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29 夜の森とセド2

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暗い泉の底で開く大きな口、そこからのぞく赤い舌と、立派な犬歯。
雛鳥が水面を泳いでいる。
シロナガスクジラの食事風景が思い浮かんだ。口を大きく開けて一網打尽にするあれである。

『こっちに来て!』

思わず雛鳥に手を伸ばした。生意気な雛鳥とはいえ、食べられて欲しいわけではない。どうせ誰かが食べるのなら、私が食べたい。そんなよこしまな考えがいけなかったのか。
ぺろり、水中で足を舐められた。長い舌のざらりとした感触に硬直する。水中の完熟トマトのような赤い瞳と目があった。

まて、まさか狙いは私か!そうだ、どう考えたって雛鳥より私のほうが食べでがある。まさか子守要員じゃなくて身代わり要員だったのか。思ったときには大きな口が近づいていた。
おいしそう、じゃなくて、このままだと私が美味しくいただかれてしまう。
足を引っこ抜いた。いや、引っこ抜こうとした。下からバクっと空中に出てこられるのが怖くて、後ろにのけ反った。それがいけなかった。

「あ、アスター、たすけるー」

今はいない、それでも助けてくれそうな男の名を呼びながら、私はVの字のままお尻から泉に落っこちた。アリジゴクの中に自ら落ちる蟻である。間抜けすぎて泣きそうだ。

水の中、私はもがいた。大きな口がどんどんと近づいてくる。ぱくりと足を咥えられた。巨大生物の口の中再び、だ。
あ、私死んだ。
最後に見たのは、月明かりが眩しい水面をケケケーと移動する雛鳥の姿だった。


あれ、生きている。
生い茂った木々の黒と、月と星。あれ、今何時だろう。ワラビ心配してるかな。
顔の周りには下草が生え、体全体が濡れて気持ち悪い。右を見て、左を見て――。

「ぎゃー」

絶叫した。仕方がない。私は小市民だ。自分より弱いものには強く出られるが、自分より強いものに弱い人間なのだ。目の前に大きな口をあけた巨大生物がいて、自分の拳大もある大きな赤い瞳でじっと見つめられる、などというのは恐怖以外の何ものでもない。
巨大生物は、私の腹の底からの大声に面倒くさそうに、喉の奥でグワッと一声鳴いた。まるで、仕方がないヤツだとバカにされているようだ。月明かりの下、半眼になった巨大生物は鼻を鳴らすと、私の体を押した。おそらく向こうにとっては優しくそっと押した程度なのだろうが、身長百六十センチの人間からしてみると、体長五メートルは余裕でありそうな巨大生物のそっとは、そっとではない。ぐりんぐりんと、地面の上を二回転し、小石とキスして止まった。前歯が痛い。ついでに鼻も痛い。
両手をついて起き上がる。そこは泉の傍ではなかった。来たことのない場所だった。二十五メートルプールが二つは入りそうな原っぱで、外側には私の腰丈位までの草が生えていた。中央は芝生くらいの長さの草が生え、真ん中には樹齢何百年なのかと聞きたくなるほど大きな木があった。ごつごつとしたこぶや、うろのあるその木は周りの木と比べても段違いに大きい。私はその木の根元に巨大生物の前足に頭をのせるように寝ていた。
これから食べようとしていたのだろうか。

一歩、二歩。じりじりと巨大生物から距離をとる。がさり、と背後で音がした。

「起きたのか」
「アスター」

今ほどアスタの姿を嬉しく思ったことはない。思わず駆け寄れば、アスタは私を呆れたような目でこちらを見ると、巨大生物の傍に座った。大きな顔の真横、口の横。信じられない。
勇者である。

「何をしている、こっちへこい。クニューはお前を助けたんだぞ。礼ぐらい言ってやれ」

私だって少しは勉強した。食べると助けるの違いくらいわかるのである。口の中へ入れられて唾液まみれになることを「助ける」とは言わない。

「助ける、ない。それ、私食べる、ある」
「ああ、誤解しているのか」

アスタはがしがしと頭をかいた。

「誤解、なに?」
「間違って認識、思っているということだ」
「間違い、ない。私正しい」
「誤解しているやつはたいていそういう。大体、クニューは、人は食べない」
「私、知る。これ、私ばくってした。ばくは食べる」
「揶揄われたんだよ。クニューは雑食だが、好き嫌いが激しい。人間みたいな筋張ったのは食べない。たまに、ちょこまか動いていると遊ばれることがあるが、それだろう。ゆっくり動けば、別に大人しいいいやつだ」
「いいやつ、ちがう。もてあそばれた?」
「遊ばれた、な。わざとじゃないよな」

アスタは首を傾げると、立ち上がり、私の後ろに立った。

「クニューが人間に構うのは珍しいんだぞ。人の言うことなんてきかないからな。溺れたって助けたりなんてしない。礼くらい言っとけ」

なぜ、後ろから押してくるのだ。犬嫌いの人間にかわいいのよ、と犬をけしかけてくる人間と同じ行動に、私は必死で体重を後ろにかける。

「これのせい、私溺れる。私、水ダイジョブ」
「ああ、まあ動物だ。好意だからな」

アスタは私を押す力を弱めると、遠い目をした。

「こうい?」
「好きってことだ」
「私、スキ?」

深紅の瞳の巨大生物は大きな口を開けて欠伸をした。のっそりと起き上がった。毛むくじゃらの前足を持ち上げた。

「ぎゃ」

でかい口だ、と思っていたら、視界が反転した。目を開けたら目の前に巨大生物の顔。べろりと顔を舐められた。
リフトアップを通り越して頬がどっかへ行きそうなやさしさで皮膚が動いた。
ごろごろと喉を鳴らして、擦り寄って来る。大きな口を開けた。

「クニューの愛情表現だ。親愛の情を示すものを自分の口の中に入れる。子供にすることが多いが、こいつはまだ若いからな。人間でこんなに好かれるなんて珍しいぞ。飼い主でもないのに」

その後、物分かりの悪い私にアスタはこれがクニューという巨大生物の愛情表現だということを説明してくれた。何歳なのかは知らないが、なんてはた迷惑で誤解を招く愛情表現だ。そういうのは同じ種族にだけにしてほしい。

「かいうし?」
「飼い主、な。忘れているようだがここは王家の森、ここに住むすべてのものが王のもちものだ。それで、何をしに来たんだ?来るなと言っていただろ?」

クニューは立ち上がるともう一度私の柔肌をリフトアップし、どこかへ行った。
飽きたら放置とは、さすが生態系最上位の巨大生物である。
帰り道をどうしようか。私はアスタに向きなおった。
そういえば、アスタは森の番人をしているせいか鍛えられた体をしている。ブタに劣らず筋肉質だし、以前見たときは走るのも早かったはずだ。お肉様とともに暮らして生きているだけでセドの適性はあるのではないか。

「アスタ、セド、おねげーしま!」

はっきり元気よく、私はアスタに頭を下げた。
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