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新婚旅行と林檎占い19

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 世の中はそんなに甘くなかった。森の中、関の近くには領境に柵がずっと続いていた。どこかで切れているのかもしれないが、あるかないか分からない柵の切れ目を探せる体力はない。それでも関を馬鹿正直に通れない以上、どこか手薄なところから入るしかない。よき小市民としては落第の思考であるが、そんなものよりワラビの方が大事だ。窃盗に加え関所破りなんて多分捕まるのだろうけど、ここで捕まったら確実に死ぬ。一人逃げてもアスタを殺した犯人として捕まる。ここの法律は知らないけれど、人を晒し首にする国の刑罰などろくなものであるはずがない。怖くて怖くてたまらないけれど、もし私が捕まるのだとしても、こんな私のために命をかけてくれたワラビくらい助けたかった。無理かもしれないけれど、何もしない自分でいたくなかった。それでも百回くらい自分の生首が広場にさらされるところが頭をよぎる。馬鹿みたいに体が震えた。

「くそっくらえ」

 よき小市民では誰も守れないのだ。誰も助けてなどくれないのだ。大体人を殺すわけでもないのだ。くたびれた丸太を数本抜いて、そこから移動しようというだけだ。私は移動の自由のある国の人間じゃないか。大体、こんな抜けそうなくたびれた丸太を放置している管理者が悪いのだ。明らかに地面に等間隔で丸太を刺しそれを、さらに細い木でつないだ原始的な柵は、私でなくとも時間をかけて頑張れば抜けるかもしれないと思うに違いない。いや、絶対そうだ。私は丸太に手をかけた。
 求む自動車。
 懐かしい怠惰な文明の利器を思い描いたときだった。

「いたか!」
「ありました、こっちに轍が!」

 さっきすれ違った制服の男たちの声がした。距離は離れているが、探し物が何かなど考えるまでもない。丸太はそのままに私は急いで荷車を引いた。少しでも声から離れたかった。どれだけ歩いただろう。

「ちょっと待て」

 それまでなんとかいうことを聞いてくれていた馬が突如方向を変えた。森の中、隊商たちが使っているだろう道を外れ、かろうじて荷車が通れる道を走った。

「川、そうかお前も疲れてたんだよな」

 馬は煩わしそうに川べりを蹴ると、水を飲みだした。疲れすぎて頭が本当に働いていないとはいえ、気づかなかった自分に舌打ちする。ワラビを助けることに一所懸命になりすぎてその後のことを全く考えていなかった。何とかなると思っていた。これまでも何とかなってきたから。そんな前例に何の保証もないのにだ。アスタを殺したヤツがあの屋敷に関わる誰かなら、中の誰かなのか、偉い人ごとなのか分からない以上、このままここにいるのは危険だ。
 さらに水を飲みたがる馬をなだめすかし、引っ張る。
 今ならワラビが街に行くのが危険だといった理由が分かる。これはゲームではない。生活なのだ。生きている以上、どんな結果があろうと続くのだ。死なない限り。街へ行くというのは、敵の中に戻るということだったのだ。
 声が聞こえる。
 もう、無理だ。どうしたらいい。前は川。荷車を引いて渡れそうもない。森に戻るにも轍の跡が残ってしまう。どうしたらいい?
 ワラビに聞きたいけれど、ワラビには聞けない。私が決めるしかない。すべての責任を背負うしかない。
 この男が私の無実の証明のためには必要で、だけど私にはもう二人を連れていくだけの体力がない。
 声がだんだん近づいてくる。
 重い荷物なら、軽くするしかない。
 大きく息を吸った。吸って、吐いてを繰り返す。震えそうになる右手を左手でおさえながら、男のポケットから荷物を抜き出す。少しでも何かこの男だという証明になるものが欲しかった。制服の上着と、特徴的な剣帯。追剥にしか見えないが、何が証明になるのかわからない。必死だった。
 男を荷車から蹴り落とす。河原に転がった男の上に馬乗りになる。男の剣を抜く。太い柄を両手で握りしめる。息が上がる。
 大丈夫、大丈夫。死んでいる。生きるため。何回も何回も言い聞かせ、男の首に剣を当てる。人の肌の感触が気持ち悪くて、涙が出る。それでも、それでも。

「生きるんだ」

 剣に全体重を乗せた。
 気を失えたらどんなにか幸せだっただろう。きっと私はこの日のことを一生忘れない。死人を生首にしながら、私のお腹は空腹を訴えていた。
 ワラビの意識がなくてよかった。そう思った。

 ※

 後は必死だった。首無し死体の男を荷車ごと川に放り捨て、兵士たちの注意をひいておき、馬にワラビを乗せて走った。どう考えても腹部重症の人間を乗せていい生き物じゃなかったけれど、そんなことは言っていられなかった。兵士たちが川に落ちた男に気を取られている間に、さっき作った抜け道を通り走った。太ももは痛いし、足の裏も手のひらも痛いけれど、少しでも早くあの場所を離れたかった。
 途中、隊商らしき人の荷物から服を拝借した。窃盗前科二犯だ。いやその前に死体損壊で遺棄罪もある。破れかぶれな気分で、ハルに分厚い麻袋に布で二重に包んだ首を入れた。そのまま街道に沿って森の中を進んだ。ワラビの村まではそんなに距離がなかったはずだ。それだけが頼りだった。
 お腹がすいた。限界だった。今度見えたら食べ物をいただくのだ。もう何かどこかが壊れてしまったのかもしれない、そう思いながら麦畑の先に見えた小さな民家を見た。
 なんでこんなところに一軒だけあるのだろう、と思ったその家には、家の外には厩と牛舎のようなものがあり、動物特有の臭いがした。木の窓からは中の灯りがもれだし、人の声もした。優しそうなおばさんの声に小市民が息を吹き返す。
 やっぱり怖い。あれは必要に迫られてのことで、私は泥棒になりたいわけじゃないのだ。お話合いで解決したい人間なのだ。話し合いが一番苦手だけど。

「ワラビ、少し、まつ」

 手綱の持ち手を離し、私はしびれて力の入らない手をさすりながら走った。走ったといっても、膝に力が入らない。千鳥足のようになりながら、追突するみたいに扉にぶつかった。

「なんだ、おめえは」

 出てきたのは髭面のいかついおじさんだった。私を見るなり、おじさんはすぐさま腰に下げた短剣に手をあてた。即座に回れ右か謝罪の二択だが、今の私には生きている人間というだけで救いだった。もつれた足の勢いそのままに倒れこむようにおじさんの腕を掴んだ。

「ワラビ、助ける、おねげーしま!」
「あんた、女の子なの?!」

 ぎょっとしたように身を引いたおじさんの後ろから、おばさんが飛び出してきた。女の子。いまさら性別を聞かれるとは思わなかった。そうか、今の私は隊商の服を拝借しているので、寸法の合わない男物だった。こう他人の物を着てきました感が半端ない。しかも夕暮れ時、そりゃおじさんが警戒するのも仕方がない。申し訳ない。「大丈夫かい」ときくおばさんの顔に浮かんでいるのは「心配」だけだ。ふっと足の力が抜けた。

「助ける、お願い」

 私は力を振り絞ってワラビのいる馬の上を指さした。
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