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外伝1【翡翠に懐古す】
其の二
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※※※ 死体の鮮明な描写が続きます 苦手な方はご注意ください ※※※
ひしゃげて歪んだ住居や機械が、乱雑に、無秩序に、縦に横にと伸ばされ積み上げられている。そのわずかな隙間を縫うように、俺たちは淡々と歩を刻んでいた。
いくつもの軍靴が床を踏みしめる。錆びついたそれがぎしぎしと悲鳴を上げている。廃墟が入り組み密集しているせいで空気が流れないのだろう、死臭が強くなってくるのが嫌でもわかる。
無残に引き裂かれ、あるいは引きちぎられた死骸があちこちに転がっている。どいつもこいつも臓物や脳髄をぶちまけ、ずたずたになってこと切れていた。死体には蛆が沸いている。ずいぶんと放置されているようだ。商品として“再利用”しようとする輩すらいないらしい。
古くなった血のりや生乾きの肉片が、幅の一定しない通路の壁や床を派手に汚し、据えた臭いをさらに澱ませている。ヤドリギの増築を繰り返しながらできたいびつな迷宮で、倒れた連中は果たして何を思ったのだろう。
近くにいた上品そうな連中数人が、口元に手をやり顔をそむけた。天明なんぞどこから出したのか、白いハンカチで鼻と口を押えている。入相大尉の意向により、下の階層の者が軍人として引き抜かれてはいるものの、未だそのほとんどは第八・第九階層出の坊ちゃんがたばかり。こんな劣悪な場所に放置された死体を見かけるどころか、そばを通るのも初めてなんだろう。
かく言う俺も、第八階層第三外殻にある医者の家の出。まあ、いわゆる金持ちのボンボン、ってやつである。それを差し引いても実戦経験が数年程度しかない俺が、他の奴より冷静でいられているのは、二十二で国から呼び戻されるまでの留学経験があるからに違いない。
俺が医学校で学んでいた教授が強烈で、【獣】に食われて半分千切れた死体だの、半ば腐りかけた死体だのを直接見せて講義したり、ついさっき腕を引きちぎられたばっかりの奴の治療現場に学生を立ち会わせたりするような、実にとんでもない女だったんだが――まあ、それはさておき。
通常二十四で入隊となるはずの軍に、俺は二十二で特別入隊を果たしている。要するに飛び級みたいなもんだ。ガキだ何だと散々侮られもしたが、救護部隊への配属早々、バラバラの死体を見ても動じなかったことで評価も変わったらしい。それもひとえにあの教授のせいである。もう二度と会いたくない。
ふと、世見坂の横顔が視界に入る。過去に飛んでいた意識が再び、現実へと帰ってきた。生臭い血の臭い、汚水の臭い、錆の臭いが入り混じり、蠅の羽音が耳元をかすめていく。通路は狭くなったり広くなったり、天井がなくなったりふさがれたりと一貫しない。汚れと死がこびりついた廃墟の中を、俺たちはひたすら東へと進んでいた。
幾本目かの狭い通路を通り抜ける。あちこちで無人の住居群が崩落しているせいか、多少開けた道になりつつあった。相変わらず薄暗いが、視界はどうにか確保できている。あちこちから汚水が流れ出る音の他、機械の動くような音がわずかに聞こえてくる。
そろそろ東地区の中央部に到着する頃だろうか。そんなことを考えながら瓦礫を踏み越えた、そのとき。
「……ついてきている」
隣を歩く世見坂が、ぼそりとひとつ言葉を落とした。この言い方だと、軍以外の人間がここまでついてきているという意味だろうか。俺もとっさに首を巡らせてみるが、特にそういった気配は感じられない。周囲の連中も、誰ひとりとして気づいた様子はない。
増築されて横に伸びる、住居の下を通過する。もうすっかり見飽きた光景だ。念のため再度周囲を見回すが、やはりそれらしきものは見当たらない。
「こんな場所にか? どこもかしこもガラクタと廃墟だぞ」
「ああ。いる。視線も感じる、複数だ。かなり多い。……今通過した場所にも十人以上いた。僕らに見つからぬよう、皆上のほうに潜んでついてきている」
世見坂は前へ目を向けたまま言葉を続ける。嘘を言っているようには見えない。俺はゆっくりと、次に通る場所の上方へと視線を移した。
隣の建物へ無理やりつなげられたその部屋は、渡り廊下のように細長くせり出している。窓らしき穴はぽかりと口を開けたままだ。錆が浮いた壁や窓枠、人がいなくなって久しいことがわかる。中は真っ暗で見えない。何も見えない。見えないというのに、今度ははっきりとそこに何かが“いる”のがわかった。
背筋を冷たいものが走っていく。全身の肌が粟立つ。いる。あの暗がりに。この廃墟に息をひそめながらこちらを見ている。【獣】ではない。複数だ。闇から出ないように、しかしぎりぎりのところにひしめいている。複数の人間のまなざしが、下を通っていく軍隊へと降り注いでいる。
世見坂はずっと、ずっとこれに気が付いていたのか。無理やり視線を引き剥がし、俺は世見坂へ言葉を投げた。
「……お前、気づいてたのか? いつから」
「最初からだ」
世見坂は紅い瞳だけを動かして、俺のほうを見やる。周囲に気を張っているせいだろうか、その表情も雰囲気もどこか険しい。
「な……何で言わなかったんだ」
絞るように放つ俺の声は、情けなく震えている。世見坂は一拍の間を置き、声を深く沈めてささやいた。
「……強い敵意は感じられるが、何かをしてくる気配がないのだ」
「どういう、ことだ……?」
「わからぬ」
世見坂が首を横に振る。まとめられた髪が音もなく揺れた。
「もしかしたら、僕らがこの先どうするのかを見張っているのやもしれぬ」
「見張る?」
「うん。……このあたり一帯に住んでいる奴らなのだろう。ここまで距離を詰めて何もしてこないのは、軍人が怖いのか、それとも弱るのを待っているからか……」
いずれにせよ、彼らが何かしそうなときは、連中が動く前に斬りに往く。世見坂はそれだけ俺に告げると、それきり口をつぐんでしまった。
その手はずっと、腰に提げた刀の柄にかかっている。手袋に包まれた指が柄を撫で、こいつの言うことが本気であることを暗に俺へと告げていた。
こいつの感覚はどうかしている。どうかしている、としか言えない。身体能力もとんでもないが、研ぎ澄まされた鋭敏な感覚も人間離れしている。もっぱら戦闘時にしか発揮されることはないのだが――時折、ふと怖くなる。こいつは本当に、俺らと同じ人間なのだろうか、と。
自分と異なる部分に過剰に怯え、排除しようとする奴は最低だと思う。こいつは人間だ。戦っていれば血も出るし、怪我の治りだって他の連中と何も変わらない。ちょっとばかし変わってはいるが、感情だってある。ただ優れた能力を持っているだけだ。
わかっている。馬鹿馬鹿しいことだとわかっているのに、俺の本能はこいつを化け物だと恐れ、差別しようとしている。そんな醜い本能が、どうしようもなく苛立たしく思えた。
小さく舌打ちする俺の後ろから、あとで父上に言いつけてやる、なんてアホくさい恨み言が聞こえてくる。……そういやこいつら、「自分たちは第九階層の家だから、下の奴らに任せて後方で待ってればいいか」とか何とか舐めたこと言ってた連中だったか。
入相大尉は、軍人である以上平等に戦場へと出るべきだ、と考えているらしい。つまり、これまで家柄を気にされぬくぬくと大事にされてきた連中も、入相大尉の部隊に入れば容赦なく死の現場に駆り出される、というわけである。
気に入らないなら直接言えばいいだろうに、大尉にそんなことを言う度胸も覚悟もないんだろう。天明といいこいつらといい、つくづく上層の選民思想は嫌になる。ただでさえ聞こえてくる嫌味やら文句でイライラしてるっていうのに。
背後から連なってくる貴族子息らの呪詛を聞きながら、俺は前へと目を戻し、ただ歩くことに専念した。
*
錆色の空気と風景を、時折どこからか漏れてくる光が無慈悲に浮き上がらせている。寂れて崩れかけた廃墟の群れと、ヒトの形すら成していない死体たちと、腐った血肉の臭いと、耳が痛くなるほどの静寂。
――いくら何でも静かすぎやしないか。
胸が妙にざわついて、俺はひとつ息を漏らす。一度意識してからずっと、自分たちを音もなく追いかけてくる者たちの存在を肌で感じていたのだが、いつのまにか彼らは霧のように消えてしまっていた。気配も、視線も、何もかもが跡形もなく、である。
そして今、文字通り生きたもののいない空間に、軍人たちの足音だけが響いていく。
と。
「止まれ」
突然入相大尉の号令が飛び、俺たちは同時に足を止めた。
「下を見ろ」
その瞬間、ひぃっ、と背後で悲鳴ともつかぬ声が漏れた。天明だろう。慌てて飛び退ったのか、乱れた足音が耳に届いた。俺もそのまま目を落とし、ソレが何かを確認する。
いつの間にか、床には何かを引きずったかのような血の跡があった。まだ比較的新しい。痕跡はさらに奥へと続いている。足跡のようなものはないが、確実にこの先に【何か】がいるとわかるものであった。
錆びつき腐敗し死に絶えた廃墟の奥、ただ澱んだ闇ばかりが広がっている。見通すことはできない。周囲には無人の住居群が乱立し、闇の手前にはゴミのように食い散らかされた人間らしきものの残骸がいくつもあるばかりだった。
「……ただ【獣】が入り込んでいるだけにしては、様子がおかしい。そうは思わぬか」
大尉が隣の副官にそう語る。副官は違和感を覚えなかったらしく、返答に窮していた。その様子を眺めながら、俺は小声で世見坂に問いかける。
「おい世見坂、わかるか」
世見坂は紅いまなざしであちこちを見やってから、低く答えを返してきた。
「【獣】は巣を作らぬ。アレらは昼も夜も関係なく、延々と動いては獲物を襲う。基本的に隠れたり、身をひそめることはありえないのだ。だが、これはまるで……」
「そうだ。まるで連中がここに巣を作っているようにも見える」
大尉の言葉がこちらに投げられ、俺は思わず姿勢を正した。冷酷さすら感じられる漆黒の目が、俺たちをひたと映している。
「その通りです、入相大尉」
世見坂はそれをまっすぐに見つめ返しながら、静かに応じた。
「……この奥から、連中の臭気と気配を感じます。数は六、うち、一はヒトの形を残す中型の【獣】でしょう。連中が外に出てくる前に、戦闘準備をしておくべきかと愚考いたします」
一気に視線がこちらに集中する。天明が苛立たし気に舌打ちし、それに呼応するかのように、あちこちからぼそぼそと言葉が落とされ始める。
――地上生まれのくせに出しゃばりやがって。
――どうせ知ったかぶりだ。
――調子に乗ってやがる。
――あんなに前に出て、はしたない。
――いやらしいやつだ。
――自分の立場を弁えていない。
――恥を知れ。
そんな悪意がさざ波のように寄せてきても、世見坂は黙ったままだった。
こいつら、世見坂が地上生まれだってだけでここまで好き勝手言いやがる。ああくそ、胸糞が悪くなってきた。これだから上層の連中は嫌いなんだよ!
「おい、お前らいい加減に――」
だが、俺が怒鳴るよりも先に、入相大尉から鋭い号令が放たれた。
「全員、武装準備! 隊列を整えよ!」
たちどころに悪意はほどけ、一気に部隊へ緊張が走る。後方の連中が散開する。俺たち救護部隊は中衛だ。世見坂はまだここにいるが、もうすでに臨戦態勢を取っている。
全身がざわめいている。凝っていた空気がうごめいている。あの闇の奥にいる【何か】が、こちらへ這い寄ってくるのが今、はっきりと、感じ取れる。
俺たちは一斉に武器へ手をかけた。おおむねが同盟国より取り寄せている銃と、量産型の葦原刀だ。量産型とはいえ、手入れさえ怠らなければよく斬れる。
空気が震えている。脳の奥が警鐘を鳴らしている。……来る。近づいてくる。遠くから、こちらへ。迫ってくる。近づいてくる。息が詰まる。銃を構えたまま、俺は足を一歩引いた。
不意に、世見坂が動いた。刀を抜いて隊列を外れ、地を蹴り奔る。大尉がそれを合図に手をかざす。耳をつんざくような咆哮。人の悲鳴にも似た雄たけびが全身を刺し貫いていく。
「撃て!!」
銃弾が闇めがけて次々と撃ち込まれていく。しかし、まるで俺たちの攻撃をあざ笑うかのように平然と、銃弾の雨に撃たれながら――【ソレ】らは姿を現した。
ひしゃげて歪んだ住居や機械が、乱雑に、無秩序に、縦に横にと伸ばされ積み上げられている。そのわずかな隙間を縫うように、俺たちは淡々と歩を刻んでいた。
いくつもの軍靴が床を踏みしめる。錆びついたそれがぎしぎしと悲鳴を上げている。廃墟が入り組み密集しているせいで空気が流れないのだろう、死臭が強くなってくるのが嫌でもわかる。
無残に引き裂かれ、あるいは引きちぎられた死骸があちこちに転がっている。どいつもこいつも臓物や脳髄をぶちまけ、ずたずたになってこと切れていた。死体には蛆が沸いている。ずいぶんと放置されているようだ。商品として“再利用”しようとする輩すらいないらしい。
古くなった血のりや生乾きの肉片が、幅の一定しない通路の壁や床を派手に汚し、据えた臭いをさらに澱ませている。ヤドリギの増築を繰り返しながらできたいびつな迷宮で、倒れた連中は果たして何を思ったのだろう。
近くにいた上品そうな連中数人が、口元に手をやり顔をそむけた。天明なんぞどこから出したのか、白いハンカチで鼻と口を押えている。入相大尉の意向により、下の階層の者が軍人として引き抜かれてはいるものの、未だそのほとんどは第八・第九階層出の坊ちゃんがたばかり。こんな劣悪な場所に放置された死体を見かけるどころか、そばを通るのも初めてなんだろう。
かく言う俺も、第八階層第三外殻にある医者の家の出。まあ、いわゆる金持ちのボンボン、ってやつである。それを差し引いても実戦経験が数年程度しかない俺が、他の奴より冷静でいられているのは、二十二で国から呼び戻されるまでの留学経験があるからに違いない。
俺が医学校で学んでいた教授が強烈で、【獣】に食われて半分千切れた死体だの、半ば腐りかけた死体だのを直接見せて講義したり、ついさっき腕を引きちぎられたばっかりの奴の治療現場に学生を立ち会わせたりするような、実にとんでもない女だったんだが――まあ、それはさておき。
通常二十四で入隊となるはずの軍に、俺は二十二で特別入隊を果たしている。要するに飛び級みたいなもんだ。ガキだ何だと散々侮られもしたが、救護部隊への配属早々、バラバラの死体を見ても動じなかったことで評価も変わったらしい。それもひとえにあの教授のせいである。もう二度と会いたくない。
ふと、世見坂の横顔が視界に入る。過去に飛んでいた意識が再び、現実へと帰ってきた。生臭い血の臭い、汚水の臭い、錆の臭いが入り混じり、蠅の羽音が耳元をかすめていく。通路は狭くなったり広くなったり、天井がなくなったりふさがれたりと一貫しない。汚れと死がこびりついた廃墟の中を、俺たちはひたすら東へと進んでいた。
幾本目かの狭い通路を通り抜ける。あちこちで無人の住居群が崩落しているせいか、多少開けた道になりつつあった。相変わらず薄暗いが、視界はどうにか確保できている。あちこちから汚水が流れ出る音の他、機械の動くような音がわずかに聞こえてくる。
そろそろ東地区の中央部に到着する頃だろうか。そんなことを考えながら瓦礫を踏み越えた、そのとき。
「……ついてきている」
隣を歩く世見坂が、ぼそりとひとつ言葉を落とした。この言い方だと、軍以外の人間がここまでついてきているという意味だろうか。俺もとっさに首を巡らせてみるが、特にそういった気配は感じられない。周囲の連中も、誰ひとりとして気づいた様子はない。
増築されて横に伸びる、住居の下を通過する。もうすっかり見飽きた光景だ。念のため再度周囲を見回すが、やはりそれらしきものは見当たらない。
「こんな場所にか? どこもかしこもガラクタと廃墟だぞ」
「ああ。いる。視線も感じる、複数だ。かなり多い。……今通過した場所にも十人以上いた。僕らに見つからぬよう、皆上のほうに潜んでついてきている」
世見坂は前へ目を向けたまま言葉を続ける。嘘を言っているようには見えない。俺はゆっくりと、次に通る場所の上方へと視線を移した。
隣の建物へ無理やりつなげられたその部屋は、渡り廊下のように細長くせり出している。窓らしき穴はぽかりと口を開けたままだ。錆が浮いた壁や窓枠、人がいなくなって久しいことがわかる。中は真っ暗で見えない。何も見えない。見えないというのに、今度ははっきりとそこに何かが“いる”のがわかった。
背筋を冷たいものが走っていく。全身の肌が粟立つ。いる。あの暗がりに。この廃墟に息をひそめながらこちらを見ている。【獣】ではない。複数だ。闇から出ないように、しかしぎりぎりのところにひしめいている。複数の人間のまなざしが、下を通っていく軍隊へと降り注いでいる。
世見坂はずっと、ずっとこれに気が付いていたのか。無理やり視線を引き剥がし、俺は世見坂へ言葉を投げた。
「……お前、気づいてたのか? いつから」
「最初からだ」
世見坂は紅い瞳だけを動かして、俺のほうを見やる。周囲に気を張っているせいだろうか、その表情も雰囲気もどこか険しい。
「な……何で言わなかったんだ」
絞るように放つ俺の声は、情けなく震えている。世見坂は一拍の間を置き、声を深く沈めてささやいた。
「……強い敵意は感じられるが、何かをしてくる気配がないのだ」
「どういう、ことだ……?」
「わからぬ」
世見坂が首を横に振る。まとめられた髪が音もなく揺れた。
「もしかしたら、僕らがこの先どうするのかを見張っているのやもしれぬ」
「見張る?」
「うん。……このあたり一帯に住んでいる奴らなのだろう。ここまで距離を詰めて何もしてこないのは、軍人が怖いのか、それとも弱るのを待っているからか……」
いずれにせよ、彼らが何かしそうなときは、連中が動く前に斬りに往く。世見坂はそれだけ俺に告げると、それきり口をつぐんでしまった。
その手はずっと、腰に提げた刀の柄にかかっている。手袋に包まれた指が柄を撫で、こいつの言うことが本気であることを暗に俺へと告げていた。
こいつの感覚はどうかしている。どうかしている、としか言えない。身体能力もとんでもないが、研ぎ澄まされた鋭敏な感覚も人間離れしている。もっぱら戦闘時にしか発揮されることはないのだが――時折、ふと怖くなる。こいつは本当に、俺らと同じ人間なのだろうか、と。
自分と異なる部分に過剰に怯え、排除しようとする奴は最低だと思う。こいつは人間だ。戦っていれば血も出るし、怪我の治りだって他の連中と何も変わらない。ちょっとばかし変わってはいるが、感情だってある。ただ優れた能力を持っているだけだ。
わかっている。馬鹿馬鹿しいことだとわかっているのに、俺の本能はこいつを化け物だと恐れ、差別しようとしている。そんな醜い本能が、どうしようもなく苛立たしく思えた。
小さく舌打ちする俺の後ろから、あとで父上に言いつけてやる、なんてアホくさい恨み言が聞こえてくる。……そういやこいつら、「自分たちは第九階層の家だから、下の奴らに任せて後方で待ってればいいか」とか何とか舐めたこと言ってた連中だったか。
入相大尉は、軍人である以上平等に戦場へと出るべきだ、と考えているらしい。つまり、これまで家柄を気にされぬくぬくと大事にされてきた連中も、入相大尉の部隊に入れば容赦なく死の現場に駆り出される、というわけである。
気に入らないなら直接言えばいいだろうに、大尉にそんなことを言う度胸も覚悟もないんだろう。天明といいこいつらといい、つくづく上層の選民思想は嫌になる。ただでさえ聞こえてくる嫌味やら文句でイライラしてるっていうのに。
背後から連なってくる貴族子息らの呪詛を聞きながら、俺は前へと目を戻し、ただ歩くことに専念した。
*
錆色の空気と風景を、時折どこからか漏れてくる光が無慈悲に浮き上がらせている。寂れて崩れかけた廃墟の群れと、ヒトの形すら成していない死体たちと、腐った血肉の臭いと、耳が痛くなるほどの静寂。
――いくら何でも静かすぎやしないか。
胸が妙にざわついて、俺はひとつ息を漏らす。一度意識してからずっと、自分たちを音もなく追いかけてくる者たちの存在を肌で感じていたのだが、いつのまにか彼らは霧のように消えてしまっていた。気配も、視線も、何もかもが跡形もなく、である。
そして今、文字通り生きたもののいない空間に、軍人たちの足音だけが響いていく。
と。
「止まれ」
突然入相大尉の号令が飛び、俺たちは同時に足を止めた。
「下を見ろ」
その瞬間、ひぃっ、と背後で悲鳴ともつかぬ声が漏れた。天明だろう。慌てて飛び退ったのか、乱れた足音が耳に届いた。俺もそのまま目を落とし、ソレが何かを確認する。
いつの間にか、床には何かを引きずったかのような血の跡があった。まだ比較的新しい。痕跡はさらに奥へと続いている。足跡のようなものはないが、確実にこの先に【何か】がいるとわかるものであった。
錆びつき腐敗し死に絶えた廃墟の奥、ただ澱んだ闇ばかりが広がっている。見通すことはできない。周囲には無人の住居群が乱立し、闇の手前にはゴミのように食い散らかされた人間らしきものの残骸がいくつもあるばかりだった。
「……ただ【獣】が入り込んでいるだけにしては、様子がおかしい。そうは思わぬか」
大尉が隣の副官にそう語る。副官は違和感を覚えなかったらしく、返答に窮していた。その様子を眺めながら、俺は小声で世見坂に問いかける。
「おい世見坂、わかるか」
世見坂は紅いまなざしであちこちを見やってから、低く答えを返してきた。
「【獣】は巣を作らぬ。アレらは昼も夜も関係なく、延々と動いては獲物を襲う。基本的に隠れたり、身をひそめることはありえないのだ。だが、これはまるで……」
「そうだ。まるで連中がここに巣を作っているようにも見える」
大尉の言葉がこちらに投げられ、俺は思わず姿勢を正した。冷酷さすら感じられる漆黒の目が、俺たちをひたと映している。
「その通りです、入相大尉」
世見坂はそれをまっすぐに見つめ返しながら、静かに応じた。
「……この奥から、連中の臭気と気配を感じます。数は六、うち、一はヒトの形を残す中型の【獣】でしょう。連中が外に出てくる前に、戦闘準備をしておくべきかと愚考いたします」
一気に視線がこちらに集中する。天明が苛立たし気に舌打ちし、それに呼応するかのように、あちこちからぼそぼそと言葉が落とされ始める。
――地上生まれのくせに出しゃばりやがって。
――どうせ知ったかぶりだ。
――調子に乗ってやがる。
――あんなに前に出て、はしたない。
――いやらしいやつだ。
――自分の立場を弁えていない。
――恥を知れ。
そんな悪意がさざ波のように寄せてきても、世見坂は黙ったままだった。
こいつら、世見坂が地上生まれだってだけでここまで好き勝手言いやがる。ああくそ、胸糞が悪くなってきた。これだから上層の連中は嫌いなんだよ!
「おい、お前らいい加減に――」
だが、俺が怒鳴るよりも先に、入相大尉から鋭い号令が放たれた。
「全員、武装準備! 隊列を整えよ!」
たちどころに悪意はほどけ、一気に部隊へ緊張が走る。後方の連中が散開する。俺たち救護部隊は中衛だ。世見坂はまだここにいるが、もうすでに臨戦態勢を取っている。
全身がざわめいている。凝っていた空気がうごめいている。あの闇の奥にいる【何か】が、こちらへ這い寄ってくるのが今、はっきりと、感じ取れる。
俺たちは一斉に武器へ手をかけた。おおむねが同盟国より取り寄せている銃と、量産型の葦原刀だ。量産型とはいえ、手入れさえ怠らなければよく斬れる。
空気が震えている。脳の奥が警鐘を鳴らしている。……来る。近づいてくる。遠くから、こちらへ。迫ってくる。近づいてくる。息が詰まる。銃を構えたまま、俺は足を一歩引いた。
不意に、世見坂が動いた。刀を抜いて隊列を外れ、地を蹴り奔る。大尉がそれを合図に手をかざす。耳をつんざくような咆哮。人の悲鳴にも似た雄たけびが全身を刺し貫いていく。
「撃て!!」
銃弾が闇めがけて次々と撃ち込まれていく。しかし、まるで俺たちの攻撃をあざ笑うかのように平然と、銃弾の雨に撃たれながら――【ソレ】らは姿を現した。
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