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第一章 英雄の娘
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ソフィアを家に招きいれると、母ヤーファは立ち上がってそれを歓迎した。
「久しいですね、ソフィア」
「ええ。息災のようで何よりです、ヤーファ」
母はエオナに茶と菓子を振舞うよう言付けると、ソフィアを食卓の席へと促す。
「散らかっていてごめんなさいね。いらっしゃるなんて知らなかったから」
「お気になさらず。こちらこそ、使いもやらずに申し訳ない」
そんな会話が交わされている間に、エオナはかまどに火を入れて湯を沸かす。どうやらソフィアは本当に、母の古い顔なじみらしい。カウンター越しに見えるふたりは、穏やかな表情で再会を喜びあい、懐かしそうに会話を重ねていた。
カウンターからは、ソフィアの背後にある窓から外が見える。遠くに連なる山々と、鮮やかに萌える草の海。蒼い空と降り注ぐ陽光の下で、ユクニが竜と戯れていた。
落ち着いたあめ色の木壁の中、その光景はまるで絵画を思わせる。世間とはかけ離れた、戦いとは無縁の場所。かつて昔の偉人はここを楽園と呼んだというが、どこまでも広がる穏やかな景色は、確かにそうと呼べるかもしれない。
そんなことを考えながら、エオナは火の具合を整える。お茶の種類と茶菓子の有無に悩みながら、二人の様子を何となく眺めていた。
「それでソフィア、どうして急にこちらへいらしたの? 何か御用時だったのかしら」
母の問いかけに、ソフィアの表情がかすかに曇る。それから重たく息を落とし、観念したように緩く首を振ってから面をあげた。
「……単刀直入に言いましょう、ヤーファ。近いうちに、ここイヴァノンで戦が起こるでしょう」
静かに、重々しく、ソフィアが口を開く。椅子に浅く腰掛けたソフィアに対峙する母の背中が凛と伸びる。緊張の糸がぴんと張るのが、肌で感じられる。
「どうかもう一度、あのときのように……国を守るために、ともに戦ってはくれませぬか」
そして――突如ソフィアより放たれたその言葉が、エオナの胸に突き刺さった。
驚きに息が詰まり、危うく炭を取り落としそうになる。対する母の答えはない。暖炉の薪が爆ぜる。壁にかけられた銀の槍が、鈍く光を反射している。
「ゼグレスの民の乱」
ソフィアの眼差しがわずかの間だけ、厨房にいるエオナに向けられる。ソフィアの落ち着いた声が、響く。
「あなたはあのとき、兄と竜頭を並べて戦い、この場所を、この国を命がけで守った。英雄の片割れ、竜を駆る娘、伝承に語られる【蒼髪の戦乙女】の再来……【神剣の娘】ヤーファを知らぬものはおりません」
エオナは作業を止めぬまま、二人の話に耳を澄ます。いつの間にか手のひらには汗がにじんでいた。
「しかしあなたはあらゆる栄誉を断り、ここでの静かな生活を望んだと聞きました。それもすべて、争いを厭うてのことだとも」
ゼグレスの民の乱――二十年以上前に起きた、北の武力国家メヒェルトムートとイヴァノンで起きた侵略戦争の通称である。
ここゼグレス山脈の内に暮らしていた、古き騎竜民族の末裔たちを、メヒェルトムートの将軍が虐殺したことから戦いは始まった。偽りの罪状を並べ立て、もっともらしい理由をつけて、将軍は突如ゼグレス山脈の「逆賊たちの討伐」にやってきたのだ。
ゼグレスの民はほとんどが殺しにされ、生き残った長の娘は、事の顛末を知って激しく怒り、嘆き悲しんだという。
そして娘はひとり、戦うことを決意した。古よりよき隣人であり続けたイヴァノンの民たちに、同じ悲しみを味わわせるまいとしたがゆえである。
たったひとりで隣国に乗り込もうとする娘に、イヴァノン三竜騎士団がひとつ、飛竜騎士団の若き長が協力した。娘と騎士団は協力して将軍の罪を暴き、同時に将軍率いる軍団を退けたという。【霹靂の槍】ジークハルト、そして【神剣の娘】は今もなお、悪をくじいて国を守った英雄として語り継がれている。
母がよく話をしてくれた、ユクニお気に入りの英雄譚だ。まさか本当にあったことで、しかも――母が、英雄の片割れだったなんて。
エオナは小さく息を飲み、母へと視線を投げた。美しい蒼髪は丁寧に梳かれ、軽く肩口で結んである。かすかにうつむいた後ろ姿からは、細かい感情が読み取れない。
「ヤーファ、あのときと同じことが起ころうとしています。否、もっと大きな戦争になるやもしれませぬ。あの時以上に、多くの民が倒れることになりましょう」
そんな母の向かい側に、真剣なまなざしのソフィアがいる。冗談を言っているとは思えないほど、彼女の碧い瞳には強い光が宿っていた。
「私は兄に代わってこの役を引き受け、来るべき戦に臨もうと決めました。もう二度と、あなたと同じ人を出さないために」
もうすでに、かまどにかけた湯沸かし瓶は蒸気を噴き上げているのに、エオナの意識はふたりから離れてくれない。飛竜騎士団長の紡ぐ声が、言葉が、うつむいた母に向けられている。
「だからこそ、あなたの力が必要なのです、ヤーファ。イヴァノンの民たちが、自らと同じ思いをせぬようにと、ただひとり強国へと戦いを挑み――そして打ち勝った、あなたの力が」
沈黙は痛みを伴うなんて、初めて知った。知らず、エオナの身体に力がこもる。
母はどうするつもりなのだろう。何と答えるつもりなのだろう。震える呼吸を何とか落ち着かせ、エオナは胸元をきつく握り締めて母の背中を見つめ続けた。
「ソフィア」
と。母が静かに口火を切る。
「ジークは……お元気ですか。お体の具合は」
ソフィアがそっと頭を振る。
「あの時の矢傷が病を招きました。最近は寝台から出ることすらままなりませぬ。それに……元気ならば、私ごときが代わりを務めるなどできませぬよ」
自嘲気味に笑うソフィアに、しかし母はかぶりを振る。
「いいえ。あなたの噂はかねがね聞いております。民を思うがゆえに、あえて自らが行動する……あの人と同じ、正義感の強さゆえのことでしょう。そんなあなたに、彼の代わりが勤まらないはずがありません」
ですが、と母は言いよどみ、再び視線を床へと落とす。そんな母を見るのは初めてだった。
「……私はもう、戦えない」
「なぜ、とお聞きしてもよいでしょうか」
ソフィアの深みがある声が、問いの形を作っていく。
「今ここにある、子どもたちと過ごすささやかな幸せが。平穏が……惜しいのです」
そこに母の答えが重ねられ、湯の沸く音に溶けていった。
「戦になれば、私も他の人たちも同じように不幸せになる。そんなことは分かっているのに……私は、私の今の幸せを失うことが恐ろしい。あのころは、たとえ自分がどうなろうとも、他人の幸せのために迷いなく戦えたのに……今は、他人のことはどうなってもいいから、自分たちの幸せがあればよいと、そう思ってしまうのです」
ソフィアはただ沈黙し、静かな緑の眼差しを注いでいる。意思の強そうな瞳がわずかに細まり、何度も瞬く。
「ごめんなさい、ソフィア。戦に出て、子どもたちを置いて逝くことが、私はなによりも恐ろしくてたまらないのです……」
母は苦しそうに言葉をこぼすと、そのまま両手で顔を覆った。ごめんなさい、と繰り返されるくぐもった謝罪に、エオナも胸が締め付けられる。
「母さん」
エオナは母に駆け寄り膝をつく。そっと震える手に手を重ねれば、母はすがるようにエオナの手を握りしめる。その、あまりにも強い力に、母の葛藤と恐怖を垣間見た気がした。
細い背中を丸めて詫びる母と、母の背をさするエオナをしばし見つめ、ソフィアはしばらく黙り込んでいた。それからひとつうなずくと、優雅な身のこなしで立ち上がる。
「……どうか謝らないでください、ヤーファ。今のあなたには、何にも代えがたい大切なものがある。私がもしあなたと同じ立場なら、同じことを言うでしょう。人の親として当然のことです」
母の肩に手を置き、ソフィアは柔らかく微笑んだ。それから丁寧に頭を下げる。
「邪魔をいたしました。私は早急に騎士団に戻らねばならぬゆえ、これにて失礼をいたします」
夕方の空の色をした髪が、さらりと肩から流れ落ちる。母も椅子から腰を上げ、薬棚を開いて瓶を取り出す。いつもエオナとユクニに使ってくれる、痛み止めの薬だった。
「せめてこれを、ジークに……古い傷が痛むようなら、これを使って差し上げてください」
「ありがとう存じます。あなたからの薬ですから、兄もきっと喜ぶでしょう」
ソフィアが笑う。そこに少なからず落胆が含まれているのを、エオナは見逃せなかった。
エオナは戦を経験したことはない。だが、争いがたくさんの人を傷つけ、不幸せにするということは理解できる。そうした人をひとりでも減らすために、ソフィアが母の力を必要としていることも、これまでのやりとりで何となくわかった。
母は今の平穏な暮らしを愛している。エオナとユクニを愛している。でも、きっと母は、この国のことも同じくらい愛しているのだ。たったひとりで、敵国に戦いを挑もうと思うほどに――この国を、この国に住まう人々のことを、大切に思っているに違いない。母のこぼした謝罪には、どちらかしか選ぶことができない苦しさがにじんでいた。
ソフィアとて、本当なら母を連れて戻りたかったに違いない。飛竜騎士団長の命令で、力ずくで母を連れていくことだってできるだろう。そうしようとしないのは、母の気持ちをくんでくれたからだ。ユクニと同じくらいの歳の子どもがいると言っていた。幼い子どもを置いて、戦いにいく彼女の胸中はどんなものなのだろう。
エオナはふと、買出しで出かけるたびに、暖かな笑顔で迎えてくれるふもとの村の人たちを思い出す。果物をおまけしてくれるおばさんに、野菜の値段を安くしてくれるおじさん、お菓子をこっそり分けてくれるお兄さん。薬屋のお姉さんは、母の作った薬をいつも褒めてくれる。一緒に遊ぶ子どもたちは、山を出ないエオナにいろいろなことを教えてくれた。
その人たちが怪我をしたら、怖い目にあったら――苦しい思いをしたら、命が奪われたら。想像するだけでも、胸が張り裂けそうになる。
この国には、たくさんの人たちが暮らしている。母にとってのエオナとユクニのように、誰かの大切な人たちがこの場所で生きているのだ。かつて母が守ったこの国で、ソフィアが守ろうとしているこの国で。
ソフィアが踵を返して歩いていく。戸口が軋み、ゆっくりと開かれる。外から風が吹き込んで、エオナの頬をひとつ撫でる。ソフィアの白いマントが翻る。一歩、一歩、離れていく。
エオナはきつく拳を握った。
「久しいですね、ソフィア」
「ええ。息災のようで何よりです、ヤーファ」
母はエオナに茶と菓子を振舞うよう言付けると、ソフィアを食卓の席へと促す。
「散らかっていてごめんなさいね。いらっしゃるなんて知らなかったから」
「お気になさらず。こちらこそ、使いもやらずに申し訳ない」
そんな会話が交わされている間に、エオナはかまどに火を入れて湯を沸かす。どうやらソフィアは本当に、母の古い顔なじみらしい。カウンター越しに見えるふたりは、穏やかな表情で再会を喜びあい、懐かしそうに会話を重ねていた。
カウンターからは、ソフィアの背後にある窓から外が見える。遠くに連なる山々と、鮮やかに萌える草の海。蒼い空と降り注ぐ陽光の下で、ユクニが竜と戯れていた。
落ち着いたあめ色の木壁の中、その光景はまるで絵画を思わせる。世間とはかけ離れた、戦いとは無縁の場所。かつて昔の偉人はここを楽園と呼んだというが、どこまでも広がる穏やかな景色は、確かにそうと呼べるかもしれない。
そんなことを考えながら、エオナは火の具合を整える。お茶の種類と茶菓子の有無に悩みながら、二人の様子を何となく眺めていた。
「それでソフィア、どうして急にこちらへいらしたの? 何か御用時だったのかしら」
母の問いかけに、ソフィアの表情がかすかに曇る。それから重たく息を落とし、観念したように緩く首を振ってから面をあげた。
「……単刀直入に言いましょう、ヤーファ。近いうちに、ここイヴァノンで戦が起こるでしょう」
静かに、重々しく、ソフィアが口を開く。椅子に浅く腰掛けたソフィアに対峙する母の背中が凛と伸びる。緊張の糸がぴんと張るのが、肌で感じられる。
「どうかもう一度、あのときのように……国を守るために、ともに戦ってはくれませぬか」
そして――突如ソフィアより放たれたその言葉が、エオナの胸に突き刺さった。
驚きに息が詰まり、危うく炭を取り落としそうになる。対する母の答えはない。暖炉の薪が爆ぜる。壁にかけられた銀の槍が、鈍く光を反射している。
「ゼグレスの民の乱」
ソフィアの眼差しがわずかの間だけ、厨房にいるエオナに向けられる。ソフィアの落ち着いた声が、響く。
「あなたはあのとき、兄と竜頭を並べて戦い、この場所を、この国を命がけで守った。英雄の片割れ、竜を駆る娘、伝承に語られる【蒼髪の戦乙女】の再来……【神剣の娘】ヤーファを知らぬものはおりません」
エオナは作業を止めぬまま、二人の話に耳を澄ます。いつの間にか手のひらには汗がにじんでいた。
「しかしあなたはあらゆる栄誉を断り、ここでの静かな生活を望んだと聞きました。それもすべて、争いを厭うてのことだとも」
ゼグレスの民の乱――二十年以上前に起きた、北の武力国家メヒェルトムートとイヴァノンで起きた侵略戦争の通称である。
ここゼグレス山脈の内に暮らしていた、古き騎竜民族の末裔たちを、メヒェルトムートの将軍が虐殺したことから戦いは始まった。偽りの罪状を並べ立て、もっともらしい理由をつけて、将軍は突如ゼグレス山脈の「逆賊たちの討伐」にやってきたのだ。
ゼグレスの民はほとんどが殺しにされ、生き残った長の娘は、事の顛末を知って激しく怒り、嘆き悲しんだという。
そして娘はひとり、戦うことを決意した。古よりよき隣人であり続けたイヴァノンの民たちに、同じ悲しみを味わわせるまいとしたがゆえである。
たったひとりで隣国に乗り込もうとする娘に、イヴァノン三竜騎士団がひとつ、飛竜騎士団の若き長が協力した。娘と騎士団は協力して将軍の罪を暴き、同時に将軍率いる軍団を退けたという。【霹靂の槍】ジークハルト、そして【神剣の娘】は今もなお、悪をくじいて国を守った英雄として語り継がれている。
母がよく話をしてくれた、ユクニお気に入りの英雄譚だ。まさか本当にあったことで、しかも――母が、英雄の片割れだったなんて。
エオナは小さく息を飲み、母へと視線を投げた。美しい蒼髪は丁寧に梳かれ、軽く肩口で結んである。かすかにうつむいた後ろ姿からは、細かい感情が読み取れない。
「ヤーファ、あのときと同じことが起ころうとしています。否、もっと大きな戦争になるやもしれませぬ。あの時以上に、多くの民が倒れることになりましょう」
そんな母の向かい側に、真剣なまなざしのソフィアがいる。冗談を言っているとは思えないほど、彼女の碧い瞳には強い光が宿っていた。
「私は兄に代わってこの役を引き受け、来るべき戦に臨もうと決めました。もう二度と、あなたと同じ人を出さないために」
もうすでに、かまどにかけた湯沸かし瓶は蒸気を噴き上げているのに、エオナの意識はふたりから離れてくれない。飛竜騎士団長の紡ぐ声が、言葉が、うつむいた母に向けられている。
「だからこそ、あなたの力が必要なのです、ヤーファ。イヴァノンの民たちが、自らと同じ思いをせぬようにと、ただひとり強国へと戦いを挑み――そして打ち勝った、あなたの力が」
沈黙は痛みを伴うなんて、初めて知った。知らず、エオナの身体に力がこもる。
母はどうするつもりなのだろう。何と答えるつもりなのだろう。震える呼吸を何とか落ち着かせ、エオナは胸元をきつく握り締めて母の背中を見つめ続けた。
「ソフィア」
と。母が静かに口火を切る。
「ジークは……お元気ですか。お体の具合は」
ソフィアがそっと頭を振る。
「あの時の矢傷が病を招きました。最近は寝台から出ることすらままなりませぬ。それに……元気ならば、私ごときが代わりを務めるなどできませぬよ」
自嘲気味に笑うソフィアに、しかし母はかぶりを振る。
「いいえ。あなたの噂はかねがね聞いております。民を思うがゆえに、あえて自らが行動する……あの人と同じ、正義感の強さゆえのことでしょう。そんなあなたに、彼の代わりが勤まらないはずがありません」
ですが、と母は言いよどみ、再び視線を床へと落とす。そんな母を見るのは初めてだった。
「……私はもう、戦えない」
「なぜ、とお聞きしてもよいでしょうか」
ソフィアの深みがある声が、問いの形を作っていく。
「今ここにある、子どもたちと過ごすささやかな幸せが。平穏が……惜しいのです」
そこに母の答えが重ねられ、湯の沸く音に溶けていった。
「戦になれば、私も他の人たちも同じように不幸せになる。そんなことは分かっているのに……私は、私の今の幸せを失うことが恐ろしい。あのころは、たとえ自分がどうなろうとも、他人の幸せのために迷いなく戦えたのに……今は、他人のことはどうなってもいいから、自分たちの幸せがあればよいと、そう思ってしまうのです」
ソフィアはただ沈黙し、静かな緑の眼差しを注いでいる。意思の強そうな瞳がわずかに細まり、何度も瞬く。
「ごめんなさい、ソフィア。戦に出て、子どもたちを置いて逝くことが、私はなによりも恐ろしくてたまらないのです……」
母は苦しそうに言葉をこぼすと、そのまま両手で顔を覆った。ごめんなさい、と繰り返されるくぐもった謝罪に、エオナも胸が締め付けられる。
「母さん」
エオナは母に駆け寄り膝をつく。そっと震える手に手を重ねれば、母はすがるようにエオナの手を握りしめる。その、あまりにも強い力に、母の葛藤と恐怖を垣間見た気がした。
細い背中を丸めて詫びる母と、母の背をさするエオナをしばし見つめ、ソフィアはしばらく黙り込んでいた。それからひとつうなずくと、優雅な身のこなしで立ち上がる。
「……どうか謝らないでください、ヤーファ。今のあなたには、何にも代えがたい大切なものがある。私がもしあなたと同じ立場なら、同じことを言うでしょう。人の親として当然のことです」
母の肩に手を置き、ソフィアは柔らかく微笑んだ。それから丁寧に頭を下げる。
「邪魔をいたしました。私は早急に騎士団に戻らねばならぬゆえ、これにて失礼をいたします」
夕方の空の色をした髪が、さらりと肩から流れ落ちる。母も椅子から腰を上げ、薬棚を開いて瓶を取り出す。いつもエオナとユクニに使ってくれる、痛み止めの薬だった。
「せめてこれを、ジークに……古い傷が痛むようなら、これを使って差し上げてください」
「ありがとう存じます。あなたからの薬ですから、兄もきっと喜ぶでしょう」
ソフィアが笑う。そこに少なからず落胆が含まれているのを、エオナは見逃せなかった。
エオナは戦を経験したことはない。だが、争いがたくさんの人を傷つけ、不幸せにするということは理解できる。そうした人をひとりでも減らすために、ソフィアが母の力を必要としていることも、これまでのやりとりで何となくわかった。
母は今の平穏な暮らしを愛している。エオナとユクニを愛している。でも、きっと母は、この国のことも同じくらい愛しているのだ。たったひとりで、敵国に戦いを挑もうと思うほどに――この国を、この国に住まう人々のことを、大切に思っているに違いない。母のこぼした謝罪には、どちらかしか選ぶことができない苦しさがにじんでいた。
ソフィアとて、本当なら母を連れて戻りたかったに違いない。飛竜騎士団長の命令で、力ずくで母を連れていくことだってできるだろう。そうしようとしないのは、母の気持ちをくんでくれたからだ。ユクニと同じくらいの歳の子どもがいると言っていた。幼い子どもを置いて、戦いにいく彼女の胸中はどんなものなのだろう。
エオナはふと、買出しで出かけるたびに、暖かな笑顔で迎えてくれるふもとの村の人たちを思い出す。果物をおまけしてくれるおばさんに、野菜の値段を安くしてくれるおじさん、お菓子をこっそり分けてくれるお兄さん。薬屋のお姉さんは、母の作った薬をいつも褒めてくれる。一緒に遊ぶ子どもたちは、山を出ないエオナにいろいろなことを教えてくれた。
その人たちが怪我をしたら、怖い目にあったら――苦しい思いをしたら、命が奪われたら。想像するだけでも、胸が張り裂けそうになる。
この国には、たくさんの人たちが暮らしている。母にとってのエオナとユクニのように、誰かの大切な人たちがこの場所で生きているのだ。かつて母が守ったこの国で、ソフィアが守ろうとしているこの国で。
ソフィアが踵を返して歩いていく。戸口が軋み、ゆっくりと開かれる。外から風が吹き込んで、エオナの頬をひとつ撫でる。ソフィアの白いマントが翻る。一歩、一歩、離れていく。
エオナはきつく拳を握った。
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