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序章
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一面の蒼の中を、一本の矢のように――紅い飛竜が少女を乗せ、絡みつく風を振り払わんと力強く飛翔していた。
ようやく少女の身体に馴染んできていた蒼い鎧は、未だ鉄錆の臭いを濃くまとわりつかせている。呼吸もままならず、少女はゴーグルの下で大きく目を見開き、空気を求めあえいでいた。
手袋に包まれ固く強張った右手に槍を、がたがたと震える左手には手綱を握り締め、目の覚めるような蒼い髪を風に乱しながら、少女は騎竜と共に空を裂いていく。
まるで心だけをどこかに置き忘れてきたようだ。呼吸の仕方も、手綱の繰り方も、何もかも全部があの一瞬に持っていかれてしまったのかもしれない。それなのに、身体は風にさらわれることもなくここにある。目を閉じてしまいたいのに、瞳は勝手に敵影を探している。
不意に視界を何かが横切った。青く染まる雲間に見える影。数は三。心臓が跳ね上がる。槍の穂先をついとあげて、少女は唇をわななかせる。喉が乾いていて、笛の音にも似た呼吸が漏れるばかりだった。
目の前が翳る。巨大な飛竜が翼を広げ、少女と竜を待ち構えていた。銀光が目を焼く。少女と同様、槍を手にした騎士が見えた。
危機を察した異種族の相棒が、甲高く啼いた。停止した思考のまま、少女は槍を握りなおす。相対し、そしてぶつかりあう。交錯は一瞬。少女の手は、相手の喉笛を正確に貫いていた。
主を失い、悲痛な叫びを残して竜が堕ちる。叫びの断片は風に消え、飛竜は主のなきがらと共に蒼へ沈んだ。
何も考えられない。呼吸ができない。心臓が口から飛び出していきそうだ。吐き気がする。腕がしびれている。槍の穂先を濡らす色、理解できない。理解したくない。何も考えられない。
愛騎の翼の影から放たれた一撃を避けきれなかった。違う。避けようとも思わなかった。右腕の付け根が鈍く痛んだ。交差する腕、金属の穂先はただ相手の胸をえぐり、飛竜の背から叩き落した。
雲の間に散る色は見えない。蒼い色しか見えない。蒼い色しか、見えない。最後の影が浮上してくる。交錯は一瞬、竜が叫びなきがらが蒼に落ちる、呼吸ができない、吐き気がする、涙が止まらない、腕がしびれて冷たい、身体が思うように動かない。どうしてこうなった。
どうして。どうして、どうしてこうなってしまった。どうして。止まった思考の中で、少女はただそれだけを繰り返す。
「――!!」
どこかから、懐かしい声がした。貫かれた右肩がひどく痛む。目蓋が重い。羽音がする。近づいてくる。意識の半ばを手放しながら、少女は半ば反射のように槍の穂先を持ちあげた。
「エオナ――!!」
この声は誰。知っている。麻痺する思考回路を無理やりに動かし、置き忘れた心を必死に呼び戻すけれど、その前に、身体が、動いた。
しびれた腕に伝わる感触は先ほどと変わらない。しかし急所をはずしたのか、竜の上の影は身じろぎすらしなかった。うめき声すらあげなかった。
三白眼で、短く切った髪は鮮やかな赤。少女のそれとは対照的な色。冷たく深い蒼の中、炎のように暖かな色。ただ射抜かれそうな強いまなざしが、真摯な光を帯びて注がれている。
「エオナ!! この馬鹿野郎、敵か味方かくらい覚えとけ!!」
怒鳴る声もどこか心地よい。でも、ああ、思い出せない。彼はいったい、誰だったっけ。呆然としたまま、ぎこちなく槍を構える少女へ、さらに少年は声を張る。
「ためらうな、迷うな、恐れるな! あいつらは敵だ、知ってるのは俺たちしかいねぇ!! 俺たちが戦わなくて、一体誰があいつらと戦うってんだよ!!」
槍が、重い。取り落としそうになるのを必死で耐える。
「お前のことを、待ってる人たちがいる!! 守ってやる人たちがいる!! だから、こんなところで自分を見失ってんじゃねぇよ!!」
戦わなければ。何のために? 戦わなければ。ああでも、でも、この先を聞きたい。この続きを聞きたい。閉じられそうになる意識をつなぎながら、少女は固く手綱を握る。
「俺も行く――俺がお前を守ってやるから!!」
少年の真摯な言葉が、視線が、想いが。
「一緒に、みんなを助けるんだ!!」
氷のような身体の中に、遠く離れた心の中に、ひとつの焔を燃え上がらせた。
ようやく少女の身体に馴染んできていた蒼い鎧は、未だ鉄錆の臭いを濃くまとわりつかせている。呼吸もままならず、少女はゴーグルの下で大きく目を見開き、空気を求めあえいでいた。
手袋に包まれ固く強張った右手に槍を、がたがたと震える左手には手綱を握り締め、目の覚めるような蒼い髪を風に乱しながら、少女は騎竜と共に空を裂いていく。
まるで心だけをどこかに置き忘れてきたようだ。呼吸の仕方も、手綱の繰り方も、何もかも全部があの一瞬に持っていかれてしまったのかもしれない。それなのに、身体は風にさらわれることもなくここにある。目を閉じてしまいたいのに、瞳は勝手に敵影を探している。
不意に視界を何かが横切った。青く染まる雲間に見える影。数は三。心臓が跳ね上がる。槍の穂先をついとあげて、少女は唇をわななかせる。喉が乾いていて、笛の音にも似た呼吸が漏れるばかりだった。
目の前が翳る。巨大な飛竜が翼を広げ、少女と竜を待ち構えていた。銀光が目を焼く。少女と同様、槍を手にした騎士が見えた。
危機を察した異種族の相棒が、甲高く啼いた。停止した思考のまま、少女は槍を握りなおす。相対し、そしてぶつかりあう。交錯は一瞬。少女の手は、相手の喉笛を正確に貫いていた。
主を失い、悲痛な叫びを残して竜が堕ちる。叫びの断片は風に消え、飛竜は主のなきがらと共に蒼へ沈んだ。
何も考えられない。呼吸ができない。心臓が口から飛び出していきそうだ。吐き気がする。腕がしびれている。槍の穂先を濡らす色、理解できない。理解したくない。何も考えられない。
愛騎の翼の影から放たれた一撃を避けきれなかった。違う。避けようとも思わなかった。右腕の付け根が鈍く痛んだ。交差する腕、金属の穂先はただ相手の胸をえぐり、飛竜の背から叩き落した。
雲の間に散る色は見えない。蒼い色しか見えない。蒼い色しか、見えない。最後の影が浮上してくる。交錯は一瞬、竜が叫びなきがらが蒼に落ちる、呼吸ができない、吐き気がする、涙が止まらない、腕がしびれて冷たい、身体が思うように動かない。どうしてこうなった。
どうして。どうして、どうしてこうなってしまった。どうして。止まった思考の中で、少女はただそれだけを繰り返す。
「――!!」
どこかから、懐かしい声がした。貫かれた右肩がひどく痛む。目蓋が重い。羽音がする。近づいてくる。意識の半ばを手放しながら、少女は半ば反射のように槍の穂先を持ちあげた。
「エオナ――!!」
この声は誰。知っている。麻痺する思考回路を無理やりに動かし、置き忘れた心を必死に呼び戻すけれど、その前に、身体が、動いた。
しびれた腕に伝わる感触は先ほどと変わらない。しかし急所をはずしたのか、竜の上の影は身じろぎすらしなかった。うめき声すらあげなかった。
三白眼で、短く切った髪は鮮やかな赤。少女のそれとは対照的な色。冷たく深い蒼の中、炎のように暖かな色。ただ射抜かれそうな強いまなざしが、真摯な光を帯びて注がれている。
「エオナ!! この馬鹿野郎、敵か味方かくらい覚えとけ!!」
怒鳴る声もどこか心地よい。でも、ああ、思い出せない。彼はいったい、誰だったっけ。呆然としたまま、ぎこちなく槍を構える少女へ、さらに少年は声を張る。
「ためらうな、迷うな、恐れるな! あいつらは敵だ、知ってるのは俺たちしかいねぇ!! 俺たちが戦わなくて、一体誰があいつらと戦うってんだよ!!」
槍が、重い。取り落としそうになるのを必死で耐える。
「お前のことを、待ってる人たちがいる!! 守ってやる人たちがいる!! だから、こんなところで自分を見失ってんじゃねぇよ!!」
戦わなければ。何のために? 戦わなければ。ああでも、でも、この先を聞きたい。この続きを聞きたい。閉じられそうになる意識をつなぎながら、少女は固く手綱を握る。
「俺も行く――俺がお前を守ってやるから!!」
少年の真摯な言葉が、視線が、想いが。
「一緒に、みんなを助けるんだ!!」
氷のような身体の中に、遠く離れた心の中に、ひとつの焔を燃え上がらせた。
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