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隠微な薔薇は夜の闇にとける
しおりを挟む電車の窓に流れていく掴みどころのない夜の明かりをぼんやりと見ていたシゲルは、ずっと手に持っていたアイフォンを気だるげに上着の胸ポケットに持って行った。
そこにはボールペンが刺さったままの手帳も入れてあったが、無理矢理にでもなんとか押し込む。
「次か・・。」
列車のアナウンスが聞こえると同時に、スピードが次第に減速していき窓から見えるネオンがハッキリと現実の形をとり始めた。
シゲルの身体は鉛が入っているみたいに重たい。今日は朝から散々だった。
誰かが客注の数量を間違えて商品を配送してしまったことがわかりその対応に頭を下げまくったことに始まり、風邪で休んでいた部下の至急案件の事務処理をし、年末査定の提出期限切れの叱責を受け、課の蛍光灯がきれて総務に取りに走ることまで自分がしなければならなかった。
中間管理職って、体のいい雑用係だよな。
後輩からは愚痴られ、上司からは無理難題を押し付けられる。
書類は山のように机の上に溜まっていく。自分の仕事が出来ないぐらいに。
ガタンと横揺れがして、電車がホームに止まる。
顔のない大勢の人たちが我先にとホームに流れ出していく。
シゲルもその流れにもまれながら、冷たい風の吹くホームに足を踏み出した。
「おおっ、寒みぃ。」
温かい車内から出た瞬間の底冷えのする空気が、ぼやけたシゲルの頭に活を入れる。
駅前から広がっていく幾筋かの雑踏の波に身を置いて、シゲルは北へ北へと進んで行った。
段々と人影がまばらになってきた大通りから西へ向かう路地に入り込むと、急に周りの空間に空気が戻ってきた。
「寒っびぃ。」
何度目かになる独り言が夜の闇の中にとけていく。
シゲル一人の足音が響く道に、ふっと花の香りが漂ってきた。
冷たい風を避けてうつむきがちに歩いていたシゲルが顔をあげると、そこに薄手の服を着た若い女が立っていた。
この冷え込む冬の夜に白いひらひらした半袖のワンピースを着ている。
足元も編み上げのサンダルだ。
ちょっとおかしいのか?
シゲルがそう思ったのは一瞬だった。関わらずにやり過ごそうとした足が前に進まないのだ。
「ん?!」
「逃げなくてもいいのよ、お兄さん。あなたの疲れた身体を癒してあげる。その代わりと言っては何だけど少しだけ役に立ってもらうわね。」
女の声は少女のように若いものだったが、その口調は歳を経た老女のようでもあった。
女から漂う花の匂いに動かされているのか、その女が術を使っているのかわからなかったが、シゲルの足は自分の意志に反して勝手に女の後をついて行く。
都会には珍しい古い洋館に着いた時、女は振り返ってシゲルに笑いかけた。
玄関のぼんやりした明かりの中でシゲルは初めてその女の顔をハッキリと見た。
「サヤカ?!!」
それはシゲルが生涯で唯一愛した女の顔だった。
しかしサヤカは三年前に交通事故で死んだはずだ。
そんな意識が頭の片隅にあるのに、身体は女が誘い込むままその洋館の中に入っていく。
ギシギシと軋む薄暗い階段をゆっくりと女は登って行く。その後をシゲルの身体も影のようについて行った。
ギーッという音を立てて重たそうな扉を開けた女は、シゲルを部屋の中に入れると扉の鍵をガチャリとかけた。
部屋の中は静かで何の音もしない。しかし濃い花の香りが息苦しいほどに満ちていた。
カーテンが開けられた窓からは冴え冴えとした青い月の光が射しこんでいる。
窓際の壺に活けられている花が、その月の光の中で幾重もの花びらを開いていた。
その形を見て、シゲルは初めてこの花の匂いの正体がわかった。
「・・薔薇?」
「ええ、そうよ。こっちに来てベッドに座ってちょうだい。」
花に意識を捉われていたが、部屋の中にはキングサイズのベッドが置かれている。
ギシリッと音をたててベッドのスプリングが沈む。
女はベッドに座ったシゲルの目の前に立って、楽しそうにシゲルの服を脱がし始めた。
上着の胸ポケットに入れていたアイフォンが床にゴトリと音をさせて置かれる。
その上にシャツもズボンも重ねられていく。
シゲルが裸になると、女もファスナーを下してするりとワンピースを脱ぎ捨てた。
形の良いツンと尖った胸、くびれたウエスト、豊かな太腿から伸びる長い脚、シゲルのよく知っている肢体がそこにあった。
心は拒否しているのに身体は正直にその肢体への憧憬を表してゆく。
「サヤカ・・。」
口からこぼれ落ちた名前に、女はニッと顔をほころばせた。
「そう。好きな名前で呼びなさい。いい子ね。私があなたを癒してあげる。」
そこからのシゲルの意識はない。
気が付いた時には、通勤時にいつも通る路地のコンクリートの壁に寄りかかって座り込んでいた。
「何だっ・・たんだ?」
シゲルはハッとして自分の身体を触ってみる。服はちゃんと着ている。財布は・・ある。
「携帯っ?!」
胸ポケットに入れていた携帯がない。しかし探しているうちに上着の横ポケットにアイフォンの形を見つけた。
アスファルトの底冷えのする冷たさにブルリと身体を震わせて、ズボンの尻についた汚れを払いながら立ち上がる。
建物の隙間から見える都会の狭い空は、うっすらと朝の明るさを見せようとしていた。
身体が軽い?
とんでもないまやかしに遭ったにしては、身体はスッキリとして昨夜の怠さも何もかも消えている。
シゲルは両手で顔を擦りながら、いつもの道を自宅に向かって歩き始めた。
その後、薄れゆく記憶を頼りにあの日行った古い洋館を捜してみたが、似たような路地さえ見つけることができなかった。
今、シゲルには成人した息子たちも穏やかに微笑む年老いた妻もいる。
けれど冬の夜の路地裏を歩くたびにあの時の女を捜してしまう自分がいるのだ。
そして妻に贈った香水にはあの日の香りが閉じ込められていた。
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