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第二部 貴人、竹の宮の姫君への物思い 

三十四 白狼、竹の宮に出立する

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 春が終わり、初夏に季節が移る頃。白狼が竹の宮に出立する朝が来た 。
 普段、粗末な直垂《ひたたれ》を日常着とする彼も、褐衣《かちえ》とはいえ盤領《あげくび》の衣を着て冠を被るように命じられている。。

 日は東の空に昇り、午前の光はこれから一日が始まるという明朗な輝きがあった。

 集合場所の朱雀門前には、白狼の他に四人の男。総勢五人が今回竹の宮に派遣されるのだという。

 道順を聞かされた後、彼らはだだっ広い朱雀大路を歩いて南に下がって行く。

 白狼は山際から刻々と高さを上げる太陽をちらりと見上げた。
 こんな時間に朱雀大路を歩くことなど盗賊時代になかったことだ。夜闇に乗じて馬を駆り、財宝を奪ってねぐらに帰るのが夜明け前。戦利品を手下に分け終えて眠りにつくのがこれくらいの時刻だったろうか。

 ──佳卓に会って、俺の暮らしも随分変わったものだ

 白狼は初めて佳卓と会った時を思い出す。

 貴族の邸宅から金品を盗みおおせて馬で大路を駆け抜けようとしたら、そこに佳卓が手勢を率いて先回りしていた。ほの白い月明かりの中、中心にいた佳卓に自然と目が吸い寄せられたものだ。

 ”白い妖”と呼ばれる自分を捕らえるために、東国から武芸に優れた武将が京に呼ばれたとは聞いていた。しかし、馬に跨る見かけない顔は男にしては些か線が細く、身に着けている者もどこか洒落ている。だから、白狼の目にはその時の佳卓は典型的な貴族のお坊ちゃんにしか見えなかった。

 ──『こんな優男、すぐに怖気づいて逃げ出す』と思ったんだが

 だから、何も考えず白狼は佳卓に斬りかかった。大将を仕留めてしまえば、朝廷の者達などだの烏合の衆だ。さっさと道を空けろ、そう思いながら白狼は自分の刀を振り下ろした。

 ──いや、振り下ろしそびれたんだったな

 白狼の剣が宙を斬り裂くと同時に、佳卓が動いた。自分の頭上に降ってくる刃を、下から迎え撃ったのだ。腰から刀を抜いて上に振り払う動きは実に鋭く、その速度で繰り出された刀は重い。
 刃と刃がぶつかるキーンという高い音。そして飛び散った火花。白狼は今でも鮮やかに思い出せる。

 白狼は内心で舌を巻いた

 ──こいつは本物だ

 白狼は急いで馬を返し、佳卓から離れた。互いに間合いを取りながら、相手を見つめ合う。しかし、佳卓の目は不思議なほどに静かだった。

 こちらが刀を構えて斬りかかろうとしているのに、周囲も固唾を飲んでそれを見守っているのに、そんな緊迫した場面にあっても佳卓の周囲だけ空気が違う。

 今でもそうだが、佳卓は時折、何も気負うことなく静謐な雰囲気を纏いながら眼光だけが突き刺すように鋭く光ることがある。
 この時の佳卓がそうだ。まるで白狼という人間の奥底を見透かすような、それほど強い圧のある視線だった。

 その視線を受けて一瞬たじろいだが、白狼の方も佳卓を睨み据えた。
 いいだろう、俺を値踏みするがいい、俺もお前を見定めてやろう──そんな気持ちだった。

 この自分の玻璃玉のような碧い瞳を誰もが気味悪がる。人に非ざる妖のような目から、お前は何を汲み取れるのか。そう挑むような白狼の目を、佳卓は視線を逸らすことなく見つめてくるままだった。
 見つめ合うこと暫し。その後、佳卓が不意にふっと微かに笑みを浮かべた。それを受けて、白狼もつい口元を綻ばせた。何かと何かを互いに了解したという実感があった。

 面白い相手だ。そう白狼は思った。賊と近衛という立場の違いさえなければ、ゆっくり酒でも飲みかわしてみたいと願ったことを覚えている。お前は俺の何を理解したのかと、じっくりと訊いてみたい気がした。

 しかしながら、その場は機を見てさっさと逃げた。白狼には守ってやらねばならない手下がおり、首を取られるわけにはいかないのだから。白狼には自分の友をつくることより、手下の命の方がずっと大事なことだった。

 その後、たびたび佳卓は白狼に投降を呼びかけて来た。賊の頭目としての白狼の立場を見透かしたかのように、『朝廷に恭順するなら、手下全員にその後の職業を斡旋《あっせん》する』と誘う。確かにそれは魅力的な提案だった。

 太陽のもとを歩く白狼は今、朱雀大路を四条の辺りまで南下していた。もう少し進めば羅城門であり、これを抜けるとこの都を去ることになる。
 物売りの声が遠くから聞こえて来て、白狼はその音のする右京の方角に首を巡らせた。

 京の都城の中、朱雀大路には無機質な築地塀が面しているだけだが、その奥には猥雑な庶民の街が広がっている。何本か大路を越えれば妓楼が立ち並ぶ一角があり、その辺りには貧民街が控えている。

 その貧しい街が、捨て子同然だった白狼を育ててくれた。女は娼婦になり男は盗賊になることで、ようやく生活を成り立たせているようなその街。大人になった白狼にとって、その恩返しとは、誰よりも強い盗賊の頭領として彼らを率いることに他ならない。
 白狼は己の技量を最大限に使って都中の貴族の邸宅を襲った。彼らが権力にものを言わせて民から毟り取ったものを、きっちり取り返してやるために。

 だが、その一方で、いつまでも盗賊稼業を続けるわけにもいかないことも彼には分かっていた。

 白狼の元で生きていく金を得た手下たちは、妻を娶って子をもうけ始める。そのささやかな家庭の幸せがずっと続いて欲しいと白狼は願うが……しかし、稼ぎの道が盗賊というのはあまりに不安定に過ぎた。朝廷に罪人として捕縛されてしまえば、そのまま家族は路頭に迷うことになる。

 それでも朝廷側にめぼしい武人がいない間はまだ問題を先送りできた。ところが佳卓の登場で事情は一変する。白狼一人なら佳卓と競えても、手下たちは早晩捕らえられてしまうだろう。そうなる前に、佳卓が職を見つけてくれるなら、もしそれが本当に実現するなら願ってもないことではあった。
 ──ただ、貴族の気まぐれなどあてにならないことも白狼は嫌と言うほど知っていた。

 佳卓は白狼に帰順を促す一方で、盗賊としての白狼を容赦なく追い詰めた。
 京の街では大きな盗みが出来なくなり、手詰まりとなった白狼たちは、錦濤《きんとう》から山ほど財宝を持参してくる女東宮の船団を、山崎津で襲うことにしたのだった。

 あの財宝が手に入っていれば一年くらいは何もせずともやっていけたかと白狼は思う。だが、たった一年だ。
 それよりも今の方がずっといい。白狼はそう納得している。佳卓はきちんと約束を守ってくれ、手下たちに堅気のまっとうな職を与えてくれた。

 ──佳卓には恩がある

 あとは、自分も手下たちも「元盗賊」という汚名を返上するだけだ。こうなってみれば朝廷の役人というのも悪くなさそうな人生だと思う。なにしろ、あの嬢ちゃんが朝廷の頭領、つまり帝というものになるのだそうだから。

 ──あの嬢ちゃんは悪くない

 白狼はくつくつと喉を鳴らして思い出し笑いをした。

 箒《ほうき》で自分の従者を守ろうとした十歳の子どもの姿。自分のこの怪異な風貌に怖気づくことなく、白狼の「女子どもに手を出さない」という言葉を信じてくれた。翠令を助けてやれば律儀に礼を言う。また、自分の飼い犬と呼び名が似ていることで白狼が傷つかないようにとも細やかに気遣ってくれもする。

 あの嬢ちゃんが優れた主公だというのは、手下の翠令を見ても分かることだ。
「錦濤に女武人あり」と初めて翠令の噂を聞いた時には、何の冗談かと思ったが、彼女の剣技はなかなかのものだ。都の武人であれだけ遣《つか》える奴はいなかった。確かに男に膂力で劣ったり、弓が不得手だったりするのでは苦労もあるかもしれないが、彼女には適性があるし欠点をすぐに直そうとする素直さがある。

 白狼は翠令が弓の練習をしている姿を思い出した。今までろくに弓を扱ったことがないそうだが、熱心に練習していたし、なかなか様になっていた。
 御所の中で武人の仕事をするのに弓が必要だからと聞いたが、あの嬢ちゃんの側にいるためなら翠令も気合が入るだろう。

 ──翠令も大した女だな

 白狼は恩の遣り取りを重視する。受けた恩は必ず返す主義だ。
 だが、こんな自分よりも立派な人間はいると思う。それは、誰かと恩の遣り取りをしなくとも、自分から何かを与えようとする者だ。
 そういう人間は、恩義に生きる自分より器の大きな存在だと白狼は素直に感嘆する。

 錦濤の嬢ちゃんは流罪人の子だ。盗賊である自分と似たような立場だ。翠令はそんな先行きの見えない少女に会い、身を挺して守ることを決め、実行してきた。立派な女だと白狼は思う。

 ──だから佳卓が惚れるんだ

 白狼の顔が自然とにやける。山崎津で翠令が佳卓に刃をつきつけたとき、白狼は朝廷側の仲間割れかと驚いた。そうでないと分かったのは、佳卓が──あのいつも冷静沈着な佳卓の瞳の色を見たからだ。
 あの時、白狼は、佳卓の驚いた表情の奥底に喜びがあることを見て取った。そう、探していたものが見つかったという明るい光が確かにあった。本人がどこまで気づいているか知らないが……。

 翠令は佳卓の手下になった。佳卓は手下を大事にするやつだ。嬢ちゃんのためなら自分の身を捨てかねない翠令も、佳卓がきちんと守ってやるだろう。
 一方で佳卓の方はあの嬢ちゃんの手下になった。今は子どもに過ぎない嬢ちゃんだが、大人になればいい頭になるだろう。

 良かったと思う。あの佳卓が──つまり、この自分が恩を返そうとするあの男が、くだらない人間に頭を下げる様を見るのは自分が悔しい。だが、あの嬢ちゃんならいいだろう。
 そして、その辺の平凡な貴族の女なんかではなく、翠令のような女を妻にしていて欲しい。要するに、自分は佳卓につまらぬ男であって欲しくないのだ。

 白狼たち一行は羅城門を過ぎた。ここから王城を離れて西に向かう。竹林の中にある小さな宮で、そこの女主人を守りながら真名を学ぶ。文が読み書きできるようになれば、このまま自分も文官の真似事でもするようになるのだろうか。ともあれ、もう”白い妖”と呼ばれた賊はいなくなる。俺は散々暴れ回った。これから分別くさい小役人になってみるのも悪くない。

 羅城門の南から西へ折れる曲がり角で白狼は後ろを振り返った。楼門の塗りの太い柱の間から、宮城が霞んで見える。

 白狼は都の人々に別れを告げる。
 ──次に会うまで、達者で過ごしてくれ

 佳卓も、翠令も、あの嬢ちゃんも。
 俺の手下たち、それから俺を育ててくれた妓楼街の人々も……。

 一歩一歩白狼は都から遠ざかる。過去を後ろに置いた分、違う世界が前に開けているような気がした。太陽は天空の頂を目指す。陽光は春のぼんやりしたものよりも随分とはっきりしたものになった。見上げてみると空の青も、ついこの間の冬の空よりも色味がぐっと濃くなっている。

 ──夏が来るな

 京の内裏から都の西のはずれの竹の宮へは、歩いて半日の距離だ。昼前に出発して夕方ごろに到着する。

 ──明日からは俺も竹の宮の住人か

 そう呟いた白狼は、自分の背後から投げかけられる視線に気づいた。

 白狼は足が長く、だから歩幅も大きい。それで歩くのも速いのだが、他の四人は彼の速度に合わせるつもりもなく、彼の後ろの方についてきている。

 白狼を除く四人の男たちももともと何の面識もなかったらしく、最初は気まずげに無言で歩いていた。だが、ただ歩くだけでは手持無沙汰となったのだろう。互いの出身地などを話題に言葉を交わすようになっていた。

 誰も白狼に話しかけようとしなかったが、別に彼は何とも思わない。彼らは青白い肌に碧眼、金に近い髪色の白狼の容貌を見て、胡散臭い奴だと思って遠巻きにしているのだろう。

 だが、ここにきて、その中の一人から妙にじっとりとした視線を向けられている。

 ──なんだ?

 白狼があえてその視線に応えてやる。すると、相手は「ふふん」と勝ち誇ったような表情を浮かべていた。

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