮、束蕗原から帰っていたのかい」
いつもと変わらない態度の伊緒理である。
「お母さまたちはまだ束蕗原にいます。私だけ、お父さまと一緒に先に都に帰って来たの」
伊緒理は蓮に円座をすすめて座らせた。
「そう、君だけ帰って来たのか。今日は……いつもの……」
伊緒理は蓮の胸に抱かれた包みを見た。
「ええ、写した本を持って来たの……」
そう言って、包みから出した本を伊緒理の前に差し出した。受け取った伊緒理は表紙を指でなぞって、蓮に視線を向けた。
「いつも、君の筆跡に感服させられる。美しい、見る者の心を引きつけてその文字を読むだけで自然と書かれていることが頭に入ってくるのだ」
いつものように蓮の文字を美しいと褒めてくれた。
「……蓮……私は君の気持ちに応えられない……。だから……もう私のためにこんな労力を使ってほしくないよ」
「……伊緒理のことだから、そういうと思ったのよ。……これが、最後。これが、私が伊緒理にできる最後のお手伝い。……でも、いままでもいやいややっていたのではないのよ。お母さまのお手伝いのついでに、伊緒理のためになったら、喜んでもらえたらと、私が勝手に思ってやっていたことよ。伊緒理に私の筆跡を褒めてもらえてうれしかった……美しい文字と言ってもらえて、うれし…かった……」
そう言っていると、蓮の目から勝手に涙がこぼれた。
蓮は慌てて目の下に袖を置いて、伊緒理から顔をそむけた。
「……ごめんなさい。泣くつもりなんてないの……」
「君の気持ちに応えられなくて済まない」
伊緒理は蓮の膝に置かれた左手を握ってくれたが、抱き寄せはしなかった。
蓮は自分の涙を引っ込めるのに、しばらく時間を使った。
「伊緒理……もう大丈夫よ」
蓮は笑って伊緒理に言った。
「では、私は帰るわね」
そう言うも、蓮は握ってくれた伊緒理の手を握り返していた。
伊緒理は蓮の笑顔に対して、顔が歪んで悲痛な表情をしていた。
そのような顔をするなら、蓮を妻にすると言った方がいいのではないかと思うほどに悲しそうな顔をしている。
「伊緒理、あなたは私の初恋の人。……私の本当の相手が現れてもあなたのことは忘れないわ」
蓮はそう言うと立ち上がった。伊緒理も黙って蓮を見上げている。
蓮は振り切るように伊緒理から目を背けて、来た道を引き返した。
簀子縁をのろのろと歩きながら、伊緒理が追って来てくれたら、と思ったが、そんな甘いものではなかった。
ああ、これで本当に伊緒理とはお別れだ。
蓮は再び涙が出そうになるのを堪えた。
自分から伊緒理に会うことはないだろう。伊緒理も同じはずだ。偶然、束蕗原で会うことはあっても。
案内してくれた舎人の見送りを受けて、蓮は鋳流巳と共に伊緒理の邸を後にした。
蓮は黙って、鋳流巳の後ろを歩いていた。
鋳流巳は時々後ろの蓮を窺っていたが、岩城邸近くになってから蓮の姿がないことに気づいた。慌てて、後戻りしたら、蓮は立ち止まって壁に寄りかかっていた。
「蓮様!」
鋳流巳は蓮の前に駆け寄った。鋳流巳が蓮の目の前に立つと蓮は鋳流巳を見上げた。目の縁を赤くして、ぼんやりとしている。
「どうしたのです?歩き疲れましたか?」
蓮は首を振った。
「いいえ。そうではないけど……」
「まだ、邸には戻りたくありませんか?」
鋳流巳に言われて、蓮はこくりと、頷いた。
「……では、しばらく歩きますか?私は良い場所を知っています」
鋳流巳に言われて、蓮は再び頷いた。自然と鋳流巳の袖を掴んで、一緒に歩く。
「人通りの少ない場所ではありますが、美しい景色を見ることができますよ」
鋳流巳にくっついて蓮は連れていかれるままに歩いた。言ったとおりに人通りの少ない細い道を歩いていくと、急に梅の良い匂いが鼻を突いた。
「……ああ、いい匂い」
蓮は思わず言った。
低い垣に囲われた一画には今が我が世と咲き誇る梅の木が何本も植わった庭に出た。
「ここは、庄内様のお邸です。垣が低くて庭が見える。梅の匂いも漂ってきます」
鋳流巳の説明に蓮は頷いた。
「本当ね。いい匂い。美しい紅梅、そして白梅も」
蓮はその美しさに目を瞠って言った。
「……匂いも……鼻から体の中に入ってきて、清々しい気持ち……」
蓮は鋳流巳に笑いかけた。
「ああ、とても良い気分。鋳流巳のおかげね」
鋳流巳は安堵して言った。
「さあ、邸に帰りましょう。遅くなると旦那様が心配されます」
「お父さまが心配するかしら?お父さまは娘より妻の方が大事なお方だもの。でも、変な心配を掛けてもいけないものね。帰りましょうか」
蓮はそう言って一歩先を行く鋳流巳の腕に手を掛けた。
少しばかり明るい顔をした蓮を連れて、鋳流巳は歩いた。大通りに出るときに、蓮の手を抑えて背に匿うと、盾となって岩城邸に向かった。
父と一緒に束蕗原から帰るのに唯一持って帰って来たものだ。例によって、母と……伊緒理がいつでも読めるようにと写している。
伊緒理……にこの本は必要かしら……。
いや、違う。本を写す私は必要かしら……これを写したら誰が伊緒理に届けるの。私ではない違う人が届けてもいいのだが、岩城から届けば私が写したとわかるもの。伊緒理は優しいから、私の思いを受けられないのに、本だけ受け取るのを心苦しく思うだろう。
しかし、蓮はそんな迷いを抱えながらも最後まで写した。糸で閉じる作業を終えると、明日、伊緒理の邸に持って行こうと決めた。伊緒理がいてもいなくても、会えても会えなくてもいいのだ。
医術の道に邁進する伊緒理を支えたい。妻になりたいという気持ちが一番ではあるが、夢を追う伊緒理の手助けをしたいという気持ちは強い。それは伊緒理の妻になってもなれなくても変わらない。
蓮は心を決めると晴れやかな気持ちになった。簀子縁まで出て、見上げた青空のように。そこに舞の稽古から帰って来た実津瀬が庭を歩いている姿が見えた。
「実津瀬!」
蓮が呼びかけると、実津瀬は蓮のいる簀子縁の下に歩いてきた。
「……蓮、何しているの?」
「いま、本を写し終えて閉じたところなの。一仕事、終えたところよ」
「そう」
「お父様が、一緒に夕餉を食べようですって。実津瀬は笛を吹けと言われるわよ」
「ああ、そんなこと、お安い御用だよ」
「……実津瀬……何かいいことあったの?」
「……なぜ?」
「だって、なんだか、顔が笑っているわよ。声も、明るいもの」
そう言われて、実津瀬は顔に手をやった。
先ほど雪と別れたばかりで、心が浮足立っているのが顔や声などの表面に現れたようだ。実津瀬は、少しばかり顔を引き締めた。
「そうかな?……何もないけど」
と素っ気ない返事をした。
「隠し事なんてしてないでしょうね?隠し事をしたって、私にはいずれわかるんだからね!」
怒った顔を作って蓮は言った。実津瀬は笑って、自分の部屋に向かった。
夕餉時になって実津瀬の部屋に従者がやってきて、父の部屋で夕餉を取ることを告げた。実津瀬が父の部屋に行くと、もう蓮は来ていた。
「遅くなりました」
そう言って実津瀬が蓮とは反対側の席に座った。
「まだ、料理も来ていないからね。遅くはない。それより、実津瀬、笛は持って来ているかい。今日は晴れているし、よい月夜になりそうだ。一曲でもお前の笛を聴かせてもらいたいものだ」
「お望みかと思って、笛は持ってきました」
実津瀬は胸の上に手を置いて笛が懐にあることを示した。
「私にはまったく音楽の素質がない。礼も同様だ。だけど、実津瀬にはその才がある。お前の努力もあるだろうがね。本当に嬉しいね」
父の実言はそう言って、先に来た酒の入った徳利が置かれた膳から杯を取り上げた、それを見計らって、蓮は徳利を持ち上げて父の持つ杯に酒を注いだ。
蓮は父が言った、自分達親には音楽の素質がないのに、実津瀬にはその才があって嬉しいという言葉。まだまだ幼い時には大人たちから何を言われているのかわからなったが、成長するにつれてその意味は分かった。
都では、突如、岩城実言に二人の子供が出現したことを怪しんだ。一人は本妻の礼が産んだ子だろけど、もう一人はどこかに囲っていた愛人に産ませた子を本妻との間にできた双子と言っているのだろうと言うのだ。母の礼が束蕗原で出産して、二年ほどそこで過ごしていたため、都の人々は誰も本当のことがわからない。
舞や笛の才能を持った実津瀬は特に、愛人に男児が生まれたため、本妻が産んだと言って迎え入れたのだと噂された。
そのことを実言をはじめ、誰も明確に反論しないため、噂はひとり歩きしたが、実言たち当人は本当のことをわかっているからなんの動揺もなかった。
実津瀬は私より先に母のお腹から出てこの世の空気を吸った者だ。その後に同じ道を通って私がこの世に出た。間違いようのない同じ父母の子供である。連にとっては、考えるというか、わかりきっているのだ。
蓮は飲み干された父の杯に酒を注いだ。
実言は我が子の思ってもみなかった才能に喜び、精進する息子にはできる限りのことをした。懇意の宮廷楽団の跡取りであり舞の名手である音原麻奈見の弟子にしてもらい舞と笛を習わせた。実津瀬の舞は評判で、何かの催しがあれば一番に声がかかるほどだ。
侍女たちが夕餉の料理を載せた膳を持って現れた。三人は目の前の膳に並ぶ料理に早速箸を取った。
「お前たちに伝えておかないといけないことがあった。前に、有馬王子と宮廷で会ったじゃないか。他にも同じ年代の男女が集まってね」
父の実言の話に、実津瀬と蓮は本家の稲生と藍と一緒に有馬王子と会った時のことを思い出した。二人が頷くと、実言は続いて。
「また、同じような集まりをするらしいから、行くように。本家の稲生と藍も行くことになっているから」
それを聞いて蓮は緊張した。お妃候補の品定めがまた行われるのだろうか。
「王宮の庭が花で美しいから、皆でそれを楽しもうということらしいよ。有馬王子の周りは少し年上の者ばかりだから、同年や少し年下の者と交流したいようだ。お前たちも様々な人と会えるし、行っておいで」
伊緒理の妻になることができないのであれば、自分は誰の妻になるのだろう。有馬王子の妻だって、悪くないかも……。将来の大王候補最有力だ。
そんなことを蓮はぼんやりと考えた。
「蓮、悪いね、注いでくれる?」
空の杯を上げて、実言が言った。
「……ああ、ぼんやりして、ごめんなさい」
徳利を取って、杯に並々と注いだ。それでちょうど徳利が空になった。実津瀬が笛を吹いて、舎人や侍女が庇の間に座って聴いているときだった。
「酒もなくなったことだし、これでお開き。三人で話すのも悪くないね。小さい子がいるとそれはそれで楽しいけど、お前たちももう大人になるのだから、小さな子に合わせた話が物足りなく思うこともあるだろう」
父に言われて実津瀬も蓮も頷いた。
宮廷の話、本家の話、この邸の家政のこと、どれも将来の岩城一族に関わるような話を聞かされた。重い話ではないが、榧や宗清がいては話せない話である。
「若いとは羨ましいことだよ。この年になって思う心境だけどね。二人にはまだわからないことだろうけどね」
実言はそう言って、最後の酒をあおった。
「礼に早く帰ってきてもらいたいものだね。寂しいよ」
そんな独り言を言った。
母の礼はまだ十日ほど束蕗原にいる予定だ。
本当に父は母一筋だ。
蓮は思う。父の母への思い。こんなに思ってもらえるなんて嬉しいこと限りない。私もこんなふうに思ってもらいたい。本家の叔父は妻を何人か持っていて、それで諍いが起こっていることもある。従姉妹たちも異母姉妹の仲がぎくしゃくとなることもある。一人の男から自分だけに向けられる愛がどんなに平穏をもたらし幸せなことだろうか。
ああ、どうしたら私の思いは遂げられるのかしら。
部屋から退出した蓮は黙って実津瀬の後ろを歩いていた。
「……蓮、少しは元気になったように見えるけど、どうなの?」
実津瀬が振り返って問うた。
「……うん、恋に破れても生きていけるものね……でも、明日、伊緒理の邸に最後の写した本を届けに行こうと思うわ」
「……私が付き添いをしようか?」
「ううん。いつものように一人で行くわ。変に伊緒理に気を使わせてしまうのは申し訳ないもの。私の一方的な思いですもの……」
「清々しい別れができればいいね」
実津瀬に言われて、本当にこれで吹っ切れればいいと思った。
翌日、蓮は鋳流巳を連れて徒歩で伊緒理の邸へと向かった。鋳流巳が前を歩いて、先導してくれる形だ。
伊緒理はいるだろうか……。
そのことが気になって蓮は無口になってただ鋳流巳の背中だけを見て歩いた。都の外れにある伊緒理の邸の門をくぐって訪いを入れると、いつもの舎人が現れて、少しばかり待ってくれと言われた。
しばらくすると、同じ舎人が蓮を案内すると言った。
伊緒理が会ってくれるのだと、蓮はこの期に及んで嬉しくなった。
簀子縁から庇の間に入るときに、舎人が立ち止まった。これから先は一人で行けということらしい。
蓮は庇の間に入ると、奥の部屋の机の前に座っていた伊緒理が顔を上げた。
「蓮、束蕗原から帰っていたのかい」
いつもと変わらない態度の伊緒理である。
「お母さまたちはまだ束蕗原にいます。私だけ、お父さまと一緒に先に都に帰って来たの」
伊緒理は蓮に円座をすすめて座らせた。
「そう、君だけ帰って来たのか。今日は……いつもの……」
伊緒理は蓮の胸に抱かれた包みを見た。
「ええ、写した本を持って来たの……」
そう言って、包みから出した本を伊緒理の前に差し出した。受け取った伊緒理は表紙を指でなぞって、蓮に視線を向けた。
「いつも、君の筆跡に感服させられる。美しい、見る者の心を引きつけてその文字を読むだけで自然と書かれていることが頭に入ってくるのだ」
いつものように蓮の文字を美しいと褒めてくれた。
「……蓮……私は君の気持ちに応えられない……。だから……もう私のためにこんな労力を使ってほしくないよ」
「……伊緒理のことだから、そういうと思ったのよ。……これが、最後。これが、私が伊緒理にできる最後のお手伝い。……でも、いままでもいやいややっていたのではないのよ。お母さまのお手伝いのついでに、伊緒理のためになったら、喜んでもらえたらと、私が勝手に思ってやっていたことよ。伊緒理に私の筆跡を褒めてもらえてうれしかった……美しい文字と言ってもらえて、うれし…かった……」
そう言っていると、蓮の目から勝手に涙がこぼれた。
蓮は慌てて目の下に袖を置いて、伊緒理から顔をそむけた。
「……ごめんなさい。泣くつもりなんてないの……」
「君の気持ちに応えられなくて済まない」
伊緒理は蓮の膝に置かれた左手を握ってくれたが、抱き寄せはしなかった。
蓮は自分の涙を引っ込めるのに、しばらく時間を使った。
「伊緒理……もう大丈夫よ」
蓮は笑って伊緒理に言った。
「では、私は帰るわね」
そう言うも、蓮は握ってくれた伊緒理の手を握り返していた。
伊緒理は蓮の笑顔に対して、顔が歪んで悲痛な表情をしていた。
そのような顔をするなら、蓮を妻にすると言った方がいいのではないかと思うほどに悲しそうな顔をしている。
「伊緒理、あなたは私の初恋の人。……私の本当の相手が現れてもあなたのことは忘れないわ」
蓮はそう言うと立ち上がった。伊緒理も黙って蓮を見上げている。
蓮は振り切るように伊緒理から目を背けて、来た道を引き返した。
簀子縁をのろのろと歩きながら、伊緒理が追って来てくれたら、と思ったが、そんな甘いものではなかった。
ああ、これで本当に伊緒理とはお別れだ。
蓮は再び涙が出そうになるのを堪えた。
自分から伊緒理に会うことはないだろう。伊緒理も同じはずだ。偶然、束蕗原で会うことはあっても。
案内してくれた舎人の見送りを受けて、蓮は鋳流巳と共に伊緒理の邸を後にした。
蓮は黙って、鋳流巳の後ろを歩いていた。
鋳流巳は時々後ろの蓮を窺っていたが、岩城邸近くになってから蓮の姿がないことに気づいた。慌てて、後戻りしたら、蓮は立ち止まって壁に寄りかかっていた。
「蓮様!」
鋳流巳は蓮の前に駆け寄った。鋳流巳が蓮の目の前に立つと蓮は鋳流巳を見上げた。目の縁を赤くして、ぼんやりとしている。
「どうしたのです?歩き疲れましたか?」
蓮は首を振った。
「いいえ。そうではないけど……」
「まだ、邸には戻りたくありませんか?」
鋳流巳に言われて、蓮はこくりと、頷いた。
「……では、しばらく歩きますか?私は良い場所を知っています」
鋳流巳に言われて、蓮は再び頷いた。自然と鋳流巳の袖を掴んで、一緒に歩く。
「人通りの少ない場所ではありますが、美しい景色を見ることができますよ」
鋳流巳にくっついて蓮は連れていかれるままに歩いた。言ったとおりに人通りの少ない細い道を歩いていくと、急に梅の良い匂いが鼻を突いた。
「……ああ、いい匂い」
蓮は思わず言った。
低い垣に囲われた一画には今が我が世と咲き誇る梅の木が何本も植わった庭に出た。
「ここは、庄内様のお邸です。垣が低くて庭が見える。梅の匂いも漂ってきます」
鋳流巳の説明に蓮は頷いた。
「本当ね。いい匂い。美しい紅梅、そして白梅も」
蓮はその美しさに目を瞠って言った。
「……匂いも……鼻から体の中に入ってきて、清々しい気持ち……」
蓮は鋳流巳に笑いかけた。
「ああ、とても良い気分。鋳流巳のおかげね」
鋳流巳は安堵して言った。
「さあ、邸に帰りましょう。遅くなると旦那様が心配されます」
「お父さまが心配するかしら?お父さまは娘より妻の方が大事なお方だもの。でも、変な心配を掛けてもいけないものね。帰りましょうか」
蓮はそう言って一歩先を行く鋳流巳の腕に手を掛けた。
少しばかり明るい顔をした蓮を連れて、鋳流巳は歩いた。大通りに出るときに、蓮の手を抑えて背に匿うと、盾となって岩城邸に向かった。
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