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参章
其の四
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痛む身体に鞭を打ち、東雲は伸ばされた手に触れる。黒革の手袋に包まれた手は、東雲を安心させるかのように、力強く握り返してきた。
「東雲くん、だったか。怪我は」
痛みと同時に心臓が鳴っている。どくどくと早鐘を打っている。視界が揺れる。もう殴られていないというのに。吐き気は止まらない。全身に不自然な力が入っている。理由はわかっている。本能が警鐘を鳴らしている。胸中にある確信めいた直感が必死に訴えている。
――今、目の前にいるこの人こそが、娼婦殺しから始まる連続殺人の犯人であると。
「あなた、が……」
思わずこぼれた独り言に、終宵が頭を傾け先を促す。
あなたが、あの娼婦を、記者を、暮邸の人々を手にかけたのですか。
証拠のない確信を、揺るぎのないものにする問いかけ。しかし東雲はどうしてか、それ以上を口にすることはできなかった。
喉の奥で砕けていく声を飲み込んで、東雲は静かに首を振る。吐き出せなかった元の言葉を組み直し、質問の答えへとすり替える。
「……すみません。負傷箇所ですが、後頭部を殴られました。額は倒れたときに打って、出血はしていますが……どちらも少し休めば止血できましょう」
回らぬ頭に浮かべた文言を必死に並べ立てながら、東雲は懐から手ぬぐいを出して傷に押し当てた。額の傷はそんなに深くはない。じきに出血も止まるだろう。
終宵は、東雲が言いかけたことに対して追求しようとしなかった。軽く顔を伏せ、見えないというのに周囲を見やり、小さく嘆息する。
「……捕まえたかったろうにな。申し訳ない、どうにも手加減ができなかった」
周囲には、今はもう物言わぬ骸が転がるばかり。後ほどここの管轄に連絡して、適切な処理をしてもらわねばならないだろう。
鮮やかな剣閃と、翻る白刃と、舞うような立ち回りと、淡く口元に乗っていた笑みが、目の奥から離れようとしない。その様を思い返すたびに、心臓がぎゅうっと握られた心地になる。そして歓喜とも高揚とも、畏怖とも嫌悪ともわからぬ不安定な感情が体の奥から突き上げ、暴れようとするのだった。
東雲は強く首を振ると、導き出せたもっともらしい理由を彼に差し出す。
「いえ……相手は、自分を殺そうとしていました。それを、助けてくれたのですから。これは……正当防衛、です」
正当防衛? 否、こんなのは明らかに過剰防衛だ。脈打つ意識の下で、冷静な部分が叫ぶ。私情に流されてはいけない。いくら殺されそうになったからといえど、人を殺めてはいけない。自分がためらったりなどしなければ、彼がこんな風に殺すこともなかった。
わかっている。わかっているのだ。それでも、若い自分が憧れて尊敬していたこの人が、ただの殺人者として捕まるなど許せなかった。
死体の群れから目を剥がす。終宵は滑らかな動きで血を払うと、刀身を白鞘に納めた。たったそれだけの行動すらも、堂々として様になる。
一方自分はどうだ。威嚇射撃すらできないで、自力で解決すらできないで、無様もいいところではないか。余計な手間を増やして、気遣わせて。東雲は悔しさと腹立たしさ、情けなさに奥歯を噛みしめ、うめいた。
「本当に……申し訳ない……こんなことでは、警察の名が泣きますね……」
「なに、構わぬさ。複数人だったようだし、突然殴られたのだろう? 誰でも不意を突かれたらそうなる」
立てるか、と問われる。自然に肩を借りる形になり、ますます無力感が大きくなる。
ゆっくりと歩き出す。周囲はいつしか闇に閉ざされ、ぽつりと遠くに灯りが見えた。人通りは皆無に等しい。ここにいるのは、負傷した東雲と終宵だけ。
情けない。自分はどこまで無力なのか。所詮はやれることなどたかが知れている。あの頃と何も変わらない。何も。
東雲は唇を噛みしめて足を踏みしめ、熱を持つ目を瞬いた。息を詰めてうつむき、黙り込む。
「どうした? 傷が痛むか」
終宵が心配そうに問いかける。彼が動くたびに、花のような、果実のような、そのどちらでもないような、甘く不思議な香りがした。
東雲はそのまま歩みを止める。終宵の足も、自然と止まる。彼の長い髪が頬をくすぐり、肩を滑り落ちていく。
言葉を紡ごうとしても、声は無様に喉に引っかかる。情けない吐息ばかりが転がり落ちて、踏み砕かれて消えていく。
「自分は……無力です」
やっと絞り出した声は、ひどくかすれて震えていた。
「結局、怖くて何もできやしない……今も、こうやって、……誰かに頼るしか、できない。自分は、弱い。どうしようもないほど……」
握りしめた拳もまた、同じように震えている。血と埃で汚れた制服、いただいた肩章も制服の翡翠も色あせて見え、それがますます情けない。
「……君は無力などではない。事実、こうして戦場から戻ってきてくれたではないか。そこからその若さで一等巡査なのだから、さぞ――」
「違います、違うんです、中尉」
優しい言葉をさえぎって、東雲は声を張り上げた。堰を切ったようにあふれてくる感情のままに、目の前の男へそれをぶつける。
「自分は弱い。救いようもないほどに。だから自分は責任を放棄し、逃げたんです」
思い出すのは、あの地獄のような戦場。次々と仲間が死んでいき、残りもわずかになった頃。危険な囮役を買って出た東雲は、敵陣に突撃すると見せかけて安全なほうへと逃れたのだ。
「誰かを守るために戦うことより、誰かを殺めることが怖くて、恐ろしくて。逃げたとわからぬよう、他者を盾にしながら、囮のふりをしながら、自分は戦場から逃げたのです……!」
渡された従来の銃はあまりにも重く、照準をあわせることすらできなかった。仲間が倒れるたびに、敵が殺意をぶつけてくるたびに、怖くて怖くてたまらなかった。相手の命を背負わねばならない恐怖におびえていた。仲間のために命を捨てることも、仲間の命を優先することも、恐ろしくてできなかった。
結局そのまま生き残り、東雲は逃げるように軍を辞した。警察に入ったのは、臆病で弱い自分でも、力以外の方法で誰かを守れると思ったからだ。相手の命を負うことは、もう嫌だった。
だが――結局ここでも、同じだった。命に係わる判断の迷いで、部下に大怪我させることもあった。他者の命がのしかかる恐怖に怯み、一般人を巻き込み負傷させてしまうこともあった。
東雲はずっと弱いままで、ずっと無力なままでいる。一等巡査になったのは、本当に運がよかっただけ。力のない己のことを、皆は本当はどう思っているのか――考えるだけでも怖い。
思わずすがりつくように、東雲は終宵の着物を握りしめた。
「東雲くん」
「世見坂中尉。自分はこんなにも、弱い。殺人鬼を暴いて捕まえることも、戦場で仲間を助けることも、突然の暴力をねじ伏せることすらできない」
悔しい。どうしてこんなにも自分は弱いのか。どうしてこの人のように強く在れない。人を傷つけるためらいが、己の死への恐怖がまとわりついて、今もずっと離れてくれない。己の心の弱さが憎い。己の力のなさが憎い。憎くて、憎くて、たまらない。
東雲がとつとつと吐き出す感情を、終宵は黙って受け止めていた。澄み渡る真紅のまなざしが、静かに東雲へと注がれている。
「せめて……せめてあなたのように、強かったならば。あなたのように一騎当千に値するほどの、力があったなら。自分もあなたのように、なれたならば」
己の無力さを嘆き、そして理不尽にも目の前の英雄をうらやみ、ねたんでいる。それが余計に自己嫌悪を加速させ、東雲はとうとう意図的に続く言葉を千切り取った。
手を離す。終宵の着物には、しわがくっきりと刻まれてしまっていた。取り乱した恥ずかしさに顔が火照る。
「……すみません。こんなことをあなたに言っても、何にもならないのに……」
「いいさ、気にするな」
うろたえる東雲に、終宵は短く答えると、
「顔に触れてもよいかな」
ふと何かを思いついたのか、唐突にそんなことを口にした。
あまりにも突然の申し出に戸惑いつつも、東雲は空いた手で目をこすってから「どうぞ」とうなずく。終宵が、自分の手袋を口にくわえて外す。それが肩を貸しているからだと気づき、東雲は慌てて彼から一歩離れた。
手袋を懐にしまい込み、終宵の手が宙をさまよう。少しだけためらってから顔を近づければ、彼の両手がしなやかに東雲の背に絡んだ。
背を撫でていた彼の手が、耳をたどり頬へ到達する。何度も撫でられてくすぐったい。人にこんな風に触れられるのは初めてだ。ついでに言うなら、こんなに近い距離に人がいるのも初めてである。彼の透明すぎる真紅の瞳に、自分の困惑した顔が映っている。
どうにもこうにも居心地が悪い。東雲は視線をさまよわせ、何度も瞬きを繰り返した。
終宵は東雲を気にする様子もなく、丹念に東雲に触れている。彼の指は思った以上に長く冷たい。ところどころが固いのは、刀を握っているからなのだろう。
額の傷に触れられそうになり、東雲は反射的に息をのむ。終宵もそれに気が付いたか、そっと手を東雲の髪に添えた。そのままくしゃりと撫でられる。不意打ちに身を固くする東雲をよそに、終宵は東雲の頭を撫でている。
「君は道を見つけようと、必死であがいている。迷いながら、あがきながら、苦悩しながらも逃げることなく。もがいて、苦しんで、それでもなお進もうとしている」
彼の声は、夜更けにも似ている。静かで冷たく、それでいてどこか安らぎを覚える。声だけではない。彼の存在そのものが夜を思わせる。たとえ日の当たる場所にいたとしても、彼はただひたすらに、確固たる夜であり続ける。そんな気がした。
「……僕は、そんな風に必死で“生きよう”とする君を、好ましく思う。……きっと、道は見つかるさ」
終宵はかすかに目を細め、月の微笑で小さくつぶやく。それからもう一度東雲の頭を撫で、そっと手を引いた。
「……ありがとう、ございます」
彼の温度が消えていく。それをどこか惜しいと思いながらも頭を下げれば、終宵は盲いた双眸を柔らかく笑みで彩った。
「何。礼など不要だ。僕はただ、君の話を聞いただけにすぎぬ」
そうしてまた手袋をはめなおすのを、東雲はじっと眺めていた。
誰かを愛しみ慈しむ一方で、同じくらいに無造作に、誰かを屠って斬り散らす。愛しむならばなぜ斬るのか。斬るならばなぜ慈しむのか。遠目ではわからなかった男の違和、その懐に抱く〝ソレ〟が、おそらくは英雄と呼ばれた彼の凶行の原因であり、同時に強さの源に違いない。
知らねばならない。こうして誰かを守る傍らで、無辜の民を手にかけたその理由を。静謐の笑みをたたえる胸中を。きっとその意味がわかれば、なぜそうしたのかがわかるかもしれない。彼の強さのひとかけらを、手にすることもできるかもしれない――公私混同もいいところだ。自分が一番よく理解している。それでもきっと、相手を知ることは無駄にはならないはずだ。
ほかの人間ならば、きっとここまで考えたりはしないだろう。それもひとえに、憧れの存在だからなのかもしれない。我ながら現金なものだ、と東雲は内心で自嘲した。
「さて……東雲くん。僕に何か、聞きたいことがあるのではないか」
少しの間の後、終宵はほのかな笑みとともに問いを投げる。長い髪が音もなく滑り落ちるのが、視界の隅に映る。
ここでお前が犯人だろう、と問うのはたやすい。しかし現状、遺体の傷跡が似ている、という以外に状況証拠はない。憶測だけで指摘するのはいささか早計に思えた。
「……暮邸で、何が起きたのですか。あのとき、あなたはどちらに?」
やはりな、と終宵は観念したように独り言ちる。気が付けばすっかり日も落ちて、夜の蒼が波となり足元に打ち寄せていた。
「お嬢さんが、宴を開くと言ってな。その余興に付き合わされていた」
「余興? それは、どんな」
伏せた面を染める表情は見えない。ただ、終宵の朱い紅い瞳だけが、わずかな光を吸収して鮮やかに輝いている。
「僕はとても喉が渇いていた。飢えて、飢えて、仕方がなかった。だから出されたモノをすべて飲み干した。……その結果がアレだ」
東雲は眉を寄せて、今しがた手に入れた情報を反芻する。
これは犯行の自白ということになるのだろうか。いや、あまりにも曖昧が過ぎる。そのままの意味でとらえるならば、「小夜音嬢の出した飲み物を飲んだ終宵が、何らかの変調をきたし凶行に及んだ」ともとれる。第九階層で会ったときも、終宵はそう言っていた。喉が渇いたからどうしても、と。
薬でも入れられていたのか。しかし、それらしきものは屋敷のどこにも見当たらなかった。小夜音にそうした人心掌握の技術があるとも思えない。抽象的な表現の指し示す意味は、もっと別にあるに違いない。これが彼の自白ならば、そこに至る「理由」が必ずあるはずだ。
「……つまり、どういう状態だったのですか」
重ねて問いかけた、その刹那。
東雲の、全身の肌が粟立った。終宵は朧な薄笑みのままである。先ほどと状況は何も変わらない。何も変わらないというのに、この気配はいったい何だ。まるで、そう、まるで地上から時折入り込んでくる、血錆の色の異形のような。
心臓が鷲掴みにされている心地がする。また不規則に脈打って、耳元でうるさく鳴っている。終宵は東雲に一歩近寄ると、歌うように滑らかに、夜更けの声音でこう語る。
「魚が水を求めるように」
「人が呼吸をするように」
「人がその身を重ねるように」
「僕は飢え、渇き、ただ求めるのだ」
ざわざわと、背筋を何かが走っていく。脳内で本能が危険を叫んでいる。これは何だ。この気配は、いったい。
と、ふいに静謐をたたえた笑みが、ほんのわずかに崩れた――気がした。
「……きっと、誰にも理解はできまいよ。この狂おしいまでの衝動は、な」
やはり、そこに何かがある。動機が、意味が、理由がある。もう少しだ。東雲はさらに問いを放とうと口を開いた。
しかし、声が形になることはかなわなかった。遠くから自分を呼ぶ声がする。足音が複数。おそらく一日と、同僚たちだ。
応援を呼んでくれたのか。一瞬だけ気をそらした東雲の、視界の隅で外套が鮮やかに翻る。はじかれたように振り返る東雲に、終宵が笑みをひとひら返した。
「時間切れのようだな、東雲くん」
手を伸ばせば届く距離にいる彼を、捕らえることはできやしない。獣の気配をまとう彼に、今は触れてはいけない気がした。触れば火傷では済まされない。この場に転がる連中と同じ道をたどる。それはもはや火を見るよりも明らかな事実として、東雲の足を凍り付かせた。
往かせるしかない。どこへ、だとか次は、だとか。そんな問いかけには何の意味もない。だから東雲はこう尋ねる。
「――また、会えますか」
終宵は真紅の眼を三日月に細め、自分の唇に触れて笑った。
「君が僕を探すのならば、きっと会えるさ」
「わかりました。探します、絶対に」
視力をなくした双眸をまっすぐにとらえて、東雲は強く言い切った。
ならば彼の求めるままに、探し出してみせる。事件を解決に導くために、知らねばならないことは、聞かねばならないことは山ほどあるのだから。
終宵の姿が、深い闇へと溶けて消える。入れ違いに背後から駆けてくる、気配と声。背中でそれを受け止めながら、東雲はじっと終宵のいなくなった方角を見つめていた。
「東雲くん、だったか。怪我は」
痛みと同時に心臓が鳴っている。どくどくと早鐘を打っている。視界が揺れる。もう殴られていないというのに。吐き気は止まらない。全身に不自然な力が入っている。理由はわかっている。本能が警鐘を鳴らしている。胸中にある確信めいた直感が必死に訴えている。
――今、目の前にいるこの人こそが、娼婦殺しから始まる連続殺人の犯人であると。
「あなた、が……」
思わずこぼれた独り言に、終宵が頭を傾け先を促す。
あなたが、あの娼婦を、記者を、暮邸の人々を手にかけたのですか。
証拠のない確信を、揺るぎのないものにする問いかけ。しかし東雲はどうしてか、それ以上を口にすることはできなかった。
喉の奥で砕けていく声を飲み込んで、東雲は静かに首を振る。吐き出せなかった元の言葉を組み直し、質問の答えへとすり替える。
「……すみません。負傷箇所ですが、後頭部を殴られました。額は倒れたときに打って、出血はしていますが……どちらも少し休めば止血できましょう」
回らぬ頭に浮かべた文言を必死に並べ立てながら、東雲は懐から手ぬぐいを出して傷に押し当てた。額の傷はそんなに深くはない。じきに出血も止まるだろう。
終宵は、東雲が言いかけたことに対して追求しようとしなかった。軽く顔を伏せ、見えないというのに周囲を見やり、小さく嘆息する。
「……捕まえたかったろうにな。申し訳ない、どうにも手加減ができなかった」
周囲には、今はもう物言わぬ骸が転がるばかり。後ほどここの管轄に連絡して、適切な処理をしてもらわねばならないだろう。
鮮やかな剣閃と、翻る白刃と、舞うような立ち回りと、淡く口元に乗っていた笑みが、目の奥から離れようとしない。その様を思い返すたびに、心臓がぎゅうっと握られた心地になる。そして歓喜とも高揚とも、畏怖とも嫌悪ともわからぬ不安定な感情が体の奥から突き上げ、暴れようとするのだった。
東雲は強く首を振ると、導き出せたもっともらしい理由を彼に差し出す。
「いえ……相手は、自分を殺そうとしていました。それを、助けてくれたのですから。これは……正当防衛、です」
正当防衛? 否、こんなのは明らかに過剰防衛だ。脈打つ意識の下で、冷静な部分が叫ぶ。私情に流されてはいけない。いくら殺されそうになったからといえど、人を殺めてはいけない。自分がためらったりなどしなければ、彼がこんな風に殺すこともなかった。
わかっている。わかっているのだ。それでも、若い自分が憧れて尊敬していたこの人が、ただの殺人者として捕まるなど許せなかった。
死体の群れから目を剥がす。終宵は滑らかな動きで血を払うと、刀身を白鞘に納めた。たったそれだけの行動すらも、堂々として様になる。
一方自分はどうだ。威嚇射撃すらできないで、自力で解決すらできないで、無様もいいところではないか。余計な手間を増やして、気遣わせて。東雲は悔しさと腹立たしさ、情けなさに奥歯を噛みしめ、うめいた。
「本当に……申し訳ない……こんなことでは、警察の名が泣きますね……」
「なに、構わぬさ。複数人だったようだし、突然殴られたのだろう? 誰でも不意を突かれたらそうなる」
立てるか、と問われる。自然に肩を借りる形になり、ますます無力感が大きくなる。
ゆっくりと歩き出す。周囲はいつしか闇に閉ざされ、ぽつりと遠くに灯りが見えた。人通りは皆無に等しい。ここにいるのは、負傷した東雲と終宵だけ。
情けない。自分はどこまで無力なのか。所詮はやれることなどたかが知れている。あの頃と何も変わらない。何も。
東雲は唇を噛みしめて足を踏みしめ、熱を持つ目を瞬いた。息を詰めてうつむき、黙り込む。
「どうした? 傷が痛むか」
終宵が心配そうに問いかける。彼が動くたびに、花のような、果実のような、そのどちらでもないような、甘く不思議な香りがした。
東雲はそのまま歩みを止める。終宵の足も、自然と止まる。彼の長い髪が頬をくすぐり、肩を滑り落ちていく。
言葉を紡ごうとしても、声は無様に喉に引っかかる。情けない吐息ばかりが転がり落ちて、踏み砕かれて消えていく。
「自分は……無力です」
やっと絞り出した声は、ひどくかすれて震えていた。
「結局、怖くて何もできやしない……今も、こうやって、……誰かに頼るしか、できない。自分は、弱い。どうしようもないほど……」
握りしめた拳もまた、同じように震えている。血と埃で汚れた制服、いただいた肩章も制服の翡翠も色あせて見え、それがますます情けない。
「……君は無力などではない。事実、こうして戦場から戻ってきてくれたではないか。そこからその若さで一等巡査なのだから、さぞ――」
「違います、違うんです、中尉」
優しい言葉をさえぎって、東雲は声を張り上げた。堰を切ったようにあふれてくる感情のままに、目の前の男へそれをぶつける。
「自分は弱い。救いようもないほどに。だから自分は責任を放棄し、逃げたんです」
思い出すのは、あの地獄のような戦場。次々と仲間が死んでいき、残りもわずかになった頃。危険な囮役を買って出た東雲は、敵陣に突撃すると見せかけて安全なほうへと逃れたのだ。
「誰かを守るために戦うことより、誰かを殺めることが怖くて、恐ろしくて。逃げたとわからぬよう、他者を盾にしながら、囮のふりをしながら、自分は戦場から逃げたのです……!」
渡された従来の銃はあまりにも重く、照準をあわせることすらできなかった。仲間が倒れるたびに、敵が殺意をぶつけてくるたびに、怖くて怖くてたまらなかった。相手の命を背負わねばならない恐怖におびえていた。仲間のために命を捨てることも、仲間の命を優先することも、恐ろしくてできなかった。
結局そのまま生き残り、東雲は逃げるように軍を辞した。警察に入ったのは、臆病で弱い自分でも、力以外の方法で誰かを守れると思ったからだ。相手の命を負うことは、もう嫌だった。
だが――結局ここでも、同じだった。命に係わる判断の迷いで、部下に大怪我させることもあった。他者の命がのしかかる恐怖に怯み、一般人を巻き込み負傷させてしまうこともあった。
東雲はずっと弱いままで、ずっと無力なままでいる。一等巡査になったのは、本当に運がよかっただけ。力のない己のことを、皆は本当はどう思っているのか――考えるだけでも怖い。
思わずすがりつくように、東雲は終宵の着物を握りしめた。
「東雲くん」
「世見坂中尉。自分はこんなにも、弱い。殺人鬼を暴いて捕まえることも、戦場で仲間を助けることも、突然の暴力をねじ伏せることすらできない」
悔しい。どうしてこんなにも自分は弱いのか。どうしてこの人のように強く在れない。人を傷つけるためらいが、己の死への恐怖がまとわりついて、今もずっと離れてくれない。己の心の弱さが憎い。己の力のなさが憎い。憎くて、憎くて、たまらない。
東雲がとつとつと吐き出す感情を、終宵は黙って受け止めていた。澄み渡る真紅のまなざしが、静かに東雲へと注がれている。
「せめて……せめてあなたのように、強かったならば。あなたのように一騎当千に値するほどの、力があったなら。自分もあなたのように、なれたならば」
己の無力さを嘆き、そして理不尽にも目の前の英雄をうらやみ、ねたんでいる。それが余計に自己嫌悪を加速させ、東雲はとうとう意図的に続く言葉を千切り取った。
手を離す。終宵の着物には、しわがくっきりと刻まれてしまっていた。取り乱した恥ずかしさに顔が火照る。
「……すみません。こんなことをあなたに言っても、何にもならないのに……」
「いいさ、気にするな」
うろたえる東雲に、終宵は短く答えると、
「顔に触れてもよいかな」
ふと何かを思いついたのか、唐突にそんなことを口にした。
あまりにも突然の申し出に戸惑いつつも、東雲は空いた手で目をこすってから「どうぞ」とうなずく。終宵が、自分の手袋を口にくわえて外す。それが肩を貸しているからだと気づき、東雲は慌てて彼から一歩離れた。
手袋を懐にしまい込み、終宵の手が宙をさまよう。少しだけためらってから顔を近づければ、彼の両手がしなやかに東雲の背に絡んだ。
背を撫でていた彼の手が、耳をたどり頬へ到達する。何度も撫でられてくすぐったい。人にこんな風に触れられるのは初めてだ。ついでに言うなら、こんなに近い距離に人がいるのも初めてである。彼の透明すぎる真紅の瞳に、自分の困惑した顔が映っている。
どうにもこうにも居心地が悪い。東雲は視線をさまよわせ、何度も瞬きを繰り返した。
終宵は東雲を気にする様子もなく、丹念に東雲に触れている。彼の指は思った以上に長く冷たい。ところどころが固いのは、刀を握っているからなのだろう。
額の傷に触れられそうになり、東雲は反射的に息をのむ。終宵もそれに気が付いたか、そっと手を東雲の髪に添えた。そのままくしゃりと撫でられる。不意打ちに身を固くする東雲をよそに、終宵は東雲の頭を撫でている。
「君は道を見つけようと、必死であがいている。迷いながら、あがきながら、苦悩しながらも逃げることなく。もがいて、苦しんで、それでもなお進もうとしている」
彼の声は、夜更けにも似ている。静かで冷たく、それでいてどこか安らぎを覚える。声だけではない。彼の存在そのものが夜を思わせる。たとえ日の当たる場所にいたとしても、彼はただひたすらに、確固たる夜であり続ける。そんな気がした。
「……僕は、そんな風に必死で“生きよう”とする君を、好ましく思う。……きっと、道は見つかるさ」
終宵はかすかに目を細め、月の微笑で小さくつぶやく。それからもう一度東雲の頭を撫で、そっと手を引いた。
「……ありがとう、ございます」
彼の温度が消えていく。それをどこか惜しいと思いながらも頭を下げれば、終宵は盲いた双眸を柔らかく笑みで彩った。
「何。礼など不要だ。僕はただ、君の話を聞いただけにすぎぬ」
そうしてまた手袋をはめなおすのを、東雲はじっと眺めていた。
誰かを愛しみ慈しむ一方で、同じくらいに無造作に、誰かを屠って斬り散らす。愛しむならばなぜ斬るのか。斬るならばなぜ慈しむのか。遠目ではわからなかった男の違和、その懐に抱く〝ソレ〟が、おそらくは英雄と呼ばれた彼の凶行の原因であり、同時に強さの源に違いない。
知らねばならない。こうして誰かを守る傍らで、無辜の民を手にかけたその理由を。静謐の笑みをたたえる胸中を。きっとその意味がわかれば、なぜそうしたのかがわかるかもしれない。彼の強さのひとかけらを、手にすることもできるかもしれない――公私混同もいいところだ。自分が一番よく理解している。それでもきっと、相手を知ることは無駄にはならないはずだ。
ほかの人間ならば、きっとここまで考えたりはしないだろう。それもひとえに、憧れの存在だからなのかもしれない。我ながら現金なものだ、と東雲は内心で自嘲した。
「さて……東雲くん。僕に何か、聞きたいことがあるのではないか」
少しの間の後、終宵はほのかな笑みとともに問いを投げる。長い髪が音もなく滑り落ちるのが、視界の隅に映る。
ここでお前が犯人だろう、と問うのはたやすい。しかし現状、遺体の傷跡が似ている、という以外に状況証拠はない。憶測だけで指摘するのはいささか早計に思えた。
「……暮邸で、何が起きたのですか。あのとき、あなたはどちらに?」
やはりな、と終宵は観念したように独り言ちる。気が付けばすっかり日も落ちて、夜の蒼が波となり足元に打ち寄せていた。
「お嬢さんが、宴を開くと言ってな。その余興に付き合わされていた」
「余興? それは、どんな」
伏せた面を染める表情は見えない。ただ、終宵の朱い紅い瞳だけが、わずかな光を吸収して鮮やかに輝いている。
「僕はとても喉が渇いていた。飢えて、飢えて、仕方がなかった。だから出されたモノをすべて飲み干した。……その結果がアレだ」
東雲は眉を寄せて、今しがた手に入れた情報を反芻する。
これは犯行の自白ということになるのだろうか。いや、あまりにも曖昧が過ぎる。そのままの意味でとらえるならば、「小夜音嬢の出した飲み物を飲んだ終宵が、何らかの変調をきたし凶行に及んだ」ともとれる。第九階層で会ったときも、終宵はそう言っていた。喉が渇いたからどうしても、と。
薬でも入れられていたのか。しかし、それらしきものは屋敷のどこにも見当たらなかった。小夜音にそうした人心掌握の技術があるとも思えない。抽象的な表現の指し示す意味は、もっと別にあるに違いない。これが彼の自白ならば、そこに至る「理由」が必ずあるはずだ。
「……つまり、どういう状態だったのですか」
重ねて問いかけた、その刹那。
東雲の、全身の肌が粟立った。終宵は朧な薄笑みのままである。先ほどと状況は何も変わらない。何も変わらないというのに、この気配はいったい何だ。まるで、そう、まるで地上から時折入り込んでくる、血錆の色の異形のような。
心臓が鷲掴みにされている心地がする。また不規則に脈打って、耳元でうるさく鳴っている。終宵は東雲に一歩近寄ると、歌うように滑らかに、夜更けの声音でこう語る。
「魚が水を求めるように」
「人が呼吸をするように」
「人がその身を重ねるように」
「僕は飢え、渇き、ただ求めるのだ」
ざわざわと、背筋を何かが走っていく。脳内で本能が危険を叫んでいる。これは何だ。この気配は、いったい。
と、ふいに静謐をたたえた笑みが、ほんのわずかに崩れた――気がした。
「……きっと、誰にも理解はできまいよ。この狂おしいまでの衝動は、な」
やはり、そこに何かがある。動機が、意味が、理由がある。もう少しだ。東雲はさらに問いを放とうと口を開いた。
しかし、声が形になることはかなわなかった。遠くから自分を呼ぶ声がする。足音が複数。おそらく一日と、同僚たちだ。
応援を呼んでくれたのか。一瞬だけ気をそらした東雲の、視界の隅で外套が鮮やかに翻る。はじかれたように振り返る東雲に、終宵が笑みをひとひら返した。
「時間切れのようだな、東雲くん」
手を伸ばせば届く距離にいる彼を、捕らえることはできやしない。獣の気配をまとう彼に、今は触れてはいけない気がした。触れば火傷では済まされない。この場に転がる連中と同じ道をたどる。それはもはや火を見るよりも明らかな事実として、東雲の足を凍り付かせた。
往かせるしかない。どこへ、だとか次は、だとか。そんな問いかけには何の意味もない。だから東雲はこう尋ねる。
「――また、会えますか」
終宵は真紅の眼を三日月に細め、自分の唇に触れて笑った。
「君が僕を探すのならば、きっと会えるさ」
「わかりました。探します、絶対に」
視力をなくした双眸をまっすぐにとらえて、東雲は強く言い切った。
ならば彼の求めるままに、探し出してみせる。事件を解決に導くために、知らねばならないことは、聞かねばならないことは山ほどあるのだから。
終宵の姿が、深い闇へと溶けて消える。入れ違いに背後から駆けてくる、気配と声。背中でそれを受け止めながら、東雲はじっと終宵のいなくなった方角を見つめていた。
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ここは双葉病院小児病棟。
病気と闘う子供たち、その病気を治すお医者さんたちの物語。
この双葉病院小児病棟には重い病気から身近な病気、たくさんの幅広い病気の子供たちが入院してきます。
すぐに治って退院していく子もいればそうでない子もいる。
メンタル面のケアも大事になってくる。
当病院は親の付き添いありでの入院は禁止とされています。
親がいると子供たちは甘えてしまうため、あえて離して治療するという方針。
【集中して治療をして早く治す】
それがこの病院のモットーです。
※この物語はフィクションです。
実際の病院、治療とは異なることもあると思いますが暖かい目で見ていただけると幸いです。
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※サムネにAI生成画像を使用しています
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