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第一部 女武人、翠令の宮仕え

翠令、姫宮のお口に不安を覚える(一)

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「あら、守って欲しいなんて言われたら……翠令はますます佳卓のことが好きになっちゃったんじゃない?」

 姫宮がおしゃまなことをおっしゃる。翠令は出来るだけ冷静な口調をつくった。

「な……。いえ、良き上官だとお慕いしておりますが……」

 頬の熱さを感じながら、翠令は姫宮に無難な内容をお返事差し上げる。

「……佳卓様にそれ以上の感情はございません」

 姫宮は無邪気な声を上げられた。

「ええー? 二人が一緒にいるとお似合いだと思うのに!」

 梅雨に入ってから連日の悪天候で姫宮は外にお出でになれない。起きてからずっと屋内でお過ごしになり、読書に励んでいらっしゃる。

 円偉の推薦する難解な書物にも果敢に挑まれているが、大人向けの哲学書を理解するべく一行一行丁寧に読み解こうとされるので当然お疲れも出る。

 その気分転換に、姫宮は梨の典侍や乳母、翠令と居合わせた女房達ととりとめのない雑談を楽しまれることが増えた。そして、今日は翠令から佳卓の昔語りをお聞かせしている。

 佳卓は別に秘密にしていないし、むしろ彼の為人を姫宮にもお伝えしておいた方が良いと翠令は思った。けれども、よもや自分自身の恋に幼い姫宮が関心をお向けになるとは予想外だった。

「佳卓はちょっと個性的だけど頼りになる男君だし、翠令だって美人だし。一緒に居たら互いに好きになってもおかしくないわ。私、物語とかで女君が男君に見初められるお話を呼んでいると、翠令にもいつかいい人が現れるんだろうなって楽しみにしていたのよ」

 姫宮くらいの少女というのは、妙齢の男女が仲良くしていればそこに恋があるのかもと単純に思ってしまうのだろう。そして姫宮は、幸せな結末に至る物語しかご存知ではない。恋の苦しみ悲しみを描いた作品を手に取るご年齢ではない。

 そして、翠令にも恋人が出来て欲しいとおっしゃるのも、翠令を大事に思って下さるが故のお言葉だ。ただ……。もう少し姫宮のご年齢が高く、貴族の生活をご存知なら、翠令の身分で佳卓と男女の仲になるのは手放しでは喜べないこともお分かりだろうに……。

「ですから、佳卓様はそのような対象ではございません」

「でも、あれだけ色んな事が出来る男の人に、『助けて守って欲しい』って言われたら、翠令絶対好きになっちゃったでしょ?」

「姫宮……」

「翠令は誰かを守るのが好きでしょう? 私を守ることが習い性になってしまって。ええと……あれよ、ほら、『母性本能をくすぐられる』って言うじゃない? それじゃないかしら」

 翠令は微かに眉をひそめた。「母性本能」云々は、確かに翠令の何かを言い当てているのかもしれないが、大人の微妙な感情の動き──しかも本人にとってはとても大切で真剣なそれを子どもがそう表現するのは違和感がある。少しばかり茶化されているかのように感じられて愉快ではない。

 乳母も姫宮を嗜める口調で申し上げる。。

「姫宮、御所に上がられるにあたって散々申し上げて参りましたが、お口に出すお言葉はよくよく考えてからになさいまし。『はしたないほど目端が利いてお口が回る』女君というのは品が悪うございます」

「はあい」

 乳母の小言はもう姫宮には慣れっこだ。

 梨の典侍が少し考える間を開けてから口を開いた。

「宮様……。宮様とあろう方が、大人の女君、それもご自分に忠義を尽くす翠令殿にお使いになるには相応しくない言葉と、この典侍も申し上げます」

「……」

 姫宮と梨の典侍はまだ出会って月日がそんなに経っていない。しかも後宮の最高女官だけあって、真面目な口調には重々しい威厳がある。そんな典侍にたしなめられて、姫宮はぽかんとされた。

 しかし、そこで引き下がる御方でもない。

「どうして……?」

 さすがに典侍は動じることなくお答え差し上げる。

「『母性本能がくすぐられる』などと、すれっからしの大人の女が使うならまだ分かります。なれど、姫宮のご年齢から大人に口になさるべきではありません。それに姫宮は主公として翠令殿を思いやるべきお立場でございます。その言いようは、おしゃまな御方と私は愛らしく思うておりますが、人によってはこまっしゃくれた生意気な御子だと不快に思う者も出るやもしれませぬ」

「私はただ……。翠令は佳卓を好きなんだろうって思うし、それにはちゃんと理由があって、だから二人が結婚すればいいのにって思っただけよ」

 翠令が申し上げた。

「ええ、姫宮に悪意はないのはよく分かっております」

 そう、姫宮に悪気は全然おありではない。ただ、時折、姫宮はこのように他人を不快にさせる危なっかしい一面をお見せになる。

 鋭い観察力を持ち知的に早熟で語彙が豊かでいらっしゃるが、どのような場で誰にどのように口にするかの分別はまだ十分についていらっしゃらない。年齢に不釣り合いに大人びた部分と、年齢相応の幼い部分が混在し、こうして不穏当な言葉がお口から飛び出してしまうこともある。

 翠令は姫宮を愛おしく思うし、将来の帝に相応しい大きな器でいらっしゃると心から思う。
 白狼が「人が集まればその頭目に自然となる器量」と評したが、確かにそのような華がある。もし同年代の子どもと下町の路地裏で遊ぶようなお暮しならその子供たちの先頭に立つだろうし、白狼が不遜にも例に挙げたように賊の頭目にもなれるだろう。

 ──しかしながら、御所で暮らす貴族たちは子どもでも賊でもない。

 姫宮に好意的な錦濤の街の大人でも、時おり眉を顰《ひそ》めざるを得ないことはあった。姫宮は愛らしいし、人格が完成された年齢でもないからたいていのことは「玉に瑕」と見逃されてきたが、それでも、いくつかの場面で「小賢しい」「こまっしゃくれた子」といった陰口を叩く大人もいるにはいたのだ。

 ましてやここは京の都。言葉による権力争いを繰り広げて来た貴族たちが、お血筋以外に大した後ろ盾のない姫宮を東宮と仰ぐ現状。姫宮がこのご気性のまま振る舞われては、厄介な敵をつくってしまいかねないのではないだろうか……。

 翠令の懸念をよそに、姫宮は子どもらしい甲高い声でさえずり続ける。

「ね。翠令、佳卓のお嫁さんになればいいわ。佳卓はとっても偉いんでしょう? きっと幸せに暮らせるわ。今まで私は翠令にお世話になりっぱなしだもの。翠令が幸せになるところが見たい」

 自分の幸福をせがまれてしまっては、翠令も困った顔で笑うよりない。

「姫宮のお気持ちは嬉しゅうございます。私はこのままで十分幸せでございます。また、佳卓様のようなよき上官に恵まれて、このような仕事も楽しく思っています」

「でも……」

 そろそろこの話題から解放して欲しいと翠令は願う。ただ、姫宮は理屈で納得しないと引き下がらないところがおありになった。

 今の姫宮は錦濤の商家の暮らしぶりしかご存知ではない。たいていの商家は夫婦で力を合わせて家業を営む。妾を囲う男もいるにはいるが、少なくとも表立って連れ歩きはしない。

 けれども都の貴族たちは違う。複数の妻がいて当然なのだ。
 地方の商家の娘に過ぎない翠令が貴族に見初められたとしても、ただの情人か、複数の妻の中でも最も格下の立場にしかなれないだろう。

 そして、佳卓はあの東国の女君にまつわる悔恨から、今度こそ本気で愛する女性に誠実に向き合おうとするに違いない。でなければ、自分を不実な男だと責めるだろう。

 家柄と恋情が縺れる貴族社会の婚姻の幸不幸を、姫宮に納得させるように説明することは翠令自身にも難しい。それに、それを自分で説明するのが情けなかった。

 返答に窮した翠令を助けようと思ったのか、梨の典侍が話を引き取った。

「佳卓様が今のまま比較的ご自由なお立場ならば、翠令殿が妻になること自体は不可能ではありませんが……」

 それは、格下の妻の一人であれば、なることもできるということだろう。

「佳卓様はああ見えて意外と真面目な方でいらっしゃる。また、東国の女君の話を悔恨込めてお話になる様子からは、何人も妻を持たず一人の奥様を大切に守るのではないでしょうか……」

「だから、その一人の奥様に翠令がなればいいのではないの?」

「左大臣家のご子息ゆえ、娘を嫁がせたいという貴族は多いものです。今までもそのようなお話はありました。もっとも、佳卓様がこれまでご結婚のお話をお断りになってこられました。それは、次男坊でご自由な立場であられたからでございます……」

 典侍は翠令にも思いがけない事情を明かしてくれた。

「されど、佳卓様は、このままでは将来左大臣家の家督をつぐやもしれません」

「ええと、佳卓にはお兄さんがいるんでしょう?」

「その兄上ご夫婦にはお子さんがいらっしゃりません。そうでございますれば、兄君の次に左大臣家の家督を佳卓様が引き継がれることになりましょう」

「左大臣になるっていうのは偉くなるってことでしょう? なら自分の結婚相手は自分で選べるようになるんじゃないの? それでも翠令と結婚してはいけないの?」

「左大臣ともなられましては正式な北の方が望まれます」

「じゃあ、翠令が正式な北の方になればいいじゃない」

 翠令のような低い身分では左大臣の北の方になど「なれない」という事実を典侍は巧みに避けて、話題を少し変えた。

「もし佳卓様が家督をお継ぎになり左大臣ともなられますと、その北の方に求められることもおおうございます。翠令殿が忙しすぎれば姫宮にお会いできる暇もないかもしれませぬぞ……」

「まあ、それは困るわ。私は大人になってもずっと翠令と自由に会いたいもの。じゃあ、佳卓が左大臣なんかにならなければいいわね? 今のままだったら翠令と結婚することもできなくはないのよね? 近衛大将の奥さんだったら御所に遊びに来たって大丈夫よね?」

「まあ……さようでござりますな……」

「じゃあ、佳卓のお兄さんに御子が生まれればいいのね?」

「佳卓様の兄君も真面目な方ですし、今の北の方を大切になさっておいでです。確かに他の方を娶られてはどうかというお話も出てはおります。文を愛される方で円偉様とも親しいので、右大臣家の姫君をという声もありますが……そうなると今の北の方と同格かそれ以上の扱いをしなければなりませんので、それもはばかられまして……」

 姫宮は首を傾げていらっしゃる。無理もない。御年十の錦濤育ちに、京の貴族の政争がらみの縁談や、そしてそれ以上に微妙な男女の間の想いなどお分かりになりようもない。

「なんだか、ややこしいのね。要は今の北の方に子どもが生まれればいいのよね?」

「そうなればよろしゅうございますが……なにぶんこればかりは……」

 姫宮は無邪気におっしゃった。

「大丈夫よ、きっと。仲睦ましい夫婦には必ず赤さんも生まれるわ!」

 梨の典侍の口は、そのままの形で固まる。ピクピクと目許が痙攣したのも翠令の目に入った。

「……」

 ──姫宮はご自分がとても無神経なことをおっしゃったという自覚は全くおありでないだろう。ご自分がご両親の愛情の賜物としてお生まれになったし、子どもに向かって大人は「愛し合う夫婦に子が授かる」と説明する。
 けれども、どんなに愛し合い、そして子どもを切望している夫婦であっても、どう祈っても恵まれないことはある。
 その反対も然り。どんなに憎い男の子であっても身ごもってしまう悲劇も存在する。
 愛情と子の有無は別の話なのだが、その点を姫宮の年齢では十分にお分かりにならない。


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