秘書のお仕事

秋野 木星

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年度末の異動

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 その日は二月にしては、暖かい朝でした。
いつもの電車に乗って、三両目の定位置に立った香織かおりは、後ろに背の高い男の人がいることに気づきました。

香織が立っているのは、電車の進行方向からみて左側のドアのすぐ側です。そこは四人掛けの座席の背面になるので、そこにもたれかかることも出来ますし、朝の混み合った時間帯に不要な椅子取り合戦に加わることなく、平穏な独りだけのスペースを確保できる場所なのです。

香織は身体をドアの方に向けていたので、後ろに立っている男の人が窓ガラスに映ってよく見えました。

あれはブランドものの背広なんでしょうね。

香織には服の流行を追う趣味がないので、どこのブランドの物なのかはよくわかりませんでしたが、服地の質感とかデザインがホテルの高級な部屋にお泊りになるお客さまと重なって見えました。
ただ、背広はチャコールグレーの上品な色合いなのですが、その人が締めているネクタイが異様に派手なのです。
赤、それも鮮烈な赤一色でした。

あのネクタイは目立ちすぎるかも。せめて斜めの縞模様とかにしたらいいのに……

暇な通勤時間に、そんないらぬお節介なことを考えながら、電車で揺られていたのです。


香織の勤務先は、大賀駅のすぐ側にあるホテル・イマージュです。
うちのホテルは大賀県の県庁所在地にあるので、結婚式を始め、大きな催し物や会合も常時開催されています。
建物の二階部分にある駅の改札を出ると、商業施設を併設した高架橋を通って、そのままホテルのエントランスに入って行けるので、通勤に便利な職場ということになるでしょう。

ただ香織は従業員入り口から入るので、ホテルの入り口の側から一般道に降りるエスカレーターに乗ります。そうして下に降りると、建物の一階の外をぐるりと回って裏口に行きました。
関係者入り口になる重たいドアを開けて、守衛のおじさんに朝の挨拶をすると、今日一日の仕事が始まるなと気持ちが引き締まってきます。

社員証をドアにかざして奥の扉を開け、薄暗い廊下を進んで行き、女子更衣室に入るとホッと一息つきます。
自分のロッカーを開け、制服に着替えていると、更衣室のドアから上司の中川なかがわさんが顔を覗かせました。

「きたきた。待ってたのよ~、松下まつしたさん。着替えたらすぐに事務所に来てくれる?」
「あ、はい。でも私は今日、朝の掃除チェックの日なんですが……」
「ああ、それは違う人にしてもらうから、しなくていいわ。とにかく早めに来てね」
「わかりました」

中川さんにこんな事を言われるのは、滅多にあることではありません。
無駄口を叩かない人ですから、雑談をしたいわけではないでしょう。普段なら、一日の仕事が終わって終礼の時間になるまでずっと一日中、口を利かない時もあるほどです。
これは香織が30歳という中堅社員の入り口に立っていて、ある程度の仕事を任せられているからということもあります。

いろんな疑問が頭に湧いてきましたが、考えてもわかるはずがありません。急いで着替えた香織は、小物を入れた小さなポーチを持って、足早に事務所に入って行きました。

中川さんの机の側に行くと、彼女はすぐに束になった書類を持って、香織を部屋の隅にある応接スペースに連れていきました。

「早く出勤してくれて助かったわ。私も昨夜遅く聞いたばかりで、まだ書類を揃えきれていないんだけど、とにかく書ける所から書いていってちょうだい」
「いったい、何事ですか?」
「それが松下さんをほしいと言われちゃったのよ。私はあなたにここの事務所をまとめてほしかったんだけど……」
中川さんは残念そうにため息をついて、事の経緯を話してくれました。


来年度からうちのイマージュなどのホテルチェーンを手掛けている山岡グループの代表取締役社長が交代するそうです。
その社長秘書として、ホテルの業務などにも詳しい人をそばに置きたいという要望があったそうです。

そこで名前があがったのが香織というわけです。

他にも中国地方に何件もホテルがあるのに、何故、香織なのかというと、時期社長が大賀県出身だとかで、広島にある社長室をここ大賀に移すためだそうです。

なんて、個人的な……
上場企業の社長が仕事をする場所を、こんな風にあっさりと県外に移動することになってもいいんでしょうか?

そんな疑問はありましたが、上の方で決められたことに、平社員が物申せるはずもありません。

秘書?
自分にできるのかしら?

香織は降ってわいたこの人事異動に、不安しかありませんでした。けれどこういう時には、おばあちゃんが言っているアレしかありません。

「人間、じぶんができるだけのことしかできないよ。肩の力を抜いて、Do my best だよ、香織」

いつものおばあちゃんの言葉を自分に何度も言い聞かせながら心を落ち着けて、香織はなんとか異動届の用紙を埋めていったのです。


ロッカーも秘書室に備え付けの物になるということで、ホテルの紙袋をいただいて、通勤着やロッカーに置いていた非常時用の喪服や雨傘なども全部運ぶことになりました。

手押し車に満載した私物を押しながら、業務用エレベーターを使って、指示された四階の会議室へ向かいます。
ホテルの支配人室の隣の小会議室が、とりあえず今日から社長室兼秘書室ということになるようです。

「失礼します。秘書を命じられました松下香織です」
「ああ、松下君。入りなさい」

ノックをすると中から支配人の加藤かとうさんの声が聞こえました。その声に応えて香織がその小会議室に入ってみると、そこは様変わりしていました。
支配人室のインテリアを少し豪華にした感じの社長室がもうできています。
もとよりホテルですから、倉庫の中に使っていない上質の備品がたくさんあったようです。

あ、照明も替えたんだ。

いかにも会議室といった長い蛍光管の電灯が付いていた天井には、小さなダウンライトと洒落た室内灯がすでに取り付けられていました。

「今度、株主総会の後で社長に就任されることになっている高橋たかはし常任理事なんだけど、仕事にかかる前にここのホテルを見たいということで、今、出川でがわくんが案内している。社長がいらっしゃるまでに、荷物を片付けてお茶の用意をしておいてくれないか?」
「はい」


出川副支配人が案内をしているのか。
それは朝からテンションが高くなりそうね。

出川さんは、仕事を楽しむタイプの人です。いつも何かしら面白いことを探して歩いていると言ってもいいでしょう。社長さんがお疲れにならなければいいのですが……

香織は自分の荷物を片付けて、休憩室へ行ってお湯を用意すると、お盆にお茶のセットを乗せて社長室へ帰って来ました。


部屋の中へ入ると、そこに座っていたのは、どこかで見たことのあるような人でした。

……どこかで会ったことがある方かしら?

その時、香織の目に飛び込んできたのは、朝、電車の中で目にした、あの真っ赤なネクタイだったのです。

「あ……」

「あなたが松下さんですか? 今日からよろしくお願いします。時期社長に就任することになった高橋修司たかはししゅうじです」


なんと電車の中で後ろに立っていた男の人ではないですか!

この人が、社長?
社長さんって、電車通勤をするのぉ?!
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