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第一章 出会い
散歩
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13刻の鐘が鳴って、花文字で招待状を書く授業がやっと済んだ。
セリカの上達具合にバノック先生も顔をほころばせている。
「大変よろしいですわ、セリカさん。花文字はここまでにして、次の授業は屋敷の管理についてお勉強しましょう。」
「管理ですか? それは旦那様の仕事ではないんですか?」
「対外的な事や屋敷の補修、人の雇い入れ等はそうですね。その家の主人と執事、それに領地管理人が合議することが多いでしょう。ただし、家のインテリアやシーツなどの布類について、それから食事、お客様の受け入れやもてなしなどは女主人の役割です。女中頭や厨房の責任者と相談して家庭運営をしていかなければなりません。」
「なるほど、飯屋の女房の仕事と一緒ですね。」
「そうなんですか?」
「ええ。」
バノック先生は平民の仕事と貴族の奥様の仕事には大きな違いがあると思っているようだが、意外とそんなことはない。
基本の考え方は一緒なのだ。
皆が過ごしやすいように満足感を得られるように、効率や経済のことも考えながら、仕事を回していく。
そこに温かい愛情や思いやりがあれば、より人生は楽しくなる。
セリカのような末席の奥様にどのくらいの権限が与えられるのかはわからないが、自分が受け持った場所はトレントの店のように上手く回していこうとセリカは思っていた。
◇◇◇
「裏庭に行ってみようかしら。」
気分が浮き立っていたセリカは、春の陽気に誘われて散歩に出ることにした。
― 食堂の窓から見えた所ね。
チューリップがまだ咲いてたわ。
ここは高原地帯だから春が遅いのよ。
セリカは今まで、ちょっと空いた時間にも花文字の宿題をやっていた。
その花文字に今日やっと合格点が出たので、身体の隅々にまで喜びが行きわたるようなウキウキした達成感を感じていた。
なんか階段を一つ登れた感じ。
― あのくるくるした花文字をよく覚えられたわねぇ。
貴族の人って、なんでまたあんなおかしな文字を使おうと思ったんだろう?
― よほど暇だったのかもね。
ふふ、言えてる。
廊下の途中にあるガラス戸を開けると、セリカは芝生を踏んで広い裏庭に出ていく。
傾きかけた午後の日差しが、庭に咲く花々に優しい色を添えていた。
「ここまで多いチューリップは、街の公園でも見られないよ。」
― 本当に見事に咲きそろっていること。
花壇の後ろに雪柳が植えてあるから、チューリップの色が映えるわね。
しばらく花壇の花を楽しんで、小川のせせらぎを聞きながら遊歩道を森の方へ歩いて行く。
すると、遠くに見える東屋から一組のカップルが出て来て、こちらへ歩いて来るのが見えた。
あれ? フロイド先生じゃない?
― そうみたいね。
じゃあ一緒にいる方は、奥様かしら?
「やぁセリカさん、散歩かい?」
「はい。やっと花文字の招待状に合格することができました。」
「お、予想より早かったね。よく頑張った。セリカさんにうちの奥さんを紹介するよ。」
やっぱり、奥様だった。
「エレノア・フロイドです。よろしくお願いします。」
優しい声の儚げな様子の人だ。
体調が悪いと言ってらしたけど、少しは良くなったのだろうか。
「セリカ・トレントです。フロイド先生には大変お世話になっています。」
「まぁ、ジェフが先生と呼ばれてるなんて。ふふっ、何だかおかしいわ。」
奥様がコロコロと笑っているのを、フロイド先生は目を細めて見ている。
「いつもは所長さんなんでしょうね。」
「そうね、猛烈所長さんね。研究所の仕事が忙しくて、滅多にこうやって一緒に散歩することもなかったの。ラザフォード侯爵閣下とセリカさんには感謝してますのよ。こちらに来させていただいて、新婚時代に戻ったようですわ。」
「エレノア…。」
フロイド先生は教え子の前でこんなことを言われて、少し気まずいようだ。
セリカは顔に出さないようにして、クスリと笑った。
自分にとっては次々と課題を積み上げてくる鬼のような先生でも、こうやって家庭では優しい旦那様なんだな。
「セリカさん、侯爵閣下にお聞きしましたけど、叔母さまが森で薬師をされているそうですね。」
「ええ。アン叔母さんですね。」
「その叔母さまに、何かいい薬がないか聞いていただけませんか?」
「エレノア、王都の医師にもらった薬がまだあるだろう。」
「でもちっとも治らないのよ。」
「失礼ですが、何のご病気なんですか?」
「疱瘡なんですの。伝染性はないようなんですが、水疱瘡のようにスッキリ治らなくて…。」
そう言って奥様は襟元の疱瘡を見せてくれた。
― あ、天疱瘡だ。
奏子がすぐにそう言った。
― これは治らないわ。
でも免疫抑制をするホルモン剤と軟膏で、長生きは出来るわよ。
気をつけないといけないのは、疱瘡になった部分の皮膚が痛んでるから
普通の人がかからないような菌に感染することがあるのよ。
そう言えば、奏子のおばあちゃんが長年この病気と共に生活してたね。
フロイド先生に奏子の世界での知識を伝えると、ひどく感謝された。
先生は医学についてもいくらかの知識があったようで、王都の医師にもらった薬と併用できるものがないか尋ねるために、一度アン叔母さんに会いたいと言われた。
この世界には魔法があるので、もしかしたら奥様の病気も治るかもしれない。
日本での先進医療の知識が、少しでもお役に立てたらいいのだけど…。
こうしてセリカは、次の糖曜日にダルトン先生夫妻と一緒にアン叔母さんの森の家を訪ねることになったのだった。
セリカの上達具合にバノック先生も顔をほころばせている。
「大変よろしいですわ、セリカさん。花文字はここまでにして、次の授業は屋敷の管理についてお勉強しましょう。」
「管理ですか? それは旦那様の仕事ではないんですか?」
「対外的な事や屋敷の補修、人の雇い入れ等はそうですね。その家の主人と執事、それに領地管理人が合議することが多いでしょう。ただし、家のインテリアやシーツなどの布類について、それから食事、お客様の受け入れやもてなしなどは女主人の役割です。女中頭や厨房の責任者と相談して家庭運営をしていかなければなりません。」
「なるほど、飯屋の女房の仕事と一緒ですね。」
「そうなんですか?」
「ええ。」
バノック先生は平民の仕事と貴族の奥様の仕事には大きな違いがあると思っているようだが、意外とそんなことはない。
基本の考え方は一緒なのだ。
皆が過ごしやすいように満足感を得られるように、効率や経済のことも考えながら、仕事を回していく。
そこに温かい愛情や思いやりがあれば、より人生は楽しくなる。
セリカのような末席の奥様にどのくらいの権限が与えられるのかはわからないが、自分が受け持った場所はトレントの店のように上手く回していこうとセリカは思っていた。
◇◇◇
「裏庭に行ってみようかしら。」
気分が浮き立っていたセリカは、春の陽気に誘われて散歩に出ることにした。
― 食堂の窓から見えた所ね。
チューリップがまだ咲いてたわ。
ここは高原地帯だから春が遅いのよ。
セリカは今まで、ちょっと空いた時間にも花文字の宿題をやっていた。
その花文字に今日やっと合格点が出たので、身体の隅々にまで喜びが行きわたるようなウキウキした達成感を感じていた。
なんか階段を一つ登れた感じ。
― あのくるくるした花文字をよく覚えられたわねぇ。
貴族の人って、なんでまたあんなおかしな文字を使おうと思ったんだろう?
― よほど暇だったのかもね。
ふふ、言えてる。
廊下の途中にあるガラス戸を開けると、セリカは芝生を踏んで広い裏庭に出ていく。
傾きかけた午後の日差しが、庭に咲く花々に優しい色を添えていた。
「ここまで多いチューリップは、街の公園でも見られないよ。」
― 本当に見事に咲きそろっていること。
花壇の後ろに雪柳が植えてあるから、チューリップの色が映えるわね。
しばらく花壇の花を楽しんで、小川のせせらぎを聞きながら遊歩道を森の方へ歩いて行く。
すると、遠くに見える東屋から一組のカップルが出て来て、こちらへ歩いて来るのが見えた。
あれ? フロイド先生じゃない?
― そうみたいね。
じゃあ一緒にいる方は、奥様かしら?
「やぁセリカさん、散歩かい?」
「はい。やっと花文字の招待状に合格することができました。」
「お、予想より早かったね。よく頑張った。セリカさんにうちの奥さんを紹介するよ。」
やっぱり、奥様だった。
「エレノア・フロイドです。よろしくお願いします。」
優しい声の儚げな様子の人だ。
体調が悪いと言ってらしたけど、少しは良くなったのだろうか。
「セリカ・トレントです。フロイド先生には大変お世話になっています。」
「まぁ、ジェフが先生と呼ばれてるなんて。ふふっ、何だかおかしいわ。」
奥様がコロコロと笑っているのを、フロイド先生は目を細めて見ている。
「いつもは所長さんなんでしょうね。」
「そうね、猛烈所長さんね。研究所の仕事が忙しくて、滅多にこうやって一緒に散歩することもなかったの。ラザフォード侯爵閣下とセリカさんには感謝してますのよ。こちらに来させていただいて、新婚時代に戻ったようですわ。」
「エレノア…。」
フロイド先生は教え子の前でこんなことを言われて、少し気まずいようだ。
セリカは顔に出さないようにして、クスリと笑った。
自分にとっては次々と課題を積み上げてくる鬼のような先生でも、こうやって家庭では優しい旦那様なんだな。
「セリカさん、侯爵閣下にお聞きしましたけど、叔母さまが森で薬師をされているそうですね。」
「ええ。アン叔母さんですね。」
「その叔母さまに、何かいい薬がないか聞いていただけませんか?」
「エレノア、王都の医師にもらった薬がまだあるだろう。」
「でもちっとも治らないのよ。」
「失礼ですが、何のご病気なんですか?」
「疱瘡なんですの。伝染性はないようなんですが、水疱瘡のようにスッキリ治らなくて…。」
そう言って奥様は襟元の疱瘡を見せてくれた。
― あ、天疱瘡だ。
奏子がすぐにそう言った。
― これは治らないわ。
でも免疫抑制をするホルモン剤と軟膏で、長生きは出来るわよ。
気をつけないといけないのは、疱瘡になった部分の皮膚が痛んでるから
普通の人がかからないような菌に感染することがあるのよ。
そう言えば、奏子のおばあちゃんが長年この病気と共に生活してたね。
フロイド先生に奏子の世界での知識を伝えると、ひどく感謝された。
先生は医学についてもいくらかの知識があったようで、王都の医師にもらった薬と併用できるものがないか尋ねるために、一度アン叔母さんに会いたいと言われた。
この世界には魔法があるので、もしかしたら奥様の病気も治るかもしれない。
日本での先進医療の知識が、少しでもお役に立てたらいいのだけど…。
こうしてセリカは、次の糖曜日にダルトン先生夫妻と一緒にアン叔母さんの森の家を訪ねることになったのだった。
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