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第三章 飯屋
お義母様
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セリカの体調は最悪だった。
午前中が特に気持ちが悪くて起き上がれない。
こうやって自分の意志に反して、眩暈がしたり吐き気がしたりという日々を過ごしていると、身体が何者かに乗っ取られて変化し続けているということを感じる。
セリカ以外の人たちは順調な妊娠だと喜んでくれているのだから、苦情の持っていきようがない。
ダニエルは風邪が治ってセリカの側に来られるようになると、甲斐甲斐しくあれやこれやと世話をしてくれるようになった。
…この人誰?と思うよね。
― あの素っ気なかった独身主義者がここまで変わるとはねぇ。
この間は「妊娠中の注意点」という本を読みこんでたよ。
そんな日々を過ごしていたセリカに、思いもかけないお客様があった。
ダレニアン伯爵夫人が、遠くからわざわざ訪ねて来てくださったのだ。
「おめでとう、セリカ。でもつわりが酷いんですってね。ダニエルが心配してマリアンヌに念話してきたと聞いたわ。」
お義母様が、ニコニコしながらそんなことを言った。
ダニエル…マリアンヌさんのところにまで、念話してたの?!
― この間、何も食べられなかった時じゃない?
あの時はだいぶ心配してたから。
「胃がなかなか食べ物を受けつけなくて…。」
「飲み物は、少量でもいいからとりなさいね。クリストフがつわりの間だけということで、ガスキンを貸してくれたわよ。何か欲しいものがあったら、作らせますよ。」
「ガスキン?! 料理長の?」
「ええ。私と一緒に来たのよ。今、厨房にいるわ。」
父さんの料理と同じ味が出せるガスキンが来てるなんて…。
「わぁ、何を作ってもらおうかな。…ハンバーグ。ハンバーグが食べたいです。」
「こってりしたものが食べたいのねぇ。でもつわりの時なんてそんなものかもね。私はクリストフがお腹にいる時に、白身魚のフリッターが無性に食べたかったのよ。」
そうしてガスキンに作ってもらったハンバーグを、セリカは半分も食べることができた。
最近の中ではよく食べられたほうだ。
ダニエルが喜んで、困ったことを言い出した。
「ダレニアン伯爵夫人、ガスキンをうちにもらえませんか?」
「ダメよ、ダニエル。私も以前勧誘したことがあるの。ガスキンはフェルトン子爵領に両親がいるのよ。故郷で暮らしたいと断られたわ。」
「それなら両親ごと移って来てもらえばいいだろう。」
そんなダニエルに、お義母様は苦言を呈した。
「ダニエル、バカなことを言わないの。あなたはセリカが心配のあまりそんなことを言ってるんでしょうけど、ガスキンにも同じように両親や故郷の繋がりがあるのよ。領主たるもの、自分の都合だけで人を動かしてはいけません。お腹の子の父親になるのだったら、もっとドンと構えて些末な心配ばかりをしないようになさい。」
「…はい。浅慮なことを申しました。申し訳ございません。」
ダニエルが叱られるなんて、珍しい。
それでも、叱られてちょっと嬉しそうにも見える。
― 母親からの愛あるお叱りというのをダニエルはあまり経験してなかったんじゃない?
そうね。
私もお義母様と話せて、ちょっと気が楽になったかも。
◇◇◇
このつわりの時期にガスキンが来てくれたことが、後に素晴らしい恵みをセリカにもたらしてくれた。
ラザフォード侯爵家の料理人が全員、父さんの味がする料理を作れるようになったのだ。
特に、若い赤毛のエディは、舌が敏感だったことと先入観や経験がなかったことが、却って良かったようでガスキンと全く同じ味が出せるようになっていた。
8月36日頃には、セリカのお腹も少し前に出てくるようになり、それと同時に今度は食欲が増すようになってきた。
「やっとレストランの仕事を再開できそうな気分。今日は久しぶりに試食会をしようかしら。シータ、カツ丼や焼き鳥を作ってみるから、オディエ国の料理と比べてみてくれる?」
「はい。楽しみですね。」
シータは最近、綺麗になった。
どうもタンジェントが病気になって以来、2人の関係が変わってきたようで、恋する乙女の表情をしている。
最初に会った頃の鋭い目つきをした青年のような容貌が、やわらかで大らかな女性に見えるようになってきた。
この調子だと、いつか良い報告が聞けそうね。
試食会で作ったかつ丼と焼き鳥は、料理人たちの胃袋を喜ばせた。
「こりゃあ、うまい! かつ丼は腹が減ってる時にガッツリかき込めるな。賄い飯にしましょうよ、料理長!」
そう言って、若いニックはスプーンでかつ丼をガツガツ食べている。
瘦せてひょろりとしているのに、結構よく食べる。
「鶏串の甘辛い醤油ダレも塩味も、どちらも美味しいですね。酒が飲みたくなる味だ。」
「この遠赤外線って言いましたか? アダムが作った串焼き用のコンロと炭がいいんだな。パリッと焼けて焦げ目が香ばしい。」
ディクソン料理長とルーカス副料理長は、昼間からお酒が飲みたそうな顔をしている。
シータからもタンジェントに食べさせたいという、お墨付きの褒め言葉をもらった。
ふむふむ、これは2つとも店のメニューに採用ね。
お酒か…。
オディエ国のお酒も仕入れてみようかな。
セリカの体調も良くなってきたので、建物の改修が終わる11月の半ば頃には店を開店できるかもしれない。
楽しみだなぁ。
セリカはこれからの段取りを頭の中に浮かべながら、皆が美味しそうに食べる様子を見ていた。
午前中が特に気持ちが悪くて起き上がれない。
こうやって自分の意志に反して、眩暈がしたり吐き気がしたりという日々を過ごしていると、身体が何者かに乗っ取られて変化し続けているということを感じる。
セリカ以外の人たちは順調な妊娠だと喜んでくれているのだから、苦情の持っていきようがない。
ダニエルは風邪が治ってセリカの側に来られるようになると、甲斐甲斐しくあれやこれやと世話をしてくれるようになった。
…この人誰?と思うよね。
― あの素っ気なかった独身主義者がここまで変わるとはねぇ。
この間は「妊娠中の注意点」という本を読みこんでたよ。
そんな日々を過ごしていたセリカに、思いもかけないお客様があった。
ダレニアン伯爵夫人が、遠くからわざわざ訪ねて来てくださったのだ。
「おめでとう、セリカ。でもつわりが酷いんですってね。ダニエルが心配してマリアンヌに念話してきたと聞いたわ。」
お義母様が、ニコニコしながらそんなことを言った。
ダニエル…マリアンヌさんのところにまで、念話してたの?!
― この間、何も食べられなかった時じゃない?
あの時はだいぶ心配してたから。
「胃がなかなか食べ物を受けつけなくて…。」
「飲み物は、少量でもいいからとりなさいね。クリストフがつわりの間だけということで、ガスキンを貸してくれたわよ。何か欲しいものがあったら、作らせますよ。」
「ガスキン?! 料理長の?」
「ええ。私と一緒に来たのよ。今、厨房にいるわ。」
父さんの料理と同じ味が出せるガスキンが来てるなんて…。
「わぁ、何を作ってもらおうかな。…ハンバーグ。ハンバーグが食べたいです。」
「こってりしたものが食べたいのねぇ。でもつわりの時なんてそんなものかもね。私はクリストフがお腹にいる時に、白身魚のフリッターが無性に食べたかったのよ。」
そうしてガスキンに作ってもらったハンバーグを、セリカは半分も食べることができた。
最近の中ではよく食べられたほうだ。
ダニエルが喜んで、困ったことを言い出した。
「ダレニアン伯爵夫人、ガスキンをうちにもらえませんか?」
「ダメよ、ダニエル。私も以前勧誘したことがあるの。ガスキンはフェルトン子爵領に両親がいるのよ。故郷で暮らしたいと断られたわ。」
「それなら両親ごと移って来てもらえばいいだろう。」
そんなダニエルに、お義母様は苦言を呈した。
「ダニエル、バカなことを言わないの。あなたはセリカが心配のあまりそんなことを言ってるんでしょうけど、ガスキンにも同じように両親や故郷の繋がりがあるのよ。領主たるもの、自分の都合だけで人を動かしてはいけません。お腹の子の父親になるのだったら、もっとドンと構えて些末な心配ばかりをしないようになさい。」
「…はい。浅慮なことを申しました。申し訳ございません。」
ダニエルが叱られるなんて、珍しい。
それでも、叱られてちょっと嬉しそうにも見える。
― 母親からの愛あるお叱りというのをダニエルはあまり経験してなかったんじゃない?
そうね。
私もお義母様と話せて、ちょっと気が楽になったかも。
◇◇◇
このつわりの時期にガスキンが来てくれたことが、後に素晴らしい恵みをセリカにもたらしてくれた。
ラザフォード侯爵家の料理人が全員、父さんの味がする料理を作れるようになったのだ。
特に、若い赤毛のエディは、舌が敏感だったことと先入観や経験がなかったことが、却って良かったようでガスキンと全く同じ味が出せるようになっていた。
8月36日頃には、セリカのお腹も少し前に出てくるようになり、それと同時に今度は食欲が増すようになってきた。
「やっとレストランの仕事を再開できそうな気分。今日は久しぶりに試食会をしようかしら。シータ、カツ丼や焼き鳥を作ってみるから、オディエ国の料理と比べてみてくれる?」
「はい。楽しみですね。」
シータは最近、綺麗になった。
どうもタンジェントが病気になって以来、2人の関係が変わってきたようで、恋する乙女の表情をしている。
最初に会った頃の鋭い目つきをした青年のような容貌が、やわらかで大らかな女性に見えるようになってきた。
この調子だと、いつか良い報告が聞けそうね。
試食会で作ったかつ丼と焼き鳥は、料理人たちの胃袋を喜ばせた。
「こりゃあ、うまい! かつ丼は腹が減ってる時にガッツリかき込めるな。賄い飯にしましょうよ、料理長!」
そう言って、若いニックはスプーンでかつ丼をガツガツ食べている。
瘦せてひょろりとしているのに、結構よく食べる。
「鶏串の甘辛い醤油ダレも塩味も、どちらも美味しいですね。酒が飲みたくなる味だ。」
「この遠赤外線って言いましたか? アダムが作った串焼き用のコンロと炭がいいんだな。パリッと焼けて焦げ目が香ばしい。」
ディクソン料理長とルーカス副料理長は、昼間からお酒が飲みたそうな顔をしている。
シータからもタンジェントに食べさせたいという、お墨付きの褒め言葉をもらった。
ふむふむ、これは2つとも店のメニューに採用ね。
お酒か…。
オディエ国のお酒も仕入れてみようかな。
セリカの体調も良くなってきたので、建物の改修が終わる11月の半ば頃には店を開店できるかもしれない。
楽しみだなぁ。
セリカはこれからの段取りを頭の中に浮かべながら、皆が美味しそうに食べる様子を見ていた。
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