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第一部 女武人、翠令の宮仕え

翠令、気遣われる(一)

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 雲が低く垂れこめている。ひさしから格子の外のその空を見上げながら、翠令は溜息をついた。

 目を室内に転じても、どこか寂しい気持ちはぬぐえない。

 調度の品々が豪華なのは鄙ひな育ちの翠令にも分かる。蒔絵まきえが施された二階棚、そこに並ぶ火取香炉や泔坏ゆするつき打乱筥うちみだりのはこ。錦の布で飾られたそれらの品々は当代の一級品であろう。屏風には夢のように美しい絵が描かれ、几帳には高級そうな布が滑らかに垂れさがる。

 女君達の御所風の装束もまた、形を見慣れてしまえば、布の美しさや色目の雅さを強調した装いなのだと翠令も思うようになった。

 そして、彼女達は無駄なおしゃべりもせず、滑るように典雅な身のこなしで立ち働く。

 静謐で上品。
 女東宮の住まいとして望ましいはずのその空間。しかしながら、それが翠令には寂しい。よそよそしく取り澄ました雰囲気に馴染めない。

 ――錦濤が懐かしい

 姫宮の部屋には雑多な物が飾られていた。燕の朝廷で使われたという重厚な手箱もあれば、内陸部の異国からもたらされたという壁飾りもあり、この国の北方で荷揚げされた毛皮もあれば、南の島で採れたという大きな貝殻もあった。

 ただ「珍しいから」という理由だけで集められた物品は、統一感には全く欠けていたけれど、並んでいるだけで錦濤の街の賑やかな活気を感じることが出来た。

 優雅だけどどこか冷ややかさを感じるこの昭陽舎の中で「姫宮も同じように寂しくお感じでおられるだろう」と翠令は何とはなしに思い込んでいた。

 けれども、姫宮は全く別のことをお思いであったらしい。
 
 姫宮が、角盥つのだらいを持って立ち働く女房に声を掛けられた。

「ねえ? 私もその御所風の衣を着てみたいのだけど……どうかしら?」

 女房は当惑した顔を、姫宮の傍に控えていた梨の典侍に向ける。典侍もやや怪訝な表情で申し上げた。

「もちろん宮様がお望みでしたら……」

 姫宮は無邪気な声を上げられる。

「わあ! 着てみたい! 私にとっては珍しいし、とーっても綺麗なんだもの!」

 そうか、と翠令は思う。姫宮は錦濤仕込みの好奇心を京の御所の風習に素直に向けられるのか。

 典侍が立ち上がり、姫宮を誘う。

「それでは、こちらに。このような端近ではなく母屋の奥でお召し換え致しましょう」

 こうして典侍は何人かの女房の名を呼び、そして奥の几帳の陰に姫宮をお連れしていった。

 翠令のため息は深くなる。自分は女君の装束とは無縁だ。
 姫宮はこの御所に馴染むきっかけを得られたというのに、そして、それは喜ばしいことのはずなのに、翠令は取り残された気がしてしまう。

 奥から姫宮の弾んだ声がする。それに典侍たちをはじめとする女房の答えが聞こえてくる。姫宮と女房達は心を同じくして会話を楽しみ始める。

「御年十の女君と聞いて、このようなものを整えておりました」

「うわあ! 可愛い! とっても素敵ね! そうか……何枚か重ねて着るのに少しずつ色を変えて組み合わせるのね」

「裏地の色が透けて見えるものもございます。その配色には様々なものがございますが、これからの季節、『撫子なでしこかさね 』は如何かと……少し早いやもしれませぬが、このようなものをご用意しておりました」

「濃い蘇芳すおうと薄い蘇芳がお花で、緑が葉っぱね? 本当に夏に咲くお花みたい! 私が着ていいの?」

「もちろんでございますとも。他にも夏のご衣裳はとりどりにそろえております。おいおい秋の華やかな衣もお目にお掛けして参りましょう。まずは、それをお召しなさいまし」

「わあい!」

 翠令はつっと立ち上がり、賑やかな奥から離れて簀子すのこに出た。別にねているわけでもなんでもないが、姫宮の周りの和気藹々とした空気がなんとなく厭わしい。

 高欄こうらんの傍で見るともなく外を眺めていた翠令の目に、透渡殿を昭陽舎に向かってくる公達の姿が見える。
 黒袍 に垂纓すいえいの冠。身分高い方ならば後宮に立ち入られても大きな問題ではないが、もちろんそれは相手次第だ。

「……佳卓様……?」

 今日の佳卓は文官の正装をしていた。帝の御前にでも参内していたのかもしれない。袖に覆われて分からないが、何かを抱えているようだ。

 何をお持ちになられたのだろう? 常識で考えれば東宮の許に滅多な物を持ち込むはずはない。しかし――この方は何をなさるか分からない。

 いかに相手の身分が高かろうと、姫宮の安全のためなら翠令がこの目で確認しなければと思う。ただ、翠令の直属の上司にして近衛大将ともあられる方に荷物を見せろと、どう切り出せばよいのだろうか。

 翠令がそう思い迷っている間にも、佳卓が簀子の角を巡って近寄って来る。

 そのとき、彼の胸元から思いもかけない音が聞こえた。

「わん!」

 佳卓が袖の中を覗く。

「おや、もう少し我慢してくれれば翠令を驚かせることができたのに……。まあ、お前も早く飼い主に会いたかったんだね」

 佳卓はひょいと胸元で白い犬を抱え直した。

 翠令は目を見開く。

「ハク!」

 錦濤から連れて来た、もとは姫宮の飼い犬だった。

「やあ、翠令。ちょうど簀子にまで出てきてくれていて良かった。やはり男君が女君の殿舎に立ち入るのは遠慮があるからね。どうやって翠令だけを呼び出そうかと思案していたんだよ」

「私に御用でございますか? 姫宮ではなく?」

「そうだよ。この白い犬は翠令のものだろう?」

「いえ、実を申せば姫宮が錦濤で飼ってらっしゃいました。御所に上がるにあたって、私の飼い犬としたのです……でも、私にも懐いておりましたから……」

「そのようだね。ほら、この喜びよう」

 ハクと言う名の犬は、ちぎれんばかりにしっぽを振っていた。佳卓が犬を扱い慣れた仕草で、翠令に渡す。翠令は思わず抱きしめた。

「賢い犬だね」と佳卓が褒める。

「近衛の者がしばらく面倒を見ていたが。慣れない環境でも無駄吠えせず、かといって媚びることなく、様子を伺いながら大人しくしていたようだよ。今は馴染みの翠令に会えて本当に嬉しいようだね」

「ええ……」

 翠令は抱きしめたハクの首筋に頬を埋めた。

「懐かしい……」

 懐かしいのはハクも同様らしい。翠令の腕から胸元に前足を掛けてよじ登り、首を伸ばして舌でぺろぺろの翠令の顔を舐め回す。

「くすぐったいぞ、ハク、こら、やめなさい」

 口で止めても、もちろん喜ばしい。小さな生き物の温かい体。肉球を押し付けてくるその重み。喜色をたたえたその瞳。

 翠令の口から「ふふっ」と笑みがこぼれる。
 それを見て佳卓がぽつりと口に出した。

「翠令が笑った」

 翠令はハクの頭を撫でてやりながら、ちらりとだけ佳卓を見た。

「それは私とて笑います。ハクに会えて嬉しいですから」

 簀子の下、庭から老人の声がした。

「よろしゅうございましたな」

「……⁉」

 翠令が慌てて目線を向けると、地面に白髪頭に白い髭の老人が立っていた。佳卓に従ってきた麾下らしい。もっとも体格的にも文官であろうし、殿上に昇るような身分でもないのだろう。

 翠令は自分に言われたのかと思い、返答する。

「ええ、錦濤で別れた飼い犬に会えてよかったです。貴方は?」

「私は佳卓様の軍吏で正智せいちと申します。元は、東国の入り口にある尾治国の地方官吏を務めておりました」

 佳卓が言い添えた。

「頭の切れる男でね。地方にばかりいるのはもったいないと思って、私が召し抱えた。京にいる間は大学寮で調べ物などをしてもらっているよ」

「今日は佳卓様が翠令殿にお会いになると聞きましてな。私も名高い女武人にお目にかかりたかったので連れてきていただいたんですよ。いや、なかなかの美人でいらっしゃる」

「お前に女君を見て喜ぶ可愛げが残っていたとはね」

「そりゃあ、もう」と正智が笑う。

「姿勢が良くて凛然としてらっしゃるが、可愛い犬を見て柔らかい笑顔もなさる。幼い東宮様が懐いておられるのも分かりますな」

 佳卓も苦く笑いながら頷いた。

「うむ。翠令のこのような笑顔は私も初めて見るね。初対面では激昂させてしまったし。先日はしょげかえっていたし」

 老人は、年若い佳卓ににこにこと微笑む。

「よろしゅうございましたな。『翠令殿に飼い犬を連れて行けば気が晴れるのではないか』との佳卓様のお考えが当たりまして」

 翠令が佳卓を見た。

「……私を気遣って下さったのですか?」

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